2015年1月8日木曜日



天正10年(1582年)本能寺の変で信長憤死後、信長軍が長沼城(長野市)を退却したので、上杉景勝公はこの機を逃さず北信に進軍・領有し、武田に敗れて越後に逃れていた信州・島津淡路守を29年ぶりに長沼城主に復させた。
この時、景勝公の求めに応じて、長沼城領地内の小軍団集である葛山衆(上野。櫻、鎧、立岩)も島津淡路守の配下に加わった。
しかしその後、葛山衆地盤の飯縄山周辺の「入会山」の権利に付き双方に衝突が起き葛山衆と島津淡路守とは不仲になった。
この時、立岩一族は直江兼続の仲介指示に従い天正11年(1583年)、他の葛山衆と一緒に春日山城下に居を移った。、
しかし、文禄の役(1592年)の時でも、立岩一族は上杉体勢の中では未だ信州・島津抱えとなっていた。

また、立岩一族の発祥の地は、島津3代目・島津久経の2男・島津久長が地頭職として領した信州塩田庄(上田市・長門市)の立岩郷であることより、鎌倉初期には島津久長に仕えていたと考えられる。
(元寇後、島津久長は南薩に下り島津伊作家始祖となり、そして島津義弘の代になって薩  摩州・島津本流となる。)
この事は、先に述べた蒙古軍を討つために、久長が地頭として領有していた立岩部落の兄弟部落である有坂部落から島津久長に従って塩田庄から博多箱崎に下向して行った「有坂弥次郎」の例からも推測される。(国宝・蒙古襲来絵詞)

此処に、奇しくも文禄の役・日朝間の海域という歴史上の舞台で1592年、
*島津家本流(島津久長本流・島津伊作家出身の島津義弘)、
*島津家分流(島津久長分家出身の信州・島津淡路守)
*この両者に仕えた立岩一族

  が再会することになった。

[出典]
http://blogs.yahoo.co.jp/untmzn/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=7

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