2015年1月23日金曜日

緋色の衣


会津藩の人たちは、ここ「余市」に住まいを定め、余市 川の恵み・温かな気候・肥沃な土地を見込んで、ここを開拓の場所としました。(中略) しかし、彼らを統括した宗川熊四郎は、質実剛健で、人情に厚く、自 分には厳しい人でした。宗川熊四郎父子の優れたリーダーシップによって、開拓の苦労を乗り越え、導かれ協力しながら、会津魂を発揮していったのです。た だ、悔しい思いをしたのは、「朝敵」(天皇家の敵)と、土地の人にまで意地悪を言われたり、死者が出た時に、どのお寺も「朝敵」には葬式はしてあげれない と言われたことです。
 会津藩の人たちにすれば、最後まで京都にとどまり、体をはって天皇家を守ってきたのは、われわれ会津藩だという思いがあるのです。そのためにこそ、我々 は国を奪われ、家族を殺され、故郷を追われてしまったのだ。天皇家を守った証として、藩主.松平容保公は、じきじきに「緋色の衣」を頂いている。それなの になぜ、「朝敵」なのだ?という悔しさがどんなにか身を焦がしたことでしょう。
「もう、他人に頼るのはやめよう。これからは、我々で葬式を出しましょう。仏の教えは困るものを救うものではなかった。」そういって、仏教に頼らず、神道にのっとり悲しみをこらえて、執り行ったとのことです。
(同書より)

 そんな余市の日々に、変化が。

 その頃、余市に行った人たちは知りませんでしたが、会津藩はすでに明治政府から許され、藩主・松平容保公もご無事で、家名も再興しておりました。会津の人たちはもう無理に北海道にいることはなかったのです。
 ある年、ときの北海道開拓使長官・黒田清隆は、アメリカへの視察のおり、北海道と気候の似ている土地に育った「リンゴ」の苗木を、将来きっと役に立つと 考え、数本持って帰りました。そして、東京の小石川の実験農場で栽培させ、増やした後に、余市の農家の人々にその苗木を植えてみるようにと渡しました。初 めて「リンゴ」の苗木を見た余市の人々は、何だろうと思い、ひとまず庭の隅にうえておき、あまり期待もせずに放っておいたそうです。
(同書より)



[出典]
http://www3.ocn.ne.jp/~swan2001/swanindex10104.html


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