2014年11月5日水曜日
7)諏訪武士の誕生史
10世紀中頃、租税徴収・軍事警察等の分野で、中央政府から現地赴任する筆頭国司へ大幅な権限委譲が行われた。任国支配に大きな権限を有する国司の最高官・受領が登場する。国内に自らの行政権をあまねく及ぼすため、行政機能の強化を目的として、国衙に政所(留守所;文書管理のみならず行政全般の指揮命令、訴訟、財政等の実務機関)・田所(たどころ;田地の調査を司る)・税所(さいしょ;徴税実務を行う)・馬所(駅馬と国衙用の馬を管理)・細工所(職人技能者を支配)・健児所・検非違使所等の受領直属機関の政庁・「所(ところ)」を設置した。「所」の目代(もくだい)には、京下りの受領の子弟郎等を当て、その下に実務官僚として職員・雑色人(ぞうしきにん)を置く。その下級職員に現地の富豪層・田堵負名が在庁官人として採用され、地方行政の実務にあたるようになる。このような状況は10世紀後半から11世紀にかけて顕著となっていき、国司4等官制は実体を失い、受領と私的関係がない任用の「掾(じょう)」「目(さかん)」は、在京して俸給を受けるだけとなる。以後受領主体の国内体制が確立する。
受領が宿舎とする館や国庁を警護する館侍(たちさむらい)がいた。また国一宮の神事や軍事訓練に国内の有力武士団の動員は不可欠で、有力国侍(くにさむらい)の国衙登録がなされていく。公地公民の律令制度は、未だ基本法として有効であり、未開の地は、総て国衙領であるから、武士団の武芸練磨のため山林原野を狩場とする狩猟特権を認めた。諏訪上社では神野の地・原山であり、下社では霧ヶ峰の旧御射山であった。それが御贄狩として諏訪大社の御狩神事に繋がっていき、大祝一族を諏訪武士として成長させた。
『前田家本神氏系図』によれば、桓武天皇の御子・有員から14代後の諏訪頼信の時代から、系図的に明らかになる。頼信の子為信から次の為仲に継がれ、為仲から弟為貞に移って世襲となった。この為貞の嫡流である3男・諏訪敦家は鷹上手であったらしく検校に名を留め、長男貞方が大祝となる。この諏訪貞方の嫡流が大祝貞光であり、禰津貞直の猶父となる。
奥州の前9年の役(天喜4<1056>年~庚平5<1062>年)に際し、大祝為信は、現.人神であるから自ら戦塵にまみれる事が出来ないので、子の為仲を総大将として神長守矢守真・茅野敦貞等を従わせ出陣させている。この長期間の戦闘に参軍している事により、諏訪氏が既に在地領主として武士化し、経済的な基盤も確立していたとみられる。
前九年の役以来、諏訪為仲は源義家と親交が厚くなり、後三年の役に際しても、奥州で苦戦の義家はその援軍を依頼してきた。当時為仲は為信を継いで大祝になっていた。古代から「大祝は現人神、人馬の血肉(ちにく)に触れず、況や他国をや」の厳しい“神誓”があって、諏訪の地を離れられなかった。しかし義家の下で戦いたいとの決意は固く、父・為信はじめ神使(おこう)一族や氏人の反対を退け、再度奥州に出陣した。この戦いで、為仲は武名を上げ、さすがに武神と知れ渡り、武神大祝一族は信濃全域に広がり、その一族は、各地で諏訪明神を、氏神として勧請したため諏訪大社の分社が各地に広まる切掛となった。それを契機として、
合戦に勝利して、義家は睦奥守の立場から中央政府に国解を提出するが、これに対して政府は、「武衡・家衡との戦いは義家の私合戦」で、よって追討官符は発給しない、という対応をとった。これを聞いた義家は武衡らの首を路傍に棄てて、むなしく京都に上ることになる。 朝廷はこれ以上、義家が勢威を振るうことを嫌った。これにより義家は戦費も賄えず、さらに、受領としての功過定(こうかさだめ)に合格できず、当初の狙いである睦奥守重任も不可能となり、既に戦費として税収をそれに当てていたため、こんどは租税未済となり、私財で弁償しなければならなくなった。義家以後、源氏嫡流家は困窮していく。しかし、源氏の棟梁家としての地位は、神格化され、絶対的なものとなった。
後3年の役後、寛治元(1087)年12月、上洛する凱旋軍・源義家の陣中に為仲も同行していた。先に上洛した義家の奏上は、これ以上の台頭を嫌う白河院・関白師実に阻まれて、本隊の軍兵は東山道美濃国、莚田(むしろだ)の荘に長期駐屯を余儀なくされた。そのつれづれに、為仲は義家の弟・新羅三郎源義光の招請による酒宴に赴いた。その時、部下相互が喧嘩し死者を出すに及んで、棟梁家源氏を憚って為仲は自害した。それを聞いて義家は駆けつけると、為仲の鎮魂に諏訪神社を建て、莚田の荘を寄進したといわれている。現在の糸貫町の諏訪神社である。
これは、為仲が、諏訪の地を出てはならないとする“神誓を破ったことに対する神罰であると受け止められたので、遺児の為盛は、大祝の職に就けなかった。『諏方大明神画詞』によると、為盛の子孫は多かったが、共に神職を継がなかったので、為仲の弟の次男為継が大祝を継ぐが3日後に頓死し、また、その弟の三男為次が立つ、しかし7日目に急死、ようやく四男為貞が立って当職を継ぐことになり、後胤は10余代にわたり継承された。
保元元(1156)年、平安時代末に京都で発生した保元の乱では、武蔵国に次 いで信濃国の武士が多く参戦した。保元の乱の1年程前、源頼朝の父である源義朝は自己の勢力拡大を図り、長男の義平に弟である源義賢(木曽義仲の父)を討ち取らせ、上野国を手中に治めた。さらに源義朝は、父・源為義の4男源頼賢(よりかた)の討伐を名目に掲げて信濃国へ攻め込み自己の地盤を固めた。このような理由により保元の乱の頃 には、信濃国の武士の大半が源義朝の配下となった。
保元の乱の戦いの最中、源為朝の守る西河原面の門に、信濃国の住人根井大弥太、宇野太郎、望月三郎、諏訪平五、進藤武者、桑原の安藤次、安藤三、木曽中太、弥中太、禰津神平、静妻小次郎、熊坂四郎をはじめとして27騎が駆け入った。門の中で散々に戦ったので、為朝方の手取の与次、鬼田与三、松浦小次郎も討たれてしまった。為朝が頼みにしていた28騎の武士のうち、23人が討たれた上に、ほとんどが傷を負った、ということが保元物語に語られている。
平治元(1159)年源義朝と平清盛の争いを中心とした平治の乱が勃発した。源義朝には保元の乱と同様に、信濃国は源義朝の影響が強いことから多くの信濃の武士が味方をした。片桐景重(上伊那郡片桐中川村)、木曽中太、木曽弥中太、常葉井(飯山市常盤)、平賀四郎義宣(佐久市平賀)、片桐景重等が記録に残っている。この時に有名な話しが平家物語等に残っている。源義朝の息子で勇名を馳せた源義平(別名 悪源太)の片腕として戦った片桐景重(中川村)が、平清盛の息子である平重盛と内裏で戦ったことが記されている。平治の乱では源義朝が敗れ、源義朝側に参戦した信濃国の武士は、捕らえられるか討死にした。この時に多くの領地を平氏に没収されたが、数10年後に平氏を滅ぼした源頼朝が、父である源義朝と共に戦ってくれた恩に報いて、信濃武士の没収された領地を復旧している。
『神氏系図』には、千野太郎の欄外に「保元・平治の逆乱、養和・寿永の征伐(源氏と平家の争乱の時代)の時、禰津神平貞直と藤原次郎清親が、大祝の代官として参戦し、その武勇は比類が無かった」と記している。諏訪氏一族は源氏の郎党として活躍している。
鎌倉末期の嘉禎4(1238)年の文献、『諏訪上社物忌令(ぶつきれい)之事』に「南は鳴沢(茅野市西茅野安国寺)、北はこしき原(諏訪 市有賀)のうちは神聖地とし、罪人も殺してはならぬ」と定められている。宮川の南の平坦地が上社の直轄領荘園となり、武居荘と呼ばれた。上社大祝は時代と ともに荘園領主化し武力を養い、一族結束し信濃の有力武士団を形成した。
[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/busi/bu.htm
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