2014年11月28日金曜日
千曲塾
長沼への行きのバスの中
市川塾長:柳原辺は、裾花川などの扇状地の末端です。水の一番安く得られるところ。扇状地ですから地震には強い。しかも高速道路にも近い。そういうことで工業団地に選んでいるわけです。工業立地を考える場合、水を抜きには考えられません。
工業用水は、地下水です。しかし深井戸の場合、汲み上げ過剰で年々、水位が下がっています。水収支のバランスがとれていない。長年かかって貯えられた水資源を食っているわけで、そこに問題があります。
いま緩やかな扇状地を下っています。やがて氾濫原になりますが、氾濫原には、礫がありません。礫があるところはかつて千曲川の河床だったところです。そ こにガソリンスタンドがありますが、それは旧河床だったところを選んで造っています。地震を考えるとそれが一番無難です。見ていただくとお分かりですが、 千曲川に沿ったところは、川に沿って集落が延びています。ご存じだと思いますが自然堤防です。長野盆地を見ますと、更埴市から下流、千曲川は蛇行していま す。河川勾配が900分の1とか、これから行く長沼周辺は、千曲川河川事務所の地図で見ますと、1,100分の1以下です。緩やかな河川勾配ですから、自 然堤防が発達します。その自然堤防の上に、これから訪ねる長沼の集落があります。
長野盆地の自然堤防の中で、一番比高(河川敷からの高さ)が大きいのが、長沼の赤沼です。
いま、通過している集落は村山(長野市)です。対岸も村山(須坂市)があります。元、この両集落は一つでし た。千曲川が移動して、村山村は二つに分かれたのです。須坂市の福島新田と北屋島(長野市)も、かつては一つの集落だった。それが明治になって分かれた。 それから、右岸の綿内村と左岸の南屋島も本来は一村だったものが分かれている。牛島(長野市)は、長野市に合併する前は上高井郡だったが、その前は更級郡 だった。大室も高井郡だったのが明治になって埴科郡になった。千曲川の沿岸は、常に河床が移動している。それに伴って集落も移動してきた。いかに水害がひ どいか分かります。水害はひどいが、一面、肥えた土を運んできます。しかも礫が少ない。非常に土地が肥えているので、長芋、ごぼうなどの根菜類の最適地に なっています。
千曲川の沿岸は川風が強い。お蚕に着く「きょうそ」というウジが桑の葉から落ちてしまう。それで健全な種繭ができます。長野市・須坂市・更埴市・上田市・小諸市の大久保辺りまで、日本有数の蚕種の産地だった。
千曲川の堤防の上を行くので、地形がよく分かります。いま右手に茅葺きの大きな家が見えます。あれが小坂家です。屋根の上に煙出しがついています。櫓、 気抜け、高窓とかいろいろ言います。煙出しが付いていたらかつては養蚕農家でした。
この辺りから、千曲川の河川勾配が1,000分の1以下の緩勾配です。1,000m流れて1m下がります。村山橋は大正の終わりに開通しますが、かつて長野県で一番長い永久橋だった。
左の窓を御覧ください。長沼の集落が千曲川に沿って長く延びています。集落の後方、水田の広がるところが氾濫原です。後背湿地ともいいます。後背湿地より自然堤防の方が0.5m~6m高い。
長沼は水害の常襲地帯です。かつて養蚕が盛んな時、養蚕よりも水害の少ないのがリンゴ栽培で、いち早く明治時代から始められた。
河川敷と集落のある自然堤防をくらべると、集落のある自然堤防の方が高い。
浅川の流域の豊野の氾濫原は、水害が多いので、「杞柳」の栽培が多かった。
「杞柳」細工の盛んなのは兵庫県豊岡市。次いで多いのは中野市です。いまはあまり造っていませんが…。昔、私の学生のころは、「杞柳」の行李に衣類を詰めてチッキで送りました。「杞柳」の多いところは水害常襲地帯でした。
延徳田圃と、長沼・豊野の氾濫原が、信州における「杞柳」の特産地だった。いま走っているのが、大正時代から昭和の初めにかけてできた内務省堤防。これ ができるまでは、常に水害に悩まされてきた。これを造る時に、働きに来た越後の女性が多かった。その中できれいな方が、この辺にお嫁になっている。(笑 い)
いまリンゴにスプリンクラーで水をやっていますが、これは地下水です。地下水には、一番上層にある、圧力のない自由水(フリーウオーター)と、地下数十メートルにある被圧水を深井戸でくみあげている場合があります。
日本で一番深い深井戸は、東京の浅草辺りで、3,000mのものがあります。アメリカの西部でも3,000mの深井戸で、被圧水(プレッシャーウオーター)を汲み上げて、灌水している。
みょう笑寺境内の洪水水位標前で
笹井住職:みなさん、おはようございます。暑い中御苦労さまです。みょう笑寺住職の笹井でございます。
みょう笑寺は、千曲川の水害の水位標があるということで、今日みなさんにお出かけ頂いたわけですが、ここにあるのが、本堂にある水位標の写しであります。
本堂の中にあると、みなさん普段見ていただけないので、昭和54年本堂を新しくするのを機に、こちらへ同じ高さで写してあります。
一番上が、今日皆さん方が勉強される寛保二年の水害の水位です。
それを説明する前に、今みなさんが立っている土地がどんな土地か、説明いたします。すぐ堤防の向こうが千曲川です。千曲川が一番高いように思われます が、千曲川からだんだん高くなって、ここが一番高いのです。100mほど向こうに県道がありますが、そこはここからもう1mも下がります。みなさん御存じ のアップルライン(国道18号)は、ここから2mちょっと下がります。千曲川から離れるに従って、高くなるのではなくて、ここが一番高くて、西へ行くにつ れて下がるのです。
みょう笑寺は、いまから420年ほど前、天正8年(1580)織田信長のころに、三水から移ってきたのですが、当時はもちろん堤防はございませんでし た。ですからこの地域で一番高くて、水害の無い場所を選んで、寺を建てたわけです。東西に切った線では、一番高いところに立っている寺です。そんなことも 合わせて、水位を考えて頂きたいのです。
みなさん一番よく御存じなのは、水位標では、ちょっと低くなりますが頭の辺の高さにある弘化4年の善光寺地震の洪水があります。
これが、言い伝えでは、一般の民家の軒先の高さだったと言われています。弘化4年の時は、犀川にたまった水が一気に流れたから、みょう笑寺の檀家さんだ けでも五十名位、水死なさっています。そのほかの洪水はだんだん水位が増してきた。この辺の方々は水害に慣れていたので、水が増してくるとそれなりに準備 して逃げてしまったものですから、水位は高くても、そんなに死者は多かったわけではありませんでした。
一番上の寛保2年の時には、どのくらい死者が出たか、私は把握しきれていません。この時もみなさん、近くの山へ避難されたように聞いております。
私はここで生まれ五十年余になりますが、まだ被害に遭っておりません。昔の言い伝えでは水が増してくると、水害に遭わないように自分の家の家財道具を整 理して、畳を上げてからお寺の本堂に畳を上げに来ると、ちょうど水が増してくるというくらい、みなさんの立っているみょう笑寺は高い場所にあります。
水害の常襲地に住みながら、まだ水害に遭っていないので、もし水害になったら、どう自分たちの生活を守ったらよいのか、だんだん昔の言い伝えが薄れて行くのを心配しています。
水位標のもとになった、庫裏にあります墨で書かれた水位標を、見ていただきます。観音堂に弘化4年に亡くなった方の位牌があります。
本堂で
前は茅葺きの本堂でした。何度も水害に遭いまして、茅葺きの屋根を葺き替えてもどうにも持たない、というので昭和54年に本堂を改築しました。残したの は洪水の水位を記した柱と須弥壇という仏さんの前のケヤキの壇だけです。須弥壇は解体して組み立て直したのですが、その板と板との間に、細かい「花泥」が いっぱい詰まっていました。もちろん、本堂は一丈一尺(3.38m)の水に浸かったのですから…。こんなところまで、花泥が入って、被害を受けたのだなあ と思いました。
そんなわけで床下も、私が小さい時は立って歩けるところもありましたが、奥の方は這っても行けないほど、花泥が山のように詰まっていました。
観音堂には、弘化4年の水死者を供養した位牌と、古間の檀家が古間川の洪水で亡くなって供養した位牌があります。
寺の山号などについて質議
住職:長野市で一番低いところは現在、新幹線の車両基地になっているところです。あそこへ行って水がたまってしまう。長沼は長い集落なんですが、それは川の中洲の背中のところに家を建てたようなものです。
みょう笑寺~川中島古戦場
市川塾長:現在、長沼の集落の自然堤防の上を走っています。自然堤防は土地が肥えていますから、昭和 初期の経済恐慌期にはごぼうを作っていた。どこへ出荷したかというと、北陸三県。ここは浄土真宗が盛んで、法事をよく行う。その時のきんぴらごぼうに使わ れた。また野菜が不足していたシベリアにも輸出された。
松代の長芋はかつて日本一だったが、現在はそうでは無い。連作障害と新興産地が出てきたからです。いま日本一は、青森県三本木原の火山灰土地です。
長野県でも松本盆地の朝日村・山形村は火山灰地で、長芋を作っています。
川は蛇行すると摩擦が大きくなり、自然堤防はより大きく発達する。さっきみょう笑寺の住職が、花泥という言葉を使っていました。なぜ花というかと言う と、洪水が持ってくる細かい微粒子が、花粉のように見えます。花泥は花水の持って来た泥ということで、なかなかうまい言葉だと思います。
非常に細かい粒子が堆積したのが氾濫原です。この辺では氾濫原の深さが200mぐらいあります。これが沖積土です。この七割から八割が水ですから、地下 水を汲み上げると地盤沈下を起します。越後平野の沖積土の厚さは1,000mもあります。なお長野県で沖積土の深いのは、諏訪湖の三角州の300mです。
この辺の家は盛り土をしてあります。長野盆地で盛り土の高いのは、更埴市の土口で、高いところは5mもあります。盛り土は富の程度を表します。だから嫁をくれる時は、盛り土の高さを見てくれると言われてきました。
赤沼の「善光寺平洪水水位標」前で、新幹線の車両基地がすぐ近くに出来た。
洪水の発生頻度は18世紀に高い。寛保2年(1742)の「戌の満水」から、19世紀の終わりまでが多かった。どういうことかというと、天明・天保に始 まって、日本は小氷河期になります。それで気候が非常に不安定になり、それとともに洪水が頻発するようになった。
20世紀に入りますと、気候は安定してくる。20世紀は気候的には非常に恵まれた時です。今後はどうなるか。予測は難しいが雨が降る量は増えて来ると思 います。世界中に降る雨の量は同じですが、ぶれが大きくなる。いま地球上も暖かいところもありますが、寒い所もあります。そういうことで地球の気候が不安 定な時期に入ったといえるかと思います。温暖化を防ぐために、二酸化炭素の排出規制が大きな問題になっています。
前方に丘陵が見えます。豊野丘陵で豊野層とよばれる洪積層の丘陵です。この山麓に南は長野市の共和から北は飯山まで、断層線が何本も走っている。しかも逆断層で、弘化4年の善光寺地震ではこの山麓線に沿って死者が出ました。
越後へ行くと頸城丘陵を越えた高田でも死者が出ている。そういうことで上越と北信は災害まで一体である。(笑い)
赤沼から川中島古戦場へ向かうバスの中
市川塾長:善光寺平洪水水位標のある辺りは氾濫原で、洪水の常襲地帯になっており、土地が安いわけで す。そこでJRは新幹線の車両基地をつくった。現在バスは自然堤防のはずれを走る「アップルライン」を北から南へ向かっています。右手の氾濫原は水田地帯 で、左手の自然堤防上は集落とリンゴ畑です。
長沼の自然堤防上にはブドウは無い。なぜ無いかというと、春先に扇状地の末端から自然堤防上を冷たい気流が停滞します。ブドウは2月から芽が活動しだす。その時に冷たい気流が根を痛めて、眠り病になってしまうからです。
中野市でも標高にして370m以上にブドウ畑がある。冷たい気流は下へ降りてくるから、標高の高い扇状地中央の方が気温が高い。これを気温の逆転現象といいます。この辺りでも気温の逆転現象があると思います。だからブドウが無い。
この辺のブドウの高度限界は700m、東信へ行くと800m。これは緯度が違うからですが、御代田町では820mで作っています。
いま大町という集落名が見えました。農業集落で「町」の付いた集落があります。これは中世に起原を持つ集落です。
千曲川は長野盆地では緩やかに流れますから、かつて鉄道が発達する以前には水運が発達した。舟運の目安は河川勾配で300分の1です。上田辺りは190分の1ですから港をつくってもあまり利用されなかった。
農家が屋根に煙出しという通風を良くするための施設を付けたのは明治30年以降です。どうしてかというと、明治29年に輸入綿花の関税が撤廃される。こ の辺りは綿の産地だったのですが、綿作がやってゆけなくなったので桑園に転換するわけです。
千曲川の沿岸は夏は綿花を作って、秋に菜種を蒔く。春に菜種をしぼって菜種油を江戸へ送っていた。菜種の搾り粕を綿の肥料にした。綿花と菜種の栽培はこ の辺ではワンセットになっていました。須坂の日野村辺りは、明治の初期には畑の5割まで綿を作っていた。春、千曲川の沿岸の自然堤防は一面菜の花畑になる ので、黄金島(こがねじま)といわれていた。
右手に条里制の水田がみえます。条里制というのは律令国家が7世紀から9世紀にかけて、耕地を区画整理する。この条里制がこの盆地では長野市の平林、川 田、篠ノ井の石川、それから更埴市の屋代田圃。上田へ行きますと塩田平と染谷の段丘。松本盆地では島内、島立、新村といったところに残っています。条里制 の水田があったということは、すでに稲作は大規模に行われ、当時の政府が耕地整理するだけの価値のあったところです。歴史が早く開けたところと考えてよ い。
400年前松代藩家老の花井主水が、裾花川の瀬替え工事を行った。いま裾花川の水は南へまっすぐ流れて犀川に合流していますが、元は八幡川の用水路に 沿って東へ流れていた。七瀬という地名の辺りは、裾花川が乱流していたことを示しています。
高田には裾花川がつくった段丘があります。そこを通って柳原で千曲川へ合流していた。注意して見ると分かりますが、犀川の流路は裾花川の瀬替え工事のた めに、南へ押されています。犀川の左岸に旧更級郡の地籍があります。これは現在の長野工業高校のある辺りです。長野県下の都市で、瀬替え工事をした例は、 松本市の女鳥羽川があります。
谷川が平地へ出るところに扇状地ができます。その扇状地が隆起して段丘を造っていますが、その一番良い例が県庁です。県庁は本館と議員公舎との間に6m ほどの段丘崖があります。信州では段丘崖のことを幅といいます。県庁所在地が「大字南長野字幅下」ということは、裾花川の段丘崖の下にあるということで す。松本のJR駅は女鳥羽川の作った段丘の上にあるので「巾上」。飯田へ行くと、松川の造った「羽場」字は違いますが、信州には至る所に「はば」地名があ ります。全国的に見ますと、富山県で「幅」を使っています。関東へ行くと「垰」(はけ)といいます。
南佐久郡川上村へ行くと、川端下(かわはけ)があります。字は違いますが、金峰山川が造った段丘の上に川端下の集落があるということです。千曲川にまつわる地名を探ると、川に愛着が増すと思います。
「平と盆地」について。また「地名の表記の変遷」について
長野大橋をわたって、犀川の扇状地上を走っています。非常に緩やかな扇状地です。戦後までこの地域の水田は、米麦二毛作田でした。日本で一番うまいうど ん粉がとれたのはここです。伊賀筑後オレゴンという小麦を作っていたからです。伊賀というのは三重県の伊賀上野市に農林省関西試験場があった。関西試験場 が九州の筑後平野の小麦とアメリカのオレゴン州の小麦とを交配して造った新品種が伊賀筑後オレゴン種。これはグルテンが多くてうまい。東京の一流のうどん 屋さんで使っていた。
なぜ信州で作れたかというと、関西で作っても梅雨が長いので芽が出てしまう。川中島平から更埴市、上田にかけては全国でも有数の雨量の少ない地帯で、約 9000町歩ほど伊賀筑後オレゴンが作られていた。これが大正時代から戦後まで、日本のうどん業界を担ってきた。収量が少ないのと輸入小麦に押されて、 すっかり衰退している。最近「伊賀筑後オレゴン」を作る会ができ、自家用に楽しんでいる。
日本で一番雨量の少ないのが、オホーツク海沿岸の網走で、年間850mm。次いで川中島平から上田にかけてで約900mm。網走は気温が低いから湿度が 高くなり、日本で一番乾燥しているのはこの辺りということで、伊賀筑後オレゴン種などがよくできたのです。
巨峰ブドウの話
巨峰ブドウはフランス産のセンチニアル種とアメリカ産のキャンベル・アーリー種を交配して、昭和12年に富士山麓見える伊豆半島で育種された。長野・上田両盆地の雨が少ないところでないと、花振いして露地栽培ができません。
川中島古戦場付近で
なぜ戦国時代の武将が川中島平を巡って争ったかというと、この平では鎌倉時代から米麦二毛作が行われていた。上杉謙信はうどんなど食べたことが無かっ た。雪が多いから小麦ができない。また武田信玄にとっては、甲州というところは米の少ないところでかつ鮭が獲れなかった。富士川にはサクラマスは登っても シロザケは登って来ない。
だから、上杉にとってはうどん粉が得られる、武田にとっては鮭と米が手に入るという魅力のあるところが、この川中島平だった。そこで5回にわたって戦われたわけです。
川中島古戦場の千曲川左岸の堤防上で
岡澤氏:人間のお尻のような山が皆神山、一段と高い山が尼飾山。川中島の戦いのころは、真ん前に見え る金井山の頂上に城がありました。金井氏の城です。寺尾氏の支族であります。低い方の山には寺尾氏の寺尾城がありました。高いところの尼飾山には尼飾城が ありまして、これから行く海津城が築城される前は、東条氏の居城でありました尼飾城が、この川中島地方を押さえる要として使われていた。
千曲川は寛保2(1742)年の大洪水のころは、山裾に沿って流れていたと考えてよろしいのではないか。金井山の出っ張りを廻って、大室、関崎と巡り 巡っていました。若穂町の牛島は明治22年まで更級郡でした。そういうことで、牛島の東側を千曲川は巡って流れていた。大体いまの長野電鉄・河東線に沿っ て千曲川は流れていたと考えてよい。
まっすぐ前の金井山の麓で石材を切り出して、切り立ったところがありますが、柴石と呼ばれる間知石。家の土台石などに使われました。江戸時代の末期にな りますと、川舟を使って村山とか、犀川を使って笹平の方へも運ばれて行ったようです。
柴石を切り出した東北の方にかけて金井池があります。これはかつて千曲川が流れていた跡にできた池で、河跡湖とされています。大室にも牛池という河跡湖 がありましたが、埋め立てられて残っていない。このように山裾には、千曲川が流れた跡がいくつかありました。
川の向こうに家があります。その中に杉の木が一本見えます。そこが山本勘助のお墓のあるところです。松代藩では海津城を造る時、千曲川を一つの防御の手段として使いました。石垣を洗うように、千曲川が流れています。
そういうことで寛保の大洪水の時はお城は大きな水害を受ける。城下町も水浸しになった。そこで藩では、平和の時代になって防御の必要も薄れ、海津城を水 害から守るため千曲川の瀬直しをするわけです。大体、延享のころから始められたというから、寛保2年の次の年が改元されて延享になるから、寛保2年の満水 からどの位も経たないうちに、千曲川の瀬直し工事が始まる。
買い上げた土地が川幅11間だった。ところが、十年後には川幅は44間になりました。33間分は、越後の海へ持って行かれてしまった。そういうことで、十年たらずの間に川は広くなるわけです。
東福寺(長野市篠ノ井)の赤坂橋辺から、東の方へ千曲川を付け替える。海津城を避けて。途中まで掘って来まして、後はお好きなように流れて下さい、と。 こういうことで、古川を止められましたから、新川の方へ水が流れて行くわけです。そのために下流の村々が分断されて行くわけです。千曲川の右岸に松代町に 西寺尾、左岸に篠ノ井西寺尾と、西寺尾村が二つに分かれました。それから下流にゆきますと小島田になります。小島田も二つに分けられます。右岸の松代町小 島田と左岸の長野市小島田町。
眼下の堤防の中は、千曲川の沖積地で沖積土が堆積していると思われるが、1mも掘ると、犀川の河原の石が出てくる。千曲川が造った沖積地では無くて、犀 川が運んできて造った扇状地なのですということで、扇状地の末端にあたり、水には恵まれていました。掘りますと、千曲川の水が出てくるのでは無くて、犀川 の伏流水が出て来て、井戸水として使っていたのです。千曲川はすぐ横を流れているが、ここの田んぼにかける水は、約8km上流の犀川の犀口から運んでく る。千曲川の水がすぐ横にありながら使えない。川中島地方は、千曲川の恩恵で繁栄してきたのでは無くて、犀川の運んできた水によって育まれてきた。
そういうことで、寛保2年の満水で千曲川の瀬直しされたために、末流の方は非常に大きな影響を受けた。ここから少し下流の小島田地籍には、堤防の中に水 田がある。この内務省堤防が完成するのが昭和2年。昭和5年の参謀本部の地図には堤防が載っていません。9年ごろの地図から載ってくる。この堤防を造って もらったためにどうなったかというと、良い面もありますし、悪くなった面もある。
良かった面は水害が無くなってきたこと。それから昔は連続堤防ではありませんので、ところどころ切れていた。霞堤だった。だから増水しますと、水が漏れ てきた。冠水被害をうけた。みんなで薄く広く被害を受けましょうと言うことだった。
特に瀬直ししたために、どうなったかといいますと、明治の初めのころの町村誌を見ますと、小島田に三願寺という地籍があります。ところがこれは三貫の土 地、三貫地と言うことだろう。ここにかっこして、係争地と書いてある。裁判中と書いてある。対岸の柴村と境界争いをする。従って江戸時代の絵図面や検地帳 は、小島田村関係のものはすべて、大阪大審院の付箋が付いています。証拠品として持って行ったのです。
それから松代の寺尾には、「本村東沖」という法務局に登録してある地籍がある。ところが、「本村東沖」という地籍を寺尾村から見ますと西なんです。「本 村西沖」なら話が分かる。「本村東沖」というのは、小島田村の東沖と言うことなのです。
そういうことで、瀬直しされたために末流の村々はいろんな影響を受けた。その影響が今日まで続いた。
ついこの間、護岸工事をして頂きまして、小島田地区はようやく長年の圧政から開放された。というのは千曲川の右岸から、蛭川(藤沢川)が流れ込んできま して、瀬直しされた千曲川の流れは蛭川の流れによって、小島田側がどんどんどんどん削り取られて、川縁は崖になっていました。そして平成10年の千曲川の 大氾濫で大崩落した。平成10年の大氾濫が無ければ、千曲川河川事務所によって護岸工事をやってもらえることにはならなかった。「災いをもって福となす」 というのが、平成10年のあの水害だった。(笑い)
八幡原~松代城へ。「ねぎの話」「ヒノキの話」「県木はカツラが妥当」「松代は初期、松城」
市川塾長:松代は十万石の城下町です。十万石以上の城下町は全国に53あります。長野県にはひとつしか無い。53のうち市に成れなかった城下町が二つあります。松代と淀(京都府長岡京市)です。淀は淀君の居城のあったことと淀の競馬場で知られています。
どうして松代が市に成れなかったかというと、明治になって埴科郡の中心地は屋代へ行ってしまう。しかも、見てもらえば分かるが、三方が山で、ヒンターラ ンド(後背地)が小さい。北西に開ける平地は沖積地で水害の常襲地帯ですから、近代に大きく成長できなかった。
江戸時代の人口を見ますと、信州で人口が一番多いのは、六万五千石の城下町の松本です。これが12,000人。城下町であるだけではなくて、中馬交通など流通の中心でした。
次の松代町と善光寺町はともに10,000人。そういうことで江戸時代松代は信濃国で第二番目の町だった。それが現在市街地人口は7,000人。江戸時代より減っています。それだけに、古いものはよく残っています。
いま走っているところが北国街道松代道です。北国街道は屋代で善光寺道と松代道と二つに分かれます。松代道は須坂の福島宿を通って、布野の渡し(長野市)で、午前中訪ねた長沼へ渡ります。そこで善光寺道とまた一緒になります。
海津城にて
宿野氏:今、長野市で松代城の復元工事に取り組み、史実に基づいた整備を進めています。その中で、寛保2年の大洪水について分かったことについてお話します。
いま立っているところから、正面に見えている門が太鼓門といわれ、南側の出入り口になります。松代城の平面図の資料を見て下さい。これが寛保2年 (1742)、「戌の満水」の折に、松代藩が幕府へ提出した「信濃国川中島松代城石垣築直堀浚窺絵図」です。城の石垣の修理や堀の泥浚いなどは幕府へ予め 届け出ることが決められており、それを願い出た時に付けて出した絵図です。その(2)が太鼓門の位置です。発掘調査の結果、建物の礎石が出て来て、それに 基づいて整備しています。
寛保2年にはどのような被害状況だったか、この絵図に載っています。「信濃国川中島松代城修復堀浚之覚」によると、一、本丸南之方石垣折廻一ケ所、いま 青いシートの掛かっている辺りとか、一、本丸東之方石垣折廻一ケ所が崩れたこと、それから塀が十二ケ所壊れたこと、それから堀は悉く、埋ってしまったこと が記載されています。
それでは中に入って見ます。橋の橋脚が発掘されています。寛保2年の洪水の時、本丸の南と東の橋が落ちたことが記載されています。しかし発掘された橋脚 は、その時の橋ではなくて、その後江戸時代末期に架けられたものと考えられています。
この石垣で囲まれた空間、ここが本丸になります。満水時の経緯については『監察日記書抜」などよると、寛保2年7月28日、雨が降り始め8月1日に土塁 が欠壊して浸水した。城の中では住めなくなり避難。殿様やお子さまなどは舟で開善寺へ、二ノ丸の豊三郎さま、久米之助さまは大林寺へ避難された。
資料のカラーの絵図を御覧ください。松代町を北から見た絵図です。一番奥の方に開善寺が描かれています。この辺りまで舟で逃げたと言われています。二ノ 丸さまの逃げた大林寺はその下左の方に見えます。この絵図は寛政年間に描かれたもので、本丸ではなくて花之丸の方に移られたときのものです。
寛保2年の洪水とか明和の洪水とかがありまして、本丸を流れていた千曲川を時の藩主が移しました。それに伴って花の丸という御殿も本丸から移して、ここより水が来ないようにしました。
花の丸というのは、松代城修理の絵図面を見てください。本丸があって土塁が埋っていて、その周りを外堀が囲んでいる南側に三之丸があります。その西側、 居宅と書いてあるところです。現在ここから見ますと住宅地になっているところ。藩主はそちらの方にいました。
この絵図でも分かりますように、城の西側から北側へ千曲川が流れていました。今見ても、当時の千曲川の流れに沿うように、新しい住宅が並んでいます。地割的には、川跡は残っているのではないかと考えています。
この城の本当にすぐそばを千曲川が流れているという状態でした。ですので大雨が降ると、すぐ水浸しになってしまうということが分かっています。寛保2年 の満水についての記録は松代町史などに載っていますが、出典がはっきりしないものがあり苦心しています。
そのほか、明和2年の洪水の際の、幕府からの被害見分に備えた問答集の中に、「戌の満水」がでてきます。また安政6年の洪水の際にも、「寛保之度水災以 来之洪水」という記載が見られます。江戸時代は水害が頻発しますが、寛保2年の洪水はその中でも特に大きな洪水だったことが記録から分かっています。
発掘調査しまして、「戌の満水」だ、と明確に分かるところは、実際は難しいが城の西側、千曲川に一番近い内堀を発掘した時、「戌の満水」の底浚えと推定できる痕跡が確認されています。
資料の(3)の写真は、その時の内堀の断面です。洪水による土砂の流入や堀に落ちた草木などが徐々に埋ってきたことが層状に堆積する土の様子から分かり ます。また堀底付近には、城内すべての堀が埋まった寛保2年の大洪水の底浚えと推定できる痕跡が確認できています。
一番下の層の部分は堆積したのでは無くて、踏まれてぐちゃぐちゃになっている層が一層ありまして、この層は「戌の満水」の時に、浚渫(底浚え)した痕跡 ではないか、と考えております。この層にはそのほかにも、弘化4年の洪水とか、さまざまな土砂の流入が見てとれまして、それから考えましても「戌の満水」 以来浚渫していないというから、堀がすべて埋まったのを3~4mまで掘り起こした、ということが分かっております。
何か質問は。
質問者:本丸では、床上五尺(1.5m)の浸水だったといいますが、どこまで…。
宿野氏:本丸の礎石が現在の地表面から20~30cm下にありますから、そこから床の高さ50cm、さらに1.5mの高さまで、水が漬いたと言うことになります。
市川塾長:松代城を見学させていただきましたが、注意したいことは石垣です。築石だけ見ると、江戸城と大坂城と比べてみると段違いです。
海津城の築石を見ますと江戸城型ですね。規模が非常に小さい。なぜ同じ日本で、東日本と西日本とで、こんなに築石の技術が違うかというと、西日本は築石 をしなければやって行けないような経済基盤にあった。その一つが干拓です。越後平野の干拓は湖の干拓ですが、西日本は有明海とか児島湾のように、海の干拓 です。海の干拓の場合は石を築いて堤防を造ることが大変重要な仕事になる。
オランダなどもそうですが、オランダには石が一つもないのだけれど、ベルギーから石を輸入して築石してポルダー(干拓地)を造っている。
また塩田をみると、東日本の塩田では揚げ浜式塩田が多い。西日本は入浜式塩田です。築石がしっかりしていないと崩れてしまう。
それから耕作の仕方が、東北では縦畝また信州や関東では横畝になっている。ところが西日本では階段耕作になる。従って西日本では農民が築石技術を持って いる。西日本と東日本の築石技術の差が、こういうお城の築石にも出ている。石のサイズや築き方を見て、やっぱり東日本の文化圏にある、と知ってもらえれば 良い。
長野インター~坂城インター
市川塾長:右車窓に広がるのは千曲川の自然堤防です。ここで目立つのは長芋です。農林省では“やまのいも”と言ってます。また、さつまいもの奨励は青木昆陽が有名ですが、松代藩で奨めたのは恩田木工です。
左の山麓を見てください。土口(更埴市)の集落です。長野県で一番盛り土の大きいところです。なかには4mもあります。特に土蔵や物置は一番高くして浸 水から守った。俗に水屋ともいいます。それでも水が漬いた時は、味噌桶を滑車でつるします。そこで古いお宅に行くと天井の梁に滑車が付いています。
左手に見えている集落は自然堤防にのっています。その向こうに屋代田圃があります。条里制の水田跡です。山麓の扇状地に載っているのが森や倉科の集落で す。自然堤防の屋代遺跡からは木簡がたくさん出て来ている。信州でも最も早くから開けたところではないかと見られている。
このあたりは少なくとも3世紀ごろすでに水田化されています。信州で最も早く稲作が普及した地域です。その豊かな稲作の生産力を利用した信濃の大王(お おきみ・仮称)という豪族がいて、彼が造ったお墓が森将軍塚ということになっています。森将軍塚という名前は、江戸時代に付けた名前です。
屋代田圃の沖積地の厚さは、県立歴史館のところで94m、深いところで200mほどあります。
森、倉科のあんずは、一目十万本と言ってますが現実には三万本程だと思います(笑い)。江戸時代、あんずは薬用に作られました。あんずの種を杏仁(きょ うにん)といって、咳の薬として使われた。芭蕉が「更科紀行」で来て、「善光寺鐘のうなりや花一里」と詠んでいます。これは安茂里のあんずを意識してう たっています。
森、倉科のあんずが有名ですが、信州には至るところにあります。しかし関東地方へ行くと、栃木県以外にはほとんど無い。東北では岩手・青森両県に多い。西日本では岡山県にみられます。
梅のできないところは、あんずと梅をかけ合わせた「あんずうめ」を作って千曲川最上流の川上村の梓山・秋山・川端下では栽培している。梅は日本人に欠かせないものです。そこで梅のできない青森県ではあんずを梅と称して食べています。
いよいよ北信から東信へ入ります。今日の見学会には北信からお集りの方が多いと思います。北信には宴たけなわになると、北信流といって盃の儀を交わしま すが、厳密に言うと、北信流ではありません。飯山地方ではやりませんから。松代流というべきです。松代藩とその間にある須坂藩、天領で行われているからで す。今、通過している坂城では行いますが、上田藩ではやりません。
今通過している国道18号の鼠宿の入口で、道がカギ形に屈曲しています。桝形といいます。まっすぐ道を作ると防御上危険だから、見通しが悪いように曲げ られています。街道の宿場にはよく作られていますが、追分(軽井沢町)には桝方の茶屋があります。
上田に入ると、案内役が長岡克衛さんに交代。「塩尻、岩鼻、浅間サンライン」の紹介。
長岡氏:この段丘を登り詰めたところが秋和の家並です。その東の端に正福寺があります。その境内に千 人塚があります。家並の間から右下に見えるのが千曲川の氾濫原です。大洪水の時はここまでいっぱいに水が来たのだろうと思います。そこへ打ち上げられた数 多くの遺体を集めまして、正福寺に葬った。それが千人塚です。
今、走っている国道18号は旧北国街道です。上田の町を通り抜け大屋、海野宿、田中宿と通り抜け、小諸、やがて御代田を通って、追分で中山道と合流します。
正福寺で
綿貫住職:寛保2年の7月の終り頃からこの辺一帯で大雨が降り続きまして、8月1日ごろに千曲川が大 洪水になった。この通りの東の方に諏訪部と言うところがありますが、ちょうどその辺に、小諸や東部町の方から洪水で流された人が流れ着いた。そこで、上田 の殿様からも話があって、その遺体をここに埋葬したわけです。
どうしてここに埋葬したかというと、地形的に諏訪部は坂だが、正福寺のある秋和は段丘上にあって、川に近くてしかも安全な場所だったからだと思います。
埋葬した後、土饅頭にして、上に「流死含霊識」と刻んで塔を建てた。千人塚というのは、大勢の人という意味ですが、一緒に犠牲になった家畜なども一緒に葬った、という伝えも残っています。
この塚の真向かいに、上田の海野町の人たちが寛保2年の洪水の数年後に、大きなお地蔵さんを建てた。犠牲者のなかには小諸とか、海野宿とか関係者も多く供養のために建てたそうです。
現在は山門から入ったすぐ右にありますが。それは子どもたちが、お地蔵さんに乗って遊んだり危険なため、明治8年に移したそうです。また千人塚の土まん じゅうも長い間には、子どもの遊び場になって、碑が倒れ懸かったりしたため大正4年に、今のように周りを石垣で築いたり整備したそうです。
いま、供養は
昔はお地蔵さんを作った講中の人たちが8月24日にお参りにきました。また寺では8月1日に供養しています。海野町からも何年か前までは供養に来ていま した。しかし、ここまで来るのは大変だというので、5~6年前に海野町に碑を作って、その地区で供養をやっているようです。それでも時々代表の方が見えて います。
長岡氏:後ろをちょっと見て頂きたい。山のとんがった峰が烏帽子岳の頂上です。この頂上から南東に かけての峰々から流れ出して、千曲川へ流れ込んでいる所沢川が氾濫したわけです。雨が降った量はこの辺一帯同じだったと思います。山崩れが起きて谷間を埋 めて、にわかに湖のようなものが出来て、それが一気に崩れた。そのためその川筋の集落が直撃を受けて潰滅した。これが上田・小県地方で一番の被害となった 金井村(東部町)の被害です。これから行くのは、その金井地区です。そこの犠牲者は、130人と言われています。
この千人塚に埋葬されているのはどこのどなたか分かりませんが、この金井地区の人もたくさんおられるだろうと思います。それから田中宿や海野宿の方もた くさん亡くなった。遠い祖先ではあるが、その縁故の人たちが、上田市の海野町へ出て町を形成していますから、そこで、石の地蔵さんを作って供養したものと 思います。
浅間サンライン(浅間山麓広域農道)を行く
右に見えるのが海善寺の集落です。もと海善寺と言う寺があった。真田氏が上田築城の折にこの寺を上田へ移して海善寺としたが、さらに真田氏が松代に移っ た際、寺も移して開善寺となり、寛保2年の大洪水の時真田の殿様が避難したのが開善寺だった。
この交差点を登ったところに弁天清水があります。標高1,000m前後のサンラインをたどって行きますと、小諸の方まで名水がいくつかあります。小学校 には一番の名水があり、明治11年に明治天皇がご巡幸なさった時に、名水でお茶をたてて差し上げようということで、この辺ではこの水を使った。御膳水と呼 ばれている。このほか、「田中の御膳水」「滋野の御膳水」がある。
そうこうしているうちに、金井へ参りました。前方の林、これが未だに林であるということは、寛保の出水の時に流れて後、田畑にしようも無いので林のまま捨て置かれたのが、今日幸いして、このように緑を残しているわけです。そこには今は中学があります。
以前ある人が「新制中学は河原中学だ」と言ったことがあります。昭和20年代後半に、新制中学を建設することになったが、6,000坪からの学校の敷地 を得るのは耕地では難しい。そこで河原のようなところに用地を求めた。上小だけを見ましても、依田窪南部中学にしても丸子中学にしても真田中学にしても、 みんな河原のようなところを買って確保している。ここの東部中学も寛保2年の大洪水で河原になったところが、まとまって安く手に入ったので中学ができた。
いまバスが渡る、この、水があるとも無いとも分からないような小さな川が荒れたのです。
さきほど申し上げた烏帽子岳の右側に三方峰があります。その一番低いところが湯の丸の峠です。あの沢あたりから流れ出している水が途中で山崩れがあっ て、それが土堤のような役目をして水がたたえられた。その水が一気に崩れたので、所沢川に沿って土砂が山津波のようになって流れたわけです。最初に墓地の 一部を見ます。
草やぶの中に埋もれている墓
間もなく7月27日がまいります。寛保2年に犠牲になった人々の墓の一部です。墓石は、50基くらい残っています。金井より鞍掛という包括した名前の方が残っています。
「火祭り」の話――八間石の前で
次は川の向こうにある大石を見ます。こんな大きな石を押し流した土石流だったのです。途中山が崩れて、にわかに土堤ができて湖ができた。それが切れて一 気にここへ押し出し、この下流にあった金井という集落、上下合わせて約百五十戸、人口にして300人位あったと思いますが、その集落が一気に流れてしまっ た。それが寛保2年の大洪水です。さらに田中宿、常田村を押し流して千曲川に流れ込んだ。
対岸の八重原(北御牧村)に登ってみますと、千曲川に押し出している様子が良く分かる。死者の数は150人という大災害になった。
この石はここより800m上流にあった。この大石がごろんごろんとここまで押し出してきたわけです。八間石といいますが、長さ八間どころでは無い。横に は二十数メートルあります。深さも水田の下まで相当あります。町では寛保2年の大洪水を物語る資料として町の史跡に指定し、防災意識の高揚に役立てること にした。
太平洋戦争の最中、どこでも良いから開墾して食糧増産するようにと号令がかかったが、ここだけは手が付けられなかった。なぜならば石ころばかりで耕地に ならなかった。それが幸いして雑木林のまま残った。もう一つは、昭和30年ころまでは朝晩の煮炊きに薪を使いましたから、里山がどうしても必要だった。
ところが電気釜、プロパンガスの普及で、薪は不用になり雑木林の中に、中学校のほか、福祉センターや、グランドが作られてきている。
八間石の下に住宅団地が造成されている。ここの住人は寛保2年の大洪水は知っているのでしょうか。
かつて金井村があった場所に残る「古明神」
ここが金井村のうちの上金井のお宮の跡です。土地の人は古明神と呼んでいます。
このごろんごろんとした石を見ていただければ分かりますが、このように開拓したくても出来かねるような土石流の跡が田中宿の下まで続いています。
ここにあった金井村が、もう川のそばはこりごりだ、ということで、500m東のところに新しく村作りをしたわけです。しかし村づくりには水が必要です。 ここから水路で水を引いていった。ちょうど宿場を作る時のように道の真ん中に水路を通して、その両側に町割をしたと同じように民家を配置した。
昭和20年代までは、寛保2年の洪水の土石流が作った林の中には、人が嫌がる火葬場や、伝染病が流行った時に患者を収容する避病院などがあった。あとはマムシの巣で、人は寄り付かなかった。
「金井石の話」について―現在の金井地区で
さきほど見ました旧金井村のところから、ここまでは約500m東よりです。もう川のあるところはこり ごりだ、と、ここに新たに集落をつくることにしたわけです。この道の真ん中に水路を通して、その両側に小道を置き、さらにその両側に屋敷割りをして新しい 集落を作って、こちらに移ったわけです。
ところが車社会になって、水路が邪魔になったので、水路を道の片側に移してしまった。金井では、水を水路で引いてきて使っているので、よそ一倍大切にし ている。かつて水路に沿って各々の家に洗い場があって、水をためておいて使った。夏の水不足の時には、そこにボウフラが浮くような水でもすくって行って、 砂で漉して飲んだ。お年寄りに聞くと「ボウフラぐらいでは、病気にならねえ。おれを見ろ」と笑い話をしてくれました(笑い)。
「石尊の辻」の話―金井地区の水害供養等の前で
こんなふうに書いてあります。「戌の満水。寛保2年(1742)の7月25日に降り出した強い雨は29日にいたりさらに激しく降った。8月1日烏帽子 岳、三方ヶ峰の谷間より山崩れによる大土石流が発生し、所沢川に押し出し、人家、馬、田畑を濁流に飲み金井村は一瞬にして、ただ巨石累々とした河原と化し た。世に『戌の満水』という史話によれば、金井村の被害は近村の中でも最も甚大で、流死者130人、家屋65軒のうち62軒、馬19頭のうち14頭を失 い、田畑も大部分を流失するという破壊的被害を受けたと言われている。流末はさらに南下して常田村、田中宿を襲い、千曲川にあふれる史上空前の大惨事と なった。金井村は同3年、居を現在の位置に移し数年を経て、ようやく一村の形状を成したという。本年250年忌にあたり、供養塔を建立し、流死万霊の供養 をするものである」と。いろいろ供養塔が立っていますが、特に50年。50年にはねんごろに供養しています。
ここの標高は620mくらいかと思います。
帰りのバスの中で
それでは、現地研修会の現地見学は、これで終了します。
杉元調査課長:資料の中に、寛保2年の「戌の満水」の前と後の絵地図を載せて置きました。長野市立博 物館にあるもので、この実物も見る予定でしたが、月曜休館でできませんでした。この絵地図は四分割されておりまして、一枚が畳二枚の大きさで、合せますと 畳八枚の大きさになります。あと時間の関係で小諸に行けませんでしたが、小諸の城下も非常な被害を受け、小山家の方にその絵図が残っています。そこら辺を 9月10日に、長野放送で夜7時から「月曜スペシャル」で、大水害に学ぶ―ということで、寛保の洪水の特集を放映されるので、ぜひ見ていただきたい、と思 います。
それから、8月28日(火)に、「河川文化ディスカバーフォーラム千曲川」が長野駅前のホテルメトロポリタン長野であります。第3回世界水フォーラムが 再来年、京都で開かれる予定で、それに向けて全国地方紙連合とタイアップして進めているものです。その中で井出孫六先生が「千曲川と生きる―戌の満水・寛 保二年の大洪水」と題して基調講演を行い、千曲塾の市川塾長をコーディネーターに、作家の小宮山量平先生、信州大学名誉教授の桜井善雄先生、飯山市の小山 邦武市長、第3回水フォーラム事務局長の尾田栄章・全河川局長の5人で「川への思い、川への誘い」をテーマにリレートークをします。こちらへもぜひ、御参 加下さい。
市川塾長:来る時上田の塩尻を通過しました。塩尻について話します。塩尻とはどういう意味かというと、塩のターミナル。信州へ日本海から入ってくる塩が北塩、もしくは裏塩。東海や関東から入ってくる塩を表塩、あるいは南塩といいます。
上田地域に入ってくる塩のルートをみると、北からは直江津から入ってきています。南から入ってくる塩は東京湾の塩です。船に乗せて利根川を倉賀野まで運 びます。そこから馬に積んで碓氷峠を越えて入ってくる。北から入ってくる直江津の塩と、東京湾から入ってくる塩の接点が塩尻です。いま塩尻という名前を変 えてしまいましたが、塩尻という地名は残すべきですね。
北から入ってくる塩と南から入ってくる塩とでは製法が違う。北陸地方の塩田は揚げ浜式で、太平洋側の塩田は入り浜式で、塩が造られています。それから送 るときに北塩はかますへ入れて送る。南塩は俵に入れて送る。どういうことか、というと、塩の需要の一番高いのは秋です。漬物を漬けるので。北塩はその時期 が時雨で、雨が多いので塩が溶けないように、分厚いかますを使っていました。
糸魚川から入って来る塩と、岡崎や名古屋から入って来る塩の終点が塩尻市の塩尻です。それから、下水内郡栄村に塩尻という集落がありますが、新潟から 入ってくる塩と直江津から入ってくる塩の接点です。いまは二軒ほどですが、昔は十戸以上あった。
なお富山から入ってくる塩と尾張の方から入ってくる塩の接点は、塩尻とは言わないで、海上(かいじょう)といいます。上(じょう)というのは塩という意 味ですね。海上(かいじょう)、海の塩という意味です。このように日本列島の真ん中に、各地に塩尻があるわけですが、一番有名な塩尻は松本の南の塩尻と上 田の塩尻です。
千曲川の流れは日本海に注ぎますが、東北信への流通のルートは、北からと南からとあります。ということで東信のみなさんと北信のみなさんでは、食べる塩がかつては違っていた。
昔の揚げ浜式塩田や入浜式塩田の塩がうまいのは、どういうことかというと、いまみなさんが食べている塩はイオン交換樹脂膜で、海水の中から塩化ナトリウ ムだけを取り出す。塩化ナトリウムが100%なのです。ところが昔の製法では、自然のままに天火乾燥しますから、塩化ナトリウムのほかに、鉄やマンガンな どミネラルが14~16%入っている。だからおいしいのです。値段は高いが天然の塩を食べて、人生を豊に暮らしたいものです。
長野県下にはどの町に行っても、塩屋という屋号の家がある。須坂へ行っても中野、飯山、に行っても。松本の本町には六軒もある。塩は移入する物資の中で 一番、大事なものだった。家に帰ったら、自分の町や近くの町に塩屋がないか調べてみると面白いかなと思います。
左手に千曲川が見えてきました。戸のあたりから河川勾配が急に緩やかになって、中州とか、自然堤防が発達してくる。長野盆地では西の方は断層線がハッキ リしている。東の方は断層はあるがハッキリしていない。だから断層盆地ではなくて、断層角盆地と言っています。それに対して、松本盆地は断層盆地。両側に 断層があるから…。
妻女山の近くで
ここに上杉謙信がいたわけです。そして海津城に武田信玄がいて、ふだんの三倍も炊煙、飯を炊く煙が上がった。そこで行動するに違いないと、妻女山を下っ て、「鞭声粛々夜河を渡る」となったわけです。いまでも、防衛大学校ではこの妻女山で図上作戦をやります。昔は陸軍大学の学生が来て、勉強していた。
右手に皆神山が見えてきました。皆神山を中心に松代群発地震が起きた。二万回も揺れたが、新潟地震の一発よりもエネルギーは少なかった。だから群発地震は恐れることは無い。
千曲大橋上で
この千曲川も、川上村までいくとちいさなせせらぎです。
機械化が進んでいなかったころ、川中島平の水田を耕す馬は、すべて犀川丘陵、俗に西山と言われる信州新町や小川村、鬼無里村の馬だった。山村からの借り 馬だった。西山の馬はまず大町など安曇平に貸し出す。ここでの仕事が終わると富山平野へ行く。富山で仕事が終わると川中島平へ来る。その間一か月以上馬は 使われ過ぎて痩せてしまう。
米麦二毛作地帯の中で、全国で一番田植えの遅いのが、群馬県の碓氷の谷と川中島平と上田の塩田平です。
市川塾長:本日は258年前の史上最大の「寛保の洪水」の跡を訪ねてまわりました。長沼では、大洪水 になったと聞きました。このように寛保の洪水が、長沼、上田、東部町に大きな被害を与えた。みなさんは目で大自然の脅威を認識されたと思います。しかし寛 保の洪水と同じ様な雨が降ったらどうなるのか。近代社会になってからは、いろいろな手当がなされています。ですから寛保のような大雨が降っても、あのよう な被害にはならないと思います。
いずれにしましても、信州人は千曲川に愛着を持っています。この間もNHKのBSで、「信州ベストテン」というのをやっていましたが、その一番が千曲川でした。
山口洋子さんが「千曲川」を作詞してヒットしましたが、河畔を歩いていないのです。「中野小唄」や「須坂小唄」を作詞した野口雨情は、作曲家の中山晋平 さんとよく歩いてます。もし、山口さんが千曲川沿線を川上村からあるいたら、あの作詞はまた違ったものになったと思います。
今日は千曲川の下流から中流を見て廻ったわけですが、次は最上流の川上村を訪ねて、杏梅をつくっている梓山、秋山、川端下を訪ねてみたいと思います。そ んなことを楽しみにして、来年もフィールドワークに御参加いただければと思います。今日は暑い中、ご苦労様でした(拍手)。
杉原所長:どうもみなさん、今日は暑い中本当にご苦労様でした。第3回の千曲塾ということで、これま で2回、会場で話をお聞きしたところを、実際、目で見てまさに寛保の洪水の激しさ、凄さを実感した次第です。私も今回初めて、現地を歩いて感動を新たにし ました。千曲川はふだん、やさしい川だけれど、いったん荒れると苦しい場所もある。われわれも、みなさんの安全な生活が守れるようにやっているわけです が、いつ大きな水害が出てくるとも分かりませんので、今後ともしっかりやって行きたいと思っているところです。千曲塾は引き続き、先日お話したように続け ますので、ぜひ御参加ください。みなさんといっしょに、この塾をますます盛り立てていきたいと思いますので、よろしくお願い致します。今日は、暑い中、本 当にご苦労様でした。
[出典]
http://www.hrr.mlit.go.jp/chikuma/news/juku/data/juku3g/
天正最上軍記
天正最上軍記 實録
谷地ノ城主白鳥十郎長久公ノ奥方布姫君ハ山形霞ノ城主最上義光君息女也
義光謀計ヲ以テ十郎長久公ヲ討ツノ事
爰出羽国村山郡冨並鬼甲ノ城主ハ桓武天王ノ後胤鬼馬場ノ入道森近江守豊原保廣公(也其保廣公)与十三代ノ後胤白鳥十郎長久公ハ同国白鳥ノ城主也。又谷地 ノ古城主ハ中条備前守藤原信保二代目ハ中条駿河守信重、三代目ハ中条又五郎信忠、四代目中条又十郎信国、五代目ハ中条又左衛門信澄ナリ。此御殿ノ代ニ至テ 御子無之ニ依テ白鳥十郎長久ハ中条家ニ縁有ルニ依テ中条家ヲ続ク
然ルニ延文年中ノ頃、当国高湯ニ安西鬼九郎平盛澄と言ふ鎌倉北条時政ノ末孫(有り)此人盗賊ト相成、高湯追手トシテ龍山ニ屋形を構へ後ハ蔵王山ニテ前ハ 二拾丈程の源澤也。向ふノ土手ハ二拾丈程ノ石垣ヲ積ミ上ケ百二拾問高キ橋を掛け要害厳重ニシテ鳥モ及ハさる場所也。村山郡二拾万石余押領地也。百姓与御年 貢ハ十ケ年ニ一度ノ取立ニテ、又ハ百姓壱人別に金子壱両ツツ三年ニ一度与へ二拾石ノ百姓ハ大ニ豊也。安西有座ノ大名与金子ヲ備り。何不足ナキ暮シケル。政 事ハ宜敷百姓へ慈悲憐愍アルニ依テ安西殿様ノ御領分ニ末代成タイト神願シテ居りケル。又ハ他領ノ百姓モ安西様ノ御領分成りたく成りたくト願ケル。
政道方役人ト有之候共。
家老職 家老
北条刑部 里見蔵人
鳥山大善 古田外記
篠源主水 荒川七郎右衛門
藤島虎之助 三浦筑後
杉沢養蔵 石田梅隠
公事方
豊島平左衛門 杉沼源治右衛門
武田孝之進 内藤多膳
御例用掛り
岡田仙左衛門 森田右馬之助
青山殿助 熊澤丹波
萬善寺頼母 早坂出雲
滝沢弥左(衛)門 松山龍吾
例係役人
雷寛人 平塚十左工門
御用人
熊坂大八郎
鳶崎九郎兵衛 鷲左衛門
鬼田権九郎 鷲塚九郎兵衛
他手下三千人有り
安西鬼九郎ハ手下三千人余有り高二十万石横領地有り。金銀日本中有福之御大名又ハ有福ノ町人与借リ受テ又困窮ノ御大名殿へ及返済ニ困窮ノ町人ヘハ及返済 貸備りハ娑婆ノ習成。別ニ世ニ望ミナシト。栄花ニ誇リ天子之妃ノ内松金ト言ふ妃ヲ内裏へ忍ヒ入、松金ヲ奪へ取り我カ本妻に致シ三拾人妻ヲ抱へ、又藝者ヲ抱 へ歌琴三味線ニテ日々ノ游妻ヲナシ楽ミケル。抑都ニテ妃ノ松金ヲ奪レし王々ヲ尋ねシ処出羽盗賊安西仕業也。
文保二年之頃、奥州宮城郡ノ利府野武士ニ羽柴美濃守義信ト言者有り。義信ハ武勇世ニ勝レシ者ニテ、出羽石高湯ニ住ム盗賊安西鬼九郎征伐、天子与御頼ニ依 テ義信軍勢三千人引具シテ出羽ノ高湯ニ赴きケル。夏崎ニ野陣ヲ張り、先ツ安西カ屋形の様子ヲ見る処カ、龍山ト言ふ高山ニ屋形を構イ後ハ蔵王山ト言ふ名高キ 高山也。前は二拾丈程ノ深沢也。向ふノ土手ハ二拾丈程ノ石垣積ミ上ケ石之大門也。澤ニ百二拾間ノかさ橋ヲ掛ケ要害厳重ニシテ鳥モ及さる処也。義信ハ夜討シ テ龍山ニ野火ヲ附焼討ニ責シト。安西カ屋形へ押寄せシカ安西カ高湯ニ伏勢シテ、義信カ軍勢ヲ待懸ケタリ。黒威しノ鎧ヲ着シ黒麻毛ノ馬ニ内乗リ大兵也。若武 者五拾貫目ノ鉄棒ヲ振り回シ我ハ安西カ家臣鷲塚九郎兵衛ト申す者也。乍不及相手ニナラント言イケレバ我ハ儀信カ家臣塩沢左近也ト。貮間柄ノ大身ノ鑓ヲ指立 向ヘケレハ、鷲塚九郎兵衛心へタリト鷲塚九郎兵衛ハ背ノ高サ六尺三寸力七拾五人力アリ。五拾〆目ノ鉄棒ヲ持チ立向ヘケレハ塩沢鷲塚ヲ一ト突ニせント突きケ レバ、鷲塚鉄棒ヲ持テ鑓ノ柄ノ中程打ケレバ、鑓ハ中程与ホツシリト折レ鉄棒ニテ一ト打打テハ何条溜ルヘキヤなれ共、慈悲深ギ鷲塚ニテ、アレハ塩澤助ケル。 安西カ屋形ハ歌琴三味線ニテ酒宴ナシ義信カ軍勢三千人棹寄せシヲ安西者共セヅ、義信カ豆カ崎江陣引イテ休戦シケル。処カ如何なる事ニ候哉、安西与義信へ兵 糧送りケル故、義信感心シテ辿モ叶ヌ事也。安西方ニハ強勇ノ者三千人ノ内貳百人モ有之、又ハ安西ハ内福ニテ金銀ハ沢山ナリ。兵糧ハ又沢山ナリ。有徳大名与 金銀ヲ借り難儀ノ大名ヲ救イ又ハ百姓ヲ大切ニシテ子供同様ニ心へ、百姓ハ大名之足也。足ラナケレハ上ハ足ラヌ者也。良持不戦共勝也。安西ハ人を殺ス事嫌ヘ ナリ。義信何万騎ノ勢ヲ以テ安西ヲ責ルト錐モ迚モ不相叶。義信ハ天子与征伐ノ御頼ニ有テ奥州与軍勢ヲ引連レ、出張ニ及我レ屋形ヲ引退ヘテ義信ニ切明サセン ト、安西ハ義信ト和睦シテ申様、我レ世ニ望ミナシ、天子十ニノ后ヲ奪へ取り我カ妻トシテ又ナク美女ヲ妾トナシ一生ノ楽ミナシ、我屋形ヲ退クテ、是与ゑそ国 へ落ツ行クト奥州荒濱ニテ大船ヲはき宿り三千人ノ家ヲ引連レ、天正年中四月ゑぞ国ヘト落行クニ付安西カ貯へ置タル兵糧籾拾万石ニ金銀四十万石一ト大前二十 万石ノ百姓へ配分シテ与ヘケレハ百姓ノえヒ大方ナラツ百姓ハ安西を神化佛ト敬い、安西カ名残り惜ミケル。義信ハ我カ家来一人モ痛マズ。是ハ安西カ仁心ノ程 思わさるハなし。義信感心シケル。弥以安西ハ三千人ノ手下共遥カゑぞふヘト落行キケル。義信ハ豆ケ崎ニ野陣トシテ居ル処カ、義信カ乗替ノ馬離シテ遥カニ馳 り行、霞カ原ト景残ニ馬止り豆ケ崎テ見るト馬ノ荷鞍カ山ノ形チニ見ゆるニ依テ夫与山形ト名ぞかへ、霞ケ原ニ馬止ドマルニ依テ城ハ霞ケ城ト名言ふ也。又馬ノ 放レシ処ヲ豆ケ崎ニテ見ルニ依リテ馬見ケ崎ト今々唱ヘケル。然ルニ義信ハ安西ヲ追放シテ其切ニ依テ安西カ押領地二十万石天子与被下置レシ頃ハ永正元年丙申 八月十五日義信カ山形へ入部シテ出羽ノ国探題トナル。義信ハ安西カ慈悲ヲ以テ武十万石ノ主相成り、安西ノ跡ニ貳千石ニテ安西豊前ト被宛置候処、山形義光ノ 代ニ家没落シテ、其時安西ノ子孫ハ奥州仙臺河原ニ引越シ、家繁栄シテ只今ニ安西屋六右衛門迚有之ケリ
白鳥十郎長久公武勇之事竝布姫君婚礼之事
然ルニ白鳥十郎藤原ノ長久公中条家ヲ續キテ谷地城ニ入部シテ頃ハ、天正年中尾州清(淵)洲之城主織田信長公ハ日本半国之ノ将軍也。谷地城主白鳥十郎長久 公ハ織将軍ハ鬼麻毛龍馬ト言ふ名馬ヲ献上シテ織田ノ幕下トならんト、尾州清洲城主へ出張致さんト、共勢三百五拾人又例肱勤ノ輩ハ家老職和田六郎左衛門秀 友・大久保大善介信秀・熊野三郎友重・四五修理介重則・長谷寺右馬之介国光・仁藤大学信盛・森大之進藤高・仁集四郎左衛門盛高・八鍬太郎左衛門重種・槙結 城家貞・森谷大善高友・長沼玄蕃保秀・伊藤将監重村右十三人家老職ナリ。他六百人ノ共勢、天正二年寅(戌)ノ三月十五日(六年戊寅か)出立、白鳥十郎長久 外十三人馬乗りニテ、家老用人数多ノ共勢引連レ越後通り越中・加賀・越前通り四月廿二日尾州清洲城へ着シテ、家老和田六郎左衛門秀友使者トシテ信長公へ奉 言上候ハ、私共主人羽州村山郡ノ野武士白鳥十郎長久乍恐當将軍家へ御目見奉御申上度家老和田六郎左衛門秀友ヲ以テ奉申上御献上トシテ鬼麻毛龍馬壱疋奉献上 度奉申上候処、木下藤吉郎秀吉執成ニテ二ノ丸ニ於テ御目見ト被仰テ、白鳥十郎長久公竝家老輩共十三人目見相叶、織田献上ニ預リ参受納致、将軍家於麗敷毛思 召大ニ悦ヒ致秀吉ヲ以御挨拶アリ長久公家臣共十三人不残本丸お廣ニ於テ饗應不浅。又外共勢人数三百人ハ二ノ丸ニテ饗応ニ預り、是与白鳥十郎長久公ハ信長将 軍ノ幕下ト相成り出羽探題職ト相成り、長久公帰国致シ信長公ノ幕下ト也出羽十二郡探題職ト相成り長久公ハ帰国後テハ威勢強ク相成り出羽十二郡ハ長久ノ領分 ノ様ニ相成り、依テ山形霞城主義光長久公ヲ憎ミ没(滅)サント工夫ニ及家老志村伊豆守ヲ呼びテ申様、白鳥十郎長久ハ尾州清洲ノ城主織田信長へ名馬献上シテ 信長ノ幕下ト也出羽一ケ国探題職ト相成り長久公ハ才智深ク強勇ノ武士ニテ中々容易ニハ没ス事不能・如何シテ亡ス手段ハ無キ哉ト申シケレハ志村伊豆守申様ヨ キ手段撃チ亡ス工夫アリト言ふ。長久公未タ廿五才ニテ無妻ナリ。依テ君ノ御姫君長久公ノ奥方ニ抱持ナシ君ノ御聟君ニシテ亡ス所存也ト申ケル。義光手ヲ打 テ、夫ハヨキ手段也ト志村其方ヨキニ計ふベシト有ケレバ志村伊豆守ハ長久へ進物杯ヲ懐中シテ布姫君長久公へ御取持トシテ谷地ノ白へ越ケル。布姫君ハ未タ十 六才ニテ世ニ稀ナル美女也。白鳥十郎長久ヲ案内シテ申入ケルハ私事ハ山形義光家来志村伊豆ト者ニ候間、御君へ御目見申上度越候。乍恐御取次ノ程御頼申入候 処、取次之役人主人長久公へ右之段言上シケル処、山形使者ノ者二ノ丸御廣問ニ罷ベク旨被仰。其段志村伊豆守へ申聞ケセ候処、長久公家老職大久保大善介秀 角・和田六郎左衛門秀友・熊野三郎友重三人主人名代トシテ二ノ丸大広間へ列席ノ処へ義光家来志村伊豆守罷出申上ルハ此度私参上仕候ハ余ノ義ニ非ス。私主人 義光息女布姫君殿様の奥方へ御取持乍恐奉言上候処、和田六郎左衛門主人長久公へ言上シ御奥方御取持ニ志村伊豆参上ト奉申上候処主人長久公殊ノ外大ニ悦ヒ麗 敷被思召返事之義を使者ヲ以テ申上旨挨拶ニ及候趣ニテ、志村伊豆守ハ二ノ丸御殿ニテ饗応ニ預かり伊豆守ハ霞ケ城江帰城致シ姫君様御縁談ノ趣、家老職大久保 大善介秀角ヲ以挨拶ニ及候趣、主人義光へ申上候処義光大ニ悦ヒ谷地城与家老大久保大膳介沙汰伝ニケリ。然ルニ主人長久公へ大膳介申上候様ハ、義光息女御縁 談ノ義伊豆御取持ノギハ義光ナニカ謀計ノ禍イアリ。君ニ於テモ御量有テ御縁談ハ御見合可被置ト申上ケレハ、長久公強勇無双ノ君ニテ高カシレタル義光ナニカ 何恐也何レニシテモ縁談早クモ取極メ可申ト。山形へ使者ハ大久保大膳介・熊野三郎山形へ使者トシテ両人へ被仰付、両人ハ馬乗ニテ、主命蒙霞ケ城へ出張ス義 光ハ谷地ノ使者待兼シ処へ大膳介・熊野三郎両人使者ト相成り出張致セス処、取次案内ニテ霞ケ城本丸へ請シ饗応不浅弥々布姫君縁談取極メ相成り吉日選ミ婚礼 ト相成り候趣、具ニ申上候処長久公大ニ悦び、婚礼ハ天正四年四月十五日ト相一寸一息ついて定メ、弥々山形与布姫君江附添ふ。御供侍ニハ赤沼左膳高景・牧野 六郎太・藤田孝之進,今泉伊七郎・伊藤多膳・青山兵部、熊沢大助・塩沢右京・都合八人布姫君ノ供侍媒人ハ志村伊豆守ハ馬乗ニテ四月十五日布姫君ハ駕篭ニテ 谷地城ニ御入ケル。然ルニ天正六年三月義光ハ兼テ謀計ヲ以テタグナミ、何卒長久ヲ亡サント義光俄ニ大病ト相成り御聟君長久公へ義光存命中大切之密談有之ニ 依テ不取置急段御出張可有之旨早馬飛脚ヲ以テ勇至来ニ依テ、家老大久保秀角申上ケルハ義光謀計ニテ俄ニ大病トハ偽りト相見へ、御見舞トシテ御名代御遣ハシ 候テハイカガテ御座喉哉ト申上ケレハ、長久公強勇ニテ義光ハ何程知謀深キト雛可恐ヤト無御聞入究竟ノ家臣共五百六拾人ノ供勢ニテ山形霞け城へ出張ス。
長久公
和田六郎左エ門 大久保大膳介
熊野三郎 長沼玄番
長谷寺右馬正 井澤寅之助
塩村熊之助 森谷大膳
鉄砲百丁 大砲拾梃
白鳥十郎藤原ノ長久公ハ緋綴鎧ヲ着シ黒麻毛ノ馬ニ打乗り外八人モ馬乗りニテ繰出シケル処、浄土宗誓願寺門前先ニ差懸り候処カ、長久公ノ陣笠ニ烏飛来シテ フンヲ引懸シ故、和田六郎左衛門甚タ不吉ト思へ君ニ申上ルハ、只今君ノ陣笠へ南ノ方与烏カ飛来シテフンヲ懸ケシ事不思議ノ事ト奉存何レニシテモ今日ハ御見 合ニ可被遊ト申上候処、君申ケルハ、何程危キ事有之候迚可恐也ト強勇無双ノ大将ナルハ事共セズ、又途申与引戻ルモ畢寛ナルト無聞入霞ケ城ヘト急キケル程ナ ク山形宮町ニ差懸リシ処、霞ケ城与御例衆ハ二ノ丸ニ扣ヘル様ト又本丸迄舅義光大切ナル聟君ト密談アリ弥々霞ケ城ニ着仕リシ処カ奏者役案内ニテ長久公、只御 壱人御本丸ニ御入リ御例衆八人五百人供勢ハ御本陣ニ入り長久公強勇無双ノ御方ナル共殊外酒ニ酔へ舅君義光申ケルハ、貴君ニ大切ノ密談アリ奥ノ間へ請シニ依 テ長久公ハ無油断承知居り候へ共、舅義光ノ実ト心へ、何心無ク奥ノ間ニ行キ候処、深キヲドシ穴拵へ置ケ長久公ハ酒ニ酔へ穴ニ這クシ処ヲ両方与切懸ケラレ何 程強勇ノ長久公ナル共、義光謀計ヲ以テ聟十郎ヲ害ス候故、又八人家臣ハ胸サハキ悪ルキニ依テ、主人御身ノ上ニ何カ禍へ有ルカト八人一同ニ本丸ニ走り行キ見 レハ、主人長久公ハ空敷義光ニ討レ南無三宝ト見へ、夫与義光ヲ討ントサガシ見レバ、本丸二百人計リ伏勢アリ。八人ノ者ヲ討サント切り懸ケ向ふハ百人ノ伏勢 ナリ。熊野三郎五尺八寸ノ太刀ニテ切テ散シ、続テ長沼玄蕃・井沢寅之助都合八人シテ切散シ三・四十人切倒シケル処、又大手与二・三千人押込八人者ヲ討サン 下切懸ケシ処ヲ、谷地軍勢本陣ニ控居タルカ、大手之騒動聞ト直ニ大砲拾挺打散シ義光勢多分人数痛ミ其ノ内ハ谷地ノ軍勢ハ天童差シテ行シ処ヲ天童伏勢有ルニ 依テ原町村へ行キ候処、又原町へ伏勢有。萩戸原ニ抜ケ萩戸原ニテ山形勢ヲ引受未三日戦江アリ、山形勢千人程討シ死骸ハ山ニ積ミ、谷地ノ勢ハ無恙天童阿だこ 山ノ陰与抜ケ谷地ニ帰城シテ熊野三郎大将トシテ山形討っ手引受ケ合戦ス。谷地勢ト大合戦ト相成リ、然ルニ布姫君ハ夫ノ長久、親義光ニ討レ残念ニ思召、夫ト ノ敵討サント長刀抱込ミ馳セ出ケルヲ、老臣伊藤将監布姫君ヲ取押へ、心ヲナダメ、夫トノ敵ハ親ナレバ先御扣へ可被游ト、時ヲ御待ち致ヘト。先桜ノ御殿へ御 供仕奉守護為御移テ谷地後ノ城主ハ白鳥十郎藤原ノ長久公ノ奥方布姫桜ノ御殿ニテ詠哥
古の毛し久月見る薮の盧可那
長久公ノ奥方御殿ハ桜町ニ有久シカラ須。未七拾年以前迄、今桜町ニ有ル。松ノ南ニ壱丁四方の芝空地有り。松ハ並木ト見ヘテ、此松ハ白鳥十郎長久公ノ奥方 布姫君方カ遺身なれかしと松ト桜ヲ植、此桜ハ能前迚年々三度咲く桜ナリ。年久シケレバ桜ハ枯レ失せスカ。松ハ残り、其松ニ懸志一句ヲ侍ル
伊久年世もい路毛松山か王らぬ布姫まヅ
白鳥十郎長久ノ家臣 お守護死反玉
伊藤将監重村 ○○○○○○○○○ノ先祖ノ由なり
森谷大善高友 ○○○○ノ先祖なり
槙三郎左衛門国光 ○○○○○○ノ先祖なり
和田六郎左衛門秀友 ○○○○○○○○祖なり
森大太郎藤高 ○○○○○○ノ祖なり
阿部兵蔵盛重 ○○○○○○ノ先祖なり
宇井半左衛門芳村 ○○○○○○○○○先祖ナり
槙結城家貞 ○○村ニ跡アリ
井沢寅之助吉忠 ○○ニ跡アリ
細谷大蒸信安 ○○○○○○○○○祖なり
大場八郎左衛門義忠 ○○○○○○元ハ大場三郎ト云ふ
岡崎七郎右衛門重行 ○○○○○○○祖也
後藤善孝芳実(サ子) ○○村跡アリ
八鍬五郎左衛門重種 同村ニ跡アリ
仁藤大学信盛 ○○○○○○○ノ先祖也
仁藤四郎左衛門秀重 同村ニ跡アリ
大久保内膳助秀角 ○○○舘持家老ナリ
湯野沢村熊野権現ト祭也
熊野三郎友重 ○○○村舘持家老ナリ
塩野熊之助重則 ○村舘持家老職也
長善寺右馬一(カツ)国 是モ舘持家老ナリ
石川右膳正利佐定 ○○○○○○ノ祖ナリ
黒沼玄番保秀 是モ舘持家老職ナリ
[出典]
http://www.h2.dion.ne.jp/~yun0sawa/tenshoumogamigunki.html
武田信玄に味方した信濃の武士は武田氏滅亡後、どのような経緯を辿ったのかがわかる資料があるか。
笹本正治著『戦国大名武田氏の信濃支配』は既に知っているのでそれ以外の資料を知りたい。
以下の資料に武田方の信濃武士のその後の記述あり。
初めは武田氏についた者も武田滅亡後は上杉についたものが多くその記述も含む。
・『川中島の戦いと北信濃―武士・民衆もうひとつの真実』長野市民新聞編 信濃毎日新聞社 2009[N209.4/122]中、
「第3章 地域国人たちの栄枯盛衰」のうち、p62~106に「屋代氏」「仙仁氏」「西條氏」「寺尾氏」「清野氏」「綿内氏」
「平林氏」「赤沼家」「栗田氏」「芋川氏」「葛山衆」「小島氏」「夜交氏」の記事あり。
・『信濃中世史考』小林計一郎著 吉川弘文館 1982[N209.4/56]
p230「屋代氏」「室賀氏」「雨宮氏」「清野氏」の記事あり。
p260~290「栗田氏の武田氏帰属と甲府移住」「武田氏滅亡と栗田氏の上杉氏服属」「関ガ原役と栗田氏の流転」「水戸藩の栗田氏」あり。
・『信玄、謙信と信濃』小林計一郎著 信濃毎日新聞社 1991[N209.4/77]
p60~61「仁科」「望月」「木曽」の記事あり。
p61~66「滅亡直後の武田軍」p164~165「仁科氏」の記事あり。
・『長野県史 通史編 第3巻中世2』長野県編 長野県史刊行会 1987[N209/11-4/3]
p342~396「武田氏の滅亡と信濃」中に「真田氏」「木曽氏」の記事と(室賀、屋代、
禰津氏等の名を含む)、p388~390「依田信蕃の佐久入封」があり。
・『武田信玄大事典』柴辻俊六著 新人物往来社 2000[N289/タケダ]
p304~305「武田信玄家臣団表」に信州先方衆、御親類衆の名前あり。
その名前で同書の本文「人物」に項目あり(例:p82に武田に従った信濃先方衆「望月信雅」の項目には、その後、依田信蕃に従ったとあり)。
①[N209.4]郷土資料の中世史の資料と[N288] 郷土の家史・家譜[N289]郷土の伝記の資料の現物から武田家臣団に関する記述を探し、武田家臣となった信濃衆の動向を紹介。
②『長野県史 通史編 第3巻中世2』で武田氏の記述を確認し、信濃武士の動向の部分を紹介。
[出典]
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000103075
葦名氏の祖、佐原義連は三浦半島一帯を支配した三浦大介義明の末子。衣笠城の東南佐原(横須賀市佐原)の丘陵に城を構え佐原氏を名乗る。源頼朝の信頼は厚く軍功によって会津四郡を賜った。
義連はその孫達に会津の土地を与え、うち光盛が葦名を名乗ったと伝えられる。
宝 治元年(1247)三浦氏は北条時頼に滅ぼされ所領は没収された。光盛ら会津佐原氏は北条方に付いたため、北条氏から地頭代に任命され会津地方を統治した (この時から会津との関係が始まったという説あり)。なお至徳元年(1384)、葦名直盛が会津に黒川城を築いたが、これが鶴ヶ城の始めとされる。
15世紀初頭南北朝に分かれ戦った会津の佐原一族は、猪苗代の猪苗代氏だけを残し葦名氏に滅ぼされていき、葦名盛氏の時代には葦名氏が会津一円の支配をほぼ完成した。
こ の時期の葦名氏は伊達氏との同盟を結んでいたが、直系の当主が相次いで亡くなると、伊達氏と敵対していた常陸(茨城県)太田城佐竹義重の次男義広に葦名氏 を継がせた。これが伊達氏との対立を深刻にさせ政情が動揺。天正17年(1589)6月、磐梯山麓の磨上原の戦いで伊達政宗に大敗した義広は、葦名譜代に 黒川城を追われ常陸へ走り、葦名家は事実上滅亡した。
[出典]
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/yukari/rekishi/ashina.html
2014年11月26日水曜日
大和政権に組みこまれた会津
大化の改新以前、7世紀末ごろには陸奥国が設けられて会津郡もその構成に入った。645年の大化の改新によって、東北地方は陸奥(「むつ」の国、7世紀末には「みちのく」の国)として正式に大和朝廷の領土に組み入れられた。会津は、国家の要請に応じて西国には防人(さきもり)、都へは衛士(えじ)を、あるいはその他の労役に人々を送り出した。それらの人々の残した歌が万葉集などに残されている。
この時代以降、会津という地名は、日本の行政区画として、政治・軍事地理の中での一つの単位としてまとまり、その意義を失うことなく絶えず現れることとなる。大化の改新の法令に従って、会津盆地においては、農地の班田収受制度が実現された。これは会津若松市門田町の東中沢の二箇所において条里制遺構が発見されたことで確かめられている。したがって、国家の規定どおりの班田収受制度(農地は国有とし、国民一人当り一定の田畑を与え、その死後国がその土地を回収する制度。685年に定められ、戸籍の整備とともに実施された)が、少なくとも若松周辺では行われたことが確実になる。
国家の宗教的な中心としては、会津郡では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冊尊(いさらぎのみこと)を祀った伊佐須美(いさすみ)神社と、蚕養国(こがい)神社(嵯峨天皇弘仁2年(811年)。糸、綿、絹等を生業とする人々の崇敬が高い)があり、耶麻郡には磐梯神(いわはし)神社(祭神は大山津見命、宇迦魂命、木花咲夜姫命)がつくられた。大同元年(806)磐梯山が大噴火を起こしたので、この山を鎮めるため勅命により空海が八方位に祀った社の一つで、天地を鎮護するものとされた。大同5年ごろの初期には磐梯神が上格だったが、「延喜式」においては伊佐須美神社が名神大社となって、会津一の座を占めている。
磐梯(いわはし)神社の座を伊佐須美神が占めた後、会津の地に仏教の伝道がはじまった。激しい論争の中で仏教界の主導権を握ったのは、恵日寺を興した徳一である。彼は南都仏教の都市化を嫌い、山岳仏教に逃れた民間僧であり、磐梯山のふもとに恵日寺を開いた。粗衣粗食に徹したが、学徳の誉れ高く、生き菩薩として庶民にあがめられた。この寺では、磐梯山を正面に据え、磐梯神社が恵日寺の奥の院であるような配置が選ばれた。徳一は空海を会津諸寺の開祖として扱い、その2番目の祖として、真言宗を会津に定着させたという位置に自分を置いた。空海は彼に友好的な態度をとった。恵日寺は寺僧300人、僧兵数千人、寺領18万石となり、会津四郡(会津、耶麻、小沼、河沼)を支配下に置いたといわれる。しかし、天正7年(1589年)の伊達政宗侵入の際にこれに抵抗し、焼かれてしまった。
恵日寺にかわって、会津中央薬師の正座についたのは、湯川村の勝常寺本尊薬師如来である。勝常寺は創建当時は七堂伽藍を誇っていたが、現在は薬師堂が保存されており、その横にコンクリ作りの保管庫に仏像12体が保管されていて、参観可能である。これらの仏像は、会津各地の諸寺の仏像に大きな影響を与えた。
[出典]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dewaruss/aizu_histroy.htm
JR若松駅か
ら東北東1.3キロ、海抜270メートルのところに大塚山という古墳がある。この古墳は、昭和39年(1964年)に発掘、調査された結果、大和朝廷と直
接関係を持っていた会津の首長の墓であることが立証された。この古墳で発見された副葬品は、三角縁神獣鏡、素環頭大刀、それに碧玉硬玉を聖宝とするもので
あった。これが大和朝廷の伝承の記録と、ぴったり一致していることが、両者の関係の「正統性」を実証するものとされている。
大和朝廷10代の崇神天皇は、大和朝廷の勢力圏を拡大する為に、「四道将軍」を四方に派遣した。日本書紀は崇神10年9月の条に、北陸に大彦命(オオヒコ
ノミコト)を派遣し、また、東海には武亭川別(タケヌナカワワケ)を派遣したと述べている。別の文献である崇神記は、大毘古(オオヒコ)と建沼川別(タケ
ヌナカワワケ)の父子が旅の末に出会った所は相津(アイヅ)であった、と伝えている。
この古墳の発掘、検討の結果、会津の被葬者が、中部や関東においてさえ余り見られない程度に大和朝廷の文化を代表していることが判明した。これらをみれ
ば、東進してきた大和朝廷が、途中の諸地域を飛び越えて、会津に強力な政治拠点を構えたことを意味していると考えることが出来るであろう。すでに4世紀末
に、我国の古代の政治地理において、会津は「特別な土地」となっていたのである。
この大和朝廷の代表を受け入れて、古墳を作った会津の指導者の後継者たちは、次の段階では、全長127メートルもある大古墳を、河沼郡会津坂下(バンゲ)町に建設して、君権の最盛期を出現させる。亀ヶ森古墳がそれである。これは宮城県名取市雷神山古墳の170メートルの規模に次いで、東北では第2の大古墳である。
(注:上記の3つのパラグラフについては、会津若松市門田町の南御山遺跡その他がこの事をよく示している (「会津の歴史」豊田武監修、会津若松市発行、昭和44年の42ページの記述をもとに、その内容を筆者がわかりやすく書き直したものである)。
[出典]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dewaruss/aizu_histroy.htm
2014年11月22日土曜日
長野市長沼地区住民自治協議会が来年が小林一茶生誕250年の年に当たることから一茶ゆかりの長沼地区を盛り上げようと新たに6基の一茶句碑を立てました。今回紹介するのは赤沼地区にある大田神社境内に立てられた句碑です。
地図を頼りに大田神社を訪ねると意外にも妻が陶芸の土を買う長野陶材さんの直ぐ目の前で、珍しいことに通りを挟んだ郵便局が社務所を兼ねていました。
文政15年(1822、一茶60才)8月、一茶は長沼や紫(現高山村)、六川(現小布施町)の門人宅を訪ね歩き、25日に六川から田中(現湯田中温泉)の門人湯本希杖宅に向かいますが連日の雨による洪水のために六川に引き返しています。
洪水
啼きながら 虫の流るゝ 浮木かな 一茶(「魚淵宛て書簡」)
啼きながら 虫の流るゝ 浮木かな 一茶(「魚淵宛て書簡」)
この句は同年8月29日に善光寺の門人上原文路宅から長沼の佐藤魚淵宛てに出した手紙にあり、「廿五日田中へと足を向けかへば、いまだ川満々として、たま´\越す人を見るに、のしこし山を打越して、乳のあたりまで水に浸り申候へば、見下ろして、川より六川へ取てかへし候。」と記しています。
「文政句帖」の文政5年7月の9句目から11句目にも次の句があります。
鳴ながら 虫の乗行 浮木かな
洪水の 泥に一花 木槿かな
洪水に なくなりもせぬ 木槿かな
洪水の 泥に一花 木槿かな
洪水に なくなりもせぬ 木槿かな
夕月や 流残りの きりぎりす 一茶(「文化句帖」)
[出典]http://issablog.kohei-dc.com/?m=201208
長野市津野にある曹洞宗のお寺、 玅笑寺参道にも今年になって小林一茶の句碑が立てられました。
春風や 犬の寝聳る わたし舟 一茶(「七番日記」)
この句は「七番日記」の文化14年(1817、一茶55才)2月にあります。この時期一茶は江戸・下総方面への生涯最後の俳諧行脚中でした。それは10ヶ月以上に及ぶもので、その間、一茶は何度も川を渡り、又川舟を利用して俳友や門人達を訪ねています。菜の花の咲く房総の2月(新暦で3月)、渡し舟の上で旅の疲れもあって春風を受けながら一茶はついウトウトしたことでしょう。犬までも気持ちよさそうに寝そべっています。
この句が玅 笑寺にあるのは一茶が利用した北国脇往還(雨降り街道)の千曲川の渡し、長沼の船場(布野の渡し)をイメージしてのことのように思われます。
一茶は文化13年9月16日に柏原の家を出て先ず小布施町六川、高山村紫、長沼などの門人を訪ねています。久保田春耕、魚淵、呂芳、素鏡、松宇などから江戸行脚への餞別を得て江戸に出立。10月1日に江戸に到着し先ず谷中本行寺の馴染みの住職一瓢を訪ねています。その後は流山の双樹の墓参をしたり、月船、斗囿、鶴老、蕉雨等の江戸や下総方面の多くの俳友宅を何度も行き来して最後の別れを惜しんでいます。この10ヶ月の間に貰った餞別を一茶は詳細に記録しています。
11月、布川の門人月船宅で一茶の師匠格であり俳友、パトロンでもあった夏目成美が19日に亡くなったことを知ります。奇しくも11月19日は一茶の命日ともなった日です。12月のは成美の追悼俳諧に出席しました。
随斎旧迹 (以下「七番日記」12月)
霜がれや 米くれろと迚 鳴雀
霜枯れに とろとろセイビ参り哉
笹鳴や ズイサイセイビの 世なり迚
霜がれや 何を手向に セイビ仏
かれがれに 見人(みて)をなくした 角田川
霜がれや 米くれろと迚 鳴雀
霜枯れに とろとろセイビ参り哉
笹鳴や ズイサイセイビの 世なり迚
霜がれや 何を手向に セイビ仏
かれがれに 見人(みて)をなくした 角田川
また、この最後の江戸滞在中に一茶は長沼の門人佐藤魚淵の句文集「あとまつり」を完成させ出版の労を取っています。
[出典]
http://issablog.kohei-dc.com/?m=201208
長野市赤沼の真宗大谷派のお寺、妙願寺にも今年小林一茶の句碑が立てられました。
牛馬も 元旦顔の 山家哉 一茶(「春甫への書簡」)
この句は文化7年(1810、一茶48才)の正月に一茶が江戸から長沼の門人村松春甫に出した書簡にあります。正月「廿晴 ・・・信州長沼春甫方ニ半紙一〆送」ともあります。
江戸で名が売れていた一茶ですが家も家庭も財産も持たない身の上を愁いて帰郷の思いが募り、古郷ののんびりした正月を思い浮かべて詠んだ句です。このころ、一茶は古郷柏原帰住に備えて長沼近辺に一茶社中の基礎を築く準備も進めており、長沼の門人第一号である春甫に句文集発刊を勧め「菫艸」の代撰に忙しい時でもありました。「菫艸」は翌年発刊されています。
「七番日記」はこの年から書き始めたもので、次の句なども記されています。
家なしも 江戸の元旦 したりけり
古郷や 馬も元旦 いたす皃(かほ)
古郷や 馬も元旦 いたす皃(かほ)
[出典]
http://issablog.kohei-dc.com/?m=201208
2014年11月21日金曜日
長野アーカイブ
http://www.city.nagano.nagano.jp/naganoarchives/mokuroku/4hukusei/kinsei/kinsei-a.htm
赤沼共有 | 寛保3 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.001 | 戌御物成皆済目録(赤沼村年貢皆済証文) | |
赤沼共有 | 宝暦3 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.002 | 村定め書き付け一札之事(赤沼村) | |
赤沼共有 | 宝暦3 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.003 | 申御年貢皆済目録 | |
赤沼共有 | 宝暦8 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.004 | 丑御年貢皆済目録 | |
赤沼共有 | 明和6 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.005 | 子御年貢皆済目録 信州水内郡赤沼村 |
|
赤沼共有 | 安永5 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.006 | 未御物成皆済目録 信州水内郡赤沼村 |
|
赤沼共有 | 安永10 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.007 | 子御年貢皆済目録 信州水内郡赤沼村 |
|
赤沼共有 | 天明6 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.008 | 巳御成箇皆済目録 赤沼村 | |
赤沼共有 | 天明6 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.009 | 定書之事(赤沼村惣百姓連印定め書) | |
赤沼共有 | 天明8 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.010 | 定書之事(赤沼村惣百姓連印定め書) | |
赤沼共有 | 寛政4 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.011 | 亥御年貢皆済目録 赤沼村 | |
赤沼共有 | 寛政8 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.012 | 辰御年貢皆済目録 赤沼村 | |
赤沼共有 | 享和2 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.013 | 酉御年貢皆済目録 赤沼村 | |
赤沼共有 | 文化8 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.014 | 午御年貢皆済目録 赤沼村 | |
赤沼共有 | 文化9 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.015 | 一札之事(赤沼村宛石村出作人惣代等正人足勤務につき一札) | |
赤沼共有 | 文化9 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.016 | 一札之事(赤沼村入作人高役不足負担請け証文) | |
赤沼共有 | 文政4 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.017 | 亥御年貢皆済目録 赤沼村 | |
赤沼共有 | 文政9 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.018 | 奉差上内済証文之事(金箱村・上町等埋樋伏せ込み出入内済証文) | |
赤沼共有 | 天保4 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.019 | 差上申済口証文之事(赤沼村役人惣代等・同村百姓寅吉等26人役人雑用滞り出入済口証文) | |
赤沼共有 | 天保5 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.020 | 定書之事(赤沼村若者定書) | |
赤沼共有 | 天保10 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.021 | 酉御年貢皆済目録 赤沼村 | |
赤沼共有 | 天保14 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.022 | 寅御年貢皆済目録 赤沼村 | |
赤沼共有 | 嘉永1 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.023 | 未御年貢皆済目録 赤沼村 | |
赤沼共有 | 嘉永6 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.024 | 子御年貢皆済目録 赤沼村 | |
赤沼共有 | 嘉永7 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.025 | 心躰書(密通御過怠につき赦免願) | |
赤沼共有 | 安政6 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.026 | 午御年貢皆済目録 赤沼村 | |
赤沼共有 | 万延1 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.027 | 為取替内済規定書之事(赤沼村7カ村・津野村等千曲河原御普請所引き堤並に上置き出入内済取り替せ規定書) | |
赤沼共有 | 文久2 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.028 | 用水拭樋御入用御普請箇附書上帳 外御願取調書類 | |
赤沼共有 | 慶応2 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.029 | 議定書(押切村新規築堤につき赤沼等訴訟につき議定書) | |
赤沼共有 | 明治2 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.030 | 辰御年貢皆済目録 赤沼村 | |
赤沼共有 | 不詳 | 長沼 (赤沼) |
幕府領 | 複 | 2 | 220.031 | 亥御年貢皆済目録 赤沼村 | |
赤沼真平 | 明和1 | 吉田 (4丁目) |
松代領 | 複 | 2 | 195.001 | 申御年貢土目録 北長池村 |
式内社 陸奥國信夫郡 黒沼神社
旧村社
御祭神
渟仲倉太珠敷命 石姫命
配祀 申田彦大神
福島県福島市にある。
金谷川駅の東2Kmほどの松川町浅川に鎮座。
4号線が高架になっている場所から
少し西へ入ると境内がある。
道に面して参道階段があり、
階段の上に鳥居と社号標。
階段を登ると正面に社殿がある。
拝殿の後方には、流造の本殿。
社殿の右手には、小さな石碑が沢山並んでいた。
石碑には、「申」や「庚申」という文字が刻まれていた。
並んだ石碑の奥には、二本の立石があり、
天照皇大神、豊受姫大神と刻まれている。
他には、飯豊山や申田彦大神の文字も読み取れる。
金谷川駅の東2Kmほどの松川町浅川に鎮座。
4号線が高架になっている場所から
少し西へ入ると境内がある。
道に面して参道階段があり、
階段の上に鳥居と社号標。
階段を登ると正面に社殿がある。
拝殿の後方には、流造の本殿。
社殿の右手には、小さな石碑が沢山並んでいた。
石碑には、「申」や「庚申」という文字が刻まれていた。
並んだ石碑の奥には、二本の立石があり、
天照皇大神、豊受姫大神と刻まれている。
他には、飯豊山や申田彦大神の文字も読み取れる。
通称は、明神様。
創建年代は不詳。
欽明天皇の皇子・渟仲倉太珠敷命が
東国の不穏を鎮めるため、当地へ行幸し、
信夫湖に住む大熊を退治したが、
疲労困憊し崩御したと噂が流れ、
それを聞いた母・石姫は嘆きのあまり黒沼に身を投げた。
供奉の健夜依米主従の四人は嘆いて黒沼赤沼を巡見。
古浅川の自現明神のお告げにより、
大岩を切り開き、黒沼赤沼の水を大熊川に抜き、
干潟となして石姫を埋めたという。
後、欽明天皇の奉聞および地名にちなんで
黒沼大明神として祀ったという。
一方、皇子・渟仲倉太珠敷命は征伐の後
帰京して、敏達天皇となったという。
拝殿の賽銭箱や本殿にかけられた幕には、九曜紋。創建年代は不詳。
欽明天皇の皇子・渟仲倉太珠敷命が
東国の不穏を鎮めるため、当地へ行幸し、
信夫湖に住む大熊を退治したが、
疲労困憊し崩御したと噂が流れ、
それを聞いた母・石姫は嘆きのあまり黒沼に身を投げた。
供奉の健夜依米主従の四人は嘆いて黒沼赤沼を巡見。
古浅川の自現明神のお告げにより、
大岩を切り開き、黒沼赤沼の水を大熊川に抜き、
干潟となして石姫を埋めたという。
後、欽明天皇の奉聞および地名にちなんで
黒沼大明神として祀ったという。
一方、皇子・渟仲倉太珠敷命は征伐の後
帰京して、敏達天皇となったという。
本殿は、伊達政宗の寄進のよるもので、
九曜紋の幕も寄進したという。
[出典]
http://www.genbu.net/data/mutu/kuronuma2_title.htm
2014年11月19日水曜日
- いか様に 寝て明せとて侍人の 来ぬだにあるを秋風ぞ吹く (秋夜恋を 惟宗忠景 『続古今和歌集』 巻十二 恋歌二)
- 置く露を いかにしほれとふし衣 ほさぬ袂に秋のきぬらむ (親の思ひに侍りける頃 『続古今和歌集』 巻十六 哀愁歌) ※この作品は、父忠綱の死を悼んだものであるとする説と、母の死を悼むものであるとする説が存在する。 「島津忠綱」の項目参照。
- 夜舟こぐ ゆらの湊の潮風に おなじとわたる秋の月影 (『続拾遺和歌集』 巻第五 秋下)
- いつはりの 心あらじと思ふこそ たもてる法のまことなりけれ (五戒歌の中に、不妄語戒 『新後撰和歌集』 巻第九 釈教)
- 山里に しばしは夢もみえざりき なれてまどろむ峯の松かぜ (山家の心を 『玉葉和歌集』 巻第十六 雑三)
2014年11月14日金曜日
明治2年9月になって容保と喜徳の禁固が解かれ、容保の実子である容大(かたはる)が幼くして家督相続を許され、旧南部藩領であった一部地域(二戸郡金田一村以北の三戸、五戸、野辺地、田名部)を3万石として賜り、立藩を許可される。容大は併せて北海道の四郡(瀬棚郡、太櫓郡、歌棄郡、山越郡)の支配をも任された。ただし、土地の豊かな七戸、八戸は意図的に拝領地からはずされたため、実高は7000石に過ぎなかった。
明治3年4月、三戸一帯の取締りにあたっていた黒羽藩は、旧三戸代官所において斗南藩に対する領地引継ぎの手続きを完了する。斗南藩では最初、藩庁を五戸代官所跡(現五戸町)に置いた。旧会津藩士および家族たちが、会津、東京、新潟などから移住を開始したのは、この手続きが完了した翌日からである。この後、明治4年7月14日をもって廃藩置県が行われ、弘前、八戸、七戸、斗南、黒石などが県と改称、同年9月にこれらを弘前県に合併、同年9月23日には青森県と改称され、現在の青森県が誕生するのである。すなわち、斗南藩とは実質1年半ほどの短命の藩だった。開拓にはほど遠い荒涼とした地に会津藩、松平家の再興の花を咲かせようとした人々の無念さと落胆は計り知れない。そして移住した人々は次々と北郡や三戸郡の地を後にしたのである。
明治3年4月、三戸一帯の取締りにあたっていた黒羽藩は、旧三戸代官所において斗南藩に対する領地引継ぎの手続きを完了する。斗南藩では最初、藩庁を五戸代官所跡(現五戸町)に置いた。旧会津藩士および家族たちが、会津、東京、新潟などから移住を開始したのは、この手続きが完了した翌日からである。この後、明治4年7月14日をもって廃藩置県が行われ、弘前、八戸、七戸、斗南、黒石などが県と改称、同年9月にこれらを弘前県に合併、同年9月23日には青森県と改称され、現在の青森県が誕生するのである。すなわち、斗南藩とは実質1年半ほどの短命の藩だった。開拓にはほど遠い荒涼とした地に会津藩、松平家の再興の花を咲かせようとした人々の無念さと落胆は計り知れない。そして移住した人々は次々と北郡や三戸郡の地を後にしたのである。
命がけの移動と移住
斗南への移住が開始されたのは前述のとおり明治3年4月からである。士族総数4000戸のうち2800戸、総数約1万7000人あまりである。「続会津の歴史」(葛西富夫著)によるとそのうち三戸郡(当時は三戸町、田子町、五戸町、新郷村など)への移住人員は約5600人、うち旧三戸町には800人ほどが移住したといわれている。
移住するにあたり、斗南藩では新政府に対して移住費と移住後の生活費として一時金と米3年分の拝借を願い出ている。会津戦争によってほとんどの家屋敷は荒れ果て、めぼしい物品も新政府軍による「分捕り」合戦の末にほぼ略奪され尽くし、大半が無一文だったからである。これに対して新政府は御扶持米ならびに移住手当緒入費として3万石を即時に、残り1万5000石を9月に下渡し、それより先の7月には東京や若松・越後高田でまだ斗南に移住していない者の移住費や生活費として玄米1200石、金17万両を下渡した。また、斗南藩としても陸路を辿る者や家族に対し、旅籠代(食費込み)は後に藩が一括して支払うことを条件に、各自に12銭5厘の宿札を多数持参させた。だがこれはさほど役には立たなかった。というのも明治2年、南部の領地は大凶作だったため、明治3年は米価が高騰する一方だったのである。しかも朝敵、賊軍であり、新たな小藩となった斗南藩の宿札であっただけに、宿泊に難色を示す旅籠が多く、盛岡では宿泊は渋々許可したものの、食事は粥のみという宿も少なくなかったという。
移住といっても今のように準備万端整えてというわけではない。大半が着の身着のままという有様である。生活に最低限必要な衣類や什器類などを持つのがせいぜいであり、斗南の地に落ち着いてから生活道具を送ってもらうよう計らった家族などはごく少数だった。
移住方法は船による海路と、陸路の二つに分かれた。東京に謹慎していた斗南藩士約300名は明治3年4月17日に蒸気船で品川を出帆する。常陸沖、磐木沖、金華山沖を経て19日に鮫港(八戸)に上陸、翌20日に三戸入りを果たしている。このルートの他に、西回りルートもあった。会津や越後高田から新潟まで出て汽船に乗船、野辺地に着いてから五戸、三戸へと移った人々である。多くが山国の会津から出たことはなく、海を見るのも蒸気船に乗るのも初めてという人々であり、船酔いに苦しめられたと各種の記録にある。
船酔いに苦しめられたものの、海路ルートで斗南にたどり着いた人々は恵まれたほうだった。移住地までに数日を要しただけであり、風雨にさらされることなく横になって休むこともできたからだ。哀れだったのは陸路を選択した、選択せざるを得なかった人々である。道路が今のように整備されてなかった仙台道、松前道を辿っての斗南入りは、健康な男女でも相当な不安が募ったに違いない。しかも老人や病人さえも混じっていたのである。会津藩では老人や病人に限り、駕籠代は政府が面倒をみてくれるよう懇願した。だが「賊軍・朝敵であるから駕籠の使用などはもってのほか」と許可はおりなかった。
白虎隊士として飯盛山で自刃した間瀬源七郎の姉、間瀬みつも家族総出で斗南に向かうことを決意、手記「戊辰後雑記」にこう書き記している。「若松を出発する時には、私ども一家に対し、人夫1人宛、年寄りには駕籠を用意してくださるとのことで、そのつもりでおりましたところが、猪苗代に着いてみますと、年寄りに駕籠を出してくださるということが沙汰やみとなりましたので、私共一家にとってこれが一大難儀のことになりました。そうかといって老母を南部まで歩かせることもできず、南部の三戸まで駕籠を雇わねばならず、これに対する毎日の支払いのため、最初の予定が大変狂ってしまいました」と嘆いている。みつ家族はまだ金銭的に余裕があったようだが、大半の移住者は長旅が困難な老人、病人を僅かな荷物と共に大八車に乗せて引いた。持ち物は家系図と位牌、そして飯炊き釜とわずかな什器類である。所持金もほとんどないまま数十人、百数十人単位で黙々と北上する姿はまさに難民の群れであった。
陸路ルートでも気候に恵まれた春から夏にかけて移住を果たした人々はまだましだった。悲惨だったのは初秋から晩秋にかけて斗南を目指した人々である。今でこそ温暖化の影響だろうか、10月の終わりまで暖かい日が続くが、一世紀前の青森、岩手では、その年によっては9月に早くも晩秋、10月にかけては冬の天候を迎えたことが記録にも残っている。こうした中、移住者たちは一日に3回、4回と草鞋を取替え、冷たい雨やみぞれや叩かれ、着替えもままならず、かつおぶしをかじって空腹に耐え、悪路をひたすら斗南を目指したのである。しかし道中での苦難に耐え切れず途中で脱藩する者も続出、行き倒れになって路傍に絶命するというケースも少なくなかった。
老人や病人を抱えての陸路での移住はやはり無謀な行為といえた。「太政類典第1編第93巻」によると、会津若松から病気のまま病院から移住した者は119人いたという。彼らに移住の指示が出されたのは初冬の10月。新天地である斗南の地にたどり着くことなく、飢えや寒さにより仙台や盛岡などで絶命した人々は少なくない。また、斗南の地に足を踏み入れて間もなく無念の死を迎えたケースもあった。現岩手県二戸市にある聖福院という寺には、斗南藩士の墓と呼ばれる墓石が二基ある。伝承によれば会津藩士の妻が下僕らしき侍とともに斗南の目的地へ向かう途中、健康を害して下斗米の地にとどまり、下僕は明治4年3月に、女性は同年5月に亡くなったのだという。女性は「中野藤蔵」(甲賀之者 大目付支配 9石3人扶持か?)の妻であり、下僕らしき侍は「鈴木丈助重興」と墓碑には彫られている。彼らが目指した地はどこだったのだろうか。
晩秋に陸路を経て三戸へ向かった一団のなかに、大庭勇助の一家もいた。この大庭家は後述するが、三戸町に移住後、勇助の子である恒次郎、茂、紀元の三氏が三代にわたって三戸町の教育界に多大な貢献をした家柄であると同時に、「会津三碑」とも深い関わりを持つ。戊辰戦争で勇助(当時44歳)は青龍隊(藩士のうち36歳から49歳の者で構成。朱雀隊とともに会津正規軍の中核をなして各地で激戦を展開した)に属し、猪苗代で奮戦、戦後は越後高田藩に収容された。勇助はいったん会津若松に戻り、家族と再会を果たした後に旧知行地の処分を済ませる。そして一家は妻こよ、母さき、長女よし(11歳。三戸移住後、白虎隊隊士で自刃した林八重治の弟林茂樹に嫁ぐ)、長男の恒次郎(6歳)を伴い、斗南へと旅立ったのは明治3年10月19日のことである。
大庭家に伝わる「記事留」には斗南までの旅程と会計等が詳しく残されている。それによると一家と同行したのは63人。うち7歳以下の子供は5人。3歳以下1人。この一団の取締(団長)は赤井伴助。彼は戦時中、進撃隊(会津城下戦では佐川官兵衛支隊として突出、交戦)に所属し、戦後は勇助と同じく越後高田藩に収容されていた。勇助は一手御払い方、すなわち手形、旅費、現金などの取り扱いを担当する。一団は猪苗代、仙台、一関、盛岡などの主要な旅籠に宿泊、16泊17日を要して無事に三戸入りを果たした。路銀の総支出は1186貫80文。当時の貨幣価値に換算すると86両余りである。勇助一家のほかにも会津で家や土地を処分し、僅かながらも金銭的余裕のある家族がいたらしく、そのため他の移住者たちよりも比較的スムーズに長旅を果たせたらしい。
移住するにあたり、斗南藩では新政府に対して移住費と移住後の生活費として一時金と米3年分の拝借を願い出ている。会津戦争によってほとんどの家屋敷は荒れ果て、めぼしい物品も新政府軍による「分捕り」合戦の末にほぼ略奪され尽くし、大半が無一文だったからである。これに対して新政府は御扶持米ならびに移住手当緒入費として3万石を即時に、残り1万5000石を9月に下渡し、それより先の7月には東京や若松・越後高田でまだ斗南に移住していない者の移住費や生活費として玄米1200石、金17万両を下渡した。また、斗南藩としても陸路を辿る者や家族に対し、旅籠代(食費込み)は後に藩が一括して支払うことを条件に、各自に12銭5厘の宿札を多数持参させた。だがこれはさほど役には立たなかった。というのも明治2年、南部の領地は大凶作だったため、明治3年は米価が高騰する一方だったのである。しかも朝敵、賊軍であり、新たな小藩となった斗南藩の宿札であっただけに、宿泊に難色を示す旅籠が多く、盛岡では宿泊は渋々許可したものの、食事は粥のみという宿も少なくなかったという。
移住といっても今のように準備万端整えてというわけではない。大半が着の身着のままという有様である。生活に最低限必要な衣類や什器類などを持つのがせいぜいであり、斗南の地に落ち着いてから生活道具を送ってもらうよう計らった家族などはごく少数だった。
移住方法は船による海路と、陸路の二つに分かれた。東京に謹慎していた斗南藩士約300名は明治3年4月17日に蒸気船で品川を出帆する。常陸沖、磐木沖、金華山沖を経て19日に鮫港(八戸)に上陸、翌20日に三戸入りを果たしている。このルートの他に、西回りルートもあった。会津や越後高田から新潟まで出て汽船に乗船、野辺地に着いてから五戸、三戸へと移った人々である。多くが山国の会津から出たことはなく、海を見るのも蒸気船に乗るのも初めてという人々であり、船酔いに苦しめられたと各種の記録にある。
船酔いに苦しめられたものの、海路ルートで斗南にたどり着いた人々は恵まれたほうだった。移住地までに数日を要しただけであり、風雨にさらされることなく横になって休むこともできたからだ。哀れだったのは陸路を選択した、選択せざるを得なかった人々である。道路が今のように整備されてなかった仙台道、松前道を辿っての斗南入りは、健康な男女でも相当な不安が募ったに違いない。しかも老人や病人さえも混じっていたのである。会津藩では老人や病人に限り、駕籠代は政府が面倒をみてくれるよう懇願した。だが「賊軍・朝敵であるから駕籠の使用などはもってのほか」と許可はおりなかった。
白虎隊士として飯盛山で自刃した間瀬源七郎の姉、間瀬みつも家族総出で斗南に向かうことを決意、手記「戊辰後雑記」にこう書き記している。「若松を出発する時には、私ども一家に対し、人夫1人宛、年寄りには駕籠を用意してくださるとのことで、そのつもりでおりましたところが、猪苗代に着いてみますと、年寄りに駕籠を出してくださるということが沙汰やみとなりましたので、私共一家にとってこれが一大難儀のことになりました。そうかといって老母を南部まで歩かせることもできず、南部の三戸まで駕籠を雇わねばならず、これに対する毎日の支払いのため、最初の予定が大変狂ってしまいました」と嘆いている。みつ家族はまだ金銭的に余裕があったようだが、大半の移住者は長旅が困難な老人、病人を僅かな荷物と共に大八車に乗せて引いた。持ち物は家系図と位牌、そして飯炊き釜とわずかな什器類である。所持金もほとんどないまま数十人、百数十人単位で黙々と北上する姿はまさに難民の群れであった。
陸路ルートでも気候に恵まれた春から夏にかけて移住を果たした人々はまだましだった。悲惨だったのは初秋から晩秋にかけて斗南を目指した人々である。今でこそ温暖化の影響だろうか、10月の終わりまで暖かい日が続くが、一世紀前の青森、岩手では、その年によっては9月に早くも晩秋、10月にかけては冬の天候を迎えたことが記録にも残っている。こうした中、移住者たちは一日に3回、4回と草鞋を取替え、冷たい雨やみぞれや叩かれ、着替えもままならず、かつおぶしをかじって空腹に耐え、悪路をひたすら斗南を目指したのである。しかし道中での苦難に耐え切れず途中で脱藩する者も続出、行き倒れになって路傍に絶命するというケースも少なくなかった。
老人や病人を抱えての陸路での移住はやはり無謀な行為といえた。「太政類典第1編第93巻」によると、会津若松から病気のまま病院から移住した者は119人いたという。彼らに移住の指示が出されたのは初冬の10月。新天地である斗南の地にたどり着くことなく、飢えや寒さにより仙台や盛岡などで絶命した人々は少なくない。また、斗南の地に足を踏み入れて間もなく無念の死を迎えたケースもあった。現岩手県二戸市にある聖福院という寺には、斗南藩士の墓と呼ばれる墓石が二基ある。伝承によれば会津藩士の妻が下僕らしき侍とともに斗南の目的地へ向かう途中、健康を害して下斗米の地にとどまり、下僕は明治4年3月に、女性は同年5月に亡くなったのだという。女性は「中野藤蔵」(甲賀之者 大目付支配 9石3人扶持か?)の妻であり、下僕らしき侍は「鈴木丈助重興」と墓碑には彫られている。彼らが目指した地はどこだったのだろうか。
晩秋に陸路を経て三戸へ向かった一団のなかに、大庭勇助の一家もいた。この大庭家は後述するが、三戸町に移住後、勇助の子である恒次郎、茂、紀元の三氏が三代にわたって三戸町の教育界に多大な貢献をした家柄であると同時に、「会津三碑」とも深い関わりを持つ。戊辰戦争で勇助(当時44歳)は青龍隊(藩士のうち36歳から49歳の者で構成。朱雀隊とともに会津正規軍の中核をなして各地で激戦を展開した)に属し、猪苗代で奮戦、戦後は越後高田藩に収容された。勇助はいったん会津若松に戻り、家族と再会を果たした後に旧知行地の処分を済ませる。そして一家は妻こよ、母さき、長女よし(11歳。三戸移住後、白虎隊隊士で自刃した林八重治の弟林茂樹に嫁ぐ)、長男の恒次郎(6歳)を伴い、斗南へと旅立ったのは明治3年10月19日のことである。
大庭家に伝わる「記事留」には斗南までの旅程と会計等が詳しく残されている。それによると一家と同行したのは63人。うち7歳以下の子供は5人。3歳以下1人。この一団の取締(団長)は赤井伴助。彼は戦時中、進撃隊(会津城下戦では佐川官兵衛支隊として突出、交戦)に所属し、戦後は勇助と同じく越後高田藩に収容されていた。勇助は一手御払い方、すなわち手形、旅費、現金などの取り扱いを担当する。一団は猪苗代、仙台、一関、盛岡などの主要な旅籠に宿泊、16泊17日を要して無事に三戸入りを果たした。路銀の総支出は1186貫80文。当時の貨幣価値に換算すると86両余りである。勇助一家のほかにも会津で家や土地を処分し、僅かながらも金銭的余裕のある家族がいたらしく、そのため他の移住者たちよりも比較的スムーズに長旅を果たせたらしい。
[出典]
http://soumai.p-kit.com/page161859.html
明治二年一月になって、塩川と猪苗代に謹慎していた会津藩士たちはそれぞれ越後高田と東京へ護送されることとなった。その地で会津藩への最終処分決定を待つのである。
東京での謹慎所は「飯田橋火消屋敷」「小川町講武所」「一橋門内御舂屋」「山下門内松平豊前守元屋敷」「神田橋門外騎兵屋敷」「護国寺」「芝増上寺」「麻布真田屋敷」などであり、総人数は二,八七〇余人を数えたというが、その中央本部の観を呈していたのは山川大蔵のいる「飯田橋火消屋敷」であった。山川はここで各謹慎所間との連絡をとりつつ、新政府要人とも面会し、会津藩再興へ向けて活動を続けていた。
[出典]
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sub21.htm
この名簿は、「会津藩高田幽収名簿」「会津藩北陸高田謹慎名簿」「高田藩謹慎中雑記」「渋田見縫殿助羽州出兵戦記」等を参考にし、閲覧者の探索を容易にするために五十音順に人名を並べ替え、尚且つ呆嶷の独断によって誤りと思われる人名その他を修正したものです。
よって原典とは必ずしも同一ではありませんので、あらかじめ御諒承ください。
[出典]
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/kinshin-sha-meibo/framepage1.htm
相生定之助 | 高田 浄興寺 | 寄合組梶原分隊 |
相生勝吾 | 東京 | |
相生豊太郎 | 東京 | |
相川清之進 | 高田 浄興寺内善福寺 | 朱雀寄合五番隊侍分 |
相川元三郎 | 高田 願重寺 | 一番独礼以下寄合隊 |
相沢清蔵 | 東京 | 脱走 |
相沢七右衛門 | 東京 | |
相田重治 | 高田 本願寺掛所 | 兵糧方士分 |
相葉安之助 | 高田 浄興寺内浄正寺 | 白虎士中二番隊 |
相原幾之助 | 高田 本誓寺内長圓寺 | 桜井隊士分 |
相原清三 | 東京 | |
相山運蔵 | 高田 浄興寺 | 寄合組梶原分隊 |
相山慎兵衛 | 高田 本誓寺内光照寺 | 玄武寄合隊士分 |
青木丑之助 | 東京 | |
青木亀之助 | 高田 本願寺掛所 | 城取新九郎隊付属結義隊足軽分 |
青木軍之烝 | 高田 本願寺掛所 | 朱雀隊士分 |
青木七之助 | 高田 願重寺地内 | 一番独礼以下寄合隊士分 |
青木庄五郎 | 高田 願重寺 | 一番独礼以下寄合隊 |
赤井萩八 | 高田 大厳寺 | 遠山隊 |
赤井伴助 | 高田 高安寺 | 進撃隊士分 |
赤岡平助 | 高田 本願寺掛所 | 青龍三番隊士分 |
赤川清之助 | 高田 真宗寺内林西寺 | 寄合隊侍分 |
赤城岩之進 | 東京 | |
赤城禎四郎 | 高田 本願寺掛所 | 城取新九郎隊付属結義隊侍分 |
縣 左門 | 高田 長命寺 | 士中寄合隊分隊 |
赤塚英三郎 | 東京 | |
赤塚勘四郎 | 高田 常願寺 | 独礼以下三番寄合隊 |
赤塚左源太 | 高田 常願寺 | 独礼以下三番寄合隊 |
赤塚常之助 | 高田 常栄寺 | 士分 |
赤塚鉄蔵 | 高田 光國寺 | 独礼以下寄合隊坂十郎分隊 |
赤塚藤三郎 | 東京 | |
赤塚藤次郎 | 高田 海林寺 | 寄合組士分 |
赤塚房蔵 | 東京 | |
赤沼勝吉 | 東京 | |
赤羽 登 | 高田 浄林寺 | 二番士中寄合隊分隊 |
赤羽源八 | 東京 | |
赤羽助九郎 | 東京 | |
赤羽辰之進 | 高田 善導寺内養樹院 | 士分 |
赤羽忠之助 | 高田 善行寺 | 砲兵一番隊士分 |
赤羽直次郎 | 東京 | |
赤羽壽之助 | 高田 神宮寺 | 朱雀隊士分 |
赤羽英記 | 高田 善行寺本堂 | 一柳盛之允分隊士分 |
赤羽百之助 | 東京 | |
秋尾久吾 | 東京 | |
秋尾久吉 | 東京 | |
秋月新九郎 | 東京 | |
秋月新六郎 | 高田 善行寺内幸林坊 | 目付 |
秋月悌次郎 | 東京 | 軍事奉行添役 |
秋元幾弥 | 高田 真宗寺内法林寺 | 寄合丸山分隊士分 |
秋元近左衛門 | 東京 | |
秋元又市 | 東京 | |
秋山市左衛門 | 東京 | |
秋山運平 | 高田 長遠寺 | 足軽分 |
秋山左久 | 高田 本誓寺 | 青龍隊士分 |
秋山大蔵 | 高田 浄興寺 | 寄合組梶原分隊 |
秋山文左衛門 | 高田 本誓寺 | 青龍隊士分 |
秋山文助 | 高田 浄興寺内善福寺 | 朱雀寄合五番隊侍分 |
浅井新次郎 | 高田 日朝寺 | 朱雀士中三番隊 |
浅井鉄平 | 高田 浄興寺 | 白虎隊分隊 |
浅岡源三郎 | 高田 本誓寺 | 青龍隊士分 |
浅岡新太郎 | 東京 | |
安積順之助 | 東京 | |
安積弥太夫 | 東京 | |
浅沼利助 | 高田 長遠寺 | 足軽分 |
浅羽忠兵衛 | 高田 願念寺 | 士中寄合隊 |
穴沢久蔵 | 高田 長恩寺 | 会義隊足軽分 |
穴澤九郎 | 高田 大厳寺 | 遠山隊侍分 |
穴澤清吾 | 高田 光國寺 | 御用人支配支配足軽分 |
穴沢清助 | 東京 | |
穴澤忠吾 | 高田 善導寺内慶安院 | 侍分 |
穴沢常蔵 | 高田 常栄寺 | 士分 |
穴沢富四郎 | 高田 長遠寺 | 足軽分 |
穴澤林之助 | 高田 浄興寺 | 寄合組梶原分隊 |
安部井洗之助 | 高田 浄興寺内浄泉寺 | 白虎隊望月分隊士分 |
阿部且四郎 | 高田 本願寺掛所 | 兵糧方侍分 |
安倍志賀蔵 | 東京 | |
阿部新助 | 高田 称念寺 | 預方士分 |
阿部新蔵 | 高田 称念寺 | 預方士分 |
阿部壮雲 | 高田 横手浄國寺本堂 | 城取新九郎付属士分 |
安部惣助 | 高田 浄林寺 | 二番士中寄合隊分隊 |
安倍直蔵 | 高田 極楽寺 | 寄合組侍分 |
安部八蔵 | 高田 浄興寺 | 白虎隊分隊 |
阿部八之進 | 東京 | |
天野政之助 | 高田 称念寺 | 侍分 |
安味帯刀 | 高田 本誓寺 | 青龍隊士分 |
安味泰助 | 東京 | |
荒井源之助 | 東京 | |
荒井権内 | 東京 | |
荒井定八 | 東京 | |
荒井治郎 | 高田 本願寺掛所 | 朱雀隊侍分 |
新井富四郎 | 高田 常教寺 | 新練隊士分 |
荒井直五郎 | 東京 | 脱走 |
荒井万吉 | 高田 本願寺掛所 | 朱雀隊侍分 |
荒井力四郎 | 東京 | |
荒井良助 | 高田 本願寺掛所 | 朱雀隊士分 |
荒川一郎 | 高田 長命寺 | 士中寄合隊分隊 |
荒川清助 | 高田 栄昌寺 | 独礼以下三番寄合隊分隊 |
荒川辰四郎 | 高田 浄光寺 | 寄合組隊足軽分 |
荒川八郎 | 高田 善行寺本堂 | 一柳盛之允分隊士分 |
荒川類右衛門 | 高田 高安寺 | 進撃隊士分 |
荒木勝治 | 高田 本誓寺内光照寺 | 玄武寄合隊士分 |
新城金治 | 東京 | |
荒木粂吉 | 高田 浄興寺 | 白虎隊分隊 |
荒木源三郎 | 高田 常教寺 | 新練隊侍分 |
新城鉄太郎 | 高田 本願寺掛所 | 城取新九郎隊付属結義隊足軽分 |
新城平十郎 | 高田 常教寺内浄連寺 | 郡方士分 |
荒地国太郎 | 高田 本誓寺内長圓寺 | 桜井隊侍分 |
有坂忠三郎 | 東京 | |
有坂武助 | 高田 見附常國寺地内 | 大澤分隊侍分 |
在竹直江 | 高田 光國寺 | 御用人支配支配士分 |
有賀斎宮 | 高田 最尊寺 | 別撰組士分 |
有賀瀧蔵 | 高田 常教寺内浄連寺 | 郡方侍分 |
有賀文左衛門 | 高田 願念寺 | 士中寄合隊 |
荒地富右衛門 | 東京 | |
安西与三郎 | 高田 善導寺内慶安院 | 侍分 |
安藤織江 | 高田 寿遠寺 | 御用人支配侍分 |
安藤織之助 | 高田 本誓寺内長圓寺 | 桜井隊士分 |
安藤久太郎 | 東京 | |
安藤新三郎 | 東京 | |
安藤慎蔵 | 東京 | |
安藤清蔵 | 東京 | |
安藤父助 | 高田 極楽寺 | 独礼以下寄合組士分 |
安藤常次郎 | 高田 本誓寺内長楽寺 | 士分 |
安藤恒千代 | 高田 日朝寺 | 朱雀士中三番隊 |
安藤孫市 | 高田 善行寺内幸林坊 | 侍目付 |
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