2023年12月30日土曜日

乞食大名

 東京での会津藩士/幽閉地

 開城後、藩領を没収され捕虜となった藩士たちは猪苗代と塩川村で幽閉 (謹慎)。

 負傷者と病人は、小田山の御山村に指定された病院に収容された。

 老人や子供、婦人など区分されず、むさ苦しい農家に詰め込まれ、担当した西軍の医者/英人ウルリスですら惨状をなげいている。

 その後、信州/松代藩と越後/高田藩での永御預けの処分者に別けられた。

 護送の途中、松代藩での収容は無理と判明し東京へ変更、

  ◇ 飯田元火消屋敷 330名

        http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-ogawakoubu.html

  ◇ 小川講武所 700名

    http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-ogawakoubu.html

  ◇ 一橋御門内御搗屋 250名

    http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-otukiya.html

  ◇ 山下御門内松平豊前守元屋敷 700名

    http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-zoujyouji.html

  ◇ 神田橋御門外騎兵屋敷 250名

        http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-yamasitagomon.html

  ◇ 護国寺 314名

        http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-gokokuji.html

  ◇ 芝増上寺 (徳水院) 350名

        http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-zoujyouji.html

  ◇ 麻布真田屋敷 若干名

        http://www.aizue.net/keiyuti/toukyouphoto/kinsinti-tou-sanadayasiki.html

に、2,870余名が分散して収容・監禁された。

 その他、神田/佐倉藩堀田邸にも手代木直右衛門、田中源之進、佐川官兵衛、小森一貫斎たちが収容されている。

 手縄付きの護送は「乞食大名」と蔑まれほど惨めな旅路であった。 到着した収容所は、江戸城 (皇居) が間近に見える地であり、故なき仕打ちに皆々号泣したという。

 御山病院では、多くの方々が息を引き取る中、運よく治癒すると東京に移送された。

 歩行が困難な者が多く、荒板を青竹で吊るしムシロをかけた「乞食駕籠」と称されたものでの護送であった。

 山川大蔵が入った「飯田橋火消屋敷」が本部の役目を成し、各謹慎所との連絡や、新政府の要人と会津藩再興へ向けて交渉を続けた。

 一人/米四合と銭150~200文の支給では、薪炭などの必要な日用品を買うために米を売らざるを得ず、食事は貧しかった。

 米も普通の米ではなく、総て南京米だった。

 犬や猫を捕まえ、近くの溝や池で鮒などはもちろん、カエルまで捕まえて飢えをしのいだ。

 各謹慎場所同士の連絡は、許されなかった。

 やがて、病人の薬を取りに行く許可証を活用して、連絡を取り合った。

 斗南藩への流刑が決まった後は外出が黙認され、羽織と高袴で帯刀していない姿は奇異だったようで、「会津殿も落ちぶれたものよ」と聞こえるように嘲られていたという。

http://www.aizue.net/siryou/jyunnan-toukyouto.html#kinsinti


小林平格

 明治二年十月二十一日に会津藩士小林平格が学海先生を訪ねてきた。この男はこれまでも幾度か学海先生を訪ねたことがあった。最初に訪ねて来たのは同年一月二十六日だった。真龍院隠居慈雲院を名乗って面会を求めて来たのであったが、会って話を聞いてみると会津藩士で、同藩士林三郎の友人ということだった。林三郎は留守居仲間として親しくしていた男なので、学海先生はその友人というこの男に心を許した。用件を聞くと、佐倉藩にあずかり置かれている会津藩士と連絡を取りたいということだった。佐倉藩では新政府軍に降伏した会津藩士数名を預かっていたのである。

 学海先生は林三郎の近況について小林平格に問うた。林三郎は主君松平容保に従って会津に入ったが、その後新政府軍との戦いを経て降伏、いまは護国寺の謹慎所に収容されているという。このたび会津戦争の首謀者が詮議されるにつき、佐倉藩に預け置かれた者たちにも連絡したく思っておりましたところ、林三郎より貴殿を紹介されて参ったとのことであった。

 四月七日に訪ねて来た時には、一枚の絵を持参していた。それは会津藩士少年十七名が集団で自殺する場面を描いたものであった。飯岡山における白虎隊員の割腹自殺の絵である。それを見た学海先生は、あたら若き命がと同情したのであった。

 この日の用件は借金の申し入れであった。会津藩では藩主松平容保が謹慎を命じられた後その跡継ぎがどうなるか最大の懸案だったが、幸いに嗣子容大に家督相続が許され御家は断絶せずに済んだ。ついては近日参内して天子にお礼を申し上げねばならぬが、費用が乏しくその用意をすることができない。ここは貴藩から一千両を借用したいと思うので、まげてお貸し願いたい、ということであった。佐倉藩と会津藩とは特別の関係にあるわけでもなかったが、学海先生には会津藩の窮状に大いに同情するところがあり、ここはひと肌ぬいでやりたいという気持ちになった。そこで参事ら藩の幹部と合議してしかるべく取り計らうと答えた。

 学海先生は西村大参事と相談して、七百両を貸してやることにした。この当時の七百両がどれほどの価値なのか。ちなみにこの年の学海先生の所得は、年末の日記によれば四百三十両である。これは俸米を売却して得たものであるが、この四百三十両のうち八十両を来年の塩薪の費用つまり生活費、六十両を書籍購入費、三十両を借金返済、残りの百両を予備費に宛てると記している。とまれ学海先生の年収と比較しても、七百両という金がそう膨大な金額でないことは明らかである。つまり会津藩はそれほど窮迫していたということであろう。

 佐倉藩はなかなか気前がよくて、駿河藩からも借財を申しこまれて貸している。徳川氏の家臣団も主君が一大名に格下げされた後、俄かに窮乏に見舞われていたのである。

 なお会津藩は容大が家督相続した後、陸奥の下北半島に領地を与えられて斗南藩となった。この措置を会津藩主たちは当初は大いに喜んだ。藩の取りつぶしと藩士たちへの厳罰を予期していたところが、減封されたとはいえ一藩を与えられたからである。だがこの喜びはいくばくもなく絶望に変わる。その事情は学海先生とは全く関係がないのであるが、小生の父方の祖先にもかかわることなので、ここで簡単に触れておきたい。

 会津戦争終了後、藩主松平容保は東京へ護送されて監禁され、会津藩士四千名は東京各地の謹慎所に収容された。新政府は藩主及び藩士の処分をどうするか色々検討し、その結果盛岡藩から下北半島の領地を割譲させ、そこに会津藩を移封することとした。そのため生まれたばかりの容保の子容大に家督を相続させ、その子を新しくできる斗南藩主とした。斗南藩は三万石と言われたが、実質的には七千石しかなかった。

 この小藩で四千名の家臣団を養うことは到底できない。そこで藩では、北海道の開拓を斡旋したり、また藩士にそれぞれ自由な身の振る舞い方を許したが、かなりの規模の家臣団が新領地に移動した。

 その辺の様子は柴五郎の書「ある明治人の記録」に詳しい。会津藩士らは明治三年五月に斗南に入った。船で行くものと徒歩で行くものとに分かれ、順次斗南入りしたようだ。斗南の地は佐幕派の盛岡藩に対する懲罰として二戸、三戸、北の三郡を割譲させてこれを旧会津藩に与えたもので、斗南という名称は「北斗以南皆帝州」からとられたという。

 現地入りした者は田名部と野辺地に分割宿泊し、田名部に藩庁を置き、大参事山川大蔵を中心にして藩務を行った。

 藩務と言っても、現地は痩せた台地で、冬は雪に覆われる。そこを開拓しようにも見返りが期待できないし、藩の領民たちも貧しい暮らしをしている。そんななかでどうしたら藩士たちの生活が成り立つか、あまり明るい見込はなかった。藩務どころかみな自分が生きるのに精いっぱいだったのだ。

 柴五郎自身は、父親と共に現地の商人から借りた掘立小屋に住んでその年の冬を過ごした。この冬は餓死と凍死をのがれるだけで精いっぱいだったと柴五郎は言っている。栄養不良のために痩せ衰え、脚気の傾向が出てきて寒さが身に染みたという。空腹のあまり死んだ犬の肉を食ったこともある。その際に五郎はおもわず吐きそうになった。するとそれを見た父親が、

「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを食らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地に来れるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と言って、いさめられた。

 この苦しさは会津から斗南に移って来たすべての人が味わった。その窮状を自ら体験し、また人の苦しむさまを見た柴五郎少年の目には、これは新政府による残酷な仕打ちに映った。彼は言う、

「この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士たち一同、江戸の収容所にありしとき、会津に対する変らざる聖慮の賜物なりと、泣いて喜びしは、このことなりしか。何たることぞ。はばからず申せば、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」

 柴五郎の少年時代のこの怨念が、西南戦争のときに西郷を相手に戦う情熱を支え、西郷が死んだときには泣いて喜ばしめたのである。もっとも西郷自身は会津戦争には直接かかわっていない。西郷は王政復古のあとすぐ薩摩に引き上げ、政治的にも軍事的にも表立った活動をしていない。会津戦争を直接指揮したのは土佐の板垣退助である。にもかかわらず会津人は、西郷を自分たちの仇敵と思い込んでいたのである。

 とまれ藩主の容大がまだ生まれたばかりの嬰児だったので、藩務は大参事山川大蔵が中心となった。その山川にも学海先生は小林平格の仲介で会ったことがある。その際に、金を貸してやったことに対する感謝を言われた。この金は戻ってくることはなかったようだ。また学海先生もそれを期待してはいなかったようである。

 小生の父方の祖先鬼貫平右衛門は、田名部で山川大蔵の直属の下僚となって、藩士たちの生活の面倒を見ていた。とはいっても自分自身も天涯孤独の身になって、頼るべきものがない状態で、他人のためにできることなどほとんどない。そんな状態で、ほうぼうに掛け合って米の買い付けとか借用に奔走した。また荒廃地の開拓を試みたりした。しかし米の買い取りに際して仲介人に騙されたり、荒廃地の開拓はほとんど絶望的な試みだとわかったり、全く意のようにならぬのに苦しんだ。

 だから脱落して江戸や会津に移り住むものも多かった。斗南では全く未来の展望が切り開けないような気がしたからだろう。しかしそのうちに藩そのものが消滅し、藩士としてここにいる動機がなくなった。廃藩置県が行われて、従来の藩が全く意義を失ってしまうのである。

 山川や藩の首脳は、廃藩置県で藩がなくなったことで、斗南にいる理由がなくなったので、続々と斗南を脱出し、江戸に移り住んだり会津に戻ったりした。小林平格は会津に戻って帰農した。この小林と学海先生は明治六年に最後に会っている。小林が東京に出てきて先生を訪ねてきたのだった。その折に小林は会津藩を襲った運命について感慨深く語った。学海先生はそれを聞いて、やはり深い感慨に打たれるのを禁じえなかった。佐倉藩と比較しても会津藩の運命があまりに過酷に感じられたのである。

 小生の父方の祖先鬼貫平右衛門は山川大蔵と行動をともにして東京に移住し、やがて設立されたばかりの陸軍に奉職した。彼はやがて陸軍兵士として鹿児島に赴き、憎き西郷と戦うのである。その戦いにはあの柴五郎も、また山川大蔵も加わった。

https://hix05.com/gakkai/gakkai46.html

御搗屋

 

戊辰戦争で敗れた会津藩は領地没収、藩士は捕虜として越後高田や東京に送られることになった。柴家の三男・五三郎ら一行が「戸の口原」まで来ると白虎隊少年の死骸があった。村人が埋葬しかけたが新政府軍につかまった話を聞いて、五三郎は一命にかけてもと埋葬の交渉に向かうが通行切手がなく捕まった。しかし岡山藩の三宮耕庵が見過ごしてくれた。
 五三郎らは費用を出し村役に頼むと夜の闇に紛れて埋葬してくれた。戦に負けると野ざらしの死骸を憐れみ埋葬しても処罰されるのだ。

 いっぽう五男の五郎少年は「乞食の大名行列としか思われず」の惨めな行列に従い、負傷した長男・太一郎が乗る戸輿の後ろを猪苗代から東京まで歩いた。時には雨に濡れ十日あまりの苦しい旅の末、蒸暑い東京に着くと一橋門内の御搗屋(おつきや)に収容された。

 この御搗屋は幕府糧食倉庫で江戸城中ご用の米や餅をつくためのもの、250人が押し込められた。現在の毎日新聞本社(千代田区一ツ橋)地下鉄竹橋駅を降りてすぐの所。

 会津藩士は東京七カ所に分けて収容され、柴家も父佐多蔵は講武所、五三郎は真田邸、四男・四朗(東海散士)は護国寺に送られた。それでも監視つきながら外出でき、家族ばらばらに収容された柴家の五人は互いに行き来した。皮肉なことに、父子は収容されたこの時だけ近くで顔を合わせられたのである。

 佐多蔵ら700名が収容された小川町講武所は、JR水道橋駅から三崎神社日本大学一帯にあった。講武所は幕末に軍政改革のため、旗本や御家人の武術修練のため講武場として設置され、教授には男谷精一郎、榊原健吉、桃井春蔵らがいた。

 護国寺文京区大塚)には柴四朗ら314人が収容された。 護国寺は五代将軍綱吉の母桂昌院によって建立され、三条実美、大隈重信、山縣有朋、河野広中らの墓がある。

 山川大蔵(浩)もいた飯田橋火消屋敷は330名ほど。
 やがて会津藩事務所の新設を許され、旧藩の役員などで連絡統制に当ることになった。下北半島・斗南藩庁の前身とも。歩けるようになった太一郎はこの藩事務所に移り、松島翠庵と名を変え医者の姿になって行動した。京都・江戸詰時代の他藩の友人知人を訪ねて回り、会津藩の措置について助力を求めて歩いた。

 この火消屋敷跡(千代田区富士見町)はJR飯田橋駅から徒歩10分、靖国神社にほど近い九段高校や日本歯科医大などに囲まれた文教地区の辺り。

 ほかに山下門内松平豊前守屋敷(日比谷公園内)700人、神田橋門外騎兵屋敷(錦町)250人、芝増上寺350人、麻布真田屋敷など総勢2800人ほどであった。

参考: 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』2008年(中井けやき)/ 『紙碑・東京の中の会津』1980年 牧野登(日本経済評論社)


https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2011/12/post-c82d.html

2023年12月28日木曜日

三浦義連随身の像

 神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?

創設 建久2年(1191年)~?

この町の西頬にあり。

神體しんたいは木像、長8寸8分。究て古物にて耳目鼻口の形も朽ちてさだかならず。三浦義連随身の像という。相伝ふ、義連当郡に封せらるるに及び赤沼内膳というもの跡を追て鎌倉より来る。義連これを喜しこの神體を付与し社頭を建立し内膳をして神職たらしめ神田許多あまたを寄付せしという。自来赤沼稲荷と称し士民の尊祟他に異なりしに、星霜移りて漸々に衰廃し伊達氏兵乱の後は愈いよいよ荒廃せり。文禄中(1593年~1596年)蒲生氏市街を改めし時行人行壽その来由を訴えしかば即再興あり。今に赤沼稲荷と称す鳥居あり。武石隠岐が司なり。

https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/240.html

2023年12月10日日曜日

神武天皇

 神武天皇が、幼少時を過ごしたと言われる宮崎県高原町に鎮座する「狭野(さの)神社」。

「狭野尊」は神武天皇の幼名だが、稲作ができる貴重な土地という意味だと、当社の宮司さんが説明されている。

(『神武天皇はたしかに存在した』産経新聞出版)

実際に、えびの市や都城市の遺跡からは国内最古級の水田跡が見つかってるそうで、北九州とは別ルートで稲作が伝来した可能性も考えられているという。これは興味深い。

それにしても狭野神社、やけにカッコいい社殿だなーと感心していたところ、いただいたパンフレットに「明治40年に宮崎神宮の旧社殿を移築した」と書いてあり、一瞬にして全てを完全に理解した。

日南市の「駒宮神社」。

神武天皇が、最初に娶った吾平津媛(あひらつひめ)と暮らした宮の跡だと伝えられる。 

伝説では、神武天皇には「龍石(たついし)」という愛馬がいたとされるが、大陸から馬が伝わったのは4世紀末の応神天皇の御世とのことで、それはさすがに後世の作り話だろう。

ビックリしたのが社殿の裏手にある「御鉾の窟跡」という巨石だ。神武天皇が鉾を納めた場所として信仰の対象になってるそうだが、南九州で巨石の祭祀を見るとは思わなかった(他にもあるのかも知れないが・・・)。

福岡県北九州市の「岡田神社」。

「古事記」が、東征中の神武天皇が一年滞在したと書く「岡田宮」の候補地だ。

「日本書紀」だと「岡水門」に約50日滞在とのことで、神武天皇が船団で移動した点から見れば書紀のほうが妥当という気もするが、まぁどっちでもいい話か。

肝心なことは、なぜ神武天皇は瀬戸内海を離れて、わざわざ日本海側に回ってきたのか、だろう。

そもそも神武天皇が東征を決意した要因の一つには、饒速日命(ニギハヤヒ)なる人物が「この国の中心地」に降臨していることを、塩土老翁(シオツチ)から聞かされたことにあった。



日本書紀によると、ニギハヤヒは古代からの有力豪族「物部氏」の先祖にあたり、畿内に降臨すると土豪の「長髄彦(ナガスネヒコ)」の妹を娶って、君主の座におさまっていた。

しかし、ニギハヤヒは神武天皇の畿内入りを知ると、抵抗を続けるナガスネヒコを殺害して、皇軍に帰順した。

ニギハヤヒは、神武天皇と同じ「天つ神の表(しるし)」を持つ人物だった。

皇室の正史が、皇室と物部氏は同じシンボルを持つグループの一員だと言ってるわけだ。その上で、はじめから両者の上下関係は決まっていたのだと。

北九州の物部氏

剣神社

福岡県直方市で、そのニギハヤヒを祀る「劔(つるぎ)神社」。

社伝によると、成務天皇のとき筑紫国造の「田道命」が、筑紫物部を率いて神々を祀らせたことが創建の由来だという。

「田道命」は、皇族で四道将軍の「大彦命」の5世孫にあたり、初代の筑紫国造だ。

『日本の神々 神社と聖地 1 九州』によると、劒神社が鎮座する遠賀川(おんががわ)一帯には「剣神社」や「八剣神社」など剣霊を祀る神社が多数あって、現在では揃ってヤマトタケルと草薙剣を主祭神としているものの、元々は物部氏が一族の「兵仗」を祀っていた地域だろうということだ。

北九州の物部系神社

上はその『日本の神々』で、北九州の物部系神社としてあげられている、「剣神社」「八剣神社」「六ヶ嶽神社」「古物神社」「天照神社」「高倉神社」などを、赤でマークしてみたGoogleマップ。

「古事記」の岡田宮(緑のマーク)にしても、「日本書紀」の岡水門(河口)にしても、物部のエリアにかなり近い。

物部氏といえば、のちに朝廷の武器庫を管理した軍事氏族で、鉄器製造にも長けていたという。

東征に当たって神武天皇が、総帥のニギハヤヒが同じシンボルを持つ物部一族に、協力を要請しに行った可能性はないんだろうか。

河内の物部氏

石切劔箭神社

こちらは東大阪市でニギハヤヒを祀る、式内社の「石切劔箭神社」。

ここ旧河内国の一帯も、物部氏の一大拠点として知られる地域だ。あまり語られないことだが、安芸に2ヶ月、吉備に3年滞在した神武天皇は、河内にも2ヶ月のあいだ留まっている。

そして、いよいよと生駒山からの奈良入りを目指したところで、待ち構えてたナガスネヒコの反撃を受けて、敗退。退却の憂き目に遭われたのだった。

熊野の物部氏

熊野速玉大社

(熊野速玉大社)

生駒ルートを断念した皇軍は、南下して和歌山の紀の川ルートを利用するかと思いきや、危険極まりない熊野灘に進む。で、案の定というか、ここでは神武天皇の二人の兄が溺死してしまうという大惨事に。

そうまでして皇軍が目指した熊野にも、やはり物部氏がいた。

まず、高天原の聖剣「ふつのみたま」で皇軍の窮地を救った「高倉下(たかくらじ)」なる人物は、物部氏の史書といわれる『先代旧事本紀』によれば、ニギハヤヒの実の息子だ。

後の時代になるが、初代の熊野国造はニギハヤヒの5世孫だ。

何だか、物部氏が皇室に協力するのは最初から決められていることで、神武天皇も当然のようにそれを利用した。

日向神話

 南九州では「日向神話」にまつわる史跡も回ってきた。

「国譲り神話」と「神武東征」の間に位置し、天上界と人間界を繋ぐのが「日向神話」だ。

皇室の正史、日本書紀「正伝(本文)」によれば、「日向の襲の高千穂峰」に天降った天孫ニニギは「荒れてやせた不毛の国(空国)」を丘続きに進み、「吾田の長屋の笠狭の碕」に到着したという。

上の写真は、その地でニニギが娶った大山祇神(おおやまつみ)の娘、鹿葦津姫(かしつひめ)の像。

ところが鹿葦津姫は一夜で懐妊したので、当然のことながら、ニニギは子供の父親に疑念を抱く。

すると鹿葦津姫は、天孫の子なら火でも死なないと言って、産屋に火を付けて出産する。

この時生まれたのが、海幸彦(隼人の祖)、山幸彦(皇室の祖)、火明命(尾張氏の祖)の三兄弟だ。

長じて、山幸彦は海幸彦から借りた釣り針をなくしてしまい、「海神(わたつみ)の宮殿」に探しに行く。

上の写真は、そのとき山幸彦と豊玉姫が出会った場所とされる、指宿市の「玉の井」。

日本最古の井戸、との伝承だが、ホントかどうかはもちろん不明。


青島神社

宮崎市の「青島神社」は、海神の宮殿に3年住んだ山幸彦が帰還した場所に建てた宮の跡とされる。

亀石

鵜戸神宮

出産のため、豊玉姫が乗ってきたカメが石になったといわれる「亀石」。

断崖絶壁に空いた岩窟の中にある「鵜戸神宮」は、豊玉姫の産屋の跡なんだとか。

豊玉姫はここで神武天皇の父、ウガヤフキアエズを出産したとされるが、本来の竜に戻った姿を山幸彦に覗かれて激怒、赤ちゃんを海辺に捨てて海の道を閉じて帰ってしまった。

宮浦神社

結局、赤ちゃんは出産に同行してきた妹の玉依姫が育てることになる。そして成人したウガヤフキアエズは叔母の玉依姫と結婚して、4人の息子を持つ。

その末っ子が、のちの神武天皇だ。

写真は、玉依姫の住居跡に建つという日南市の「宮浦神社」。

https://www.bokushoki.com/home/jinmu/hyuuga_jinmu

方士

 ウィキペディアの情報によれば、古代中国には「祈祷、卜占、呪術、占星術、不老長生術、煉丹術、医術などの神仙方術を行って禍を除き、福を招き入れる能力を持ったヒト」がいたという。

彼らのことを「方士」と呼ぶが、その中でぼくら日本人でも知ってる人物はといえば、まぁ徐福だろう(笑)。

ぶっちゃけた話、徐福の少年少女たちから、のちの皇室と物部氏が出たというのが、現時点でのぼくの想像だ。

そしてきっと彼らには、何らかのヒエラルキーとか役割分担とかがあったんじゃないだろうか。

なに!それじゃお前は、神武天皇のルーツは大陸にあるというのか!

安心していいのは、言語やDNAから考えても少年少女は現地の縄文系と結婚していっただろうから、仮に、神武天皇やニギハヤヒがその末裔だとしても、もはや大陸に祖国があるというような発想もなければ、中国語も漢字も知らんという状態だろう。

まだ日本には、国家も国境もない時代だ。

それに、ざっと計算してみても、長浜浩明さんの計算だと神武天皇はBC96年の生まれで、昔のことなので平均20才で子供が生まれるとしたら、父「ウガヤフキアエズ」はBC116年生まれ。

その父の「山幸彦」はBC136年生まれ。

「ニニギ」はBC156年生まれ。

「天忍穂耳」はBC176年生まれ。

「天照大神」はBC196年生まれ。

そして「イザナギ」はBC216年生まれと、だいたい徐福団が日本に着いたBC210年ごろに、皇室の祖となる赤ちゃんイザナギが誕生した計算になるわけで、かなりの時間が流れている。

仮に今日、日本で生まれた赤ちゃんの7代前が大陸系だったとして、帰化後ずーっと日本で暮らして、日本人と結婚して、日本語しか話せない一族を、あいつらは大陸系だとかいう人はいないだろう。

ぼく自身、平民の出なので、7代前の爺さんなんて顔も名前も知らないし、出身地も知らない。

ま、以上はあくまでも「実在する文献」に残された「文字記録」から想像した、「可能性の一つ」としての話。


https://www.bokushoki.com/home/jinmu/jofuku

全国徐福伝説地

ここで思い出したいのが、彼らを渡来させた安曇族の行動様式だ。 

一つは、入植は「多点分散型」だったこと。 

もう一つが、彼らの始祖(太伯)のモットー「入郷而従郷(郷に入っては郷に従え)」だ。

少年少女たちは安曇族の方針に従って、少人数に分かれて日本各地に散ったんじゃないだろうか。

もちろん、百工から受け継いだ技術を携えてだ。

上の「図3 」は亀山さんの『安曇族と徐福』から引用した「全国徐福伝説地」。

だが、徐福は一人しかいないんだから、実際には少年少女たちが「徐福」として入植していった先が、それらの伝説地だったんじゃないだろうか。

聞けばそれらの地域では今も地場産業として、弥生時代に伝わったという金属加工や機織り、陶工、造船などが盛んなんだという。

ニギハヤヒと神武天皇

物部氏の氏神・石上神宮

石上神宮

ところで、全国に分散した特殊技術をもつ一族というアイデアは、ぼくに日本古代史上に実在したある氏族の名前を思い起こさせる。

「八十物部」とか「物部百八十氏」とかいわれて日本中に分布した割りに、そのルーツがよく分からない「物部氏」だ。

この物部氏の始祖と言われる人物が、「日本書紀」で神武天皇の大和入りを助けたと記録される「ニギハヤヒ(饒速日)」だ。

ニギハヤヒは、神武天皇がもつ「天つ表(しるし)」と同じものを持っていて、神武天皇より先に畿内に入って土豪ナガスネヒコの「君主」になっていたが、執拗に「天孫」に逆らうナガスネヒコに業を煮やすとこれを殺害。


神武天皇の軍門に降ったのだった。

興味深い記述が二点ある。まず、「天つ神の子」は神武天皇以外にもたくさんいること。 

ただしその中でも、神武天皇だけは「天孫」という特別な存在であること。

十種神宝

ところで物部氏といえば、各方面の技術に通じた軍事氏族として名高いが、それ以外にも「祭祀」や「呪術」の方面でも、特別な技能を発揮したという話だ。

上の図はニギハヤヒが降臨にあたって与えられたという「十種神宝(とくさのかんだから)」で、物部氏はこれを使って、生き返りの呪法まで可能だったというから凄い。

https://www.bokushoki.com/home/jinmu/jofuku

風浪宮

 徐福がはじめ、有明海北岸を拠点にした可能性は、風浪宮の北にある「吉野ヶ里遺跡」にも窺えるという。

そこには漢の武帝が行った祭祀と類似した遺構を持つ墳丘墓があるらしく、徐福とは年代はズレているものの、大陸の「方士」が関与していた可能性は十分に考えられるという。

少年少女のなかに、徐福の「方士」の能力を受け継いだ人がいたのかも知れない。

それに、そもそも弥生中期にはじまったという青銅器の製造なども、一連の工程は「完パケ」として導入しなければ意味がないわけで、徐福の百工とその後継者たちの存在は、ハナっから否定してしまっては勿体ない話のような気がする。


徐福の3000人の少年少女

でもそうなると疑問として湧いてくるのが、そんな先端技術をもつ集団が、なぜ今に名を残すような国を建てて、弥生時代の日本を支配しなかったのか、だろう。

まだ邪馬台国すらない時代なんだし、現地の縄文系弥生人に中国語を覚えさせ、中国式の生活をさせれば、「もう一つの中国」の出来あがりじゃないか。

だが、現代の日本人の言語にもDNAにも、その痕跡は残されていない。 

彼らは日本の支配層にはならなかった。 

ならば徐福の連れてきた3000人(実際には130〜200人ほどか)の少年少女たちは、一体どこに行ってしまったんだろう。

https://www.bokushoki.com/home/jinmu/jofuku

安曇族と徐福

 海洋学を専門にする歴史作家の亀山勝さんが書いた『安曇族と徐福』 (2009年)の中で、亀山さんが弥生時代の海人族「安曇氏」が、北(玄界灘)の「志賀島」と合わせて、南(有明海)の拠点にしたのではないかといわれるのが、福岡県大川市の「風浪宮(ふうろうぐう)」だ。

その「風浪宮」に、安曇族の案内で訪れた大陸からの亡命者の中には、歴史好きなら誰もが知るビッグネームも考えられるという。

秦の方士「徐福(じょふく)」のご一行様だ。 

紀元前210年、始皇帝に東方に長生不老の薬ありとプレゼンして資金をゲットした徐福は、「百工」という技術者集団と3000人の少年少女を船に乗せて、出航したという。

もちろん、徐福の行き先は公式の記録(史記)には残っていない。

ただ、『三国志』の「呉書」には、孫権が諸葛直らに徐福を探させたという記事があり、捜索先の「亶洲」は台湾の先にある人口の多い島ということなので、そりゃー日本列島だろうという説がある。

また、5世紀に書かれた『後漢書』でも、徐福の記事は「倭」の条の中にあるので、その著者も徐福の行き先は日本だと思っていたようだ。

https://www.bokushoki.com/home/jinmu/jofuku

2023年12月9日土曜日

イザナギ・イザナミ

 ところで鹿島神宮はなぜ、鹿島の地にあるのだろう。てか、タケミカヅチはなぜ、鹿島で祀られているんだろう。

宮司さんにとっての問題は、こっちだ。

まず宮司さんは、『万葉集』には「朋神の貴き山」と歌われ、『香取群書集成』には「わらかおやくに(祖国)」と謳われる「筑波山」こそ、イザナギ・イザナミの住む山だったんじゃないかと考えた。

さらに宮司さんは、「天降り」とは想像の産物ではなく、古代に実際に起こった事件だと考え、ならば移動は水平に行われたのではないか、すなわち「天降り」は「海降り」なのではないかと思考する。

 しかも天(あま)と海(あま)は、古代では同一に神聖視され、同じ言葉で発音されるその縁由は同一視された名残でもあろうか。

ちなみに、海にいって水平線を望めば、空と海とは一線上に合体して見え、科学知識の少ない古代人が、天と海を同一視した心がよみがえってくるような気がする。(76p)

天孫ニニギは天(あま)ではなく、海(あま)を降ったのではないか。 

そういえば、「日本書紀」には東征に出る前の神武天皇の述懐として、「(ニニギは)天の関を闢き」とあるが、その「関」とはどこのことなのか。

https://www.bokushoki.com/home/ryokouki/ibaraki

鹿島神宮

 鹿島神宮の東実(とうみのる)宮司が、昭和43年に書かれた名著に『鹿島神宮』(学生社)がある。

宮司さんはこの中で大変ユニークな古代史論を展開されていて、ちょっと紹介すると、まず高天原は東国にあったと始まり、イザナギ・イザナミの「おのころ島」は筑波山のことで、そこから霞ヶ浦を通って「海(あま)降り」した天孫ニニギは、鹿児島の地に降臨(渡海)したのだそうだ。

と、聞けば誰でも荒唐無稽だと感じるだろうが、執筆当時の宮司さんには、世間を席巻する「騎馬民族征服王朝」説へのカウンターの意識があったようで、なるほど暴論には暴論だったのか!と理解すれば、宮司さんを笑うことは誰にもできない。


https://www.bokushoki.com/home/sujin/hidakamikoku

日高見

 日高見はヒノカミ(日ノ上)に由来するという松村武雄の説がもっとも納得がいく。すなわち日高見(日の上)は太陽の出る方向で、東方の地を指す。

天孫の降臨した日向からみて東方にあたる大和の国をほめたたえて、大倭日高見国と称したのである。

日高見はいつしか大和よりさらに東方に移動し、常陸信太郡の別称となり、さいごには陸奥国の北上川の流域の呼称となったのである。

(『白鳥伝説』谷川健一/1986年)

https://www.bokushoki.com/home/sujin/hidakamikoku

2023年12月3日日曜日

会津藩士墓地 九代藩主・松平容保

 会津藩士墓地 九代藩主・松平容保の墓


会津藩、九代目の藩主。岐阜県高須藩松平義建の子で会津藩八代目・松平容敬(かたたか)の養子となりました。

 京都守護職として、京都の治安と公武合体に尽力し、孝明天皇の厚い信頼を得ました。

 新選組も会津藩の預かりとなり活躍します。

 その後、統幕派は形勢を逆転し、戊辰戦争に突入します。鶴ヶ城での1ヶ月にわたる壮絶な籠城戦の末に降伏しました。

 会津落城後は妙国寺(みょうこくじ)に謹慎、のちに和歌山藩に移されました。明治5年に謹慎をとかれ、東照宮の宮司に任ぜられました。失意と沈黙の日々を過ごし、58歳の生涯を閉じました。


https://www.bekonon.com/inisie/keitai/02.htm

会津藩士墓地 会津藩殉難者墓地

 会津藩士墓地 会津藩殉難者墓地


会津藩殉難者墓地には352人が祀られている。文久2年(1862)の入洛から慶応3年(1867)の6年間に京の地で亡くなった237霊、そして鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀るために明治40年(1907)建立された慰霊碑がある。なお禁門の変の戦死者は22霊を除いても6年間に200人以上の人が亡くなっていることは異常な状況であるように感じる。大佗坊さんのHP 会津いん東京 の中にある 黒谷会津藩墓地では、この墓地に祀られている方々を詳しく記している。興味のある方は是非ご参照ください。ここには、産寧坂・二寧坂・一念坂の項で触れたように、明保野亭事件で切腹した柴司の墓もある。元治元年6月5日(1864)新選組による池田屋襲撃事件が発生する。 この事件に関係した者の掃討作戦中の6月10日、明保野亭を探索していた新選組と会津藩は不審者を認め、槍で刺して捕えている。それが土佐藩家老・福岡宮内家臣の麻田時太郎であった。新選組は、武田観柳斎、浅野藤太郎を含む隊士15名と会津藩士5名が動員されていたので、現場の指揮権は新選組にあったと思われる。しかし土佐藩士・麻田時太郎を刺したのが会津藩士柴司であったため、問題は複雑化することとなる。結局、池田屋事件後の殺伐とした雰囲気の中で生じた些細な過ちが会津藩と土佐藩の間の外交事件にまで発展し、2人の藩士が命を落とすこととなっている。


この墓地は上記のように明治40年(1907)に鳥羽伏見の戦いの戦死者を祀る慰霊碑を建立すると共に、墓地の整備と入口の位置の変更、門柱の建設、そして墓所の参道に道標を設けている。そのための募金趣意書が大佗坊さんのHPに残されている。その中に下記のような文がある。

     茲に会津小鉄と称する故上坂仙吉氏あり、曾て我藩の恩義を受けたるを徳とし、独力其酒掃に任し忌日毎に香花を供して幽魂を慰め多年之を怠らさりしか、往年不帰の客となれり。その後、矢ッ車大西松之助氏、小鉄の志を継き、西雲院の住職家田真乗師等と心を協せ力を合せて墓地の清除並に忌日の法要を営み、在京阪神等の旧藩人を會して忠魂を追吊し来り、漸くにして今日の現状を保つを得たり。


 上坂仙吉こと会津小鉄の出自についてはいろいろな説があり定かでない。会津小鉄と呼ばれるようになったのは、会津出身ではなく会津の印半纏を着ていたためと言われている。文久2年(1862)松平容保が京都守護職として入洛すると、小鉄は会津藩中間部屋の元締・大沢清八と懇意になり、会津屋敷の出入りを許されている。侠客の小鉄の表家業は口入れ屋であり多くの配下を抱えていたため、会津藩や新選組の市内警護の支援を行っていたと思われる。鳥羽伏見の戦いでも会津藩のために軍夫を用立て、幕府軍が敗れると、置き去りにされた会津藩兵と桑名藩兵の遺骸を埋葬している。


小鉄は明治維新以後も黒谷の会津墓地を守り、明治18年(1885)白川の自宅で亡くなっている。小鉄の墓は会津墓地を管理している西雲院の境内にある。また小鉄の遺志を継いだ矢ッ車大西松之助氏とは、会津小鉄一家に属する侠客で、この墓地整備が行われた後、明治43年(1910)に亡くなっている。


 なお、金戒光明寺の境内に多くの道標があり、これが会津墓地へ導いてくれる。これらの碑は昭和33年(1958)に元越後交通社長であった柏村毅が建立したものである。金戒光明寺の奥に位置する会津藩殉難者墓地は、人通りも少なく静謐さを保ち、手入れが行き届いている。


https://visual.information.jp/blog/2010/02/27/201002-article_28/

会津藩士墓地 焼尻島

 会津藩士墓地 焼尻島

苫前の由来はアイヌ語の「トマオマイ」(エゾエンゴサク・ある・もの(場所))から。

羽幌の由来は、アイヌ語の「ハホロペツ」(流出広大の川)または「ハボロベツ」(広大な川の流域)から。

焼尻の由来は、アイヌ語の「エハンケ・シリ」(近い島)、あるいは「ヤンケ・シリ」(水揚げする島)。

東浜の由来は、焼尻島の東海岸に位置することから。

羽幌町役場焼尻支所の横から遊歩道があり、入口左手に碑があるので焼尻支所を目指すのがいいだろう。

会津藩は、1808(文化5)年10月から翌年にかけて樺太から帰還した記述がある。会津藩の北方警備は、1807年(文化4年)から1809年(文化6年)にかけ、江戸幕府によって会津藩が樺太への出兵を命じられることにはじまり、総勢1558名が宗谷岬や利尻島、樺太に駐留したともいい、会津藩の樺太出兵とも呼ばれている。

しかし、1808年(文化5年)樺太出兵から帰還中の会津藩士が嵐に遭い船が難破、一部は天売島、焼尻島へ避難するも、51名の死者を出した。焼尻島に多数の遺体が漂着したことから島民が手厚く埋葬し墓を立てたそうだ。また別な資料では、警備のため出陣したが、船中にて病没したため焼尻島に寄港し埋葬したとの記述もあるそうで詳細は定かではないらしい。

一基には「会津小原内匠忠貫」「文化五年戊辰七月十一日」、他の一基には「会津山内一学豊忠」「文化五年戊辰七月十六日」の刻がある。 他にも、宗谷岬の北端には会津藩士の墓と句碑が建てられていて、利尻島にも会津藩士の墓がある。

https://ameblo.jp/nomaru1256/entry-12642576034.html

会津藩士墓地 野付半島

 会津藩士墓地 野付半島

会津藩は西別から紋別までの領地を与えられ、1860(万延元)年、標津に藩士を派遣。

1868(慶応4)年まで開拓と北方警備にあたりました。

会津藩は1862(文久2)年、ホニコイに本営となる陣屋を建築。

函館で材木を製材し、切組をつくって、船で運んび組み立てるというもの。

『蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ御陣屋御造営日記』によれば、11隻の船で物資や人員を運び(予定では17棟建設)、1863(文久3)年の秋までになんとか陣屋が整ったことがわかります。

そのホニコイ陣屋には代官以下200余名の藩士が北方警備に就いています。

この陣屋があったホニコイは、現在ホテル楠(標津町南8条西1−4−1)が建つあたりと推測されています。

ロシアの南下政策に対抗し、寒さに強いという理由で北方警備を命じられた会津藩などの東北諸藩ですが、越冬など過酷の警備で多くの藩士が命を落としています。

野付半島にある会津藩士の墓は、1863(文久3)年に亡くなった会津藩士・稲村兼久とその孫、そして佐藤某の3名の墓。

右の墓には「稲村兼久之墓 同孫女之墓」と刻まれ、左の墓は半分から下の部分が欠損しているので全部は読み取れませんが、「會津 佐藤」と刻まれている部分が残されています。


https://hokkaido-travel.com/spot/visiting/ho1157/

会津藩士墓地 白坂観音寺

 会津藩士墓地 白坂観音寺

この辺りは、白河口の戦いの激戦地で、東軍はいったん西軍を退けましたが、ふたたび来襲、西郷頼母、横山主税らが稲荷山に陣して迎え撃ちました。

しかし、約700名ともいわれてる死者を出して敗退し白河城は落城。戦後、この墓城は有志により管理され、毎年6月第1日曜日には長寿院住職の読経のもと慰霊祭をおこない、会津藩のご子孫も参列されています。

戦死墓

戦後、地元新町の人々が建立し戦死者の霊を弔ったものです。文字は阿部藩の重臣・阿部秋風の書です。

銷魂碑

松平容保が書した銷魂碑には、白河口副総督の横山主税をはじめとする304名の名前が刻まれています。

田辺軍次墓

田辺軍次は、東軍が敗れたのは、大平八郎が西軍の道案内をしたからだと信じ、白坂宿鶴屋で、大平を斬殺しました。田辺はその場で自決しましたが、八郎の養子直之助が養父の仇である田辺の墓を建て、白坂観音寺に葬りました。のち白河会津会によりこの地に改葬されました。


https://shirakawa.welcome-fukushima.com/co/kankou-aizuhanbosyo

会津藩士墓地 金戒光明寺

 会津藩士墓地 金戒光明寺

 金戒光明寺は、1862年(文久2年)閏8月1日、京都守護職に任ぜられた会津藩主・松平容保が本陣を置いた地。

 家老の西郷頼母らは、容保の京都守護職就任に反対したというが、容保は会津藩に伝わる保科正之の「家訓」に従い拝命したという。

 1862年(文久2年)12月24日、容保は家臣一千名を率いて三条大橋に到着し、金戒光明寺まで行軍が一里余りも続いたと伝えられている。

 金戒光明寺は、自然の要塞となっており、粟田口や御所にも近く、徳川家康も金戒光明寺と知恩院に軍隊が配置できるよう城構えとしていたという。

 また、一千名もの軍隊を駐屯させることができた広い寺域であったことから京都守護職の本陣に選ばれた。

 当時の京都は尊王攘夷派による暗殺や強奪が日常化していたが、1863年(文久3年)8月18日の政変で尊王攘夷派を京都から追放するなど、会津藩士の活躍はめざましいものがあった。

 しかし、その犠牲も大きく、徳川慶喜が大政奉還をし、京都守護職が廃止された1867年(慶応3年)までの6年間で237名もの戦死者を出し、金戒光明寺の山上に葬られている。

 のちにその場所に供養塔が建てられ、鳥羽伏見の戦いで戦死した115名が合祀された。

https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/konkai-komyoji/komyoji-aiduhaka.htm

会津藩士墓地 上越市金谷山

 会津藩士墓地 上越市の金谷山

1869年(明治2年)、戊辰戦争に敗れた旧幕府軍の会津藩士1742人が新政府軍の榊原家高田藩に預かりの身となった。当時、高田藩は財政がひっ迫していたが、藩士が謹慎した寺々に炊事場や浴場などを設け、生活用品一式を用意し、医師も付けるなどして厚遇した。しかし、藩士らは戦場での傷病や厳冬の長旅で体を壊し、約1年の謹慎中に68人が死亡。高田の人々は死亡した藩士を手厚く葬り、現在は地元住民や「旧高田藩和親会」が墓地を管理し守り続けている。

https://www.joetsutj.com/articles/55122351

会津藩大窪山墓地 埋葬者一覧

会津藩大窪山墓地 埋葬者一覧

1 田代家 鐵關透明居士 他に十基

2 宇津見家 宇津見大助寛之 他に転倒数基

3 内海家 内海清右衛門統一墓(光誉道琳居士) 他に一基・転倒数基

4 西郷家 西郷張寛之墓 他に五基

5 井深家 洗心院井譽露水居士(井深重照墓) 他に妻之墓一基

6 山寺家 徹心源底居士(山寺又八墓) 他に五基・転倒一基

7 山田家 山田貢・妻イチ之墓(慶応四年六月十二日於白河口戦死)

8 小林家 小林次郎・妻山田登代墓 単基

9 大田家 大田利次妻墓 他に転倒数基

10 窪田家 唯心院積善入峯居士・善柔院實山貞操大姉(窪田運平・同妻墓) 他に転倒数基

11 釋露圓 単基

12 三宅家 蓮竟院釋尼妙華(三宅直位妻成田氏女之墓) 他に転倒数基

13 三宅家 法讃院釋尼貞驅(三宅直光妻之墓) 他に一基・転倒数基

14 願室妙生信女 他に一基・転倒数基

15 小松家 小松利安之墓 他に三基・転倒数基

16 釋氏○顯(○の文字は「彳宗」を一文字にしたもの) 他に一基

17 服部家 服部尚舒之墓 他に四基・転倒数基

18 赤井田家 正壽道明信士墓(赤井田門吉墓) 他に一基・転倒数基・

白碑一基

19 安藤家 牧徳院壽慶日道居士(安藤九右衛門重光墓) 他に五基・転倒三基

20 高木家 輪譽浄貞居士・法譽妙貞大姉(高木喜内長堅夫婦墓) 他に転倒数基

21 安藤家 徳山院雪峰日登居士(安藤重則墓) 他に二基・自然石一基

22 鯨岡家 壽山明永居士・梅屋妙庭大姉〔転〕 単基

23 村井家 得阿道達信士・瑞雲妙祥信女(村井定右衛門夫婦墓) 他に一基・転倒数基

24 小松家 小松利房妻倉澤重矩女・小松十太輔利房墓 他に四基

25 原 家 原徹齋伴高之墓 他に一基

26 堆橋家 堆橋徳左衛門伴清之墓 他に二基・白碑一基

27 牧原家 牧原白珠姫墓 他に八基

28 牧原家 牧原直源之墓 他に三基

29 大野家 大野重元墓 他に一基

30 一柳家 明證禅童女(一柳伊右衛門直義女) 単基

31 樋口家 得岸良舩信士(樋口弥五兵衛光武墓) 他に二基

32 井深家 寂譽秋岳信士(井深九郎兵衛墓) 他に一基

33 軍士家 春安妙照信女(軍士時重之嫡女) 他に転倒数基

34 相川家 相川定良墓 他に三基

35 青木家 妙義尼(青木羽左衛門妻墓) 他に一基・転倒一基・

自然石一基

36 黒田家 黒田長恒・黒田長恒妻墓 他に二基

37 相川家 春山院 単基

38 永岡家 永岡久忠之墓 他に十三基・白碑一基

39 橋爪家 橋爪寅四郎墓 他に二基

40 松田家 高山院榮松日久居士(松田主馬久成墓) 他に十五基

41 向山家 壽昌院義山忠道居士・向山利信墓(明治戊辰九月廿四日) 他に十五基・転倒一基

42 有賀家 有賀満包墓 他に転倒一基

43 有賀家 有賀小弌郎満辰墓 他に三基・転倒数基

44 藤澤家 藤澤忠衛之墓 単基

45 小原家 小原俊休妻三宅氏の墓 他に十五基

46 白碑 単基

47 赤羽家 赤羽武兵衛茂禮妻之墓 単基

48 小原家 小原俊周之墓 他に三基

49 小原家 小原俊信之墓 単基

50 松田家 諸○院要傳信士(○の文字は不明) 単基

51 小原家 小原俊因之墓 単基

52 小原家 小原俊興之墓 他に七基

53 小原家 小原光聰之墓 他に六基・転倒一基

54 小原家 「法光院殿遥拝碑」 一基

55 加賀山家 加賀山家累代之墓 単基

56 倉田家 純彦神霊(倉田新八實愛墓) 他に七基

57 柴宮家 柴宮行敬墓 他に一基

58 有賀家 有賀源右衛門満家之墓 他に二基

59 粟澤家 粟澤満清墓 単基

60 佐藤家 佐藤忠翁 他に二基・転倒一基

61 釋種幻曜 他に二基・転倒数基

62 安西家 安西平吉慶任之墓 他に一基

63 友松家 東奥散士友松氏興之墓 他に二基

64 町田家 町田高義之墓 他に二十基・転倒二基

65 倉澤家 心應一齊居士・暗室妙燈大姉

66 三宅家 三宅忠壽之墓 他に四基

67 三宅家 三宅直方墓 他に一基

68 有賀家 有賀○○○○○○(○の文字は不明) 他に一基・転倒一基

69 永見家 宗心雅妙霊位(永見忠竹之墓) 他に転倒あり

70 大沼家 大沼親賢之墓 他に六基・転倒一基

71 松本家 藤姓松本和平爲美墓 他に一基・転倒あり

72 修善院性譽妙頓信女 他に一基・転倒一基

73 高木家 現高院設山譽崇岳居士(高木信行墓) 他に一基

74 赤羽家 赤羽利長之墓 他に七基・転倒二基

75 町田家 偶○翁町田光忠之墓 他に四基

76 一柳家 一柳浚明之墓 他に七基・転倒一基

77 手代木家 照明院光譽妙○大姉(○の文字は「彳扁」を一文字にしたもの) 他に二基・転倒一基


1 權大僧都法印竹光(良光院中奥玉山) 他に四基・転倒あり

2 竹山家 秋月院覺夢遊岳居士(竹山祐之進信房) 自然石

3 吉村家 青雲院遂成日光居士 他に十基・

吉村寛泰先生頌徳碑

4 品川家 品川留四郎氏女 単基

5 単基

6 鈴木家 鈴木彌惣治夫婦・鈴木多蔵夫婦 単基

7 中野家 護射神墳 他に十六基

8 中野家 隱孝靈社碑(中野義都墓) 他に三基

9 新藤家 新藤次胤墓 他に二基

10 伊東家 忠良院孝山玄儀居士(伊東祐塗墓) 単基

11 野矢家 野矢壽位墓 他に七基

12 楠 家 仁譽儀應善大姉(楠重房之墓) 他に一基

13 矢島家 矢島重實墓 他に六基・転倒あり

14 荒木家 荒木重英後妻之墓 他に一基・転倒あり

15 押坂家 押坂重依妻墓 他に転倒あり

16 赤井田家 赤井田彌市・同妻墓 他に転倒あり

17 伊東家 巍岳院靈嶽長松居士(伊東祐吉) 他に二基・転倒一基

18 松田家 實相院洞達日観居士(松田四郎左衛門久重) 他に五基

19 永瀬家 芳水神霊(永瀬雅重墓) 単基

20 田中家 田中次伴墓 他に三基

21 小川家 小川彦松墓 単基

22 太田家 太田重宣之墓 他に六基

23 雪光童子墓[転] 他に転倒数基

24 伊東家 伊東祐宜墓 他に二基

25 關屋家 観應了随信士(關屋盛保墓) 他に二基・転倒あり

26 宮原家 宮原長恒之墓 他に四基・転倒あり

27 伊東家 伊東磯吉墓 他に二基

28 野村家 野村俊又後妻墓[転] 単基

29 [梵字](法印傳秀) 単基

30 宮原家 宮原長智之墓 他に一基・転倒あり

31 小川家 小川忠奉墓 単基

32 小川家 小川忠義墓 他に二基

33 鈴木家 鈴木氏重殿之墓 他に三基・転倒あり

34 浮洲家 浮洲重時後妻之墓 他に四基

35 中田家 中田貢勝光 他に二基

36 浮洲家 釋尼妙清正定位(浮洲重時嫡女) 単基

37 高橋家 智孝清旭童子・至孝清心童女 単基

38 大竹家 釋了貞正定(大竹佐野右衛門墓) 他に転倒あり

39 樋口家 秋清院月峯○光大姉(樋口光昌後妻渥味氏墓)

(○の文字は「玄少」を一文字にしたもの) 他に転倒あり

40 佐藤家 佐藤孝徴隱山之墓 他に一基・転倒あり

41 佐藤家 佐藤平蔵孝思墓 他に六基

42 鈴木家 鈴木庄左衛門恭豊之墓[自然石] 他に三基・転倒数基

43 樋口家 華質浄蓮大姉(樋口万助妻墓) 他に二基・転倒数基

44 川手家 川手嘉道之墓 他に三基・転倒数基

45 福井家 久住姫霊墳 他に三基・転倒数基

46 横山家 横山嘉重之墓 他に五基・転倒あり

47 ○田家 ○田重矩之墓(○は塩の古い文字) 他に七基・「塩田牛渚碑」あり

48 小川家 智量院眞法妙心大姉(小川常孝妻墓) 単基


1 入江家 入江先生之墓(入江兼央) 他に十三基

2 赤羽家 赤羽央親之墓 他に四基・転倒一基

3 小川家 小川徳玄・同妻墓 単基

4 佐藤家 佐藤氏忠廣墓 他に二十二基

5 伊東家 依海靈神(伊東祐興) 他に二基

6 當院中興開基一法印元智 他に二基・転倒あり

7 金子家 豪岳院釋種了誓(金子小彌多忠里) 他に一基・転倒あり

8 森下家 實相院智明日顯居士・是眞院妙善日道大姉(森下茂・同妻いち之墓) 他に転倒あり

9 澤田家 「沢田名垂先生墓地」碑あり

10 齋藤家 齋藤氏女墓 他に白碑一基

11 飯河家 飯河光典墓 他に二基

12 伊藤家 伊藤光隆墓

(此君戸ノ口原而戦死葬彼地行年二十才・慶応四年戊辰八月廿三日)

13 赤城家 百彦神靈・妙姫神靈(赤城和右衛門委利・同妻) 他に七基

14 赤城家 清留彦神靈之墓 他に二十六基

15 神尾家 眞行院妙貞日修大姉(神尾友矩妻之墓) 他に一基・転倒一基

16 三宅家 定鎮神靈(三宅親伯之墓) 他に三基・転倒あり

17 高橋家 性蓮院慈覺日意居士(高橋伴助重因之墓) 他に一基・転倒あり

18 横山家 横山常○之墓 (○の文字は「伊」のにんべんを取ったもの)

「横山主税常忠靈神」碑あり 他に一基・転倒数基

19 横山家 横山常敬之墓 他に一基

20 伊南家 伊南芳教之墓 他に三基・転倒一基

21 依田家 依田勝任之墓 単基

22 一瀬家 一瀬隆信之墓 他に八基・転倒一基

23 新藤家 新藤丑徳次明墓 他に十基

24 横山家 横山常徳墓 他に四基

25 古田家 古田重元之墓 他に転倒三基

26 高津家 溜川先生墓(高津平蔵)

27 安部井家 帽山先生之墓(安部井辯之助) 他に一基

28 一瀬家 一瀬隆成・室婦美之墓 他に二基

29 白井家 慈明院殿江月道円居士(白井長次郎三興) 他に五基

30 芳賀家 釋了順善尼(芳賀市左衛門妻)

31 軍士家 齋比○神靈(○の文字は「口羊」を一文字にしたもの) 他に三基・転倒あり

32 飯河家 飯河成房之墓 他に四基

33 新妻家 新妻胤繼之墓 他に七基・転倒数基

34 飯笹家 飯笹忠意墓 他に一基・転倒数基

35 賢證院殿孝達日詮居士

36 高橋家 高賢院殿鳳性○徳日正居士 他に五基

37 高橋家 高橋重元之墓 他に十基

38 忠誠院精武廣楽居士 他に二基

39 佐藤家 佐藤忠清妻之墓 他に一基

40 尚比○神靈(○の文字は「口羊」を一文字にしたもの) 他に一基


1 神谷家 浄夢善童子(神谷三郎墓) 単基

2 釋尼妙讃 他に一基・転倒数基

3 鈴木家 鈴木忠義夫婦・荒井重忠女墓[転] 他に一基・転倒数基

4 伊東家 伊東祐従之墓 他に三基・転倒あり

5 黒河内家 恵亮院信得日能居士(黒河内時興墓) 他に十基・転倒数基

6 和田家 和田長賢之墓 他に六基・転倒数基

7 窪田家 窪田隆深之墓 他に四基・転倒数基

8 新井田家 壽山良永信士(新井田傳左衛門墓) 他に転倒一基

9 三宅家 三宅重賢・同妻墓 他に五基・転倒あり

10 高橋家 高橋忠憲之墓 他に三基・転倒あり

11 釋妙秀信尼 単基

12 中條家 功徳院深譽諦禪居士(中條猶之丞方秀墓) 他に六基

13 渡部家 道皈院乗雲往西居士 単基

14 安倍家 安倍忠道墓 単基

15 山内家 山内積盛墓 他に三基

16 鈴木家 鈴木吉常墓 他に一基

17 西郷家 西郷十兵衛元敬之墓 他に転倒あり

18 鈴木家 鈴木直右衛門重章 他に一基・転倒あり

19 西郷家 西郷房成墓 他に二十一基

20 秀元道勇信士 単基

21 渥味家 清覺院顯樹日量居士(渥味聰右衛門壽有墓) 他に九基

22 竹田家 竹田良忠居士・同妻之墓 他に七基

23 浮洲家 浮洲重倶之墓 単基

24 片桐家 片桐嘉保墓 他に二十基

25 荒井家 法雲妙照大姉(荒井憲健先妻安西氏女)

26 浦野家 心法院覺譽名音居士(浦野直重之墓) 他に五基

27 井深家 井深重恭之墓 他に六基・転倒数基

28 橋爪家 橋爪幸求墓 他に十基

29 蓮沼家 義彦神墳(蓮沼道時墓)

30 松原家 松原留五郎墓 他に一基・転倒数基

31 蒲田家 生清靈神(蒲田織部墓) 単基

32 坂本家 坂本義邵之墓 他に二十三基

33 上崎家 上崎重直之墓 他に七基・転倒数基

34 上崎家 忠雅神靈 単基

35 高津家 勸壽院殿惟譽思考居士(高津甚内成祐之墓) 他に一基

36 澤井家 中醫院興譽開屋周安居士(澤井良孝墓) 他に十基・転倒一基

37 赤城家 廣業彦神靈(赤城廣業墓) 他に九基・転倒一基

38 和田家 和田義方妻墓 他に三基

39 和田家 萬達院殿釋至心義忠居士(和田義忠墓) 他に十三基

40 木村家 木村忠次墓 他に二十一基

41 畑家 畑高義之墓 他に三基

42 木村家 木村忠香墓 他に十三基

43 在竹家 實翁宗心居士(在竹定右衛門隆清墓) 他に三基・転倒あり

44 浮洲家 孝岳院忠山亮節居士(浮洲重光之墓) 他に十基

45 望月家 望月豊次郎墓 他に九基・転倒二基

46 竹崎家 竹崎弓友忠許・同妻佐野氏女墓 他に二基・転倒あり

47 吉田家 吉田仁兵衛忠賢墓 他に一基

48 樋口家 樋口光冨墓 単基

49 中野家 中野長義妻墓(秋教院釋尼露鏡) 他に転倒あり

50 小川家 得昇院釋種善道(小川權治隆門墓) 他に四基・転倒数基

51 永岡家 永岡氏 単基

52 中村家 中村成庸墓 他に十四基

53 廣川家 廣川薫勝墓 他に一基

54 遵仰院單興直信居士 他に転倒数基

55 猪狩家 猪狩滿昆墓 他に一基・転倒数基

56 平出家 平出重英・同妻墓 単基

57 下條家 清誠院寛法浄性居士・西遊院浄室須法大姉(下條親村之墓) 他に一基・転倒数基

58 武井家 武井壁墓[転] 他に転倒数基


1 松永家 松永包卓 他に十四基

2 田代家 心清常安禪定門 他に八基

3 佐瀬家 佐瀬重次夫夫婦墓 他に一基

4 小僧都家 小僧都左近 他に七基

5 三星家 與克昌隆居士(三星市節治墓) 他に八基

6 市野家 市野澤與之墓 他に四基・転倒あり

7 榎田家 道願性心信士(榎田傳八墓) 他に三十九基・転倒あり

8 成田家 常心是道禪定門 他に十六基

9 黒河内家 節齋翁墓 単基

10 黒河内家 常觀院照巖浄喜居士(黒河内八之助) 他に四基

11 天川家 釋種善念居士(天川濱七) 他に転倒あり

12 清水家 釋自觀(清水重之) 他に二基

13 荒木家 釋了安(荒木半助重雄) 他に十七基

14 弓田家 弓田長教・妻柳澤氏墓 他に五基

15 絲川家 盛房神靈(絲川善左衛門) 他に一基

16 三米家 三米久吉妻 単基

17 北條家 北條繁之進墓 単基

18 從山姫神靈之墓 他に転倒数基

19 上崎家 上崎仁兵衛重次 他に五基・転倒あり

20 騎西家 西譽妙辨信女(騎西義福妻墓) 他に転倒あり

21 横尾家 智外良勇信士(横尾伴之助芳治) 他に転倒あり

22 小澤家 青坐壽松居士(小澤勝凭之墓) 他に転倒あり

23 岡田家 岡田安民・同妻之墓 他に転倒あり

24 浅岡家 清涼院泰道日了居士(浅岡新左衛門義壽) 他に四基

25 山田家 覺現道正居士(山田利央之墓) 他に一基

26 鈴木家 鈴木重好妻軍士氏女墓 単基

27 松本家 松本佐牧墓 他に一基・転倒一基・頌徳碑一基

28 推倒院雪庭妙師大姉[転]

29 古山家 古山重好之墓 他に四基・転倒あり

30 山内家 豊山先生墓(山内道善墓) 他に四基・転倒あり

31 安藤家 眞釼院知覺道翁居士(安藤由喜知之墓)[転] 他に転倒あり

32 原田家 原田季長墓[転]

33 本堂家 順眞院湛能道昇居士・法善院冬光喜大姉

(本堂幸右衛門美勝・同妻墓) 単基

34 桃澤家 桃澤彦五郎惟一墓 単基

35 騎西家 騎西信藏・同妻墓 他に二基・転倒数基

36 佐治家 端翁宗的居士(佐治九左衛門清勝) 単基

37 田邊家 節巖良忠居士(田邊松宅佐直) 単基

38 福地家 福地佐勝之墓 他に三基・転倒あり

39 水島家 詮量院妙乗日○(水島義智妻墓) 他に八基・転倒数基

40 丸山家 淑室圓照大姉(丸山胤安妻入江兼能女) 他に七基・転倒数基


https://aizu.sub.jp/okuboyama/meibo05.html

会津藩士墓地 大窪山墓地2

会津藩士墓地 大窪山墓地


会津藩。

江戸詰家老横山主税常徳長男。

若年寄。

1300石。

白河口総督西郷頼母のもとで副総督の任にあったが5月1日、白河城外稲荷山で全軍を指揮中壮烈な戦死を遂げた。22歳。

激戦はなおも続き、主税の遺体は収容することができず従者板倉和泉がかろうじて首を掻っ切って退却したという。


https://boshinsoutairoku.bufsiz.jp/ohkuboyamabochi.html

会津藩士墓地 大窪山墓地

 会津藩士墓地 大窪山墓地


旧会津藩大窪山共同墓地の除草を行いました。門田町北青木に、江戸時代の会津藩士の墓が約4000基存在しています。この墓は保科正之により寛文4年(1664)に創設されたものです。家老から下級武士まで家単位に整然と並んでいます。


chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2012100900041/files/001ookuboyama.pdf



会津藩士墓地 三昧堂

 会津藩士墓地 三昧堂

地元の人に三昧堂(さめど)と呼ばれる場所には,葬式や死者の冥福を祈るため,経をあげたりするお堂があったと思われますが,現在はお堂らしきものは何も残されていません。会津藩士とその家族の墓が23基残されているだけです。

 以前,この墓所は走水の円照寺の所有地でしたが,近年,横須賀市が購入・管理することになり,2005年2月~3月にかけて整備工事が行われました。白いフェンスに囲まれた墓所内には,真新しい説明板とベンチが据えられ,小さな公園墓地の趣があります。

 三昧堂のある腰越は,会津藩が文化八年(1811)に,江戸湾海防のため陣屋を置いた場所で,その敷地は八千百十坪余と記され,家老も常駐していたという記録があります。

 この陣屋には,会津藩士の子弟を教育するための「養正館」という藩校までありましたが,陣屋は天保十三年(1842)に川越藩の所管となり,明治二年(1869)に撤去されました。 

https://suzugamo.sakura.ne.jp/aiduhansinohaka.html#samedo

会津藩士墓地 能満寺

 会津藩士墓地 能満寺

能満寺は明応6年(1497)の創建といわれています。江戸時代に三浦半島は天領となり,代官が浦賀に赴任した時に,曹洞宗に改宗し現在に至っています。

 本尊は虚空蔵菩薩で,胎内には「応永5年」「願主昌悟」と銘文があり横須賀市文化財に指定されています。薬師堂には多光薬師如来が安置され,33年に一度開帳されます。

 境内には江戸後期に三浦半島を行脚した木食観正の石塔や会津藩士の墓10基と川越藩士の墓1基があり,参道には江戸中期の庚申塔1基があります。

https://suzugamo.sakura.ne.jp/aiduhansinohaka.html#noumanji

会津藩士墓地 西徳寺

 会津藩士墓地 西徳寺

 西徳寺は鎌倉の光明寺の末寺として,永禄3年(1560)法譽順性上人によって開かれた。境内には,三浦大介義明の孫で,頼朝の挙兵を助け,鎌倉幕府の樹立に功績のあった武将和田義盛が出陣に際し,戦勝を祈願したと伝えられる「和田地蔵」が祀られています。

 また,樹齢400年以上のイヌマキとビャクシンの木があり,三浦半島の名木・古木50選に紹介されています。裏山には,義盛の剃刀塚(かみそりづか)や幕末期には江戸湾の防備のために,この地に来た会津藩士の墓11基があり,中には白虎隊士・間瀬源七郎の身内の墓も2基あります。


https://suzugamo.sakura.ne.jp/aiduhansinohaka.html#saitokuji

会津藩士墓地 阿弥陀寺

 阿弥陀寺は、浄土宗の寺院で、1603年に開山されたことが始まりとされています。

会津戦争で戦い、敗戦した会津藩士の多くがこの阿弥陀寺に眠ります。会津藩士の墓地は、前述の通り、戦争が終わった後は野ざらしにされていました。その後、当時会津藩士の埋葬箇所は、罪人が埋葬される小田山下と薬師堂河原に葬るようにと決められていたようです。取締りとして残留していた会津藩士の高津・町野は寺院に埋葬できるように民政局に嘆願。なんとか黙認するという事で、阿弥陀寺と長命寺にご遺体を埋葬する事となったようです。

境内には、会津戦争で戦死した1300名の藩士たちが埋葬されています。現在でも春と秋のお彼岸には供養会が開かれ、多くの人々が訪れるそうです。こうして阿弥陀寺に墓が置かれるにも様々多くの人の力があったのですね。

https://www.histrip.jp/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A7%E4%BA%A1%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%97%A9%E5%A3%AB%E3%81%AE%E5%A2%93%E3%80%81%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%AF%BA%E3%81%A8/




会津藩士墓地 宗谷・利尻島

 文化3、4年のロシア船による択捉・樺太・利尻島襲撃は、南部・津軽藩兵の防御が砕かれたことから外国による軍事攻撃の恐怖心を日本国内にもたらした。それにより文化5年には、津軽・南部藩が各250名、仙台藩2,000名で箱館、国後、択捉を、会津藩は1,633名の藩兵で樺太、宗谷、利尻島、松前を警固した。

会津藩の樺太詰745名、宗谷詰370名、利尻島詰252名、松前詰266名で文化5年1月9日から4回に別れて鶴ヶ城を出発した。4月19日に樺太久春古丹に到着した樺太詰隊は、会津から持参した油単(合羽)を張った仮小屋を建てた。周囲に柵を巡らした陣屋と見張り台、山腹に台場をつくり大砲を備え付け、ロシア武装船に備えた。また、久春古丹より海上西方三里の要所である留多加(るうたか)に98名の分遣隊を派遣した。利尻島では運上屋のある本泊に陣屋をつくり駐留した。ウエンヒタという海岸とポンモシリという小さな島に遠見番所を立て、日中は組士1人足軽2人、夜中は組士2人で当番し、陣屋周辺の海岸は組士2人足軽3人で昼夜関係なく見回った。しかしこうした会津藩の警固地にはロシア武装船の来襲がなかったので、7月に入ってから警固引き揚げの幕命がだされた。利尻島にある三ヶ所八基の会津藩士の墓のうち4人は利尻島警固で亡くなった藩士、残りの4人は樺太警固を終えた帰りの船で亡くなったり、海難し漂着したが利尻島で亡くなった藩士の墓である。

北の海を護る、その背景

文化元年(1804年)9月6日、クルーゼンシュテルン率いる世界探検隊とともに、ナデジダ号に同乗したロシアの遣日全権使節レザノフが長崎港外に到着した。寛政4年(1792年)にラックスマンが松前で受けた信牌※2と来航趣意書をもって、幕府に通商を求めたのだ。当時のロシアにおける大きな課題は、北太平洋およびアメリカ北西岸の植民地への食料・日用品・資材の供給であった。これら必需品を日本から輸入することとあわせて、露米商の主要産物である毛皮の市場拡大も視野に入れていた。幕府はレザノフを半年に渡り隔離状態とした後、国書の受け取りを拒絶し、長崎からの退去を命じた。その後、ロシアは日本に交易を認めさせるための武力行使を命じ、ロシア武装船の択捉島・樺太島・利尻島襲撃が行われたのだ。

このような日露の緊迫した中で、文化4年3月、松前・西蝦夷地一円が幕府に召し上げられ、松前・蝦夷地全域が初の幕領となった。そして東西蝦夷地の巡見が幕吏によって行われた。文化4年に西蝦夷地を巡見した小人目付田草川伝次郎が記した『西蝦夷地日記』がある。そこに書かれている宗谷場所の産物は鯡(にしん)、煎海鼡(いりこ)、塩鱒、鱒〆粕(ますしめかす)、魚油、鮭塩引(さけしおびき)である。利尻場所の産物は鯡、鱈子(たらこ)、煎海鼠、干蚫(ほしあわび)、昆布、布海苔(ふのり)と記されている。鯡や鱒の〆粕とは本州の水田稲作、綿、煙草などの田畑の肥料として需要の高い製品であった。煎海鼠は俵物として長崎から中国に輸出された。その他は食糧として北前船航路で本州各地に運ばれていた。ロシアの武力行使に対して会津藩など奥羽諸藩による蝦夷地・樺太・択捉島警固は、豊富な海産物を必要とし守るため、北の海を国境・領海として強烈に意識したことによって生じた対外政策だったのである。

海は外交史の舞台になっており、いつの時代も海が人や物の行き来する道であると同時に、そこが国境で閉ざされると、人や物の行き来が途絶えてしまう。その時代時代において、海の関門をどう乗り越えてゆくのかが課題である。会津藩が蝦夷地警固してから200周年を迎え、会津若松市では7月4日に歴史シンポジウムin會津が開かれ、8月29、30日には蝦夷地警固に殉じた会津藩士を偲ぶ旅で宗谷・利尻島の墓参と記念講演会が行われた。会津藩士の墓を見守りながら、近世の海の有り様を様々な角度から日本史・ロシア史として捉えてみたい。(了)

https://www.spf.org/opri/newsletter/198_3.html

会津藩士墓地 腰越

腰越墓地には会津藩士及び家族の墓23基が存在する。

会津藩士墓の歴史は文化7年(1810年)藩主松平容衆が幕府の命令を受けて、三浦半島の海岸警備並びに台場構築の任務に当たったことにはじまる。

これは当時、漂流民の引渡と通商を求めて日本沿岸に出没する外国船に対して、鎖国をしていた徳川幕府が外敵からの江戸城を防衛するためであった。

幕府は多くの大名から敢えて会津藩にこの大役を命じたのは同藩に対する信頼が篤かったためと考えられ、そうした幕府の期待に応えるべく、藩主は直ちに八百余名の藩士並びにその家族を同年11月に送りこんだ。

そして、観音崎・浦賀平根山・城ケ島に台場を構築した。

文政3年(1820年)12月にその任務は解かれたが、その間、会津藩士はいずれも一家を挙げて、居をこの地に移して海防の任務に当たった。

彼らにとって、はじめて経験する異郷での十年間にわたる生活は厳しいものであったにちがいない。

いま三浦半島の7ケ所(横須賀市内では鴨居西徳寺・能満寺、走水円照寺)に存在する墓石がそれを如実に物語っている。

あわせて、我々はこの台場構築という重大な土木工事のために地元横須賀の人々も働いていたことも忘れてはならないことである。

そして嘉永6年(1853年)には、ペリーが浦賀に来航し開国への道をすすむ。

この会津藩士墓地は開国という大きな歴史の流れの中で、江戸湾及び三浦半島を守るために活躍した藩士と幕末の横須賀を知る上で貴重な史跡である。


https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8120/bunkazai/shi55.html

会津藩士墓地 利尻島

利尻島

文化年間の1807年、幕府の統治下に置かれていた利尻を、ロシア艦隊が襲撃するという事件が起きました。幕府はすぐに会津藩に北方警備を命じ、会津藩は約250人の藩士を派遣しましたが、ロシアとの直接的な武力衝突はありませんでした。しかし、当時の利尻の厳しい自然環境と食料の不足などから、何人かの藩士がこの地に骨を埋めることになってしまいました。利尻島には沓形字種富町、鴛泊字栄町、鴛泊字本泊の3カ所に墓が残されています。種富駐輪駐車公園敷地内の墓に眠る2人は、カラフト警固を終えた帰りの船で亡くなりました。

https://www.rishiri-plus.jp/shima-place/aizu-hanshi/

会津藩士墓地 円照寺

 円照寺

円照寺は、走水神社の近くにある日蓮宗のお寺である。

円照寺そのものは直ぐにわかったものの、会津藩士のお墓に関する看板も無く、その場所がなかなかわからなかった。


http://meinoie.blog44.fc2.com/blog-entry-372.html

養正館

 19世紀に入るころになると、たびたび日本近海で異国船を目にするようになり、江戸湾の警備が必要になりました。

文化7年(1810)幕府は、会津藩に江戸湾警備の任務を命じました。命を受けた会津藩は鴨居と三崎の地に陣屋を構え、三浦半島のほぼ全域を会津藩領としました。任務につくと観音崎と浦賀の燈明堂近くの平根山へ三浦半島で最初の台場を造り、守りを固めました。この任務が永遠に続くものと思っていた会津藩士は一家をあげて横須賀に移住してきたので、鴨居には藩士の教育機関である藩校の養正館も設けられました。ちなみに江戸湾警備についた他の藩はすべて単身赴任でした。

このような状況のもと、横須賀で生涯を閉じた会津藩士およびその家族も多く、現在確認できる墓石だけでも70基以上にのぼります。

会津藩は文政3年(1820)にその任務を解かれますが、ペリーが来航した嘉永6年(1853)には房総半島で再び任務に就き、ペリーが久里浜へ上陸した時には海上警備をしていました。

明治維新で会津藩が新政府軍に破れると、会津を離れ、因縁深い横須賀へ新天地を求めて来た人も多く、その子孫の方が現在も住まれています。


https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0535/aizuwakamatsu/history/grave.html

2023年11月30日木曜日

武石隠岐

 町

横三日町の北に続き末は滝沢町組町に至る。

長4町35間余・幅5間、家数65軒。

東の方に小路2条あり。南の小路は東名古屋町に通し北の小路は田間に通す。文禄の頃(1593年~1596年)行壽という行人この地に住せし故ゆえ町名となれり。この町に年々馬市あり(蚕養宮村と八角分の地雑はれり)。


神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?

創設 建久2年(1191年)~?

この町の西頬にあり。

神體しんたいは木像、長8寸8分。究て古物にて耳目鼻口の形も朽ちてさだかならず。三浦義連随身の像という。相伝ふ、義連当郡に封せらるるに及び赤沼内膳というもの跡を追て鎌倉より来る。義連これを喜しこの神體を付与し社頭を建立し内膳をして神職たらしめ神田許多あまたを寄付せしという。自来赤沼稲荷と称し士民の尊祟他に異なりしに、星霜移りて漸々に衰廃し伊達氏兵乱の後は愈いよいよ荒廃せり。文禄中(1593年~1596年)蒲生氏市街を改めし時行人行壽その来由を訴えしかば即再興あり。今に赤沼稲荷と称す鳥居あり。武石隠岐が司なり。

https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/240.html


赤沼稲荷

会津統治

 全国を平定した頼朝は、戦功のあった御家人たちに取り上げた領地を与え、荘園や公領の地頭に任命した。

 まず平泉の戦功のあった三浦一党の佐原十郎義連(よしつら)は、会津の地頭頭になり、のち和泉、紀伊両国の守護に任ぜられる。また、相模の豪族、山内通基(みちとも)には、会津郡伊北郷(南会津郡只見)を与え、下野国(栃木県)の小山氏の一族長沼宗政には、南会津一帯の長江庄を与え、さらに長沼一族の河原田氏にも伊南郷を与えたのである。

 建久1年(1190)9月15日、源頼朝は上洛し後白河法皇に拝謁、権大納言に任ぜられ、随従した佐原義連は左衛門尉に任ぜられた。

 三浦半島芦名郷の佐原十郎義連の館に一族の主だったものが集められた。

「皆に集まってもらったのは、他でもない頼朝様から賜った会津のことである」長の義連がおもむろに口を開いた。

「実は、会津に入れた草(間者)が帰ってきた。それが申すには、会津では国人衆や地侍達がかなりの兵力を保持していて、その中でも慧日寺衆徒頭の富田氏や国人の松本氏などが勢力をはっているようだ」

「そこで、彼らと争う事は得策でないので、なるべく彼らの土地を買い受けていくことにする。皆は如何かな」

「なんと、それは情けがありすぎる。会津はわれが領地ぞ」盛連の二男広盛が声を荒げる。

「いや待て、父上には何か考えがあるのではないか」当主の盛連が静かにいう。

「うむ、そのとおりじゃ。私は頼朝様から会津を賜ったが、会津の国人衆や地侍達と事を構いたくない。さらに、頼朝様が鎌倉幕府を起こし侍所を設けたのを知っておろう。本家の三浦氏や千葉氏、その他坂東の武者達が要職を欲しがり不穏な気配もある。この地を抜けて会津に向うわけにはいかぬ。」

「だからといって、自分の土地を金で買うとは、この広盛には解せぬわ。」

「広盛、たしかに会津は我らが領地ぞ。しかし、会津を力で押さえつけても、地侍たちは心から我らが臣になるとはおもわない。また、力で抑えても後々、彼らの謀叛に悩まされること畢竟、ここは懐柔策でいくのがよいのじゃ」

「そこで、会津に代官を派遣して、しばらく様子を見よう」

 三浦一党の佐原十郎義連(よしつら)は、三浦半島の芦名郷(横須賀)から会津の地に代官をおき、国人領主の地侍集団の富田氏や松本氏と事を構えない柔軟な領国経営を行うことにした。

 その時分、相模の豪族山内通基(みちとも)も会津郡伊北郷に里中丸城を築き移り住んでいった。

 さらに小山氏の一族長沼宗政は、会津長江庄に居を構え田島奈良原(下郷町楢原)など南会津郡一帯の管理を始めたので一族の河原田氏も伊南郷の移り住んでいった。

 佐原十郎義連の系図は、桓武平氏で高望王、平広茂、三浦介義明が先祖で、佐原義連(三浦十郎左衛門尉義連)の嫡子・佐原遠江守盛連の時代に会津に代官を置き着々と自分の領地の地固めを行ったのである。

 佐原盛連はその後6人の子供をもうけ、それぞれに会津の領地を分割することになるのである。

 長男・経連には猪苗代、次男・広盛には北田、三男・盛義には藤倉、五男・盛時には加納、六男・時連には新宮、そして四男(後妻の長男)・光盛が15歳で家督を継ぐことになる。

 後に佐原光盛は、三浦半島の芦名郷から名を取り「芦名左京太夫光盛」と名前を変え、さらに初代の芦名氏として芦名遠江守四郎左衛門尉として会津本家を継いでゆくことになる。 

 建久3年(1192)源頼朝が正式に征夷大将軍になり、鎌倉幕府が成立した。

 会津では、松本氏やそれに扇動された地侍たちが、あちこちで佐原氏の一族と衝突を繰り返していた。それでも佐原義連は、一族が血気にはやるのを抑えて慎重にことを運んでいた。

 会津に暑い夏がおとずれたある日、会津耶麻郡にすむ信濃源氏出の松本氏の居城綱取城に会津の主だった国人領主と地侍の頭が集まっていた。もちろん会津慧日寺の乗丹坊の子孫で衆徒頭の富田漏祐も参加していた。

 富田氏は会津国人領主として会津盆地中央の会津郡下荒井村(北会津村)と耶麻郡塚原村(喜多方市)に館を築いてすんでおり、一族郎党も多くかなりの軍事力を保持していた。

「おのおの方、よくきてくれました。本日集まっていただいた訳は、書状に示した通り、佐原一族が勝手に我が領土を鎌倉幕府とやらから下げ渡されたとして専横よろしくない所業多く、我らとしても我慢の限界にきている。」ぎょろりと一同を見回し、松本勘解由宗輔(かげゆむねすけ)がいった。

「そこで、皆の衆に忌憚のない意見を伺いたい」

「ではまず松本宗輔殿には、如何なるご所存でおりますか、お話いただけましょうか」富田氏が口を開いた。

「さよう、この会津は、会津磐梯山が噴火以来、荒地を我らが先祖が汗を流し耕作し、これまでにしたものである。それを、なんじゃと、平泉の藤原氏を滅ぼした勲功で、この我らが会津の土地を勝手にくれてやるとは、承知できぬ。」

「また、近頃聞くところによると、金銀に目がくらみ、先祖伝来の土地を手放す地侍がおるという。なんと、嘆かわしい次第だ。我ら松本一族は、決してこの土地を手放さぬ。」

「金銀に目がくらんだと申すが、放置してある価値のない荒地を手放しただけで、松本氏に非難されるいわれはない。」地侍の一人が叫んだ。

「まあ、待て、重要な事は今後佐原氏に対してどう対応するかであろう。万一、我らに敵対する意向があると見られては、鎌倉幕府の軍勢が押し寄せるやも知れぬ」富田氏がいう。

「さらに、我らが会津に住む国人や地侍の方々が、一つの心で鎌倉幕府に当れるか、如何かな」

「鎌倉幕府の軍勢が幾ら押し寄せようと我ら松本一族で撃退してみせるわ。嫌な者はここから去るがよい」松本勘解由は不機嫌にいった。それからの談義は、堂堂巡りで何も図る事がなかった。

 下荒井の館に戻った富田漏祐のもとに一族が集まってきた。

「して談義はいかにまとまりましでしょうか」郎党頭の荒井太郎左衛門が口を開いた。

 荒井氏は、源頼朝の藤原征討に加わったもと坂東武者・二科太郎光盛の後裔で、大沼郡横田村に中丸城(本丸、二の丸、三の丸の無類の要害城)に住む富田氏の2女の娘婿である。

「松本氏には困ったものだ。あのように荒っていては、何もはかどらぬ」

「戦となるのでしょうか」まだ幼い富田範祐がいった。

「わしは戦を好まぬ。一族郎党の者の中には、いままで戦で親や兄弟を失ったものが多くいる。これからも戦はあろうが、極力争いは避けたい。」

「しかし、相手が攻めてきましたら戦いましょうか」

「攻めてきたら、この富田一族の力を、目にものみせてやるわい。」漏祐はにっこり笑っていった。

「皆の衆も、此方からは戦を仕掛けぬが、何時敵が攻めてくるかも知れぬので、武具などの手入れと兵糧の準備を怠り無くしておくように。」漏祐は皆に命じ帰宅させた。

会津統治2(源頼朝死去)

正治元年(1199)源頼朝が落馬がもとで死去してしまった。源頼家が家督を相続したが、北條時政は頼家の親裁を停止し13人の合議裁決制を定めてしまう。

 そして、梶原景時が敗死し、庇護を受けていた城長茂の乱と死、板額の乱と鎌倉幕府はいそがしい時を経るが、建仁2年(1202)源頼家が征夷大将軍になる。

 しかし、源頼家の実権は北条氏に握られていたため、頼家は病んでしまい、とうとう関東を子の一幡に、関西を弟の千幡(実朝)に分与してしまった。しかし、実権は実朝が握り始めたので、おさまらないのは、北条政子。一幡を生んだ源頼家の妻の実家比企能員(ひきよしかず)を味方に引き入れた。

 比企能員は武蔵の豪族で妻は源頼朝の乳母で、娘が源頼家の妻であった。比企能員は、娘が生んだ一幡を将軍後継にするため北条時政を討たんとするが失敗して一幡とともに殺されてしまい、源実朝が征夷大将軍になった。

 しかし、北条時政が政所別当(執権)となると、源頼家を伊豆修善寺に幽閉してしまい、結局、源頼家は翌年殺害されてしまうのである。

 元久1年(1204)、諸国で地頭たちが勝手な振る舞いをして年貢を納めないなどの乱行が続いた。この年に芦名光盛が佐原盛連の4男として生まれる。光盛ら3兄弟は執権北条時頼の父時氏とは異父兄弟にあたり、会津四郎左衛門尉、左京大夫と称していた。のちの建保6年(1218)に15歳で黒川の城主になり三浦半島の芦名郷から名をとり芦名氏遠江守を名乗ることになるのである。

 元久2年(1205)北条時政は、女婿平賀朝政の将軍擁立をするため源実朝の暗殺をはかるが失敗して引退してしまい、このため北条義時が執権になる。

 承元1年(1207)専修念仏が禁止され、法然が讃岐に親鸞が越後に流される「承元の法難」などが起こり仏教弾圧が行われた。

 1211(建暦1年)佐原盛連が鎌倉幕府の北条執権の醜い争いを嫌い、いままでの代官制をやめて正式に一族郎党を引連れて会津に下ってきた。盛連が会津に下ったその年の6月幕府は三浦義村の奉行職を停止、後任に義連の長男佐原景連を充ててしまった。のちに景連は会津坂下で近衛家の荘園であった蜷川荘を拝領し蜷川氏の初祖となり太郎と称することになる。

 しかし、先住の土豪が各地に館を構え新参の不在領主の佐原氏に従うものはなかったので領地の経営に苦心していた。

 佐原義連は、頼朝より会津を拝領する際その跡を追って鎌倉より随従してきた赤沼内膳という陰陽師を利用する事を考えついた。当時の陰陽師は、軍師であったり敵退散の調伏をおこなう呪術師的な性格をもっていた。

 佐原義連は、彼に護身の像を与え社殿・神田あまたを寄進し神職としたのである。

 そして、この赤沼内膳の占いと調伏はなかなかの効き目があるという噂を流し、佐原氏自身も参詣をしたので周辺の土民はもちろん地侍達の尊崇を集めるに至ったのである。村人達はそれを赤沼稲荷と称するようになった。このように佐原義連は赤沼明神の加護で土豪の蜂起を鎮め、6人の子に所領を分割することになるのである。


菅原氏の由来


天穂日命の後裔、野見宿禰に始まる大和国添下郡菅原庄を本拠とします土師氏が、天応元年に菅原宿禰を賜り、延暦9年に朝臣姓に改められる。

菅原氏は学者として朝廷に仕え、道真に至り右大臣に昇進しますが、藤原氏の讒言により太宰権師に左遷され2年後に配所で死去した。

子息は官途に復して代々文章道を家職としてきた。

堂上家としては、高辻家、唐橋家、五条家、清岡家、桑原家、東坊城家の6家あり。

武家菅原氏としては中世南朝方についた美作菅家党があり、大名家の前田氏(4家)、久松氏(4家)、柳生氏も出自は菅原氏と称す。

なお、早稲田大学創立者大隈重信は菅原姓を称する佐賀藩士大隈信保の長男で、明治の政官界で活躍する。

https://www.nextftp.com/well/roots/new_page_8.htm

有元佐弘

 落魄して見ると昔のよき時代がしのばれる。美作の菅家一族は他の小豪族よりも群を抜いていた。しかも、仇花には過ぎなかったが、天皇権力の奪回という日本歴史の一頁に関係のある元弘の戦いに、一族一党を挙げて参加したという矜持がある。何一つ報いられなかったこの先祖たちの心情は、誠心南朝に殉じた楠正成党に一片通じるものがあるではないか。この先祖たちの祖満佐こそ、時代が百年遅れておれば美作の楠正成であったかも知れぬ。正成は日輪の申し子である。満佐もまた天の星、地の霊、山の霊の申し子でなければならぬ。大蛇は氏族の首長の象徴である。奈義の山霊の大蛇の母から生まれたのが三穂太郎満佐である。この祖にして、はじめて流星のように消えた子孫たちが生まれたのである。

この輝ける御先祖に申し訳ない限りである。世は戦国であれば、また、家名を挙げる機会があろうが、今は無力な蚯蚓切りの百姓だ。だが、そこいらの水呑み百姓とは違っているのだ。どこが違っている。だから家柄だ。ここで満佐は菅家党の願望を担って大人様の伝説と結びついたのだろう。

満佐の子孫、有元佐弘らが後醍醐天皇の京都還幸を助けたことは『太平記』に記されている。その功により佐弘は従四位など、一族が大正年間に贈位されている。

楠公への対抗心、それが菅原満佐を巨人・三穂太郎へと成長させたのだという。菅家党の共通の祖である菅原満佐は禁中を守護する役目まで仰せ付かっている。さらに、南北朝期には一族の有元佐弘が後醍醐帝を助けて京都で戦死している。こうした記憶が重ねられ、京都まで三歩で歩いた巨人像が創り出されたのだろう。

美作の巨人は、常陸のダイダラボウのように『風土記』に記録された未確認生命体ではない。その正体は、武士団としての栄光の記憶、「誇り」だったのである。

https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2013/08/%E4%B8%89%E7%A9%82%E5%A4%AA%E9%83%8E.html

赤松久範

 菅原朝臣三穂太郎満佐亦三歩太郎兼実とも號す。菅原菅家は其先右大臣菅原朝臣道真公七世の裔孫、菅原朝臣従四位下知賴公、承暦元年美作守として下向、豊田庄に住するに仍て興る。其嫡菅秀才眞兼は美作国押領使となり、其嫡尚忠亦號是宗は民部介、その勢は国府を席捲す。室久米錦織郷秦豊永の女、亦、室の姉は久米押領使漆間時国の室也。尚忠の嫡民部介菅四郎仲賴は開発領主として高円邑に大見丈城を築き、近郷の武士団を糾合、美作菅家党の基盤を創る。三穂太郎満佐公は其嫡として養和元年誕生、母は二階堂藤原維行の女、長じて知仁勇萬人に優れ、在地で朝臣となり京都禁中を守護し玄蕃頭に任ぜらる。亦美作守として治世其武威は遠く備前備後備中亦因幡播州にも及ぶ。室豊田右馬頭の女、天福二甲午九月十五日に赤松久範佐用の地に戦闘死、行年五十二才。後頭は三穂明神に右手は梶並の右手明神と足は因州智頭の河野明神として祭られ、亦荒関明神杉明神三崎明神諾明神として崇敬、これ等は美作太平記作陽誌赤松氏文書津山市史中世編等によって知る事が出来る。満佐公の嫡有元筑後守忠勝、廣戸豊前守佐久、福光伊賀守周長、植月豊後守公興、原田日向守忠門、鷹取備前守佐利、江見丹後守資豊、亦説に弓削佐渡守忠文、垪和越前守資長、菅田志摩守佐季を加え、美作菅家党は夫夫を祖として累代団結親交を強め、文永弘安の役は鎌倉幕府御家人として博多に遠征、元弘建武の乱には帝を奉じ国難に殉じ党族を挙げて忠戦、尓来幾星霜戦国群雄割拠の時も他族からの侵掠を許さず、栄枯盛衰平成の御宇迠、一族繁栄し党族八十八氏家を数う。茲に満佐公生誕八〇〇年を記念し顕彰記念像を建立、公の遺徳を讃え後世に伝う。

菅原道真七世の孫という知頼であるが、おそらくは道真-高視-雅規-資忠-薫宣-持賢-永頼-知頼と続くとするのだろう。知頼からはこうだ。知頼-真兼-尚忠-仲頼-満佐と続く。道真公を初代と数えれば12代目となる。その満佐を祖として菅家七流が栄えていく。中世美作を代表する武士団、美作菅家党である。

満佐が赤松久範と戦って敗死した天福二年は1234年である。赤松久範は有名な赤松円心の祖父に当たる人物である。


右手三社大明神

 美作市大字右手小字中右手の北にある右手(うて)三社大明神は、三穂太郎伝説で有名な菅原朝臣満佐(みつすけ)、菅原道真、猿田彦が祀ってあります。

社殿は梶並川の中州に造られており落ち着いた佇まいの神社です。

創建はおそらく13世紀後半ではないかと推察されますが、いまも右手姓の右手忍さんが(代々)管理をされています。

菅原朝臣満佐(みつすけ)は菅原道真公より13代後の末裔にあたり、知仁勇に優れていましたが、1234年9月15日に赤松久範と佐用で戦い、52才で討死しました。

死後、頭(こうべ)は奈義町関本の三穂明神(こうべさま)、右手は梶並の右手(うて)大明神、肩の部分は智頭町土師のにゃくいちさま、胴体は奈義町西原の荒関荒神として祀られ美作菅家党の基盤を創りました。

満佐公は歴史上の実在人物で、別名三穂太郎とも呼ばれおり 「那岐山の頂上に腰をかけ、瀬戸内海で足を洗い、京の都まで三歩で行った」と言う伝説も残っております。

https://blog.goo.ne.jp/ktomisaka/e/ccfa704ef52498de549d6153122dcac7

美作と信濃―小泉小太郎とさんぶたろう

 小泉小太郎とさんぶたろうの伝説を比較すると、母である竜神(大蛇)から生まれた息子(さんぶたろう、小泉小太郎)が、母から授けられた力で世界を創造する、というよく似たストーリーの構造を持っており、また、その他にも類似点が多いことに気づかされるのである。

※注釈k3-b:信州は、地下の国に降った後、大蛇(龍神)になって地上に戻ってきた甲賀三郎など、蛇に関する伝説が数多く残っている地域でもある。(注釈k3-bここまで)

小泉小太郎の伝説には、地域によってさまざまなバリエーションがあるが、『日本の民話17信濃の民話』瀬川拓男氏の再話によると、概ね次のような内容である。
※注釈k3-c:「信濃の民話」編集委員会編;江馬三枝子編『定本日本の民話17信濃の民話 飛?の民話』未来社 1995.5.該当ページはp.175~183.(注釈k3-cここまで)

むかし独鈷山というけわしい山に、若い坊さまのすむ寺があった。いつの頃からかその坊さまのところへ美しい女が通ってくるようになった。
不思議に思った坊さまは、ある夜、そっと女の着物に糸のついた縫針をさしておいた。
夜があけてみると、糸は庭をぬけて山の沢を下り、産川の上流にある鞍淵の大きな石のところまでつづいていた。
ふと岩の上を見ると、生まれたばかりの赤児を背にのせた大蛇が苦しそうにのたうっている。大蛇は坊さまに気がつくと、「こんな姿を見られては生きていることはできない。針をさされたので鉄の毒も体にまわった。どうかこの子をたのみ申します。」といって赤児を岩の上におろし、ざざーっと水煙をあげて淵の中へ姿を消してしまった。
坊さまは恐ろしさに震え上がり、赤児をそこに残し、逃げ帰った。

その後、大水で川に流された小太郎は、小泉村というところで婆さまに拾われて育ち、湖に住む母(大蛇=犀龍)と再会し、協力して湖をせき止めている山を切り崩し、土地を開拓することになる。
なお、湖から流れ出た水は犀川になり、湖が干上がって生まれた土地は、現在の松本、安曇の両平野になったといわれている。

伝説では、小泉小太郎の母(大蛇=犀龍)が住む湖は、周囲を山に囲まれており、大昔に天の神が練っていた五色の石のかけらが地上に降ったとき、えぐれてできたのがこの湖で、飛び散った石のかけらが周囲の山になったとされている。
また、別の伝説では、天の神を「女神?氏」としており、五色の石で天の裂け目を修復した中国の女神女?氏のことであろうと考えられる。
なお、五色の石は、陰陽五行説でいう世界を構成する五つの要素〔エレメント〕であり、世界を創造する力の象徴と考えられる。
※注釈k3-d:長野県図書館協会編『信濃伝説集 信州の伝説と子どもたち』(信州の名著復刊シリーズ2)一草舎 2008.該当ページはp.198-199.(注釈k3-dここまで)
※注釈k3-e:さんぶたろうと女?のつながり、陰陽五行説との関連性については、『大いなる巨人の伝説』第2部本編で触れているので、あわせてご参照ください。(注釈k3-eここまで)

このように、母が竜神(大蛇・蛇神)であること、母子神としての性質を備えていること、息子が母から受け継いだ創世の力を操り、治水や開墾などの偉業を成すことなど、多くの点でふたつの伝説は共通しているのである。
※注釈k3-f:さんぶたろう親子の母子神としての性格については、『大いなる巨人の伝説』第1部所収の「閑話休題(1)たろうと王子信仰あるいは土師郷とのつながりについて」で触れているので、あわせてご参照ください。(注釈k3-fここまで)

美作と信濃という、離れた地域のふたつの伝説に以上のような共通点が見られるのは大変興味深いことであり、今後、その成立過程を比較していくことで、ストーリーの共通点以上の、何らかのつながりが見えてくる可能性も考えられる。
(閑話休題(3)ここまで/引用・参考文献につづく)

 https://www.town.nagi.okayama.jp/library/sanbu_text.html

ナーギ

インド生まれのナーガ【Naga】k-1aという神がある。

紀元前200年頃に成立したバラモン教の聖典のひとつ『リグ・ヴェーダ』(リグは賛歌、ヴェーダは聖典。つまり神々の賛歌であり、創造神話である)の中にたびたび現れる強力な種族である。

※注釈k-1a:ナーガはサンスクリット語で「蛇」を意味し、コブラを神格化したもの。ヴェーダの神々と同様、超越的な存在ではあるが、正確には神々とは異なる存在である。(左本文では便宜上「神」と記述している)神々と人間の敵対者であり、協力者でもある。(注釈k-1aここまで)

 

もとはアーリア人の間で信仰され(あるいは先住ドラヴィダ人の時代、すでに原形が出来上がっていたともいわれる)、現在でもヒンドゥー教の神としてインド文化圏で広く信仰されている。

また仏教とともに中国に渡ったナーガは、天龍八部衆に加えられて竜王と同一視されるようになる。奈良興福寺にある国宝天龍八部衆像の一体である沙羯羅竜王などがそうである。
※注釈k2-b:天龍八部衆
仏法を守護する8つの種族。天・龍〔梵語Nagaの音訳〕・夜叉〔Yaksa〕・乾闥娑〔Gandharva〕・阿修羅〔Asura〕・迦樓羅〔Garuda〕・緊那羅〔Kimnara〕・摩羅迦〔Mahoraga〕。(注釈k2-bここまで)
※注釈k2-c:沙羯羅竜王は沙迦羅ともいい、サンスクリット語で海を意味するサーガラ〔Sagara〕の音訳。あるいは摩羅迦ともいい、サンスクリット語のマホーラガ〔Mahoraga〕の音訳で、大腹行(だいふくぎょう)、大蟒神(だいほんじん)と訳される。(注釈k2-cここまで)

これが那岐の語源にどう関係あるかというと、古代インドの雅語(主に貴族や神官が用いた)サンスクリット語で蛇を意味するナーガの女性形をナーギニーというのである。また地域によってナーギニーはナーギとも呼ばれるそうである。
蛇である上に「ナーギ」。まるで言葉遊びだが、海を渡った女神が、安住の地を求めてたどり着いた東の島国で大地の守り神になる・・・これだけで物語のネタがひとつできそうではある。

https://www.town.nagi.okayama.jp/library/sanbu_text.html

土師氏

 『日本書紀』垂仁天皇三十二年条には、天皇の陵墓を作るにあたり土師氏の始祖が出雲国の土部(はじべ)を集め、「埴(はにつち)を取りて、人馬及び種種(くさぐさ)の物の形を造作(つく)」って殉死にかえたとあり、この功績によりもとの姓をあらため「土師臣(はじのおみ)」を名乗っている。

この記述をみてもわかるとおり文字どおり土を司る集団であり、古代においては陵墓の造営、土器(土師器)製作などにたずさわった。
その後、『続日本紀』天応元年六月壬子条によれば、土師宿禰古人・道長ら十五名が、葬儀や墓づくりなど凶事ばかりにかかわるのは自分たちの本意ではないとして、支配地の一つ、大和国添下郡菅原郷(現在の奈良市菅原町一帯)にちなみ、菅原氏に改姓することを誓願し許されている。
因幡国(鳥取県)には土師氏にかかわる地名が数多く残っており、たとえば鳥取市内では大野見宿禰神社、智頭町では埴師(はにし)、同じ八頭郡郡家町には土師川などの名が残っており、八頭郡一帯に土師氏の支配が及んでいたことがわかる。
以上のことから、さんぶたろうの腕が那岐山を飛び越えて因幡国にたどりつくエピソードは、にゃくいち様とさんぶたろうに共通する母子神としての性格に加え、土師郷周辺が菅原氏に関わり深い土地であることを暗示しているとも考えられはしないだろうか。
『東作誌』を見ると、現在の奈義町にあたる地域に限っても童子神を祭る神社が多数見られ、その霊威とさんぶたろうを結びつけるだけなら、河野神社の若一王子権現の名を持ち出さずとも、これら近在の社でよいはずだからである
※注釈k1-e:町内の王子社
馬桑村の御子神、今若宮、小坂村の若宮、王子権現、皆木村の若宮二社、近藤村の大領権現〔祭神熊野権現。母御の宮、十二社権現、新宮、本宮、那智、当御霊、稲荷社等あり〕、沢村の若宮八幡、中島村の若王寺権現、荒内村東分の王子権現〔中島村入会の地也中島西荒内東小氏神祭神八王寺〕、荒内村西分の王子社など。
なお若宮とは一般に主祭神〔親神、本宮〕の御子神〔新宮〕を祀ることで、民間信仰では非業の死を遂げて御霊〔祟り神〕となった人の魂をいい、祟りの激しい御霊を、より霊威の強い神霊の若宮〔御子神〕として祀ることにより、祟りを鎮める信仰のことをいう。(注釈k1-eここまで)
https://www.town.nagi.okayama.jp/library/sanbu_text.html

土木・葬礼集団土師氏

 満佐が菅原道真の子孫であることは先に述べたが、伝承中、彼が菅原氏であることと無関係でないと思われる興味深い記述がみられるのであわせて紹介しておく。

伝説ではさんぶたろうが死んだとき、その亡骸のうち頭部は関本の里(=三穂大明神。こうべさま)、胴体は西原の里(=荒関大明神。あらせきさま)にとどまったが、かいな、つまり肩と腕の部分だけがどういうわけか、那岐山を飛び越えて遠く、現在の鳥取県八頭郡智頭町土師にたどりついたことになっている。
さんぶたろうのかいなが祀られた場所は現在の河野神社といわれており、「にゃくいちさま」の名で親しまれている。
手足の病気に御利益のある神社といわれているのも伝承に関係あると思われる。
ところで、中国山地を挟んだ反対側にある河野神社とさんぶたろうの伝説がむすびつくのはなぜだろうか?
河野神社の祭神若一王子は、もと熊野から勧請された神格で、熊野権現の第一王子とされる。
 仏・菩薩が人間世界に権能(ちから)を及ぼすために日本の神の形を借りて現れたものを「権現」といい、熊野権現の御子である若一王子自身、正体は天照大御神あるいは泥土煮尊(ウヒヂニノミコト)であり、十一面観音菩薩を本地とする。
神が化身した聖なる童(=王子神)に対する信仰を「王子信仰」という。
子供に聖なる力が宿るという信仰は古くからあり、『日本書紀』神代上第五段にはすでに、海神(わだつみ)をあらわす「少童」という表現が見えるし、八幡神などは化身である鍛冶の翁の童姿で現れたりしている。
鍛冶の翁は、自分のことを応神天皇であると託宣を下したといわれており、これは応神天皇が幼時から不思議な力を発揮したことに関係あると考えられる。
若宮信仰、御子神信仰などもこれらの延長線上にあるといえる。
※注釈k1-b:『扶桑略記』第三欽明天皇三十二(571)年辛卯正月一日条によれば、宇佐八幡縁起によるとして、
又同比(おなじころ)、八幡大明神筑紫に顕わる。豊前國宇佐郡厩峯(まきのみね)と菱瀉池(ひしがたいけ)の間に鍛冶翁あり。甚だ奇異なり。之に因りて大神の比義は穀を絶ちて三年籠居し、即ち御幣を捧げ祈りて云わく。若汝(もしなんじ)神ならば我が前に顕わるべしと。即ち三才の少児と現れ、竹の葉に立ちて託宣して云わく。我れは是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡麿なり。
とある。なお誉田天皇とは誉田別尊(ホンダワケノミコト)=応神天皇のこと。(注釈k1-bここまで)

 

また王子神は、しばしば巫女的な性質を持つ母親とセットで母子神として信仰される場合が多く、たろうを王子神、大蛇(=母)を巫女的母に当てはめると、両者がよく似た関係にあることに気づかれるだろう
※注釈k1-c:先に述べた応神天皇(誉田別尊)と、その母神功皇后(息長足媛〔オキナガタラシヒメ〕)の関係などはその一例である。(注釈k1-cここまで)

河野神社の若一王子権現がいつごろ勧請され、どのような経緯でさんぶたろうと結び付けられたか定かでないが、王子神の霊威を物語に導入するため、意識的に両者を結びつけたのかもしれない。
他にも理由は考えられる。
仮に伝説の記述が歴史的事実の投影だとすれば、たとえばにゃくいちさまの霊験(はっきりしたことはわからないが、手形足形など症状のある部位をかたどった形代を奉納する風習は四百年ほど前からのことらしい)だけでなく、もしかしたら「土師」の地名それ自体とも無関係でないかもしれない。
というのも、さんぶたろうの祖先菅原氏の系譜をさかのぼると、古代の土木・葬礼集団土師氏にたどりつくからである。

https://www.town.nagi.okayama.jp/library/sanbu_text.html


宇合頼資

『東作誌』所収の有元家略系図にも次のような記述があり、先の記述と一致する。

(略系図ここから)仲頼(菅四郎 高円村大見丈城主)

→公資(実筑後守藤原頼資子 母二階堂維行女)

→公継(頼資二男公資弟)

→満佐(仲頼実子改兼真三穂太郎名木山城主、妻者豊田右馬頭女有子七人菅家七流祖也。)(略系図ここまで)

※注釈1-2a:『東作誌』

正木兵馬輝雄著。文化12(1815)年成立。著者の正木輝雄は津山藩士であり、元禄4(1691)年成立の地誌『作陽誌』(江村宗晋撰;長尾隼人勝明編。美作国の西6郡のみで未完に終わっている)を補うため、東6郡(東南条、東北条、勝北、勝南、吉野、英田)の地誌として編纂された。異本が多数存在するが、本稿は『新訂作陽誌』全8巻(作陽新報社刊)所収のものを参考にした。

これらによると太郎の母はもと二階堂姓であり、保元の乱の折、敗れた新院(崇徳天皇)側に与していたため作州へ配流された最初の夫藤原(宇合)頼資とともに奈義の地にやってきたことになっている。(注釈1-2aここまで)

※注釈1-2e:満佐の子孫が有元姓を名乗ったのは、名木(那岐)山のふもと[元]に[有]ったからとも、宇合氏の血が入ったため(宇合・有元とも、音読みではウガン)ともいわれている。(注釈1-2eここまで)


その後夫は亡くなり、太郎の母は二人の息子公資、公継を連れて有元氏に嫁ぐことになるが、そこで生まれたのが太郎丸、後の三穂太郎満佐である。

つまり、仲頼にとって初めての実息が満佐であり、三男満佐の幼名が長男をあらわす「太郎丸」であることは、そのあたりの事情によるのだろう。

有元家略系図の名が出てきたので系図中、「外祖」とされる人物についても少し触れておくと、満佐が藤原千方(ふじわらのちかた)から仙術を伝授され、自在に空を飛んだという記述がある。

藤原千方は『太平記』巻十六日本朝敵ノ事によれば、

天智天皇の御宇に、藤原千方と云ふ者ありて、金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼と云ふを使えり。伊賀、伊勢を押領し、為めに王化に従ふものなし。因りて紀朝雄・宣旨を奉じて下り討ち、千方遂に殺さる。

※注釈1-2f:天智天皇の御宇→金勝院本では、恒武天皇とされる。(注釈1-2fここまで)


また『准后伊賀記』に

藤原千方朝臣・村上天皇の御宇、正二位を望みしに、其の甲斐なくて、日吉の神輿を取り奉つて、伊賀国霧生郷へ籠居す。紀朝雄と云ふ人・副将軍となりて之を討つ。


とあり金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼の四鬼の力を操り朝廷に反逆し、伊賀伊勢両国を支配したといわれる伝説の人として、『太平記』では平将門、平清盛らに比肩される朝敵の一人として挙げられている。

※注釈1-2g:『尊卑文脈』によれば、藤原秀郷(ムカデ退治で有名な俵藤太である)の孫に千方という人物があり、村上天皇の治世とほぼ一致する。ただし、知られる限り正史にはこの千方が反乱を起こしたという記録はない。(注釈1-2gここまで)


千方は天智天皇(662~671)の御宇の人とも平安時代の人ともいわれ確かなことはわかっていない。どちらにしても太郎の生きた鎌倉時代とは隔たりがあるが、朝廷軍を退けるほどの方術の持ち主であるから、異常な長寿であったとされたのかもしれない。

ちなみに千方が使役した四鬼は、式神(しきがみ。陰陽道で術者に使役される精霊。識神とも)とも忍者ともいわれている。

話を戻そう。

満佐、改兼実号三穂太郎名木山城主妻者豊田右馬頭女有子七人菅家七流之祖也

満佐其性質太ダ魁偉而博学外祖藤原千方之飛化術常登干名木山修伝事妖怪飛行・・・


有元家略系図で千方は「外祖」と呼ばれている。はじめ母の前夫藤原氏と同姓であることから、その父親(満佐の祖父)とも考えたが、外祖は外祖父、つまり母方の祖父をあらわす言葉であり、つじつまがあわない。

母方の二階堂氏との関係も考えたが、先に述べたように系図上母方の祖父は二階堂維行である。

仮に千方が父方に連なる人物であるとすれば、兄にとって血のつながった祖父、母の義父であり、満佐にとっても血縁関係こそないもののつながりのある人物という程度の意味で「外祖」と表現されているのかも知れない。

あるいは二階堂氏は元をたどれば藤原姓であるから、同姓の千方に仮託して太郎の不思議な能力を権威づけしようとしたとも考えられる。

※注釈1-2h:『美作太平記』などによれば、宇合頼資の先祖は俵藤太とされており、そこに連なる千方(1-2gでいう朝敵でない方の)とも系図上つながることになる。同姓同名の千方どうしを二重三重にひっかけているのかも知れない。(注釈1-2hここまで)

(2-2節ここまで/第2章ここまで/閑話休題(1)につづく)