満佐が菅原道真の子孫であることは先に述べたが、伝承中、彼が菅原氏であることと無関係でないと思われる興味深い記述がみられるのであわせて紹介しておく。
伝説ではさんぶたろうが死んだとき、その亡骸のうち頭部は関本の里(=三穂大明神。こうべさま)、胴体は西原の里(=荒関大明神。あらせきさま)にとどまったが、かいな、つまり肩と腕の部分だけがどういうわけか、那岐山を飛び越えて遠く、現在の鳥取県八頭郡智頭町土師にたどりついたことになっている。さんぶたろうのかいなが祀られた場所は現在の河野神社といわれており、「にゃくいちさま」の名で親しまれている。
手足の病気に御利益のある神社といわれているのも伝承に関係あると思われる。
ところで、中国山地を挟んだ反対側にある河野神社とさんぶたろうの伝説がむすびつくのはなぜだろうか?
河野神社の祭神若一王子は、もと熊野から勧請された神格で、熊野権現の第一王子とされる。
仏・菩薩が人間世界に権能(ちから)を及ぼすために日本の神の形を借りて現れたものを「権現」といい、熊野権現の御子である若一王子自身、正体は天照大御神あるいは泥土煮尊(ウヒヂニノミコト)であり、十一面観音菩薩を本地とする。
神が化身した聖なる童(=王子神)に対する信仰を「王子信仰」という。
子供に聖なる力が宿るという信仰は古くからあり、『日本書紀』神代上第五段にはすでに、海神(わだつみ)をあらわす「少童」という表現が見えるし、八幡神などは化身である鍛冶の翁の童姿で現れたりしている。
鍛冶の翁は、自分のことを応神天皇であると託宣を下したといわれており、これは応神天皇が幼時から不思議な力を発揮したことに関係あると考えられる。
若宮信仰、御子神信仰などもこれらの延長線上にあるといえる。
※注釈k1-b:『扶桑略記』第三欽明天皇三十二(571)年辛卯正月一日条によれば、宇佐八幡縁起によるとして、
又同比(おなじころ)、八幡大明神筑紫に顕わる。豊前國宇佐郡厩峯(まきのみね)と菱瀉池(ひしがたいけ)の間に鍛冶翁あり。甚だ奇異なり。之に因りて大神の比義は穀を絶ちて三年籠居し、即ち御幣を捧げ祈りて云わく。若汝(もしなんじ)神ならば我が前に顕わるべしと。即ち三才の少児と現れ、竹の葉に立ちて託宣して云わく。我れは是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡麿なり。
とある。なお誉田天皇とは誉田別尊(ホンダワケノミコト)=応神天皇のこと。(注釈k1-bここまで)
また王子神は、しばしば巫女的な性質を持つ母親とセットで母子神として信仰される場合が多く、たろうを王子神、大蛇(=母)を巫女的母に当てはめると、両者がよく似た関係にあることに気づかれるだろう
※注釈k1-c:先に述べた応神天皇(誉田別尊)と、その母神功皇后(息長足媛〔オキナガタラシヒメ〕)の関係などはその一例である。(注釈k1-cここまで)
河野神社の若一王子権現がいつごろ勧請され、どのような経緯でさんぶたろうと結び付けられたか定かでないが、王子神の霊威を物語に導入するため、意識的に両者を結びつけたのかもしれない。
他にも理由は考えられる。
仮に伝説の記述が歴史的事実の投影だとすれば、たとえばにゃくいちさまの霊験(はっきりしたことはわからないが、手形足形など症状のある部位をかたどった形代を奉納する風習は四百年ほど前からのことらしい)だけでなく、もしかしたら「土師」の地名それ自体とも無関係でないかもしれない。
というのも、さんぶたろうの祖先菅原氏の系譜をさかのぼると、古代の土木・葬礼集団土師氏にたどりつくからである。
https://www.town.nagi.okayama.jp/library/sanbu_text.html
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