JR若松駅か
ら東北東1.3キロ、海抜270メートルのところに大塚山という古墳がある。この古墳は、昭和39年(1964年)に発掘、調査された結果、大和朝廷と直
接関係を持っていた会津の首長の墓であることが立証された。この古墳で発見された副葬品は、三角縁神獣鏡、素環頭大刀、それに碧玉硬玉を聖宝とするもので
あった。これが大和朝廷の伝承の記録と、ぴったり一致していることが、両者の関係の「正統性」を実証するものとされている。
大和朝廷10代の崇神天皇は、大和朝廷の勢力圏を拡大する為に、「四道将軍」を四方に派遣した。日本書紀は崇神10年9月の条に、北陸に大彦命(オオヒコ
ノミコト)を派遣し、また、東海には武亭川別(タケヌナカワワケ)を派遣したと述べている。別の文献である崇神記は、大毘古(オオヒコ)と建沼川別(タケ
ヌナカワワケ)の父子が旅の末に出会った所は相津(アイヅ)であった、と伝えている。
この古墳の発掘、検討の結果、会津の被葬者が、中部や関東においてさえ余り見られない程度に大和朝廷の文化を代表していることが判明した。これらをみれ
ば、東進してきた大和朝廷が、途中の諸地域を飛び越えて、会津に強力な政治拠点を構えたことを意味していると考えることが出来るであろう。すでに4世紀末
に、我国の古代の政治地理において、会津は「特別な土地」となっていたのである。
この大和朝廷の代表を受け入れて、古墳を作った会津の指導者の後継者たちは、次の段階では、全長127メートルもある大古墳を、河沼郡会津坂下(バンゲ)町に建設して、君権の最盛期を出現させる。亀ヶ森古墳がそれである。これは宮城県名取市雷神山古墳の170メートルの規模に次いで、東北では第2の大古墳である。
(注:上記の3つのパラグラフについては、会津若松市門田町の南御山遺跡その他がこの事をよく示している (「会津の歴史」豊田武監修、会津若松市発行、昭和44年の42ページの記述をもとに、その内容を筆者がわかりやすく書き直したものである)。
[出典]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dewaruss/aizu_histroy.htm
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