2015年1月8日木曜日


薩人英人と談判
松 木の話は次にして置いて、横浜にイギリスの軍艦が帰って来た跡で、薩摩から談判の為に江戸に人が出て来た。其江戸に人の出て来たと云うのは、岩下佐治 (次)右衛門、重野孝(厚)之丞(後に安繹)、其外に黒幕見たような役目を帯びて来たのか大久保市(一)蔵(後に利通)、其三人が出て来た処で、第一番に 薩摩の望む所はとにもかくにも此戦争を暫く延引して貰いたいと云う注文なれども、其周旋を誰に頼むと云う手掛りもなく当惑の折柄、ここに一人の人がある。 其一人と云うのは清水卯三郎(瑞穂屋卯三郎)と云う人で、此人は商人ではあるけれども英書も少し読み西洋の事に付ては至極熱心、先ず当時に於ては其身分に 不似合な有志者である。初め英艦が薩摩に行こうと云うときに、もし薩摩の方から日本文の書翰を出されたときには之を読むに困る。通弁にはアレキサンドル・ シーボルトがあるから差支ないけれども、日本文の書翰を端々と読む人がないと云うので英人から同行を頼まれた。清水は平生勇気もあり随分そんな事の好きな 人で、夫れは面白い行って見ようと容易く承諾し、横浜税関の免状を申受けて旗艦に乗込み、先方に着して親しく戦争をも見物した其縁があるので、今度薩州の 人が江戸に来て英人との談判に付き、黒幕の大久保市蔵は取敢えず清水卯三郎を頼み、とにかくに此戦争を暫く延引して貰いたいと云う事を、在横浜の英公使 ジョン・ニールに掛合うことにした。ソコで清水は大久保の依託を受けて横浜の英公使館に出掛けて其話を申込んだ所が、取次の者の言うに、かかる重大事件を 談ずるに商人などでは不都合なり、モット大きな人が来たら宜かろうと云うから、清水は之を押し返し、人に大小軽重はない、談判の委任を受けて居れば沢山 だ、夫れでも拙者と話は出来ないかと少しく理窟を云った所が、そう云う訳なら直ぐに遇うと云うので、夫れから公使に面会して戦争中止の事を話掛けると、な かなか聞きそうにもしない。イヤもう既に印度洋から軍艦を増発して何千の兵士は唯今支度最中、然るに此戦争の時期を延ばして待つなどとは謂れのない話だ 云々と、思うさま威嚇して聞きそうな顔色がない。ソコで清水は其挨拶を承って薩人に報告すると、重野が、とてもこりゃ六かしそうだ。とにかくに自分達が自 から談判して見ようと云って、遂に薩英談判会を開き、種々様々問答の末、とうとう要求通りの償金を払う事になり、高は二万五千ポンド、時の相場にしておよ そ七万両ぐらいに当り、其七万両の金は内実幕府から借用して、そうして島津薩摩守の名義では払われないと云うので、分家の島津淡路守の名を以て金を渡すこ とにして、且つ又リチャルドソンを殺した罪人は何分にも何処にか逃げて分らないから、もし分ったらば死刑と云うことで以て事が収まった。其談判の席には大 久保市蔵は出ない。岩下と重野の両人、それから幕府の外国方から鵜飼弥市(一)、監察方から斎藤金(謹)吾と云う人が立会い、いよいよ書面を取換して事の すっかり収まったのが、文久三年の十一月の朔日か二日頃てあった。 


[出典]
http://www.geocities.jp/kyoketu/156.html

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