2015年9月8日火曜日
豊後大神氏
豊後大神氏
豊後大神氏(ブンゴオオガシ)抜きに豊後の姓氏は語れない。
豊後大神氏は平安後期、豊後國南部、大分、大野、直入、佐伯地方を拠点に活躍した武士集団である。
拠点の大野直入の原野で馬をを飼育、馬を巧みに操り弓矢打ちに長け、武力を背景に要職を手に入れ、
農民支配を行い、武士集団として豊後國における武家世代を成立させていった一族である。
豊後大神氏は大和大神氏(ヤマトオオミワシ)の流れをくむ一族とするのが有力である。
大神氏(オオミワシ)は、大和大神社神(ヤマトオオミワジンジャ)の大神主家(オオカンヌシケ)
に由来する一族で、大神姓三輪氏にも繋がる高家である(後に高宮氏)。大神神社の由緒によれば、大神
神社は遠い神代の昔、大己貴神(オオナムチノカミ、大国主神に同じ)が自らの幸魂(サキミタマ)
奇魂(クシミタマ)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(オオモノヌシノカミ)の御名をもって御祀り
したのが始まりという。
以来、大三輪之神(オオミワノカミ)として世に知られ「大神」を「おおみわ」として崇敬を集めた。
大神氏は崇神天皇の御代に大神君(オオミワノキミ)姓を、天武天皇の頃大神朝臣(オオミワノアソン)を
賜ったという。
(余談)
最近(平成18年)福岡県大野城市上大利の「本堂遺跡」で、七世紀前半から
中期にかけての須恵器の大甕の破片が出土した。
これには「大神部見乃官(オオミワベミノカン)」と刻まれていた。「部」は
大和政権の地方支配体制「部民制」であるので、大神部見乃官がどのような役
職かは不明であるが「大神」という豪族の支配を受けていた者とも考えられる。
もしそうであれば、西暦600年代の初めには「大神氏」は大和朝廷の下、地方
の部民を支配する、豪族としての大きな権力を持っていたことになる。
大神氏(オオミワシ)は「身狭」の後「特牛(コトイ)」と「比義」の流れに分かれる。比義の流れ
は後に宇佐八幡宮司官家に下ったとされる。
特牛のあとさらに別れ「忍人」~中略~「広目」~中略~大神良臣(オオミワノヨシオミ)と続き豊後
へ下る。これが一応定説ではあるが、「豊後大神氏」には少なくとも次の三説ある。
(1)大神良臣説
豊後國においては、三輪君特牛(ミワノキミコトイ)の後、忍人を祖とする
分流「忍人」の後裔5世孫「大神朝臣良臣(オオミワノアソンヨシオミ)」が
仁和2年(886)従五位下、大野郡大領職(豊後介)として下向。その子庶幾
(コレチカ)が寛平4年(892)大野郡領職となり「大藤太」と称し、 その子
「大神惟基(諸任)」が延喜12年8月(912)正六位上、大野郡領擬少に任じ
られた。
この「大神惟基(コレモト)」を以って「豊後大神姓氏」37氏の祖とする説。
「大神惟基」であるが実在を示す資料はない。
前述と異なるが、大神姓佐伯氏系図には、弘仁二年辛卯三月五日生、四十八歳
豊後守。鳥羽院元永元戊年十一月(1118)没九十三歳とある。
真偽の程は判らないが、大神惟基は研究者の間では11世紀中期の人物と見られ
ていることから、何れの記述も整合しない。
筑後本大神系図、都甲文書豊後大神系図には、九國にて狼藉はたらき召し上げ
られ四条河原で断首の刑に成りそうになり、辞世の詩を詠んだことが書かれて
いる。
「惟基乃都参乃唐衣頸与利哉末津裁始気牟(惟基の都参りの唐衣頸よりやたち
はじめけむ」この詩を聞いて感じ入り赦免されたという。
この後菊池大納言隆家の婿になったと系圖は書く。
(2)宇佐大神氏説
大神比義を祖とする宇佐八幡大神宮司説である。
宇佐神宮大宮司は本来大神氏が勤めてきた。その後、大神氏と宇佐氏が務めて
きたが、宇佐氏の勢力が大きくなり大神氏系宮司は力を失う。以後大宮司職は
宇佐氏が務めるようになった。
宇佐八幡宮の大宮司相続には、宇佐大宮司をめぐる大神氏と宇佐氏の対立があ
った。これは「長保事件」と呼ばれ、大宰府「太宰帥(だざいそち)平惟仲」
に組みする「宇佐宗海」と「大神邦利」との争いである。この争いは「邦利」
が勝利するが、内紛絶えず大宮司職を追われ、京より「宇佐相現(すけのり)」
が着任し大宮司職となるのである。
これにより大神氏系は「小山田氏」「祝氏」に分かれる。この小山田氏が速見
大神氏に、祝氏が「大野大神氏」となり、郡司として大野郡領を賜り、これが
大神惟基で代々大野荘を所領としたとする説。
(3)新大神義臣説
この説は大和大神氏が直接豊後國に入ったという説。新説、大神良臣説。
宇佐大神氏説とは別系が、直接豊後に下向したとする説。
良臣の子「庶幾(コレチカ)」が大野郡領「塩田富人大夫」とあり、その子
「大弥太」を以って惟基とした説である。
それぞれ検討を要すが、こん日ではこのうち(1)説が有力視されている。
このため別述する概ね善本とされる「大神氏系図」の記述などから「惟基」を豊後大神氏系姓祖と
して書き進める。
「大神惟基」は、三田井氏、阿南氏、大野氏、臼杵氏、佐伯氏、戸次氏、緒方氏、朽網氏、
大津留氏,橋爪氏、高知尾氏、稙田氏、賀来氏、野尻氏、三重氏、田尻氏、野津原氏、高千穂氏、
大神氏、堅田氏高野氏、松尾氏、吉藤氏、行弘氏、太田氏、など大神姓37氏の姓祖とされている
のである。
中でも阿南氏、大野氏、三田井氏らは、おそらく誕生し900年以上の歴史をもつと見られ、
豊後國でも最も由緒のある姓氏である。
豊後大神氏の歴史上の出来事では、豊後國が「大友能直」に与えられ、建久7年(1196)能直の
縁者「古庄四郎重能(フルショシゲヨシ)能直の弟」が豊後國入りした時、大神一族は激しく抵抗
した。なかでも阿南惟家は高崎城(高崎山)に弟の阿南弥次郎家親は戸次庄利光の山に、大野九朗
泰基(オオノクロウヤスモト)神角寺城に立て篭もり抵抗したが、豊後國守護職(ブンゴシュゴ
シキ)に補任(ブニン)任じられた「中原親能(ナカハラチカヨシ)」の派遣した「源壹(ミナモ
トノサカン)」に誅伐される。但泰基の謀反は、大友文書録建久7年(1196)で当時豊後守護職
中原親能に対する抵抗で有ったと言う。
「源平合戦」
最も歴史に残る出来事は「大神惟榮(緒方三郎惟栄・1143~1196説)」の源平合戦期の活
躍である。「惟栄(コレヨシ)」戸次惟澄と従兄弟関係にあり、平家の平重盛(タイラノ
シゲモリ)の家人であったが。治承5年2月(1181)に兵を挙げ叛乱。平家追い落としに加担。
戸次惟澄はこのとき惟榮と行動を共にしていたことが、源平盛衰記の記述
「宇佐公通脚力附伊豫國飛脚事・・緒方三郎惟義、臼杵、部槻(戸次)松浦党
ヲ始トシテ、併謀反ヲ発シ・・・」にみれるが、その行動は不明。
源平盛衰記には寿永2年8月17日「臼杵、戸槻(戸次)松浦党らが主上(安徳天皇)を守護し
奉り、大宰府に形のごとく皇居造られたり」とあるので、研究者の間では平家物語と矛盾す
るとしている。このころ戸次惟澄はまだ平家方であった。
惟栄は、大宰府の平家を三方より、惟栄は肥後から、日田永秀は日田郡、臼杵惟高、稙田有
綱(ワサダユウカイ)豊前から大宰府を攻めた。是には原田種直らが激しく抵抗する激戦と
なったが、平家は遂に大宰府を脱出、遠賀川右岸芦屋山鹿城へ逃亡する。 さらに追討うけ
「柳ヶ浦(場所不定)」へと逃れる。
平家は一ヶ月近くののち、長門、讃岐八嶋、摂津須磨と渡り、一の谷に本陣を構えた。この
平家の家人の中に「佐伯惟康」の名がある。
惟康は戸次惟澄の弟と見られ、大神一族は源平に分かれていた。佐伯氏が平家に予同(ヨドウ)
したには、賀来荘が平清盛の妻時子の兄時信の所領で戸次惟澄、佐伯惟康の父佐伯惟家が
賀来荘の下司職(ゲスシキ)であったからではないか。
(この部分柞原八幡宮文書、大分歴史事典より引用)
元暦元年(1184)惟栄は緒方荘の上分米や物納を滞こったことを、大宮司公通に叱責された
こと恨み、宇佐神宮を焼き討ち仏像を破壊玉宝を略奪する悪行を行い不評かう。これが後に
惟榮の命取りになる。以下に吾妻鏡の一説。
「吾妻鏡」
「武士乱入の間、堂塔を壊して薪となし、佛像を破って宝を求め、眉間打破し
て白玉を取り、御身を烈窄して黄金を伺い、其の間狼藉筆端に尽し難し・・」
一方同じ元暦元年、平家追討に際し、兵船82艘、兵糧米を「源 範頼」に献上するなど平家追討に
貢献する。しかし、後に「頼朝」に追われた「源義経」の九州入りを助けるため船を出すも、嵐に
遭い遭難、捕らえられ沼田に配流となる。この時の罪状は「義経」味方より、宇佐神宮焼き討ちの
乱暴狼藉であった。
大神惟基については、奥豊後地方に伝わる、惟基を大蛇の子とする 嫗嶽大明神伝説(祖母嶽
大明神)別名:大神大蛇伝説があり、豊後國志、源平盛衰記、平家物語巻八「緒環(オダマキ)」
にも登場する。これらの書の中に、緒方三郎惟栄を恐ろしき者の末裔とする記述は、大神惟基のこ
の大蛇伝説があるからである。
参考資料 緒方三郎惟榮(渡辺澄夫)
大分歴史事典(大分放送)
大神神社由緒
大分県史料9(都甲文書豊後大神氏系図)
大分縣史(中世編Ⅰ筑後本大神系図)
豊後國志(岡藩 唐橋世濟 復刻版)
出典
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/oomiwashi/oomiwashi.html
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