2015年9月8日火曜日

柴五郎



「この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士たち一同、江戸の収容所にありしとき、会津に対する変らざる聖慮の賜物なりと、泣いて悦びしは、このことなりしか。
何たることぞ。はばからず申せば、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。
父も兄も姉も、ただひたすらに縄ないて語ることなし。余少年なりとはいえ、これほどの仕打ちに遭いて正邪の分別つかぬはずなし。かかる運命ならば、祖母さま、母上さま、姉妹の自害も当然なりしことよと気づき、母上さまとともに他界せばよかりしものをと、甲斐なきことを思いつつ炉の火を見つめてあれば、若松城下を波打ちて狂う紅蓮の炎、眼底に揺らめき、白装束の母上さまの自害の遺骸その中に伏してあり。熱涙頬を伝いて流る。ああ、すぎたること語るに堪えず、今日の悲運嘆きても甲斐なし、さればとて近き日に希望の兆もなし。かくては火を囲みて互いに語るべきこと何もなし。過去もなく未来もなく、ただ寒く飢えたる現在のみに生くること、いかに辛きことなりしか、明日の死を待ちて今日を生くるは、かえって楽ならん、死は生の最後の段階なるぞと教えられしことたびたびあり、まことにその通りなり。死を前にして初めて生を知るものなりとも説かれたり、まことにその通りなるべし。
今は救いの死をさえ得る能わず、「やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」と、父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮を飲みこみたること忘れず。「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」と、自ら叱咤すれど、少年にとりては空腹まことに堪えがたきことなり。」

(石光真人編著『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』中公新書)


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