葦名氏の祖、佐原義連は三浦半島一帯を支配した三浦大介義明の末子。衣笠城の東南佐原(横須賀市佐原)の丘陵に城を構え佐原氏を名乗る。源頼朝の信頼は厚く軍功によって会津四郡を賜った。
義連はその孫達に会津の土地を与え、うち光盛が葦名を名乗ったと伝えられる。
宝
治元年(1247)三浦氏は北条時頼に滅ぼされ所領は没収された。光盛ら会津佐原氏は北条方に付いたため、北条氏から地頭代に任命され会津地方を統治した
(この時から会津との関係が始まったという説あり)。なお至徳元年(1384)、葦名直盛が会津に黒川城を築いたが、これが鶴ヶ城の始めとされる。
15世紀初頭南北朝に分かれ戦った会津の佐原一族は、猪苗代の猪苗代氏だけを残し葦名氏に滅ぼされていき、葦名盛氏の時代には葦名氏が会津一円の支配をほぼ完成した。
こ
の時期の葦名氏は伊達氏との同盟を結んでいたが、直系の当主が相次いで亡くなると、伊達氏と敵対していた常陸(茨城県)太田城佐竹義重の次男義広に葦名氏
を継がせた。これが伊達氏との対立を深刻にさせ政情が動揺。天正17年(1589)6月、磐梯山麓の磨上原の戦いで伊達政宗に大敗した義広は、葦名譜代に
黒川城を追われ常陸へ走り、葦名家は事実上滅亡した。
[出典]
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/yukari/rekishi/ashina.html
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