2015年9月4日金曜日

音羽護持院


翌明治2年の正月、我々猪苗代謹慎組は信州松代藩にお預けということになった。
 9日に猪苗代町を出発する。護衛は豊前小倉藩の2小隊であった。
 ところが宇都宮まで来たとき、急遽予定が変更され、東京が謹慎地となった。なんでも松代藩は小藩であることを理由に、大人数の謹慎者受入れを固辞したらしい。

 やがて千住に着いた。
 ここで護衛の任にあった小倉藩から酒肴が贈られた(10人に酒一升、鯣一把)。
「やはり東京で首が斬られるのだろう」
 と贈られた酒肴を見て我々は思い、「ならば思い残すことなく飲もう」とて酒宴を張り、鯨飲暁に撤した。

 翌22日、東京音羽護持院に到着。
 警衛が小倉藩から水戸藩に代った。
 数隊に分かれた我々は、芦沢生太郎、杉田佐兵衛、飯沼時衛、武井寛平、中野理八郎、鈴木義登、武川頭軒らを隊長として、約430名を統率しつつ、門の出入りなども管理した。
 院内の庭で刀槍や柔術の武技など演じ、無聊を慰めつつ日々を過ごす。
 時おり、水戸藩の藩士が剣術の試合などを申し込んできたりもした。中にはかつて我藩の志賀小太郎の門下となり、若松で槍の修行をしたという者もあった。
 国老の山川大蔵や梶原平馬らも、時々来ては文武の稽古などをしていたようだ。

 鑑札を携帯してこれを門衛に示せば門を出ることができたので、小川町講武所や、一ツ橋御門内御春屋外桜田豊前邸、麻布松代邸などの各謹慎所に分散された仲間や親戚を訪ねた。

 2月4日、朝廷より酒料として金1朱600文が下賜された。
 3月18日、藩公から八石二人扶持を賜り、寄合組に召出される。
 5月8日、朝廷から単衣を賜る。
 9月晦日、更衣の節に付き、朝廷から金札2両を賜る。

 容保公はこの頃、「干戈を動かした罪はこの身一つにあり、臣下の与り知らぬ所なり。希くは容保一人を誅し、臣下数千人を寛恕せられんことを」という一書を上程なされた。
 また藩の上層部も「この役はまったく臣の罪であり、主君の与らざる事万死に当たるものなり。希くは臣らを厳罰に処し、主君には寛典の命あらんことを」という書を上程した。
 君臣共に、罪は我が身にあるという。天もこれを照覧しないわけがないだろう。

 明治3年、藩士の謹慎が免じられ、幾許もなく両主君もまた幽閉を免じられた。
 尚且つ、斗南地方3万石を賜る。
 その達し書は以下の通りである。

  「松平御名義先般城地被召上永預ケ被仰付置候処
   深キ叡慮ヲ以テ今度家名被立下置候間血脈之者
   相撰被可願出候事
     己巳九月
                            太政官  」


http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame9/anrui.htm

0 件のコメント:

コメントを投稿