生涯[編集]
父は会津藩士雪下熊蔵。斗南から1871年(明治4年)8月に海軍生徒兵学校に進んだ。1874年(明治7年)7月「雲揚艦」乗組みとして実地訓練を受け、翌1875年(明治8年)4月に「筑波艦」乗組みとして日本海一周航海を行った後、12月6日アメリカへの航海に出発。1876年(明治9年)4月14日帰国した。この航海は日本の最初の練習航海である[2]。その後「清輝艦」乗組みとなり、9月6日、海軍少尉補に任じられた。雪下は兵学校(兵学寮)3期生の一人である。同艦乗組みとして西南戦争に従軍し、1877年(明治10年)3月9日熊本県船津沖にて小汽艇に乗り込み測量に従事中、銃撃を受け被弾。11日、長崎の海軍仮病院にて死去した。
母のサダ子[3]、兄の豊治は戊辰戦争において若松城中で戦死し、父は前年に死去しており祖母と継母が遺された。後年雪下家の養子となった雪下勝美は、海軍兵学校(36期)へ進み戦艦「長門」艦長、海軍大学校教官等を務め、海軍少将へ進んだ。
関連する人物[編集]
- 井上良馨:「清輝艦」艦長。
- 仁礼景範:雪下の戦死を公式報告。
- 山吉盛典:福島県令。雪下の遺族へ扶助料が早期に支給されるよう尽力。
- 角田秀松:「清輝艦」乗組海軍少尉。雪下と角田は同藩出身で、雪下戦死の際遺品等の世話をした。
- 深尾弘:雪下とは同藩出身で、ともに斗南から兵学校に進みイギリスに留学。少尉補で病没した。
出典[編集]
- ^ 『海軍兵学校物語』187頁。なお同書の記述は谷口尚真著『大海軍発展秘史』に基づいている。
- ^ 松下芳男『日本軍事史叢話』土屋書店、354-355頁
- ^ 『会津史談会報 』第9号「会津藩殉難婦人名鑑」
参考文献[編集]
- アジア歴史資料センター
- 『往入156 故雪下少尉補遺族扶助の義軍務局上申』(C09101667900)
- 『履入239 雪下少尉補実父病死の件東海鎮守府届』(C09112245500)
- 『雪下少尉補戦死の件在長崎仁礼大佐届出』(C09112419900)
- 会津郷土資料研究所『慶應年間 会津藩士人名録』勉強堂書店
- 会津史談会編『会津史談 創刊号-第24号』会津史談復刻刊行会
- 「会津史談会報 」第9号(昭和9年7月号)
- 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』原書房
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版
- 松野良寅『会津の英学』歴史春秋社
0 件のコメント:
コメントを投稿