2015年9月8日火曜日
戸籍
「家紋」によるルーツの解明も然ることながら「戸籍」による解明も可能ですが、戸籍はそのルーツを紐解く要素が必要です。それが「氏名の継承」であります が、戸籍の歴史は最も古いもので天智天皇の大化の改新時の一つとして「戸籍簿」又は「人別帳」成るものが作られたのが最初で日本書紀にも記載されていま す。この時の戸籍簿たるものは税の「租庸調」の課税対象者を設定する為のもので、その税の最低年齢が男6歳とした為に民衆の不満が爆発したと記録にあり、 むしろ戸籍と云うよりは「人別帳」の色合いが強かったのです。
然し、これも平安期の荘園制度が確立する事に成り荘園内の事はその持ち主のものとし て扱われた事により次第に公的なのものは消滅して、矢張りその一時的な「人別帳」的なものが使われた様です。しかし、荘園の民はその「氏名の継承」は有り ませんので、次第にルーツの概念が薄くなり無くなり江戸末期までこの状態が続きました。あるとすれば村の庄屋が取り扱う「人別帳」程度であり、「武家」を 構成し支配階級の中級以上の「武士」の身分と権威の保全目的から、その氏の「氏寺」、即ち菩提寺が「過去帳」として「戸籍簿」を管理する習慣に成って行っ たのです。
これに対して、室町初期から中期には「下克上」が起こり、この支配階級の社会制度を崩壊させて、力のあるものはこの中級以下の武士が 取って代わろうとしました。そのために多くの元の支配階級のこの様な権威を示す物件の焼き討ちや取り壊しをしたのです。その結果、権威を代表するステイタ スの氏寺を含む等のものが消失してしまいました。又江戸時代から明治の初期まで250年以上続き多発した「民衆の一揆」もこれらの武家武士ではなく下級武 士を含む民衆の権威への抵抗が起こり、この2度による「事件」と「反動」で戸籍や人別帳によるルーツの解明は困難と成ってしまっているのです。
それに耐えた特定の「地域」や「氏」の権威物件だけが遺される結果と成ったのです。
その意味で皇族賜姓族5家5流青木氏や藤原秀郷流青木氏等は「不入不倫の権」とその勢力に護られてある程度その難を逃れました。
(むしろ「民衆の一揆」の経済的支援はこれらの難を逃れた氏がシンジケートを使って裏から行っていた)
この様な歴史的経緯から、その意味で「氏名」を持つ事を命じた苗字令3年や督促令8年の明治維新体制が確立するまでの間は、「戸籍簿」に代わるものとして「過去帳」や「氏寺菩提寺」等の存在はルーツ解明には重要な要素に成るのです。
そして、この「氏名」等の歴史的経緯と「家紋」とその習慣は無関係ではなく連動しているのです。
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