明治二年一月になって、塩川と猪苗代に謹慎していた会津藩士たちはそれぞれ越後高田と東京へ護送されることとなった。その地で会津藩への最終処分決定を待つのである。
東京での謹慎所は「飯田橋火消屋敷」「小川町講武所」「一橋門内御舂屋」「山下門内松平豊前守元屋敷」「神田橋門外騎兵屋敷」「護国寺」「芝増上寺」「麻布真田屋敷」などであり、総人数は二,八七〇余人を数えたというが、その中央本部の観を呈していたのは山川大蔵のいる「飯田橋火消屋敷」であった。山川はここで各謹慎所間との連絡をとりつつ、新政府要人とも面会し、会津藩再興へ向けて活動を続けていた。
[出典]
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sub21.htm
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