2015年1月21日水曜日

余市の誕生


余市の誕生
 話はちょっと前後するが、1869(明治2)年9月に兵部省は会津士族100戸を小樽に連れてきた。これは当初、札幌を開拓させようという目論見があってのことだった。だが、札幌には開拓使が設置されている。おまけに当時、政府機関でありながら兵部省と開拓使の仲は険悪だったそうで、仕方なく兵部省は当別開拓に会津士族を投入することにした。だが、翌1870(明治3)年、 政府施策により兵部省は北海道支配から撤退。会津士族は開拓使に庇護を求めたものの、開拓史はこれを拒絶。政府からは旧主を頼れという通達が出る始末。これではまさにたらいまわしである。だが、元の会津藩である斗南藩に彼らを庇護するだけの力はない。自分達の生活すら危うい状況だったのだ。そこで新たに設置された樺太開拓使に救済を嘆願した。当時、樺太開拓使の次官は 黒田清隆で、黒田はいったん余市で待機させたのち樺太へ移住させて開拓に当たらせようと考えてこれを受諾。一同、余市で樺太へ移住する日を待つことになったのだが、1年半後には樺太開拓使自体が北海道開拓使に吸収されてしまい、この話は立ち消えになった。そこで開拓使では会津士族を余市に定住させることにし、以後開拓募移民ということで保護、指導を受けて余市の開拓にあたることになる。
 さて、北海道に移住した会津士族の数だが、1869(明治2)年の時点で700人ぐらいで、戸数にして211戸だった。余市移住が行われたのは1871(明治4)年4月のことで、211戸中169戸が小樽から移り住んだ。翌1872(明治5)年には11戸が小樽から移住している。さて、会津士族が移り住んだ余市、開拓当初は黒川、山田の2村に分かれていた。黒川も山田も、実は人名から取ったものらしい。黒川の 由来は黒田清隆の黒、そして会津士族団総代・宗川熊四郎の川を合わせたというもので、山田も開拓使判官・大山荘太郎の山と黒田の田を足し合わせたものだそうだ。当初、会津士族たちは慣れない農耕に苦しみ、脱落して札幌や小樽へ移住する者が続出した。そこで開拓使では男1日20坪、女1日8坪の責任開墾を奨励したがこれも効果なし。そこで、1873(明治6)年に開拓使は新しい開墾機械の導入と 会社組織による農耕開拓の指導に入っている。これを受け、黒川・山田の両村から札幌へ技術研修に向かう者が出て、更に黒川村農会社という会社が誕生。これが会津士族にとっての組織的まとまりの根幹となったのは言うまでもない。更に1875(明治8)年には、リンゴ、ブドウ、梨、スモモといった西洋の果樹の苗木が交付されたが、農耕技術が未熟な上に全く経験がない果樹栽培に、会津士族は大いに戸惑ったという。 この苗木、会津士族だけでなく付近の漁民にも交付されたが、成果は黒川・山田両村がはるかに良かったらしい。そこで、ダメもとで1880(明治13)年の農業仮博覧会にリンゴを出品。これが大ブレイクし、会津士族たちはあまりの成果にびっくり仰天。それ以降、余市町をはじめとする余市郡一帯では果樹栽培が盛んになっている。
 また、かつての会津藩と同様に士族子弟の教育にも力が入れられ、余市移住後間もなく、藩校日新館が黒川村に1871(明治4)年に開校している。この日新館、学制公布後も続き、1873(明治6)年に郷学所と改称し、1877(明治10)年には沢町小学校として新たなスタートを切った。会津人の朝敵、逆賊の汚名をそそぐという積年の思いは北の大地に結実していったのだ。現在、余市町は人口2万人を数え、農漁業の町としてだけでなく 宇宙飛行士・毛利衛さんの故郷として有名になり、多くの観光客が訪れるまでになった。さらに、ニッカウイスキーの工場もあり、こちらに訪れる観光客も多い。そういえば、北星学園も余市に高校を持っているが、こちらでは高校中退者などを受け入れるなどしているそうだ。教育の町、でもあるのだ。こういうところ、会津魂が今に続いているのかもしれない。


[出典]
http://web1.nazca.co.jp/hp/comeshining/kyodo2.html

0 件のコメント:

コメントを投稿