2014年11月5日水曜日


島津氏は、秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲み、主筋である藤原摂間家筆頭の近衛家の日向国島津荘(現宮崎県都城 市)の荘館(下司)として九州に下り勢力を拡大し、惟宗忠久が、新興勢力である源頼朝公から正式に同地の地頭職に補任され、この頃島津忠久と改名し、薩摩 国出水平野に城を築き拠点とした。

またこの時期、諏訪大社周辺の地頭職も補任されていたようで、島津氏は薩摩に諏訪社を勧進しました。やがて諸国に島津氏 は地頭職として赴任するようになりました。

1185年  源頼朝、島津忠久を信濃国塩田荘(現在の上田市塩田)地頭職補任する。
1221年  源頼朝、島津忠久を信濃国太田庄(現在の長野市南郷、赤沼、津野)地頭職補任する。
1329年  北条高時、信濃国の御家人に諏訪社五月会・御射山の役を輪番させる。

こ のようにして島津氏は信濃国に土着するようになりましたが、やがて、南北朝対立の争乱のなかで、島津宗家は薩摩・大隅を活動の場とし、次第に信濃との関係 は断たれていきました。その結果、信濃に残った庶子家が独立、信濃国の国人へと成長していったのであります。

そして、信濃国の島津氏も二つの流れができ、 これを相伝しました。
下記の2家がそれにあたります。

(長沼家) 
島津氏高祖・忠久の3男・豊後六郎左衛門尉忠直の曾孫・左京進光忠は信濃国長沼郷・黒河郷・下浅野福王寺郷の地頭職となり、信濃島津氏長沼家の祖となる。
(赤沼家)
越前島津氏元祖忠綱の3男忠景の孫・忠秀が、赤沼郷地頭職となり、信濃島津氏赤沼家の祖となる。


[出典]
http://www.jtb.co.jp/shop/ShopBlog.aspx?shopid=404&categoryid=16&branchno=1&month=201112

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