「学芸編」の主旨
人物情報としては、時間的には江戸時代の後期から昭和初期に及ぶ約二百余年にわたり活躍した人物、 分野的には医師を中心に、いわゆる洋方医、漢方医を含む先哲博士の類を採録した。資料として、〈人名 録・医鑑・人名辞書・人物伝・碑文集・掃苔録・墓所誌〉を主とし、加えて〈書目〉の類を採択した。〈書目〉の類は立項を人物に、その著編書をあげる形式であるが、必ず人物の個人情報が盛られている。 同類のものとして、江戸時代についていえば『近世人名録集成』(勉誠社)が研究者の活用に供されてい る。私見では、18、9世紀の人物情報は〈書目集・掃苔録〉の類に貴重な人物情報の記録があり、その 公開がのぞまれている。今回は『夢跡集』(写本)をはじめ、これまで未公開の資料を採録することとした。
いうまでもなく、〈学芸〉の意味内容は必ずしも厳密ではなく、他の諸編に収録されるべきものも多く 含んでいる。相互に参照活用されたい。なお、遺漏については本大系の最終巻に〈補遺〉として採録予定 なので、研究者各位のご助言、ご協力をお願いしたい。必須の情報源およびその所在についてご連絡いた だければ幸甚である。
人物情報としては、時間的には江戸時代の後期から昭和初期に及ぶ約二百余年にわたり活躍した人物、 分野的には医師を中心に、いわゆる洋方医、漢方医を含む先哲博士の類を採録した。資料として、〈人名 録・医鑑・人名辞書・人物伝・碑文集・掃苔録・墓所誌〉を主とし、加えて〈書目〉の類を採択した。〈書目〉の類は立項を人物に、その著編書をあげる形式であるが、必ず人物の個人情報が盛られている。 同類のものとして、江戸時代についていえば『近世人名録集成』(勉誠社)が研究者の活用に供されてい る。私見では、18、9世紀の人物情報は〈書目集・掃苔録〉の類に貴重な人物情報の記録があり、その 公開がのぞまれている。今回は『夢跡集』(写本)をはじめ、これまで未公開の資料を採録することとした。
いうまでもなく、〈学芸〉の意味内容は必ずしも厳密ではなく、他の諸編に収録されるべきものも多く 含んでいる。相互に参照活用されたい。なお、遺漏については本大系の最終巻に〈補遺〉として採録予定 なので、研究者各位のご助言、ご協力をお願いしたい。必須の情報源およびその所在についてご連絡いた だければ幸甚である。
資料解説
『江戸/今世 医家人名録 初編 全』(和装本)
1巻・1冊。構成は〈序(白土雙儀、2丁〉、凡例(2丁)、本文(40丁)〉。〈凡例〉に〈此書専ラ其姓名居処ヲ捜索シ易キヲ要トス、故ニ分ツニ伊呂波ヲ以ス、又科ヲ分ツコト十三則 内科 外科 婦人科 産科 小児科 眼科 口中科 正骨科 鍼治科 経絡科 脈科 按腹科 本草家ナリ皆圏中ニ一字ヲ書シテ各人ノ上ニ掲ク〉とある。見返しに〈両塾蔵版〉とあるので、文字どおり〈武井周朔(擽涯、好一)・稲葉潤堂(得斎)〉両塾の私家版である。収録人数は550名以上。奥付がないので刊年未詳ながら、序の〈文政二年〉
(1819年)を刊年としておく。
1巻・1冊。構成は〈序(白土雙儀、2丁〉、凡例(2丁)、本文(40丁)〉。〈凡例〉に〈此書専ラ其姓名居処ヲ捜索シ易キヲ要トス、故ニ分ツニ伊呂波ヲ以ス、又科ヲ分ツコト十三則 内科 外科 婦人科 産科 小児科 眼科 口中科 正骨科 鍼治科 経絡科 脈科 按腹科 本草家ナリ皆圏中ニ一字ヲ書シテ各人ノ上ニ掲ク〉とある。見返しに〈両塾蔵版〉とあるので、文字どおり〈武井周朔(擽涯、好一)・稲葉潤堂(得斎)〉両塾の私家版である。収録人数は550名以上。奥付がないので刊年未詳ながら、序の〈文政二年〉
(1819年)を刊年としておく。
『今/世 医家人名録 全部四冊』(和装本)
〈東・西・南・北〉の4巻・4冊。文政3年(1820)刊。各冊とも〈凡例〉に、〈此編所謂都鄙数千ノ名家国手ヲシテ其専業居所等記載シテ一目瞭然病家ノ窮捜ヲ助ルノミ〉とある。江戸在住の医師1512名を東西南北に分かち、それぞれイロハ別 に登載している。各巻ともに、〈序〉(東/錦城老人、西/ 善庵居士、南/詩仏老人、北/立原翠軒)および〈跋〉(鴨下玄進)が寄せられている。〈見返し〉の〈龍峯蔵版〉からすると、著者白土龍峯(雙儀)の私家版であろう。
〈東・西・南・北〉の4巻・4冊。文政3年(1820)刊。各冊とも〈凡例〉に、〈此編所謂都鄙数千ノ名家国手ヲシテ其専業居所等記載シテ一目瞭然病家ノ窮捜ヲ助ルノミ〉とある。江戸在住の医師1512名を東西南北に分かち、それぞれイロハ別 に登載している。各巻ともに、〈序〉(東/錦城老人、西/ 善庵居士、南/詩仏老人、北/立原翠軒)および〈跋〉(鴨下玄進)が寄せられている。〈見返し〉の〈龍峯蔵版〉からすると、著者白土龍峯(雙儀)の私家版であろう。
『海内医林伝』(和装本)
3巻・1冊。外題は〈海内医林伝〉とあるが、内題は〈本朝方今医林伝〉。〈序〉にみえるように、四方漫遊して医師の逸材を求めて録したという。京都を中心に、大阪、奈良、尾張に及ぶ。なお〈西洋学・西洋翻訳家・医学教授〉など、洋学や翻訳家の出現は注目に値する。刊記がないが、〈序〉の〈天保十四年〉(1843)を刊年としておく。
3巻・1冊。外題は〈海内医林伝〉とあるが、内題は〈本朝方今医林伝〉。〈序〉にみえるように、四方漫遊して医師の逸材を求めて録したという。京都を中心に、大阪、奈良、尾張に及ぶ。なお〈西洋学・西洋翻訳家・医学教授〉など、洋学や翻訳家の出現は注目に値する。刊記がないが、〈序〉の〈天保十四年〉(1843)を刊年としておく。
『天保医鑑』(和装本)
上・下2巻・2冊。構成は〈序(1丁〉、本文(38丁)/跋〉。収録人数は337名。京都の医師を中心とする(登録は順不同)。
上・下2巻・2冊。構成は〈序(1丁〉、本文(38丁)/跋〉。収録人数は337名。京都の医師を中心とする(登録は順不同)。
『皇国名医伝』(和装本)
本書は『皇国名医伝前編』と一体をなす浅田惟常(宗伯、栗園)の労作。いわゆる洋方家を除く伝記である。構成は、叙(林�、2丁〉、序(丹波元堅、3丁)・序(喜多邨直寛、3丁)/序列(著者、二2丁)・目録(6丁)・本文11からなる。〈序列〉で〈惟常弱冠、名医事蹟ヲ聚ルニ志有リ。上世自リ以ツテ近時ニ至ルマデ、簡冊ノ載スル所、口碑ノ伝フル所、凡ソ治療ニ渉ル者、遇ヘバ輙蒐録ス。今、其ノ中ニ就イテ偃戈以還ヲ取リ釐シテ三巻ト為ス〉とあって編者の志は明確。
さらに、〈此編依拠スル所、行 状、墓誌、系譜、伝略及ビ其ノ自著スル所ノ書、諸家ノ文集、箚記等務メテ核実ヲ求メ、疑シキ者ハ闕如 ス〉とある。参考にした資料、及び編集の態度がしられる。〈偃戈以還ヲ取リ〉とのべるように、江戸時 代を主とする。採択の人物は〈曲直瀬翠竹院〉をはじめとして、最終は〈多紀桂山〉に至る。ほぼ年代順 に列伝体形式をとって記述、同時に関係人物にも及んでいる。『皇国名医伝前編』をあわせ参照。
本書は『皇国名医伝前編』と一体をなす浅田惟常(宗伯、栗園)の労作。いわゆる洋方家を除く伝記である。構成は、叙(林�、2丁〉、序(丹波元堅、3丁)・序(喜多邨直寛、3丁)/序列(著者、二2丁)・目録(6丁)・本文11からなる。〈序列〉で〈惟常弱冠、名医事蹟ヲ聚ルニ志有リ。上世自リ以ツテ近時ニ至ルマデ、簡冊ノ載スル所、口碑ノ伝フル所、凡ソ治療ニ渉ル者、遇ヘバ輙蒐録ス。今、其ノ中ニ就イテ偃戈以還ヲ取リ釐シテ三巻ト為ス〉とあって編者の志は明確。
さらに、〈此編依拠スル所、行 状、墓誌、系譜、伝略及ビ其ノ自著スル所ノ書、諸家ノ文集、箚記等務メテ核実ヲ求メ、疑シキ者ハ闕如 ス〉とある。参考にした資料、及び編集の態度がしられる。〈偃戈以還ヲ取リ〉とのべるように、江戸時 代を主とする。採択の人物は〈曲直瀬翠竹院〉をはじめとして、最終は〈多紀桂山〉に至る。ほぼ年代順 に列伝体形式をとって記述、同時に関係人物にも及んでいる。『皇国名医伝前編』をあわせ参照。
『皇国名医伝前編』(和装本)
同一著者の『皇国名医伝』と姉妹篇である。上・中・下、3巻・3冊。構成は、序(明治4年、田中内記、九丁)・序(万延元年、丹波元信、2丁)・序(安政丁巳、青山延光、1丁)/序例(安政3年、浅 田惟常、2丁)・引用書目(9丁)・附存医書目録(2丁)・目録(目次、10丁)/本文(巻上23丁、 巻中34丁、巻下22丁)・杏林雑話序(慶応乙丑、海保元備、1丁)、杏林雑話(30丁)/跋(今 邨亮、1丁)。〈序例〉に、〈惟常初、名医伝ヲ編ス、上代従近時ニ至ル。通 シメ一貫ト為ス〉とある。 すでに『皇国名医伝』で慶元(慶長・元和期)の名医伝をあらわしたわけで、〈凡ソ史乗、医事に関スル者、渉獵已ニ尽ク、思フニ此平昔ノ心力、諸ヲ蠧魚ニ付スル忍ビズ、頃、旧稿ヲ訂シ、合テ三巻ヲ得、因テ題シテ名医伝前編ト曰フ〉とみえる。〈序例〉の末尾に〈安政三年〉とみえるから、この年成立したと思われる。はじめに〈和薬使主〉、最後に〈近藤桂安〉で筆をおく。また、〈杏林雑話〉でも、本文で書き残した点をすべてここに補筆した由をのべている。人物情報のうえからはこれまた貴重な内容。著者、 浅田宗伯(惟常、栗園)について巻末に、今邨亮による小伝がある。なお、板下は名工、〈木村嘉平〉の手、特記しておく。
同一著者の『皇国名医伝』と姉妹篇である。上・中・下、3巻・3冊。構成は、序(明治4年、田中内記、九丁)・序(万延元年、丹波元信、2丁)・序(安政丁巳、青山延光、1丁)/序例(安政3年、浅 田惟常、2丁)・引用書目(9丁)・附存医書目録(2丁)・目録(目次、10丁)/本文(巻上23丁、 巻中34丁、巻下22丁)・杏林雑話序(慶応乙丑、海保元備、1丁)、杏林雑話(30丁)/跋(今 邨亮、1丁)。〈序例〉に、〈惟常初、名医伝ヲ編ス、上代従近時ニ至ル。通 シメ一貫ト為ス〉とある。 すでに『皇国名医伝』で慶元(慶長・元和期)の名医伝をあらわしたわけで、〈凡ソ史乗、医事に関スル者、渉獵已ニ尽ク、思フニ此平昔ノ心力、諸ヲ蠧魚ニ付スル忍ビズ、頃、旧稿ヲ訂シ、合テ三巻ヲ得、因テ題シテ名医伝前編ト曰フ〉とみえる。〈序例〉の末尾に〈安政三年〉とみえるから、この年成立したと思われる。はじめに〈和薬使主〉、最後に〈近藤桂安〉で筆をおく。また、〈杏林雑話〉でも、本文で書き残した点をすべてここに補筆した由をのべている。人物情報のうえからはこれまた貴重な内容。著者、 浅田宗伯(惟常、栗園)について巻末に、今邨亮による小伝がある。なお、板下は名工、〈木村嘉平〉の手、特記しておく。
『近世名医伝』(和装本)
3巻〈外題は上・中・下と表示。内題は巻之一・巻之二・巻之三)〉・3冊。見返しに〈松尾耕三著 全三冊/近世名医伝 附録来舶洋/医略伝/香草園蔵版〉とあり、私家版。〈近世名医伝付録〉として、〈来舶洋医〉の八名を収載している点に特色をみる。 構成は、題字(清、徐承祖)・叙(石黒忠悳)・序(浅田惟常)・序(石阪堅壮、空洞〉・序(菊池純)・序(清、陳明達)・例言(松尾耕)・目次/本文/(あとがき)石津 発、浅田惟常、江間春煕とある。〈例言〉に浅田栗園(惟常)の『皇国名医伝』を意識して編集したこと、採択は六十余家とする。〈浅田栗園(惟常)・石阪空洞・新宮凉庭〉の三翁にも直接聴聞しているという。また、鼇頭に諸家の意見や伝聞などをあげる。なお、収録のものは巻末の佐伯仲蔵による〈跋〉がみえない。欠落かあるいは、〈跋〉のない版もあるか、今後の精査をまつ。 編者、松尾耕三(耕、子深)は菊池純の序によると、河内の人で医師。頼山陽、小石元瑞に入門、また蘭 人、マンスヘルト、エルメレンスなどにも師事していたという。
3巻〈外題は上・中・下と表示。内題は巻之一・巻之二・巻之三)〉・3冊。見返しに〈松尾耕三著 全三冊/近世名医伝 附録来舶洋/医略伝/香草園蔵版〉とあり、私家版。〈近世名医伝付録〉として、〈来舶洋医〉の八名を収載している点に特色をみる。 構成は、題字(清、徐承祖)・叙(石黒忠悳)・序(浅田惟常)・序(石阪堅壮、空洞〉・序(菊池純)・序(清、陳明達)・例言(松尾耕)・目次/本文/(あとがき)石津 発、浅田惟常、江間春煕とある。〈例言〉に浅田栗園(惟常)の『皇国名医伝』を意識して編集したこと、採択は六十余家とする。〈浅田栗園(惟常)・石阪空洞・新宮凉庭〉の三翁にも直接聴聞しているという。また、鼇頭に諸家の意見や伝聞などをあげる。なお、収録のものは巻末の佐伯仲蔵による〈跋〉がみえない。欠落かあるいは、〈跋〉のない版もあるか、今後の精査をまつ。 編者、松尾耕三(耕、子深)は菊池純の序によると、河内の人で医師。頼山陽、小石元瑞に入門、また蘭 人、マンスヘルト、エルメレンスなどにも師事していたという。
『明治医家列伝』(和装本)
四編・四冊。第一編から第三編は明治二十五年刊、第四編のみ明治二十七年刊。内題は〈医家列伝〉。 構成は各編とも、〈題字・自叙(自序)/序/・凡例(引)・目次/本文〉。本文は以下のとおり。○ 〈第一編〉(310頁)、〈池田謙斎~鈴木直三郎〉、題字 佐野常民。○〈第二編〉(410頁)、〈市川 甫~末松 淳〉、題字 佐野常民。○長与専斎。〈第三編〉(309頁、イ・ロに二分して頁付10頁)、〈石井亀次郎~末高温恭〉題字 戸塚文海。○〈第四編〉(260頁)、〈石黒忠悳~鈴木敏太郎〉題字編者。
自叙に〈我国文運熾盛著書編述汗牛充棟尚ホ以テ足ラスト為ス、而シテ曾テ一ノ医道ノ沿革伝記を記スル モノナシ……努メテ公平ヲ旨トシ著者毫モ其間ニ私意ヲ加エス〉として、本書をあらわしたという。 登載 の順序は公平を旨とするべく〈イロハ順ヲ以テ之ヲ編集セリ〉(凡例)とあり、〈池田謙斎先生之伝〉より筆をおこし、最終第四編の〈鈴木敏太郎先生之伝〉でおわる。全体で360名の伝となる。なお、題字を〈佐野常民・長与専斎・戸塚文海〉が寄せている点も、編者を考える場合、注目したい。
内容は文字どおり明治医家であり、洋方、漢方、男、女、のいずれとも区別 なく採択し、〈世人ヲシテ死 命ヲ委嘱スベキ適当ノ国手ヲ撰定シ併セテ我医学沿革ヲ識リ且ツ医学上ニ関スル諸先生ノ意見経歴ヲ了知 セシメ以テ世道ニ裨益スル所アラシメント欲スルニ在リ〉(凡例)とある。幕末~明治初期の名医の活動 をしるに絶好の情報蒐集がおこなわれている。
四編・四冊。第一編から第三編は明治二十五年刊、第四編のみ明治二十七年刊。内題は〈医家列伝〉。 構成は各編とも、〈題字・自叙(自序)/序/・凡例(引)・目次/本文〉。本文は以下のとおり。○ 〈第一編〉(310頁)、〈池田謙斎~鈴木直三郎〉、題字 佐野常民。○〈第二編〉(410頁)、〈市川 甫~末松 淳〉、題字 佐野常民。○長与専斎。〈第三編〉(309頁、イ・ロに二分して頁付10頁)、〈石井亀次郎~末高温恭〉題字 戸塚文海。○〈第四編〉(260頁)、〈石黒忠悳~鈴木敏太郎〉題字編者。
自叙に〈我国文運熾盛著書編述汗牛充棟尚ホ以テ足ラスト為ス、而シテ曾テ一ノ医道ノ沿革伝記を記スル モノナシ……努メテ公平ヲ旨トシ著者毫モ其間ニ私意ヲ加エス〉として、本書をあらわしたという。 登載 の順序は公平を旨とするべく〈イロハ順ヲ以テ之ヲ編集セリ〉(凡例)とあり、〈池田謙斎先生之伝〉より筆をおこし、最終第四編の〈鈴木敏太郎先生之伝〉でおわる。全体で360名の伝となる。なお、題字を〈佐野常民・長与専斎・戸塚文海〉が寄せている点も、編者を考える場合、注目したい。
内容は文字どおり明治医家であり、洋方、漢方、男、女、のいずれとも区別 なく採択し、〈世人ヲシテ死 命ヲ委嘱スベキ適当ノ国手ヲ撰定シ併セテ我医学沿革ヲ識リ且ツ医学上ニ関スル諸先生ノ意見経歴ヲ了知 セシメ以テ世道ニ裨益スル所アラシメント欲スルニ在リ〉(凡例)とある。幕末~明治初期の名医の活動 をしるに絶好の情報蒐集がおこなわれている。
『本朝医人伝』(洋装本)
書名のとおり、〈神祗時代の医・大穴牟遅神〉より〈徳川時代の名医・浅田宗伯〉まで169名をあ げ、列伝体形式で解説する。いうまでもなく、約8割は徳川時代の医師の記述についやす。〈序〉を寄せ る緒方正清氏が、〈本書は本邦に於る医学歴史の魁を為したる者にして、寔に著述界の欠陥を補ひ得たる 者〉と推奨。執筆上、参考にした資料は、〈墓誌、系譜、伝〉など、参考文献として〈皇国名医伝・近世 名医伝・洋刀医譜・先哲叢談〉などをあげる。
なお、杉田玄白の庶子、立卿を玄卿、渡辺崋山を華山とし、小関三英をシーボルトの門人とするなど、誤 刻、誤記もあり使用には慎重を期したい。
書名のとおり、〈神祗時代の医・大穴牟遅神〉より〈徳川時代の名医・浅田宗伯〉まで169名をあ げ、列伝体形式で解説する。いうまでもなく、約8割は徳川時代の医師の記述についやす。〈序〉を寄せ る緒方正清氏が、〈本書は本邦に於る医学歴史の魁を為したる者にして、寔に著述界の欠陥を補ひ得たる 者〉と推奨。執筆上、参考にした資料は、〈墓誌、系譜、伝〉など、参考文献として〈皇国名医伝・近世 名医伝・洋刀医譜・先哲叢談〉などをあげる。
なお、杉田玄白の庶子、立卿を玄卿、渡辺崋山を華山とし、小関三英をシーボルトの門人とするなど、誤 刻、誤記もあり使用には慎重を期したい。
『贈位先哲医家小伝』(洋装本)
〈例言〉にあるとおり、大正7年5月、大阪で開催の〈第八回関西医師大会、贈位 杏林先哲追慕祭〉にあたり、贈位の恩恵に浴した先哲医家、70余名の列伝。ほぼ時代順に列挙。〈向井元舛〉にはじまり、〈牛丸 冬〉におわる。最後7名ほどをのぞき、すべて徳川時代の医師である。執筆には『近世名医伝』・『本朝医人伝』などを参看(例言を参照)。
〈例言〉にあるとおり、大正7年5月、大阪で開催の〈第八回関西医師大会、贈位 杏林先哲追慕祭〉にあたり、贈位の恩恵に浴した先哲医家、70余名の列伝。ほぼ時代順に列挙。〈向井元舛〉にはじまり、〈牛丸 冬〉におわる。最後7名ほどをのぞき、すべて徳川時代の医師である。執筆には『近世名医伝』・『本朝医人伝』などを参看(例言を参照)。
『大日本博士録 《医学博士之部》(其之一~三)』(洋装本)
『大日本博士録』(全6冊)のうち、第弐巻~第四巻(大正11年~昭和3年)まで、〈医学博士之部〉 をおさめる。内題は〈博士全伝〉とある。〈自序〉によって、編集刊行の目的に、学者相互の理解、調査 研究上の参考資料とする。さらに一般知識者のため科学知識の奨励と研究向上を助長するため、さらに諸 外国人に日本文化の発達を知らしめるため――これが目的である。また、日本は学術を尊重せず、学者を 冷遇する弊風など、日本の学問への偏見あるいは浅解を払拭する意図もあったという。大正11年の刊行 ゆえ、江戸洋学の洗礼を受けた医師――例えば、第一番目の〈池田謙斎〉は学歴及び閲歴に〈夙に洋学を 修め緒方洪庵の門に遊ぶ……幕命により長崎に派遣せられ 医学を専修す〉などがみえる。本書は近代日 本医学を支え、発展させた医師の情報にみちている。
『大日本博士録』(全6冊)のうち、第弐巻~第四巻(大正11年~昭和3年)まで、〈医学博士之部〉 をおさめる。内題は〈博士全伝〉とある。〈自序〉によって、編集刊行の目的に、学者相互の理解、調査 研究上の参考資料とする。さらに一般知識者のため科学知識の奨励と研究向上を助長するため、さらに諸 外国人に日本文化の発達を知らしめるため――これが目的である。また、日本は学術を尊重せず、学者を 冷遇する弊風など、日本の学問への偏見あるいは浅解を払拭する意図もあったという。大正11年の刊行 ゆえ、江戸洋学の洗礼を受けた医師――例えば、第一番目の〈池田謙斎〉は学歴及び閲歴に〈夙に洋学を 修め緒方洪庵の門に遊ぶ……幕命により長崎に派遣せられ 医学を専修す〉などがみえる。本書は近代日 本医学を支え、発展させた医師の情報にみちている。
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『批判研究 博士人物 医科篇』(洋装本)
〈「序文」に代へて〉の〈感想〉、〈緒言〉)はともに当時の医学界の実情を知るよき資料。〈凡例〉に 〈本書の根本資料は著者が畢生の事業とせる「大日本博士録」の資料を基礎とせり〉とある(『大日本博士録』(本大系52巻収録)については、《医科続篇》の巻末に広告があるので参照)。さらに、〈本書に掲載せる員数は故人を除き壱千〇参拾弐名に上れり〉とある。〈目次〉により判明するように、〈胃腸病科〉をはじめとして、〈精神病科及神経科〉に及ぶ各科別 分類による。さらに〈人名索引〉を付して検索の便をはかっている。本書編集、刊行・目的は〈緒言〉に詳述されており、日本の医学文化の発達を示す基礎資料の提供であるという。個人の履歴をとおして、幕末~明治・大正の医学史をも考えることができる。なお、〈緒言〉に〈不慮の大震火災に遭遇して帝都の文化は殆んど根本的に破壊されたり〉とあり、本書も刊行は大正14年であるが大正12年には原稿成立完了と思われる。
〈「序文」に代へて〉の〈感想〉、〈緒言〉)はともに当時の医学界の実情を知るよき資料。〈凡例〉に 〈本書の根本資料は著者が畢生の事業とせる「大日本博士録」の資料を基礎とせり〉とある(『大日本博士録』(本大系52巻収録)については、《医科続篇》の巻末に広告があるので参照)。さらに、〈本書に掲載せる員数は故人を除き壱千〇参拾弐名に上れり〉とある。〈目次〉により判明するように、〈胃腸病科〉をはじめとして、〈精神病科及神経科〉に及ぶ各科別 分類による。さらに〈人名索引〉を付して検索の便をはかっている。本書編集、刊行・目的は〈緒言〉に詳述されており、日本の医学文化の発達を示す基礎資料の提供であるという。個人の履歴をとおして、幕末~明治・大正の医学史をも考えることができる。なお、〈緒言〉に〈不慮の大震火災に遭遇して帝都の文化は殆んど根本的に破壊されたり〉とあり、本書も刊行は大正14年であるが大正12年には原稿成立完了と思われる。
『批判研究 博士人物 医科続篇』(洋装本)
構成は前編とほぼ同じ。はじめに〈序〉があり、〈本篇は即ち其の続篇として、総て前篇〔『批判研究 博士人物 《医科篇》』をさす〕の趣旨目的を踏襲〉とあり、さらに〈其の内容を敷衍して学究的文献に重きを置き加ふるに全科専門の大家たる各博士より寄与せられたる感想をも収録せり。…登場、員数壱千弐百拾壱名に上り〉とある。〈凡例〉により昭和七年八月より同十年に及ぶ三年間の労作であることが判明する。〈目次〉では『医科篇』と異なり、〈内科・外科〉などと大別 けにしており、頁付けもそれぞれ科別となっている。また〈人名索引〉も『医科篇』のいろは順に対し、五十音順とし、時代の反映を示す(昭和にはいると、いろは順はほとんど用いられない)。登場人物は、明治生まれのものが主である。大学卒業は大正期のものが多いが、中には昭和初期大学卒業のものもあり、前編につぐ現代日本医学史のよき基礎資料となる。あわせて、二千名以上の医師、医学者が収録され、その履歴・業績が詳細に解説されているわけで、これにつづく続続篇の編史と刊行がのぞまれる。
構成は前編とほぼ同じ。はじめに〈序〉があり、〈本篇は即ち其の続篇として、総て前篇〔『批判研究 博士人物 《医科篇》』をさす〕の趣旨目的を踏襲〉とあり、さらに〈其の内容を敷衍して学究的文献に重きを置き加ふるに全科専門の大家たる各博士より寄与せられたる感想をも収録せり。…登場、員数壱千弐百拾壱名に上り〉とある。〈凡例〉により昭和七年八月より同十年に及ぶ三年間の労作であることが判明する。〈目次〉では『医科篇』と異なり、〈内科・外科〉などと大別 けにしており、頁付けもそれぞれ科別となっている。また〈人名索引〉も『医科篇』のいろは順に対し、五十音順とし、時代の反映を示す(昭和にはいると、いろは順はほとんど用いられない)。登場人物は、明治生まれのものが主である。大学卒業は大正期のものが多いが、中には昭和初期大学卒業のものもあり、前編につぐ現代日本医学史のよき基礎資料となる。あわせて、二千名以上の医師、医学者が収録され、その履歴・業績が詳細に解説されているわけで、これにつづく続続篇の編史と刊行がのぞまれる。
『医家人名辞書』(洋装本)
いろは別に古代から現代(昭和6年)までの医師、約1850人を採択解説したもの。題字を鶚軒(土肥)、富士川游など著名な医師が寄せいている。また〈序〉を医史学の大家、呉 秀三が寄せ、本人も序で、父、友仙(巻末に〈医家人名辞書の巻末に表す〉で言及)の意志を実現した由を記す。解説にあたり、それぞれ出典、参考文献を末尾に括弧 に入れて明示、これも資料的に有効である。 なお類書に、橘輝政『古代から幕末まで 日本医学先人伝』(医事薬業新報社 昭和44年)がある。
いろは別に古代から現代(昭和6年)までの医師、約1850人を採択解説したもの。題字を鶚軒(土肥)、富士川游など著名な医師が寄せいている。また〈序〉を医史学の大家、呉 秀三が寄せ、本人も序で、父、友仙(巻末に〈医家人名辞書の巻末に表す〉で言及)の意志を実現した由を記す。解説にあたり、それぞれ出典、参考文献を末尾に括弧 に入れて明示、これも資料的に有効である。 なお類書に、橘輝政『古代から幕末まで 日本医学先人伝』(医事薬業新報社 昭和44年)がある。
『本朝医家著述目録』(和装本)
和装本の手稿版を翻字。昭和10年の発行ながら、天下の孤本 油印本、上・下2冊(上、37丁、下、38丁)。日本の医家(医家学付博物学家、西洋学家)の著述目録。〈編者并発行人 板原七之助〉とあり、板原七之助を編者と考えられるがやや疑問。著編者の略伝・著編書を録す。収録人数は313人。書目数は3500本。なお、原本(油印本)、は草稿をほぼそのまま製本し未整理な点があるので、あらためて翻字し体裁を整えた。
和装本の手稿版を翻字。昭和10年の発行ながら、天下の孤本 油印本、上・下2冊(上、37丁、下、38丁)。日本の医家(医家学付博物学家、西洋学家)の著述目録。〈編者并発行人 板原七之助〉とあり、板原七之助を編者と考えられるがやや疑問。著編者の略伝・著編書を録す。収録人数は313人。書目数は3500本。なお、原本(油印本)、は草稿をほぼそのまま製本し未整理な点があるので、あらためて翻字し体裁を整えた。
『医家先哲肖像集』(洋装本)
全体の構成は〈序文・図像/人名索引〉の3つの部分よりなる。〈序文〉では、伝記、遺墨のみでは人物 の全貌をうかがうに不足するといい、〈伝記と肖像とは車の両輪の如くである〉として、図像を蒐集、編集して公刊することにしたという。大正12年の大震災により蒐集品をことごとく失ったが再び蒐集に着手し、160余種の画像を集め得たので、〈医家先哲肖像集〉として編集、上梓することにしたという。 さらに、画像にみえる若干の〈讃詞〉について、編者の所見を論述している。巻末に〈人名索引〉を付す。〈図像〉の部は、第一/僧 行基より、各時代をおって列挙し、最後は徳川時代の第百六十五/小島尚質におわる。いうまでもなく、漢方医、蘭方医、漢蘭折衷医、本草学家をあげる。中には、長崎蘭通 詞、本木良意、北方探険家、最上徳内など現代では医家としては、除外されかねない人物も収録している。一つの見識である。なお、収録の『医家先哲肖像集』は井上巽軒(哲次郎)旧蔵本である。
全体の構成は〈序文・図像/人名索引〉の3つの部分よりなる。〈序文〉では、伝記、遺墨のみでは人物 の全貌をうかがうに不足するといい、〈伝記と肖像とは車の両輪の如くである〉として、図像を蒐集、編集して公刊することにしたという。大正12年の大震災により蒐集品をことごとく失ったが再び蒐集に着手し、160余種の画像を集め得たので、〈医家先哲肖像集〉として編集、上梓することにしたという。 さらに、画像にみえる若干の〈讃詞〉について、編者の所見を論述している。巻末に〈人名索引〉を付す。〈図像〉の部は、第一/僧 行基より、各時代をおって列挙し、最後は徳川時代の第百六十五/小島尚質におわる。いうまでもなく、漢方医、蘭方医、漢蘭折衷医、本草学家をあげる。中には、長崎蘭通 詞、本木良意、北方探険家、最上徳内など現代では医家としては、除外されかねない人物も収録している。一つの見識である。なお、収録の『医家先哲肖像集』は井上巽軒(哲次郎)旧蔵本である。
「我国歴代医人録」「医家諸系譜」(『医学文化年表』)(洋装本)
『医学文化年表』は、第一部、医学年表(日本医学年表・世界医学年表)、第二部、我国歴代医人録、第三部、医家諸系譜の3部からなる。そのうち、ここでは第二、第三部を収録した。 著者がこの年表を執筆することになった動機づけは、〈我国医学文化の絢爛たりし大正年間に医学を習らひ、同末年近くより不肖ながら学生に医学(内科学)を講ずるやうになった編著者は、夫は当然とは云へ、現在医学の形貌を眺めて深く考へさせられるものがあった。我々の医学は「どうして斯くなったか」、而して「将来どうなるべきか」、又「どうあるべきか」と云ふやうなことを真剣に考へさせられ た〉――こうして本書が生まれたという。人物情報蒐集のための基礎資料として有効である。なお類書に、中野 操『増/補日本医事大年表』(思文閣 昭和17年/47年)がある。
『医学文化年表』は、第一部、医学年表(日本医学年表・世界医学年表)、第二部、我国歴代医人録、第三部、医家諸系譜の3部からなる。そのうち、ここでは第二、第三部を収録した。 著者がこの年表を執筆することになった動機づけは、〈我国医学文化の絢爛たりし大正年間に医学を習らひ、同末年近くより不肖ながら学生に医学(内科学)を講ずるやうになった編著者は、夫は当然とは云へ、現在医学の形貌を眺めて深く考へさせられるものがあった。我々の医学は「どうして斯くなったか」、而して「将来どうなるべきか」、又「どうあるべきか」と云ふやうなことを真剣に考へさせられ た〉――こうして本書が生まれたという。人物情報蒐集のための基礎資料として有効である。なお類書に、中野 操『増/補日本医事大年表』(思文閣 昭和17年/47年)がある。
『明治先哲医話』(洋装本)
〈序にかへて〉で〈明治維新このかた、わが医界が欧米医学のみを専ら修めて、これまでの古医学をゴミアクタのようにすててかへりなかったことは、先覚偉人の真精神ではないのであります〉という趣旨から 〈明治漢方の先哲〉について、全体を4章に分けて記述。まず、人物として、10人の漢方医、明治の漢方 の史的考察、漢方関係の古書と著書、さらに、幕末の漢方医の教養、交友関係などについて記述する。人物情報とともに、それぞれの漢方医の活躍した社会背景を記述して、〈漢方〉の再評価をも示す。
〈序にかへて〉で〈明治維新このかた、わが医界が欧米医学のみを専ら修めて、これまでの古医学をゴミアクタのようにすててかへりなかったことは、先覚偉人の真精神ではないのであります〉という趣旨から 〈明治漢方の先哲〉について、全体を4章に分けて記述。まず、人物として、10人の漢方医、明治の漢方 の史的考察、漢方関係の古書と著書、さらに、幕末の漢方医の教養、交友関係などについて記述する。人物情報とともに、それぞれの漢方医の活躍した社会背景を記述して、〈漢方〉の再評価をも示す。
『日本儒医研究』(洋装本)
構成は〈題字・自序・凡例〉、本文は〈前編総論・後編各論〉より成る。巻末に〈索引〉と〈参考文献目 録〉を付す。自序にのべるように、〈日本に於ける儒学と医学との関係は、二にして一、一にして二、正に不即不離にして、その本体より論ずるときは「儒医一本」であり、その作用より観ずるときは「儒医両 全」である〉とのべている。書名の〈儒医〉は必ずしも一般的ではないが、江戸時代でもこの呼称がありながら、研究はきわめてすくない。人物は〈後篇各論〉に〈長田徳本〉以下、25名を柱として人物情報、その活動を批判的に記述する。杉田玄白など多くの洋方医に強烈な影響を与えた〈永富独嘯庵〉について、管見ながら本書のようにまとまった儒医関係の論考はみない。これはほんの一例である。
構成は〈題字・自序・凡例〉、本文は〈前編総論・後編各論〉より成る。巻末に〈索引〉と〈参考文献目 録〉を付す。自序にのべるように、〈日本に於ける儒学と医学との関係は、二にして一、一にして二、正に不即不離にして、その本体より論ずるときは「儒医一本」であり、その作用より観ずるときは「儒医両 全」である〉とのべている。書名の〈儒医〉は必ずしも一般的ではないが、江戸時代でもこの呼称がありながら、研究はきわめてすくない。人物は〈後篇各論〉に〈長田徳本〉以下、25名を柱として人物情報、その活動を批判的に記述する。杉田玄白など多くの洋方医に強烈な影響を与えた〈永富独嘯庵〉について、管見ながら本書のようにまとまった儒医関係の論考はみない。これはほんの一例である。
15(通巻55)巻 戻る
『墓所一覧』(洋装本)
書名は外題・見返しに〈江都/ 名家 墓所一覧〉とあるが、内題は〈江都諸名家墓所一覧〉である。〈叙〉を水戸、彰考館総裁、川口長孺、〈小引〉を同じく、立原翠軒、さらに〈叙〉を亀田鵬斎と錚々たる人物が寄せている。また末尾に〈跋〉を原念斎が寄せる。〈凡例〉で編者は〈慶元以来、有名之文人、墨客、 刀圭家(医家)、浮屠氏(僧侶)、其墳墓、江戸ニ在ル者を摘挙〉した由を記す(跋では〈六百十九人〉とあるが、実際は621名)。〈総目次〉はイロハ別 グループに人物をまとめ検索の便をはかる。採録の資料は、巻末〈附記〉にあるとおり、文化15年に刊行の『江都諸名家墓所一覧』を明治時代になって翻刻出版したもの。
書名は外題・見返しに〈江都/ 名家 墓所一覧〉とあるが、内題は〈江都諸名家墓所一覧〉である。〈叙〉を水戸、彰考館総裁、川口長孺、〈小引〉を同じく、立原翠軒、さらに〈叙〉を亀田鵬斎と錚々たる人物が寄せている。また末尾に〈跋〉を原念斎が寄せる。〈凡例〉で編者は〈慶元以来、有名之文人、墨客、 刀圭家(医家)、浮屠氏(僧侶)、其墳墓、江戸ニ在ル者を摘挙〉した由を記す(跋では〈六百十九人〉とあるが、実際は621名)。〈総目次〉はイロハ別 グループに人物をまとめ検索の便をはかる。採録の資料は、巻末〈附記〉にあるとおり、文化15年に刊行の『江都諸名家墓所一覧』を明治時代になって翻刻出版したもの。
『近世名家碑文集』(洋装本)
構成は〈漢文序(島田重礼)、例言・目次・撰者氏名〉とあって、本文は〈故讃岐儒学芝山先生後藤君墓表、柴野邦彦〉にはじまる。最後は〈自叙 中村正直〉でおわる。〈例言〉に、〈余竊ニ謂フ、前賢ノ性行、履歴ヲ知ルニ碑文ヨリ善キモノハ莫シ、因リテ名家ノ、碑文ヲ得ルゴトニ、随テ之ヲ録シ、題シテ近 世名家碑文集ト曰フ〉とみえる。目次により碑文の主(171名)が判明し、〈撰者氏名〉(64名)により、撰者の情報がえられる。『事実文編』と重複するところあるも、また〈狩谷[木偏+夜]斎〉のように本書にのみ収載の人物もあり、人物情報として有効と考えられる。
構成は〈漢文序(島田重礼)、例言・目次・撰者氏名〉とあって、本文は〈故讃岐儒学芝山先生後藤君墓表、柴野邦彦〉にはじまる。最後は〈自叙 中村正直〉でおわる。〈例言〉に、〈余竊ニ謂フ、前賢ノ性行、履歴ヲ知ルニ碑文ヨリ善キモノハ莫シ、因リテ名家ノ、碑文ヲ得ルゴトニ、随テ之ヲ録シ、題シテ近 世名家碑文集ト曰フ〉とみえる。目次により碑文の主(171名)が判明し、〈撰者氏名〉(64名)により、撰者の情報がえられる。『事実文編』と重複するところあるも、また〈狩谷[木偏+夜]斎〉のように本書にのみ収載の人物もあり、人物情報として有効と考えられる。
『見ぬ世の友』(洋装本)
東都掃墓会編集の雑誌『見ぬ世の友』(非売品)の第一号(明治33年6月)~第二十一号[完結] (明治35年10月)を合本、2冊本に編集。〈見ぬ世の友〉とは〈死者〉の意。東都掃墓会規約に 〈本会は此の目的を以て毎月一回「見ぬ世の友」と題する雑誌を発行し会員に配布す〉とあり、奥付に 〈非売品〉とあることからも市販はしていなかったようである。
発行時を確認してみると、第一号 33年6月、第二号 不明、第三号 11月、第四号 11月30 日、第五号 12月24日、第六号 34年1月28日、第七号 2月28日、第八号 3月三31日、第九号 4月30日、第十号 5月31日、第十一号 6月28日、第十二号 7月31 日、第十三号 8月31日、第十四号 9月30日、第十五号 11月24日、第十六号 12月28日、第十七号 35年1月31日、第十八号 4月11日、第十九号 6月27日、第二十号 7月8日、第二十一号 10月22日。〈毎月一回〉とはいうものの、2年余りで二十一号であるか ら、多少不定期のようである。
編集・発行人は赤沼伍八郎(常信)で、『赤沼掃墓叢書』(本大系55・56巻に収録)の編者でもある。〈凡例〉に〈本誌は巻中を大別 して肖像、墳墓、板碑、歌碑、雑録、廃墓録、近世物故年表、詞林、質疑 応問、彙報の十部門となす〉とある。これにそって会員が収集した掃苔情報を絵入り、スケッチなどをま じえてまとめたもの。地域も東京に限らず義門の墓 若狭国小浜妙玄寺に在り〉など、地方も散見する。〈新選東京墓所一覧〉、〈夢跡集〉(本大系58巻・59巻収録)の編者、山口豊山などもみえる。
東都掃墓会編集の雑誌『見ぬ世の友』(非売品)の第一号(明治33年6月)~第二十一号[完結] (明治35年10月)を合本、2冊本に編集。〈見ぬ世の友〉とは〈死者〉の意。東都掃墓会規約に 〈本会は此の目的を以て毎月一回「見ぬ世の友」と題する雑誌を発行し会員に配布す〉とあり、奥付に 〈非売品〉とあることからも市販はしていなかったようである。
発行時を確認してみると、第一号 33年6月、第二号 不明、第三号 11月、第四号 11月30 日、第五号 12月24日、第六号 34年1月28日、第七号 2月28日、第八号 3月三31日、第九号 4月30日、第十号 5月31日、第十一号 6月28日、第十二号 7月31 日、第十三号 8月31日、第十四号 9月30日、第十五号 11月24日、第十六号 12月28日、第十七号 35年1月31日、第十八号 4月11日、第十九号 6月27日、第二十号 7月8日、第二十一号 10月22日。〈毎月一回〉とはいうものの、2年余りで二十一号であるか ら、多少不定期のようである。
編集・発行人は赤沼伍八郎(常信)で、『赤沼掃墓叢書』(本大系55・56巻に収録)の編者でもある。〈凡例〉に〈本誌は巻中を大別 して肖像、墳墓、板碑、歌碑、雑録、廃墓録、近世物故年表、詞林、質疑 応問、彙報の十部門となす〉とある。これにそって会員が収集した掃苔情報を絵入り、スケッチなどをま じえてまとめたもの。地域も東京に限らず義門の墓 若狭国小浜妙玄寺に在り〉など、地方も散見する。〈新選東京墓所一覧〉、〈夢跡集〉(本大系58巻・59巻収録)の編者、山口豊山などもみえる。
16(通巻56)巻 戻る
『赤沼掃墓叢書』(和装本)
写本。全28巻・14冊。本編収録にあたり、叢書の前半部5冊(巻一~巻十二)を、後半部9冊 (巻十三~巻十二十八)を、と分けた。原本を14冊に合本改装し、〈赤沼掃墓叢書〉の名称を与えたの は図書館であろう。内容は、浄書された草稿部分とメモおよび他の資料などからの書写 部分とに大別される。
外題(題簽)には〈赤沼掃墓叢書〉とあるが、原本ではそれぞれ資料名が与えられている。たとえば第1冊目は外題に〈一、二、三〉と墨書されており、巻一、二、三の3巻が合本されていることになる。した がって巻一は〈掃墓余筆 巻一〉(外題、内題とも同じ)とある(以下の巻も同じ)。これははじめの2丁分は〈林家)の掃苔録の目次で、それがおわって、あらためて〈掃墓余筆巻一 赤沼常信編輯〉(内題)とあり、本文が始まる。〈文敏先生羅山林君之墓〉より、〈智源院前法眼自愛信澹如居士〉に至る。
以下、各冊の〈外題〉――「内題」をあげておく。
第1冊目――〈赤沼掃墓叢書 一、二、三〉――「掃墓余筆 巻一」「掃墓余筆 巻二」「掃墓余筆 巻 三」
第2冊目――〈赤沼掃墓叢書 四、五、六〉――「掃墓余筆 巻四」「掃墓余筆 巻五」「掃墓余筆 巻 六」
第3冊目――〈赤沼掃墓叢書 七、八〉――「掃墓余筆 巻七」「掃墓余筆 巻八」
第4冊目――〈赤沼掃墓叢書 九、十〉――「掃墓余筆 巻九」「掃墓余筆 巻十」
第5冊目――〈赤沼掃墓叢書 十一、十二〉――「掃墓余筆 巻十一」「掃墓余筆 巻十二」
第6冊目――〈赤沼掃墓叢書 十三、十四〉――「掃墓余筆 巻十三」「掃墓余筆 巻十四」
第7冊目――〈赤沼掃墓叢書 十五、十六〉――「掃墓余筆 巻十五」「掃墓余筆 巻十六」
第8冊目――〈赤沼掃墓叢書 十七、十八、十九〉――「掃墓余筆 巻拾七」「掃墓余筆 巻拾八」 「掃 墓余筆 巻拾九」
第9冊目――〈赤沼掃墓叢書 二十〉―― 「掃墓余筆 続編 上」
第10冊目――〈赤沼掃墓叢書 廿一、廿二、廿三〉――「掃墓余筆 続編 中」「掃墓余筆 続編 下 」「掃墓余筆拾遺」
第11冊目――〈赤沼掃墓叢書 廿四、廿五〉――「東/京 分類墓所一覧 稿 壱」「東/京 分類墓所 一覧稿 弐」
第12冊目――〈赤沼掃墓叢書 廿六〉―― 「続墓所一覧 全 外三種付」
第13冊目――〈赤沼掃墓叢書 廿七〉―― 「京/坂 名家墓所一覧 稿 附水府儒官墓所一覧 稿」
第14冊目――〈赤沼掃墓叢書 廿八〉―― 「墨水石布美集 稿」
最後に〈墨水沿岸名家墓所一覧〉が2丁ほどがあっておわる。裏表紙裏に次の文言がみえる。〈明治三十参年臘月 墨西竹屋埠頭寓居ニ於テ稿ヲ起シ同三十八年葉月台陰谷中㈹居ニ擱筆ス 蓬園常信〉。本書の 完成まで約5年間、明治38年(1905)に成立したことが判明する。貴重な文言である。
写本。全28巻・14冊。本編収録にあたり、叢書の前半部5冊(巻一~巻十二)を、後半部9冊 (巻十三~巻十二十八)を、と分けた。原本を14冊に合本改装し、〈赤沼掃墓叢書〉の名称を与えたの は図書館であろう。内容は、浄書された草稿部分とメモおよび他の資料などからの書写 部分とに大別される。
外題(題簽)には〈赤沼掃墓叢書〉とあるが、原本ではそれぞれ資料名が与えられている。たとえば第1冊目は外題に〈一、二、三〉と墨書されており、巻一、二、三の3巻が合本されていることになる。した がって巻一は〈掃墓余筆 巻一〉(外題、内題とも同じ)とある(以下の巻も同じ)。これははじめの2丁分は〈林家)の掃苔録の目次で、それがおわって、あらためて〈掃墓余筆巻一 赤沼常信編輯〉(内題)とあり、本文が始まる。〈文敏先生羅山林君之墓〉より、〈智源院前法眼自愛信澹如居士〉に至る。
以下、各冊の〈外題〉――「内題」をあげておく。
第1冊目――〈赤沼掃墓叢書 一、二、三〉――「掃墓余筆 巻一」「掃墓余筆 巻二」「掃墓余筆 巻 三」
第2冊目――〈赤沼掃墓叢書 四、五、六〉――「掃墓余筆 巻四」「掃墓余筆 巻五」「掃墓余筆 巻 六」
第3冊目――〈赤沼掃墓叢書 七、八〉――「掃墓余筆 巻七」「掃墓余筆 巻八」
第4冊目――〈赤沼掃墓叢書 九、十〉――「掃墓余筆 巻九」「掃墓余筆 巻十」
第5冊目――〈赤沼掃墓叢書 十一、十二〉――「掃墓余筆 巻十一」「掃墓余筆 巻十二」
第6冊目――〈赤沼掃墓叢書 十三、十四〉――「掃墓余筆 巻十三」「掃墓余筆 巻十四」
第7冊目――〈赤沼掃墓叢書 十五、十六〉――「掃墓余筆 巻十五」「掃墓余筆 巻十六」
第8冊目――〈赤沼掃墓叢書 十七、十八、十九〉――「掃墓余筆 巻拾七」「掃墓余筆 巻拾八」 「掃 墓余筆 巻拾九」
第9冊目――〈赤沼掃墓叢書 二十〉―― 「掃墓余筆 続編 上」
第10冊目――〈赤沼掃墓叢書 廿一、廿二、廿三〉――「掃墓余筆 続編 中」「掃墓余筆 続編 下 」「掃墓余筆拾遺」
第11冊目――〈赤沼掃墓叢書 廿四、廿五〉――「東/京 分類墓所一覧 稿 壱」「東/京 分類墓所 一覧稿 弐」
第12冊目――〈赤沼掃墓叢書 廿六〉―― 「続墓所一覧 全 外三種付」
第13冊目――〈赤沼掃墓叢書 廿七〉―― 「京/坂 名家墓所一覧 稿 附水府儒官墓所一覧 稿」
第14冊目――〈赤沼掃墓叢書 廿八〉―― 「墨水石布美集 稿」
最後に〈墨水沿岸名家墓所一覧〉が2丁ほどがあっておわる。裏表紙裏に次の文言がみえる。〈明治三十参年臘月 墨西竹屋埠頭寓居ニ於テ稿ヲ起シ同三十八年葉月台陰谷中㈹居ニ擱筆ス 蓬園常信〉。本書の 完成まで約5年間、明治38年(1905)に成立したことが判明する。貴重な文言である。
『京都名家墳墓録』(洋装本)
『東京掃苔録』と並ぶ名著。日本の歴史を動かした京都人の情報源である。〈天文・公卿・武人・文人・ 墨客、芸術家、僧侶〉などを地域別、寺院別に分類。引用出典も明示し、有効な資料である。
構成は〈巻頭言(三浦周行)・序(渡辺龍聖)・序(江間 務)・自序・凡例/本文〉。〈凡例〉には 〈本書は山城国内に在る諸名家墳墓の所在を明にし、其湮滅を防ぎ、参拝の便に資するを以て眼目とす〉 とある。なお本書は、昭和50年に村田書店より覆刻版が出版された、新たに〈寺院別 索引(附・現住所)〉が付されている。
『東京掃苔録』と並ぶ名著。日本の歴史を動かした京都人の情報源である。〈天文・公卿・武人・文人・ 墨客、芸術家、僧侶〉などを地域別、寺院別に分類。引用出典も明示し、有効な資料である。
構成は〈巻頭言(三浦周行)・序(渡辺龍聖)・序(江間 務)・自序・凡例/本文〉。〈凡例〉には 〈本書は山城国内に在る諸名家墳墓の所在を明にし、其湮滅を防ぎ、参拝の便に資するを以て眼目とす〉 とある。なお本書は、昭和50年に村田書店より覆刻版が出版された、新たに〈寺院別 索引(附・現住所)〉が付されている。
『訂正/改版 名人忌辰録』(洋装本)
扉には〈訂正/改版名人忌辰録〉とあるが、本文内題および奥付は〈名人忌辰録〉である。『名人忌辰録』 としては明治27年初版刊行し、「まえがき」を小中村清矩が寄せている。訂正改版では225頁 に、嗣子関根正直の〈忌辰録の改版に際して〉と題する一文があり、〈初版は錯誤夥しく〉と改版の必要 を述べ、初版にはなかった「忌辰録/餘筆 情死録」「餘/筆 刑死録」を加え刊行した由がみえる。
全体の 構成は〈名人忌辰録・俳優忌辰録/忌辰録の改版に際して/忌辰録/餘筆 情死録」「餘/筆 刑死録〉。改 版にあたり〈五十音順索引〉をつけて欲しかった。
扉には〈訂正/改版名人忌辰録〉とあるが、本文内題および奥付は〈名人忌辰録〉である。『名人忌辰録』 としては明治27年初版刊行し、「まえがき」を小中村清矩が寄せている。訂正改版では225頁 に、嗣子関根正直の〈忌辰録の改版に際して〉と題する一文があり、〈初版は錯誤夥しく〉と改版の必要 を述べ、初版にはなかった「忌辰録/餘筆 情死録」「餘/筆 刑死録」を加え刊行した由がみえる。
全体の 構成は〈名人忌辰録・俳優忌辰録/忌辰録の改版に際して/忌辰録/餘筆 情死録」「餘/筆 刑死録〉。改 版にあたり〈五十音順索引〉をつけて欲しかった。
『東京掃苔録』(洋装本)
洛陽ノ紙価ヲ高メルというが、本書は名著として多く研究者が恩恵をこうむった。構成は〈序・本文・索 引(二種)〉である。〈序に〈家事の閑を偸んで漸々に出来上った〉とあるとおり、主婦業の傍、6年の 歳月をついやして実地検分により執筆。東京の各区別に寺院をエントリーし、そこに眠る故人をあげ、個 人情報を記す。例えば、〈京橋区〉(現、中央区)に〈東陽院(月島二ノ五)日蓮宗/十返舎一九(戯作者)〉と明示して解説する。ただし本書出版の昭和十五年は東京の市部、35区の時代なので、現、23区とのずれがあり、また区名、町名など地区の呼称の異同もあるので要注意。なお、〈市外〉の部が 末尾にあり、〈索引〉(人名・寺院)が付され検索に有効である。
蛇足であるが、著者、藤浪和子は、『医家先哲肖像集』の編者、藤浪剛一氏の夫人。昭和54年七月、 91歳で死去。私事ながら、氏とは掃苔の研究会で同席させていただいたが、風呂敷に包んだ資料を持 参され和服のよくにあう、静かな話し方をなさる御婦人という印象だった。
洛陽ノ紙価ヲ高メルというが、本書は名著として多く研究者が恩恵をこうむった。構成は〈序・本文・索 引(二種)〉である。〈序に〈家事の閑を偸んで漸々に出来上った〉とあるとおり、主婦業の傍、6年の 歳月をついやして実地検分により執筆。東京の各区別に寺院をエントリーし、そこに眠る故人をあげ、個 人情報を記す。例えば、〈京橋区〉(現、中央区)に〈東陽院(月島二ノ五)日蓮宗/十返舎一九(戯作者)〉と明示して解説する。ただし本書出版の昭和十五年は東京の市部、35区の時代なので、現、23区とのずれがあり、また区名、町名など地区の呼称の異同もあるので要注意。なお、〈市外〉の部が 末尾にあり、〈索引〉(人名・寺院)が付され検索に有効である。
蛇足であるが、著者、藤浪和子は、『医家先哲肖像集』の編者、藤浪剛一氏の夫人。昭和54年七月、 91歳で死去。私事ながら、氏とは掃苔の研究会で同席させていただいたが、風呂敷に包んだ資料を持 参され和服のよくにあう、静かな話し方をなさる御婦人という印象だった。
『芸文家墓所誌』(洋装本)
サブタイトルに、〈東京美術家墓所誌続篇〉とあるように、同一著者が、昭和6年に出版の『東京美術家墓所誌』の続篇である。今回は北海道より宮崎県に至る1172名を収載(追補1名を加える)。時間的には江戸初期から現代に至る。ただし、井原西鶴はあっても芭蕉や一茶はみえないなど、採択にやや むらがあり、規準が不分明である。また、全体の約二分の一弱は東京都内のものである。
サブタイトルに、〈東京美術家墓所誌続篇〉とあるように、同一著者が、昭和6年に出版の『東京美術家墓所誌』の続篇である。今回は北海道より宮崎県に至る1172名を収載(追補1名を加える)。時間的には江戸初期から現代に至る。ただし、井原西鶴はあっても芭蕉や一茶はみえないなど、採択にやや むらがあり、規準が不分明である。また、全体の約二分の一弱は東京都内のものである。
『夢跡集』(和装本)
写本。二十八冊。夢跡はいうまでもなく、死。絵入掃苔録として最大のものといえる。墓碑の図(寸法も 表示)、人物の像(肖像)、人物情報、参考文献の明示など、掃苔録としてのみでなく、文字どおり伝記資料として有効。全二十八編よりなるが、採録にあたり、〈�・�〉に分けた。全体を、〈武家之部・画家之部・義士之部・国学者之部・儒者之部・医家之部・俳諧之部・狂歌之部・戯作者之部・音曲之部・浄るり之部・軍談、落語之部・俳優之部・相撲之部・雑伎之部・名婦之部・諸国之部・雑之部〉などと分類して記述している。 成立については、特に示す文言がない。ただ〈明治元年〉の語が解説中にみえる点、また東都掃墓会の会 員としての編者の活躍、生存期間を考えると幕末から明治初期にかけて成立と考えられる。編者、山口豊山については、『見ぬ 世の友』(「学芸編」15(通巻55)巻収録)を参照。東都掃苔会の会員で、明治30年代まで生存か。
写本。二十八冊。夢跡はいうまでもなく、死。絵入掃苔録として最大のものといえる。墓碑の図(寸法も 表示)、人物の像(肖像)、人物情報、参考文献の明示など、掃苔録としてのみでなく、文字どおり伝記資料として有効。全二十八編よりなるが、採録にあたり、〈�・�〉に分けた。全体を、〈武家之部・画家之部・義士之部・国学者之部・儒者之部・医家之部・俳諧之部・狂歌之部・戯作者之部・音曲之部・浄るり之部・軍談、落語之部・俳優之部・相撲之部・雑伎之部・名婦之部・諸国之部・雑之部〉などと分類して記述している。 成立については、特に示す文言がない。ただ〈明治元年〉の語が解説中にみえる点、また東都掃墓会の会 員としての編者の活躍、生存期間を考えると幕末から明治初期にかけて成立と考えられる。編者、山口豊山については、『見ぬ 世の友』(「学芸編」15(通巻55)巻収録)を参照。東都掃苔会の会員で、明治30年代まで生存か。
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『西洋学家訳述目録』(和装本)
1巻・1冊。嘉永5年(1852)成立、安政元年(1854)刊。桐園先生閲・穂亭主人輯、和装。書目であるが、収録の主旨は、各人名に付されている人物紹介記事(漢文体)の点 である。構成は〈叙(桐園居士2丁)・例言(編者穂亭、2丁)・イロハ別 著訳者索引(九丁)・本文 (イロハ順、39丁)〉合計52丁。いろは順に人物をあげ、その個人情報と著訳書をあげる。例えば、〈●大槻磐水 名茂質、字子煥、称玄沢一号芝蘭堂、仙台人、住江戸〉とあるが如きである。「例言」によれば、本書には「西洋医書翻訳ヲ輯ムルヲ以テ専門トスレトモ天文地理歴算舎密教本草家ノ 著書モ併セ之ヲ載ス」とあり、中心は西洋医書だが天文地理歴算舎密教本草家の著書も採られているのが わかる。収載人物は合計百名(作者不詳三十九名)、中にはまったく人物紹介記事の与えていない場合、 また、〈彭(彰の誤り)考館〉のように人物ではない場合なども混在する。やや誤刻が散見、注意を要す る。なお、収録の版は大正十五年四月に松雲堂書店より覆刻版が刊行されており、収録の資料もこれによ る。
1巻・1冊。嘉永5年(1852)成立、安政元年(1854)刊。桐園先生閲・穂亭主人輯、和装。書目であるが、収録の主旨は、各人名に付されている人物紹介記事(漢文体)の点 である。構成は〈叙(桐園居士2丁)・例言(編者穂亭、2丁)・イロハ別 著訳者索引(九丁)・本文 (イロハ順、39丁)〉合計52丁。いろは順に人物をあげ、その個人情報と著訳書をあげる。例えば、〈●大槻磐水 名茂質、字子煥、称玄沢一号芝蘭堂、仙台人、住江戸〉とあるが如きである。「例言」によれば、本書には「西洋医書翻訳ヲ輯ムルヲ以テ専門トスレトモ天文地理歴算舎密教本草家ノ 著書モ併セ之ヲ載ス」とあり、中心は西洋医書だが天文地理歴算舎密教本草家の著書も採られているのが わかる。収載人物は合計百名(作者不詳三十九名)、中にはまったく人物紹介記事の与えていない場合、 また、〈彭(彰の誤り)考館〉のように人物ではない場合なども混在する。やや誤刻が散見、注意を要す る。なお、収録の版は大正十五年四月に松雲堂書店より覆刻版が刊行されており、収録の資料もこれによ る。
『洋学大家列伝』(洋装本)
著者、小宮山綏介(南粱)は上梓前に死去、門弟及び出版社の編集部により、校正出版された。内容的に は前半に36名の洋学者の伝をのべ、後半は〈附録、南粱漫録〉として、洋学者とは無関係の人物逸話 などを収録する。〈例言〉に、〈近世名賢の碑伝行状及逸事の類を見る毎に手抄して之を収ほう〉したもの により執筆したという。通読すると内容的に問題点も散見するが、幕末に比較的近いころの記述として参考とするに足るであろう。
著者、小宮山綏介(南粱)は上梓前に死去、門弟及び出版社の編集部により、校正出版された。内容的に は前半に36名の洋学者の伝をのべ、後半は〈附録、南粱漫録〉として、洋学者とは無関係の人物逸話 などを収録する。〈例言〉に、〈近世名賢の碑伝行状及逸事の類を見る毎に手抄して之を収ほう〉したもの により執筆したという。通読すると内容的に問題点も散見するが、幕末に比較的近いころの記述として参考とするに足るであろう。
『近代著述目録』(和装本)
8巻・5冊、天保7年(1836)刊。外題〈近代名家著述目録〉、見返し〈本朝諸名家著述書目録〉、 内題〈近代著述目録、堤朝風原輯/万笈堂英遵補定〉とある。構成は〈序(清水浜臣、文化8年(1811)・序(堤朝風)・水戸家御編集書目/索引/本文/万笈堂書目/稟(書坊万笈堂主人)/奥付〉とあ る。なお各冊とも、表紙に標目紙が貼付けされている。成立は文化8年、刊行は天保7年である。いろは 別に人物を分類し、個人情報、著書などをあげる。本文の分量は、○第1冊目/第一巻――い~と(41丁)、○第2冊目/第二巻――ち~か(34丁)・第三巻――よ~な(34丁)、○第3冊目/第四巻――む~く(21丁)・第五巻――や~て(30丁)、○第4冊/第六巻――あ~し(37 丁)、○第5冊/第七巻――ひ~す(15丁)、第八巻――(僧)(28丁)/万笈堂書目(3丁)― ―となり、合計243丁。
8巻・5冊、天保7年(1836)刊。外題〈近代名家著述目録〉、見返し〈本朝諸名家著述書目録〉、 内題〈近代著述目録、堤朝風原輯/万笈堂英遵補定〉とある。構成は〈序(清水浜臣、文化8年(1811)・序(堤朝風)・水戸家御編集書目/索引/本文/万笈堂書目/稟(書坊万笈堂主人)/奥付〉とあ る。なお各冊とも、表紙に標目紙が貼付けされている。成立は文化8年、刊行は天保7年である。いろは 別に人物を分類し、個人情報、著書などをあげる。本文の分量は、○第1冊目/第一巻――い~と(41丁)、○第2冊目/第二巻――ち~か(34丁)・第三巻――よ~な(34丁)、○第3冊目/第四巻――む~く(21丁)・第五巻――や~て(30丁)、○第4冊/第六巻――あ~し(37 丁)、○第5冊/第七巻――ひ~す(15丁)、第八巻――(僧)(28丁)/万笈堂書目(3丁)― ―となり、合計243丁。
『近代著述目録後編』(洋装本)
本書の成立、刊行については、〈解題〉の部に詳述されているので、その方を参照されたい。〈後編〉と あるも厳密には〈前編〉が存在するわけではない。堤 朝風『近代著述目録』を前編と仮定しての呼称。 原本は天保13年には刊行の予定はあったが写本として伝えられ、これを翻字し『日本古典全集』本とし て刊行した。 刊行にあたり、原本の誤りを訂正している。構成は〈首・例言・索引/本文〉よりなる。人物をいろは別 に収載。中心は故人の著書情報であるが、人物917名の情報ももりこまれており、貴重な情報源となる。
本書の成立、刊行については、〈解題〉の部に詳述されているので、その方を参照されたい。〈後編〉と あるも厳密には〈前編〉が存在するわけではない。堤 朝風『近代著述目録』を前編と仮定しての呼称。 原本は天保13年には刊行の予定はあったが写本として伝えられ、これを翻字し『日本古典全集』本とし て刊行した。 刊行にあたり、原本の誤りを訂正している。構成は〈首・例言・索引/本文〉よりなる。人物をいろは別 に収載。中心は故人の著書情報であるが、人物917名の情報ももりこまれており、貴重な情報源となる。
『明治/文雅 都鄙人名録』(和装本)
1巻・1冊。明治14年(1881)刊。構成は〈題字・序・題人名録・例言/跋〉。本文はイロハ別 と分野別によって文雅の士を登載する(ただし、はじめの部分は、分野の表示がない)。〈例言〉に、〈本編ハ都鄙遠近ヲ論セズ。方今、文苑名家ノ技芸及ヒ居所ノ地名番号ヲ詳記ス〉とある。また〈苟モ文芸ニ志ザセル風流君子ヲシテ机上必備ノミナラズ旅中必携ノ、至宝に充ントス〉とみえる。冒頭〈詩文・書 伊藤 春畝 博文〉は、〈高輪南町三十番地〉(イ・井ノ部)であるが、〈詩文・書 湯川玄道 治定〉は〈日向 延岡〉(ユノ部)、〈書 目賀仙山〉は、〈肥前長崎〉とあるが如き。総数1500名である。なお売捌所は〈須原屋茂兵衛)など江戸の老舗とともに、〈丸家 丸屋善七)など新興の丸善など、都下の多くの書肆が名をつらね参考になる。
1巻・1冊。明治14年(1881)刊。構成は〈題字・序・題人名録・例言/跋〉。本文はイロハ別 と分野別によって文雅の士を登載する(ただし、はじめの部分は、分野の表示がない)。〈例言〉に、〈本編ハ都鄙遠近ヲ論セズ。方今、文苑名家ノ技芸及ヒ居所ノ地名番号ヲ詳記ス〉とある。また〈苟モ文芸ニ志ザセル風流君子ヲシテ机上必備ノミナラズ旅中必携ノ、至宝に充ントス〉とみえる。冒頭〈詩文・書 伊藤 春畝 博文〉は、〈高輪南町三十番地〉(イ・井ノ部)であるが、〈詩文・書 湯川玄道 治定〉は〈日向 延岡〉(ユノ部)、〈書 目賀仙山〉は、〈肥前長崎〉とあるが如き。総数1500名である。なお売捌所は〈須原屋茂兵衛)など江戸の老舗とともに、〈丸家 丸屋善七)など新興の丸善など、都下の多くの書肆が名をつらね参考になる。
『昭和文人名鑑』(洋装本)
昭和4年刊行であるから、実質的には明治、大正生まれで、昭和初期以前に活躍し刊行当時なお存命のものということになる。〈序〉に〈従来刊行せられたるものの多くは信を措くに足るもの尠なく〉とある。収載の人数は516名、氏名索引(イロハ順)、雅号索引(同上)があり、検索の便をはかる。
昭和4年刊行であるから、実質的には明治、大正生まれで、昭和初期以前に活躍し刊行当時なお存命のものということになる。〈序〉に〈従来刊行せられたるものの多くは信を措くに足るもの尠なく〉とある。収載の人数は516名、氏名索引(イロハ順)、雅号索引(同上)があり、検索の便をはかる。
『近世儒林編年志』(洋装本)
〈小引〉で著者の述べるように、近世の儒学の時代的動静を背景に、新井白石より幕末の佐久間象山に至る儒者の思想と行動を編年体風に論述した書。人物情報とともに、社会背景を興味深く記述する。巻末に〈人名索引〉を付し、本文に関係する儒者、約346名を五十音順に排列し、簡単な略歴を示す。
〈小引〉で著者の述べるように、近世の儒学の時代的動静を背景に、新井白石より幕末の佐久間象山に至る儒者の思想と行動を編年体風に論述した書。人物情報とともに、社会背景を興味深く記述する。巻末に〈人名索引〉を付し、本文に関係する儒者、約346名を五十音順に排列し、簡単な略歴を示す。
『洋方医伝』(洋装本)
1冊。明治17年(1884年)刊。小冊ながら名著として知られる。〈序(島田重礼)・自序/洋方医学沿革総論〉があり、本文は〈桂川甫周〉に始まり〈緒方洪庵〉に至る計27名を解説。〈総論〉では、〈洋学之始行享保年間に在り、崎陽訳官、西善三郎、吉雄幸右衛門に在り〉と、長崎蘭通 詞から筆を おこし、おわりを〈明治9年〉の医師免許制によって〈本朝神伝医方、三韓、漢土伝フル所ノ医術、此ヨ リ遂ニ廃サル。欧洲医術、専ラ天下ニ行ハル、実ニ二千年来医術之一大変革トナス〉とある。
1冊。明治17年(1884年)刊。小冊ながら名著として知られる。〈序(島田重礼)・自序/洋方医学沿革総論〉があり、本文は〈桂川甫周〉に始まり〈緒方洪庵〉に至る計27名を解説。〈総論〉では、〈洋学之始行享保年間に在り、崎陽訳官、西善三郎、吉雄幸右衛門に在り〉と、長崎蘭通 詞から筆を おこし、おわりを〈明治9年〉の医師免許制によって〈本朝神伝医方、三韓、漢土伝フル所ノ医術、此ヨ リ遂ニ廃サル。欧洲医術、専ラ天下ニ行ハル、実ニ二千年来医術之一大変革トナス〉とある。
〈日本人物情報大系〉の意図は、即書物としての〈人物伝〉や〈人名録〉の蒐集とは次元を異にする。あえて示せば、たとえば『国書総目録』(岩波書店)に採られている〈人物に関わる情報〉を蒐集し、研究者に提供するのがその主目的である。覆刻でも、再録でもない。したがって、数ページ、数丁、ときには折り込み1枚でも情報として貴重なものは採録しなければならない。逆に、1冊の書物形式であっても、人物以外の情報は排除する。本大系にみられる部分採録や部分的省略はこのような意図に基づくものであることをご諒承されたい。表紙(元表紙・改装による表紙)などは略した場合がある。書名は原則として巻首内題によったが、外題がすでに一般 的に通用している場合は通例にしたがった。
※資料採択にあたり、国立国会図書館、早稲田大学図書館、その他、公私の所蔵家のご協力をいただいた。一言記して謝辞とする。
※資料採択にあたり、国立国会図書館、早稲田大学図書館、その他、公私の所蔵家のご協力をいただいた。一言記して謝辞とする。
http://www.libro-koseisha.co.jp/top03/rb816.html#end
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