2015年1月8日木曜日



幕府老中始め、薩摩を悪む□最甚し。三郎(島津久光)を悪むも亦甚し。三郎(島津久光)従者の内、堀小太郎を芟除せん事を謀る。島津三郎随従の内何某とい へる者あり、幕史に懇意の者ありて、頻りに小太郎を取除ける事を周旋せり。幕議決て大目付何某を薩邸に遣はして、三郎へ此芟除ノ事件を談す。三郎承諾して 小太郎を免す。幕史一同喜悦す。


事件の張本人である三郎(島津久光)が、小太郎の仕業とし免ずることを受け入れた理由は、幕府の機嫌を損ねないためだったのでしょうか。
また、幕府側にとっても当時朝廷の勅使大原を伴い、幕府に難題を持ち出す久光は疎ましい存在であり、しかし久光を退けることができないため、せめて牽制しようとした苦肉の策だったのかもしれません。
そして皮肉な事に、この直後の八月、京へ上る途上久光一行は生麦事件を起こします。


 御政治総裁録によると、七月二十七日に春嶽は島津淡路守の内願について岡部から何らかの結果を聞くはずが、訳が有り引き延ばされ、その翌日岡部から永井 より話があると聞かされ、永井に罷り出るように伝え、その夜春嶽の元を訪れた永井から堀小太郎の一件について詳細を聞かされています。
 
 が逸事史補に書かれている、久光に随従していた何某と、その懇意であった幕吏とはいったい誰と誰だったのでしょうか。
 幕吏が永井でなかったとしたら、岡部が永井にお膳立てをたてたとも考えられます。
 
 この一件は久光を疎んじていた幕府閣老らにとって快哉する出来事だったようです。
 そしてこの直後八月七日に永井は政局に復帰し京都町奉行に任命されています。
 また十日には、幕府首脳の評議により、永井は會津藩主松平容保の京都守護職就任の説得のため會津藩重役との会談を命令されています。
 その夜、永井は茶屋で会津の重臣らとの三者会談の上、未決であった三条、諸浪士の件、御上洛の件、所司代の件を決定させました。

 永井がどのような説得をしたのかは不明ですが、今後永井も京の政局に当たることになるため、會津藩を補佐する事も内談に含まれていたのではないかと想像するのですが・・・。

 岡部は文久二年から三年にかけ、幕府政治の中心で活躍していくのですが、三年の七月、病気を理由に大目付を辞任します。
 以降は作事奉行、神奈川奉行などをつとめ、慶應一年八月病気により小普請組支配を辞任し、翌年の十二月に病気で亡くなりました。享年四十二歳でした。
 

[出典]
http://www.mirai.ne.jp/~jkj8/bakusin.htm

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