『日本書紀』垂仁天皇三十二年条には、天皇の陵墓を作るにあたり土師氏の始祖が出雲国の土部(はじべ)を集め、「埴(はにつち)を取りて、人馬及び種種(くさぐさ)の物の形を造作(つく)」って殉死にかえたとあり、この功績によりもとの姓をあらため「土師臣(はじのおみ)」を名乗っている。
この記述をみてもわかるとおり文字どおり土を司る集団であり、古代においては陵墓の造営、土器(土師器)製作などにたずさわった。その後、『続日本紀』天応元年六月壬子条によれば、土師宿禰古人・道長ら十五名が、葬儀や墓づくりなど凶事ばかりにかかわるのは自分たちの本意ではないとして、支配地の一つ、大和国添下郡菅原郷(現在の奈良市菅原町一帯)にちなみ、菅原氏に改姓することを誓願し許されている。
因幡国(鳥取県)には土師氏にかかわる地名が数多く残っており、たとえば鳥取市内では大野見宿禰神社、智頭町では埴師(はにし)、同じ八頭郡郡家町には土師川などの名が残っており、八頭郡一帯に土師氏の支配が及んでいたことがわかる。
以上のことから、さんぶたろうの腕が那岐山を飛び越えて因幡国にたどりつくエピソードは、にゃくいち様とさんぶたろうに共通する母子神としての性格に加え、土師郷周辺が菅原氏に関わり深い土地であることを暗示しているとも考えられはしないだろうか。
『東作誌』を見ると、現在の奈義町にあたる地域に限っても童子神を祭る神社が多数見られ、その霊威とさんぶたろうを結びつけるだけなら、河野神社の若一王子権現の名を持ち出さずとも、これら近在の社でよいはずだからである
※注釈k1-e:町内の王子社
馬桑村の御子神、今若宮、小坂村の若宮、王子権現、皆木村の若宮二社、近藤村の大領権現〔祭神熊野権現。母御の宮、十二社権現、新宮、本宮、那智、当御霊、稲荷社等あり〕、沢村の若宮八幡、中島村の若王寺権現、荒内村東分の王子権現〔中島村入会の地也中島西荒内東小氏神祭神八王寺〕、荒内村西分の王子社など。
なお若宮とは一般に主祭神〔親神、本宮〕の御子神〔新宮〕を祀ることで、民間信仰では非業の死を遂げて御霊〔祟り神〕となった人の魂をいい、祟りの激しい御霊を、より霊威の強い神霊の若宮〔御子神〕として祀ることにより、祟りを鎮める信仰のことをいう。(注釈k1-eここまで)
https://www.town.nagi.okayama.jp/library/sanbu_text.html
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