会津藩の身分制度は厳格で、藩士は10数階層に分けられており、階層は一目みてわかるよう羽織の紐や半襟の色で区別されていた(紐・襟制)。身分の明確化は藩租保科正之の重要施策の一つだったが、紐・襟制自体は藩創設当初からの制度ではない。
天明・寛政の藩政改革を推進した家老田中玄宰【たなか・はるなか】は、天明7年(1817)、改革の基礎となる綱領(政策目標)8項目を建議した。この第6条に「服色を定めて上下の分を明らかにすること」とあり、これに基づき、上士(士中)・中士(寄合)は羽織紐の色によって7階級に(紐制)、下士(足軽)は半襟の色によって4階級に(襟制)区別する身分制度(紐・襟制)が創設されたのである。階級によって、式服の色も定められた。また、藩士に適用されるルールも各紐・各襟で違うことがしばしばだった。
改革綱領には門地に拘らない人材登用もうたわれており、実際、天明・寛政の改革の中核藩士の多くは中士・下士出身であった。しかし、紐制・襟制の創設は「必要以上に藩士の階級意識を拘束し」(『会津藩の崩壊』)、以後の藩政に少なからぬ負の影響を与えることになったという。
1) 紐制
紐制は、1~7等の上位7階級で、羽織に指定の色紐(上から納戸紐、黒紐、紺紐、花紐、茶紐、萌黄紐、浅黄紐)を用いた。花紐(4等)以上が上士で「士中」と呼ばれ、藩校日新館に入学できた。茶紐(5等)以下は中士で「寄合」と呼ばれた。茶紐以上は藩主に一人で謁見(独礼御目見)できる資格があった(『会津ちょっといい歴史』)。ただし、家老・若年寄は納戸紐ではなく、勝手次第な身分で別格(『志ぐれ草紙』)という説、拝領羽織に紫紐だったという説(『会津藩諸士系譜』)があり、その場合は8階級になる。さらに、黒紐には上下の別があったという説(『志ぐれ草紙』)もある。また、『系譜』によると、紐色と同時に夏冬の式服の色も指定されていたようである。士中では、紫紐・納戸紐の上位2階級は夏は渋(薄)柿色冬は空色。続く黒紐、紺紐、花紐の3階級は夏は水色冬は黒色。一方、寄合になると、式服の色に加え、形や生地も指定されたようだ。茶紐は、夏は千種色、冬は青茶色。上着下着共に袖を用い、生地は熨斗目白無垢を用いた。萌黄紐は、色は夏は藍鼠,冬は路考茶色。上下着絹糸入で帯は絹の使用が許された。紐制最下級の浅黄紐(月割)には式服の色指定はなかったようだが(上位の色は着用できなかったと推測)、夏冬共に形付で、絹は下着と帯のみ糸入り迄が許されたが、上着は一切絹の使用が許されなかった。(『系譜』の情報は尚侍さんからお寄せいただきました。尚侍さん、ありがとうございました)【表1】
表1:会津藩の紐制
2) 襟制
襟制は8 ~11等の下士(足軽)に適用され、指定の色半襟(上から黒襟、大和柿襟、白鼠襟、浅黄襟)を用いた。最下級の浅黄襟は裃の着用が許されなかった。また、襟制=足軽は物頭に出会うと草履を脱ぎ、頭を地につけて土下座しなくてはならなかった。(『志ぐれ草紙』)。【表2】 |
表2:会津藩の襟制
階級 | 半襟色 (近似色) |
身分 | 独礼 御目見 |
裃 着用 |
|
八等 | 黒襟 | 扶持米取:甲賀格から元定番格 | 下士 (足軽) |
× | ○ |
九等 | 大和柿襟 | 扶持米取:裃免許之者 | × | ○ | |
十等 | 白鼠襟 | 扶持米取:裃免許之者 | × | ○ | |
十一等 | 浅黄襟 | 高懸り | × | × |
<参考文献>:
『会津松平家譜』、『会津ちょっといい歴史』、『志ぐれ草紙』、『会津藩諸士系譜』、『会津藩の崩壊』
近似色は基本的に色見本の館 を参照(路考茶(ろこうちゃ)色は友禅ネットより。
青茶色は日本染織工芸愛好会のサンプルをみて管理人が作成)。
出典「会津藩の基礎知識」より
http://www4.plala.or.jp/bakumatsu/aidu/aidu-kiso-mibun.htm
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