2014年11月5日水曜日


7)源氏再興と村上氏
 頼朝は、治承4(1180)年8月17日、以仁王の令旨に応じて平氏打倒の兵をあげた。やがて頼朝は相模の鎌倉を本拠とし、11月17日、御家人統率のために侍所を置き、その別当に和田義盛を任じ、遠江以東の「東国」将士の進退を調べさせた。頼朝はこの後3年間、京都の朝廷から独立し東国を支配した。しかし頼朝は、挙兵当初からひそかに後白河法皇と 提携していた。寿永2(1183)年平氏が都落ちし、法皇の院政が機能を回復すると、法皇と頼朝との交渉は頻度を増した。朝廷は、当面の困窮を免れるた め、寿永2年10月の宣旨によって、頼朝に東海・東山・北陸3道の荘園・公領の知行回復を沙汰し、これに従わざる者共の追討を命じた。ここに東国は朝廷の 体制下に伏した。以後武家政権は朝廷の有名無実化した体制と重層的支配を明治維新まで引きずっていく。
 文治元(1185)年、平氏は滅亡した。頼朝・義経兄弟の対立が生まれ、法皇が義経に頼朝追討の宣旨を与えていた負い目に乗じ、頼朝は公文所別当大江広元の献言を採用し、11月29日、朝廷に迫って守護・地頭の設置を聴許させた。それまで頼朝は私的に地頭を設置していた。ここで初めて公的制度となった。守護は国々に置かれ、警察・警備を担ったが、後に大番役催促と謀反人・殺害人の刑事上の事件を審理する検断などにも当たった。制度的には、朝廷が派遣した国司の公事、地頭の諸務などに干渉することを禁じられていたが、実効支配の結果と国司体制の形骸化により、次第に領主化し、苛烈な淘汰の末、戦国大名へ自立していった。
 地頭とは平安時代、荘園領主が土地管理のために現地に置いた荘官のことであったが、頼朝が、行家・義経を捕らえる名目で、勅許を得て各地の荘園・公領の区別なく、御家人が補任され、土地の管理・年貢の徴収・検断などの権限を持ち、次第に在地領主として成長していった。承久の乱以前に補任されたものを本補地頭、以後のものを新補地頭と呼んだ。地頭は荘園・公領の区別なく、1段毎に5升の兵糧米を徴収し、その財源とした。
 建久元(1190)年頼朝は上洛し、法皇より日本国総追捕使・総地頭の地位を確認され、御家人をして「諸国守護」を担わせる事となった。さらに建久3(1192)年7月、頼朝は征夷大将軍に任命された。
 頼朝将軍家御家人になるには、東国武将であれば、頼朝に見参するのが当然でそれにより適った。源平の盛衰を懸けた戦の最中以後、その勢威が西国に及ぶと簡略化され、頼朝の代官に交名を差し出し、これに応え頼朝から下文が与えられ御家人となった。御家人の素性は往昔以来の開発領主が殆どであった。律令制が根幹とした公地制度が原則的に維持され、不安定な立場にあった武家諸士の事実上の領有を、頼朝は『御下文』により安堵した。それにより頼朝御恩地として初めて公認され、それが主従関係の実相となり、その対価として御家人役勤仕の根拠となった。
 「 下 信濃国塩田庄 補任 地頭職事 左兵衛尉惟宗(島津)忠久
   右人為地頭職、 従行庄務、 御年貢以下、 任先例、 可致其勤之状如件、以下
    文治2年正月8日」
 惟宗(島津)忠久は島津氏の初代、「島津家譜」などの系図類によれば、頼朝の庶長子、母は比企能員の妹丹後局、近衛家の家司惟宗家が出自となっている。
 島津荘は日向国諸県(もろかた)郡島津院(宮崎県都城市郡元付近)に発し、日向南部、大隅、薩摩の南九州3国に広がった大荘園で、本所は 摂関家の近衛家であった。鎌倉期には8,000町歩あったという。地頭職は鎌倉初頭から、惟宗忠久が補任され、惟宗家は当初からの荘園の目代であったか ら、公武両所職を兼帯した事になる。
 文治2年正月8日、頼朝は島津忠久小県郡塩田荘地頭職に補任し花押のある下文を与えている。
 文治5(1189)年7月から9月にかけ、頼朝鎌倉軍と奥州藤原氏との東北地方における一連の戦いを総称して奥州藤原氏征伐という。忠久も従軍している。この戦役により、頼朝による全国的武士政権が確立した。この戦功によるのか、建久8(1197)年12月、島津忠久は大隅国、薩摩国の守護職に任じられる。のち日向の守護も兼ねた。
 承久の乱後、後鳥羽上皇を初め京方公家領の膨大な没官地に、信濃や東国の武士達が地頭職に補せられた。それを新補地頭と呼んだ。諏訪氏などが、広く散ったのも多くは、この時期であった。当然、信濃国にも他国から入国してきた。薩摩氏埴科郡坂城郷の地頭に任じられてきた。薩摩氏は、満洲民族の前身である女真族による、寛仁3(1019)年の刀伊の入寇(といのにゅうこう)の鎮圧に戦功があった武人平為賢(ためたか)を家祖としている。この一族に九州総追捕使を務めた肥前国藤津荘の伊佐平次兼元がいて、その子孫から川辺氏、頴娃(えい)氏、給黎(きいれ)氏、薩摩氏、別府氏、揖宿(いぶすき)氏、知覧氏、阿多氏など、今日の鹿児島の地名に残る薩摩武士の一族が派生した。吾妻鏡宝治元年6月の条に、薩摩前司祐長とあり、薩摩守であったと知られる。
 東信の埴科郡坂城の北条(きたじょう)及び南条を薩摩氏の工藤一族が領有し居住していたことは、嘉暦4(1329)年3月の鎌倉幕府下知 状に「坂木南条薩摩十郎左衛門尉跡」、建武2(1335)年9月22日の市河経助軍忠状に「薩摩刑部左衛門入道北条仁相構城郭之処」とあることからも確認 できる。『続群書類従』所収の「工藤二階堂系図」には、工藤祐経の孫、即ち祐氏に坂木北条八郎、その弟・祐広に坂木南条十郎とあげて、上記両文書を裏付けている。「工藤二階堂系図」によれば、彼らの祖父は工藤祐長で、曽我兄弟の仇である。父祐長は、吾妻鏡建歴3(1213)年2月の条に、伊東六郎祐長と記されている。

[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/murakami/mu1.htm#%3CB%3E%EF%BC%93%EF%BC%89%E4%BF%A1%E6%BF%83%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%8F%E3%81%AE%E7%A5%96%3C/B%3E

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