須貝治郎八 4石5斗2人 与力 月割金鞁役 原田対馬組 会津戦争時は、朱雀寄合四番隊に所属、白河口戦線を転戦 慶応4年5月1日、薩長を中心とした新政府軍が白河城攻撃を敢行し、これを奪取します。白河口副総督横山主 税、大砲方隊長日向茂太郎が戦死。この敗報を受けて、朱雀寄合四番隊は5月5日、勢至堂方面へ出陣し、5月 25日には白河出陣の命令が発令されます。 6月12日 奥羽列藩同盟軍、白河総攻撃に失敗し、朱雀寄合四番隊も上小屋に敗走。 6月27日 朱雀寄合四番隊は白河城攻撃を敢行するが、敗走し、8月25日 朱雀寄合四番隊は東山温泉から 城下を突破して不明門から鶴ヶ城へ帰城します。 9月23日降伏後、次郎八は、東京謹慎となります。、場所は東京音羽護持院。 護持院は、江戸神田橋外(今の千代田区神田錦町)にあった真言宗の寺。山号は元禄山。1688年徳川綱吉が 湯島の知足院を移して護持院と改称しました。1717年焼失,焼け跡は火除け地となり,護持院ヶ原と呼ばれ ました。寺名を音羽(おとわ)の護国寺内の本坊に移したが,明治初年に護持院の名称も消滅した。 現在、護国寺は有楽町線護国寺駅に名がついたほど大きなお寺です。この近辺には現在も音羽という住所が残って います。 その後、須貝次郎八は北海度に移り、余市の開拓村(黒川村)へ ※須貝次郎八については 調査の道のり 「10 会津藩士の須貝姓の人々 余市開拓 」で触れています。 【朱雀寄合四番隊 隊長:山田清介】の足取り ※旧暦 慶応4年 3月20日 木本内蔵之丞、朱雀寄合四番隊の中隊頭を命じられる 慶応4年 5月 5日 朱雀寄合四番隊、白河の敗報を受けて勢至堂方面へ出陣し、赤津村に宿陣する 慶応4年 5月25日 飯土用村の朱雀寄合四番隊に、白河出陣の命令が発令される 慶応4年 5月26日 朱雀寄合四番隊、金勝寺山に布陣して戦うも、飯土用村へ敗走 慶応4年 6月12日 奥羽列藩同盟軍、白河総攻撃に失敗。朱雀寄合四番隊は上小屋に敗走する 慶応4年 6月27日 朱雀寄合四番隊、白河城攻撃を敢行するが、敗走 慶応4年 8月16日 朱雀寄合四番隊、今泉村の戦闘で新政府軍を撃退する 慶応4年 8月25日 朱雀寄合四番隊、東山温泉から城下を突破して不明門から入城(帰城) 明治元年 9月15日 朱雀寄合四番隊は、小田山方向に敗走した敵と青木村で交戦 明治元年 9月23日 降伏 明治2年 1月22日 東京謹慎 東京音羽護持院
2015年9月4日金曜日
須貝次郎八
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