2015年1月9日金曜日

米沢藩 最後の蘭方医・坪井為春(大木忠益)
 『先人の世紀』前編 松野良寅から



 米沢藩の医者は藩主やその一族、支侯などのお側医(侍医)格の
外様法体(とざまほったい)と呼ばれる身分のものと、外様外科
(とざまがいりょう)それに町医者がおりました。外様法体は世襲
でしたが、外様外科の中ですぐれた実績を上げたものは「一代限り
外様法体」を認められる医者もおりました。伊東昇迪(伊東忠太の
祖父)などはその例です。



 ところで米沢城下以外の、例えば長井や宮内方面には郷士(ごう
し)(無給の士族)の身分で「郷医」と呼ばれる医者がおりまし
た。大木三智(松翁)は下長井の生まれで、郷医として小松で開業
していました。当時小松は宿場でしたから松翁のような医者を「駅
医」と呼んでいました。この松翁の長男に忠益というなかなかの秀
才がおりました。



 忠益は十二、三歳の頃から水野道益について医学を学び、城下の
坂蘭渓(ばんらんけい)(興譲館提学)の塾で儒学を修めます。そ
して十六歳の時藩侯侍医の堀内素堂の塾に入り蘭学と医学を学ぶの
ですが、忠益の将来性を認めた素堂は、天保十一年(1840)、十七
歳の忠益を、江戸にいる親友の坪井信道に紹介するのです。



 坪井信道は、当時戸塚静海・伊東玄朴らと共に三大西洋医家と称
された名医で、長州藩侯毛利敬親(たかちか)の侍医を勤めた蘭学
の第一人者でした。忠益が信道の日習堂に入塾した頃、信道の長男
の安貞(坪井信友)は米沢の堀内塾に入塾するのです。この一事か
らも素堂と信道の親交・信頼関係が推察されます。



 弘化三年(1846)二十三歳の時、忠益は坪井塾の塾頭となり大病
で寝込んでいた信道に代り、塾生の教育を一手に引受けて坪井塾の
名声を大いに上げます。



 当時薩摩藩侯の島津斉彬(なりあきら)は蘭学の振興に努め、軍
事産業を初めあらゆる分野に西洋の学術文化を積極的に採り入れ、
薩摩藩の近代化を推し進めていました。それで坪井塾頭の忠益に目
をつけ、何とかして忠益を薩摩藩に迎えようして、坪井塾にいた安
達楳栄(あだちばいえい)という薩摩藩の医者を介して忠益の薩摩
藩出仕を勧誘しました。



 ところが、他藩に仕えることを禁ずる上杉藩の厳重な掟のために
折衝はスムーズに進捗しませんでした。その時たまたま、忠益が坪
井信道の次女幾子と結婚していたので〈坪井為春〉と改名しては、
という案が採択され、ようやく藩侯侍医として薩摩藩出仕が認めら
れます。以後忠益は江戸白金に屋敷を与えられ、松戸にいた両親を
迎えて薩摩藩の要請に応じて「兵書」の翻訳に従事するのです。



 嘉永五年(1852)、忠益は芝浜松町に居を構えて開業し塾を開き
ます。当時は海防が急務の時代ですから、西洋砲術をはじめいろい
ろな知識を蘭書から吸収する必要に迫られ、蘭学を習う生徒が忠益
の塾にも殺到しました。忠益の門人からは、啓蒙的な官僚・学者と
して活躍する加藤弘之のような人材が輩出しています。



 島津斉彬が亡くなり薩摩藩出仕を止めてからは、蕃書調所(ばん
しょしらべしょ)教授手伝として採用され、文久二年(1862)三十
八歳の時西洋医学所教授に挙げられ、以後頭取の松本良順を助けて
幕府医学所を代表する名医として活躍します。



 この医学所には、後日明治の医界をリードする樫村清徳(きよの
り)や海瀬(かいのせ)敏行のような米沢藩医の子弟も入所して来
ます。

 明治新政府が発足すると、坪井為春は文部省所属となり、文部中
教授、埼玉県医学校長、埼玉県病院長、東京大学御用掛などを歴任
しますが、その頃はオランダ医学に代りドイツ医学が医界の主流を
占めていました。坪井為春(大木忠益)は、日本最後の蘭方の名医
として明治十九年(1886)三月三十一日に亡くなります。

 為春の次男坪井次郎は東大医学部を卒業後ドイツに留学、コレラ
菌や結核菌の発見で有名なコッホ博士について学び、肺結核の治療
法を研修して帰国、後に京都帝国大学医科大学初代学長に推挙され
た名医でした。

 米沢藩の医学を研究するには、長沼太仲(牛翁)やその子月峰・
鈴木千里・船山道純等、西置賜、宮内方面で活躍した医者達の業績
も調査する必要があります。

 鈴木千里は、堀内素堂と坪井信道に師事し、その後、長州藩に仕
え、尊王攘夷論に共鳴して志士として活躍、足利藩に仕えてからは
その影響力は下野(しもつけ)一帯に及び、《足利の種痘の父》と
仰がれますが、地方の勤王の志士達を先導して倒幕運動に奔走して
います。その子長沼敬哉(けいさい)・刈谷三郎も志士として活躍
します。


[出典]
http://ameblo.jp/yonezu011/entry-11342741606.html

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