2014年11月5日水曜日
七)東国を地盤とする源義朝
義朝が幼少期に河内源氏の本拠地河内国のある畿内を離れ東国に下ったのは、父の為義から廃嫡同然に勘当されたためではないかとされる説もある。いずれにしろ為義とは別に東国を根拠地に独自に勢力を伸ばし相馬御厨・大庭御厨などの支配権に介入して在地豪族の有力者であった三浦義明・大庭景義らを傘下に治めた。
相馬御厨(そうまみくりや)は、現在の茨城県取手市・守谷市、千葉県柏市・流山市・我孫子市のあたりにあった伊勢神宮の寄進型荘園で、義朝の圧力を恐れ千葉氏がその所領を維持するため伊勢神宮に寄進したものであった。大庭御厨は相模国高座郡の南部、現寒川町・茅ヶ崎市・藤沢市にあった相馬御厨と同様、寄進型荘園の一つで鎌倉景政によって開発され伊勢神宮に寄進されたが、源義朝の乱入を防ぐことは出来なかった。河内源氏の主要基盤が東国となったのはこの義朝の代であり、特に高祖父の源頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷(かめがやつ)に館を構え、相模国一帯に強い基盤を築いた。
しかし義朝の勢力伸張は下野国の足利に本拠を置く義朝の大叔父・源義国の勢力と武蔵国などで競合することとなり緊張を生んだ。義国は新田・足利両氏の祖となる人物である。その後上洛していた義国の子の源義康(足利義康;足利氏の祖)と義朝は親しくなり、義国・義康父子と義朝は連携を強めることとなる。義朝は鳥羽院や藤原忠通に接近、仁平3(1153)年下野守に任じられると、在地領主である義国の結縁はさらに強固になった。
そのため、為義は嫡男義朝の東国支配が強固になるのを牽制するために遣わしたのが義朝の異母弟源義賢であるといわれる。義朝は久寿2(1155)年8月16日、東国に下向し勢力を伸ばしていた義賢を15歳の長男・義平に討たせた。義賢は武蔵国比企郡大蔵に館を構えていた。義平率いる軍勢は突如武蔵国の大蔵館を襲撃し、義賢とその義父秩父重隆共に討ち取った。これが大蔵合戦で、義賢の子で2歳の駒王丸は畠山重能の計らいで木曾へ逃れ、のちの木曾義仲となる。為義の4男頼賢(よ りかた)は、兄の義賢と父子の盟約を交わしたと言われる。頼賢は再起を図り信濃国へ逃れた。そして鳥羽法皇領の荘園を押領した。法皇は、義朝に対して、頼 賢追討の院宣を下す。義朝は信濃に下向し頼賢を降伏させた。この翌年の保元の乱に際して、義朝に従った武士は近江・美濃・尾張以東の16か国に及んだが、 最も人数が多かったのは武蔵国で、次が信濃国であった。
[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/saku/sa.htm
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