2015年1月14日水曜日

戊辰白河口戦争記



第十二章 東西相峙す二旬 1/2

慶応 4年(1868)
・ 5月 4日
東軍は五月四日に須賀川で奥羽列藩の会議を開いて各藩の部署を定めた
上小屋方面へは会藩の総督西郷頼母・高橋権太夫・木本内蔵之丞・野田進・杉田兵庫・坂平三郎等の諸隊が陣し、上田八郎右衛門・小池帯刀等は大平方面を固めて羽太村を本営とした
本道には仙藩の将益田歴治、二本松藩の丹羽丹波、会藩の辰野源左衛門等が矢吹に陣した
会将の小森一貫齋・木村兵庫及び相馬・棚倉の兵は金山方面の守備に当たった
愛宕山・八幡台に守兵を出し、刎石・二枚橋の要地に衛兵を置き、金山・七曲には塁を築き、夜は山々に篝火を焚き、西軍の隙もあらば忽ち襲わんとする勢であった
西軍も亦白河に在りて防禦の策を施し、四方に番兵を出し、持場を定めて東軍に備えた
本道・黒川口は薩兵。旗宿口・石川口は長浜・忍兵。湯本口・大谷地口・根田口及び白坂口は大垣兵。各々昼夜を厭わず番兵を出し一方大総督府に加兵を乞うた
閏四月より五月にかけての西軍の指揮は東山道先鋒であったが、東山道先鋒総督岩倉具定は奥羽追討白河口総督となり、同副総督岩倉具経は奥羽追討白川口副総督となって西軍を指揮することになった。具定は具経の二男、具経は八千丸といいて具視の三男である
西軍の其の局に当たったものは公卿と武士で、九條・沢・醍醐・岩倉・鷲尾等は公卿で、西郷・伊地知・板垣・世良・大山・渡辺等は武士であった
・ 5月21日
五月二十一日に七曲の戦があった。七曲とは小田川村の泉田から小田川に越す所の地名である。此の頃の戦に仙藩の所謂烏組が細谷十太夫指揮の下に六十七人悉く抜刀して西軍を潰走せしめた勇壮な話は今に伝わっている
・ 5月25日
五月二十五日、東軍白河に迫り、大田川・小田川・本沼等に小戦があった。東軍の小田川に集るもの百余人、薩・長・大垣の兵が之を破り、大田川を焚いた。大田川の焼かれたのは麦刈時であったと伝わっている。西軍の手負二人、長藩四番隊は鹿島口より本沼に向って東軍五・六十人を破り民家を焼いた。東軍死者十五人、長兵死者一人、傷兵一人。此の日大和田に東軍と大垣藩との小戦があった
・ 5月26日
五月二十六日、また東軍白河城に迫る。棚倉口・矢吹口及び長坂大谷地の諸方面皆進み来る。時に柏野・折口より会兵も進みて戦う。東軍不利。また金勝寺・富士見山・仙台街道の左右の山等に戦あり、西軍の死者一人、手負三人、東軍の死者三十人余(西軍の記録による)。この日、白坂の天王山にある東軍は黒羽・大垣の兵と戦う。東軍は棚倉・中村両藩で死者十一人、西軍は死者一人、手負六人(西軍の記録による)
・ 5月27日
五月二十七日、小戦あり、金勝寺の東軍は大谷地に退いた。比石の焼かれたのも此の日である
・ 5月28日
五月二十八日、金山の東軍白河合戦坂に進撃して小戦あり、釜子の東軍も亦進んで搦山に至るも戦わずして退く。この日死者東軍二人
・ 5月29日
五月二十九日、東軍相議して払暁白河城総攻撃に移る。仙藩の砲兵隊長釜石栄治は白河関門に、芝多賀三郎は山手に、田中惣左衛門は羅漢山及富士見山に、会の高橋権太夫・木村内蔵之丞等は金勝寺から向った。会藩の蜷川友次郎・小池帯刀等は雷神山に、上田八郎右衛門・相馬直登・土屋鉄之助等は折口に、仙藩の中島兵衛之介は愛宕山方面より、会藩の小森一貫齋・木村兵庫等は棚倉口に各々備をなして、山々に篝火を焚いて西軍の隙を窺った
西軍之に応じて本道・黒川口は薩、旗宿口・石川口は長・忍。湯本口・大谷地口・根田口及び白河口は大垣兵これを守った
金勝寺方面まづ薩軍に向って攻撃を開く、仙藩の細谷・大松沢等苦戦したが根田及び長坂に退いた。会藩の小原宇右衛門の率いた砲兵は六段山及び金勝寺山を攻撃したが敗れ、坂本兵衛・遠山虎次郎等戦死。仙藩・二本松藩兵棚倉口より進んで土・長・忍三藩の兵と血戦し、棚倉兵またこれを援戦したが東軍は不利に終り、東軍は会藩の小原宇右衛門・杉浦小膳以下将卒十余人。仙藩は戦死八、負傷二十。西軍は長藩死一。負傷七。大垣藩死一。負傷六。薩藩死二。負傷十三。忍藩負傷五。黒田藩死二。負傷六

阿部正功家記云

 五月二十六日、東軍白河に進撃す。此の日払暁金山の兵進んで合戦坂及び十文字村に戦う。其の兵を分かちて白坂の屯営を撃つ、釜子にある各藩合併の兵進んで搦村に戦う。諸隊弾薬つがず合戦坂・白坂に火を放って兵を収む。此の日吾が藩の死者四人(副軍目付太田友治・銃士林仲作・鈴木熊之丞・銃卒奥貫貞次郎)、傷者五人

藤田氏の記録云

・ 5月23日(26日?)
 五月二十三日(二十六日の誤記か)。白河にある官軍総責と称し、奥羽軍は会津口・仙台口・棚倉口・白河口の諸方より責め来れり。そは金勝寺山及び長坂山より一手。米村口より一手。富士見山・向寺・坂ノ上より一手・搦山・合戦坂より一手。白坂口より一手。其の景況は金勝寺山・長坂山より来りたるは米沢・会津の兵にて山上より続々鉄砲を打かけたれども、官軍の人少のため進むこと能唯会津町土手の杉に隠れて応戦せるを見るのみ、奥羽兵多人数なれば容易に引上げざる有様なり
 官軍は向寺より不動様の坂下を通り、飯沢に出で林中より裏切したるため死傷を残して長坂村を指して逃去れり。米村口より来りたるは会津及び徳川の脱兵にて堀川端にて砲戦す
官軍阿武隈川より米村に至りて敵の後に廻りたり。敵は死傷を出し、米村民家を火し、羽太村に引上げたり
 仙台口より来りたるは仙台・二本松・三春の兵にて向寺坂上にて官軍と合戦中、官軍聯芳寺山より裏切、是れも敗軍小田川村に逃去れり。白坂口よりは会兵小丸山辺まで来たれるも引上げたり
 棚倉口は金山道・五箇村道より責来り、棚倉藩士権田東左衛門隊長となり、真先に進み来りたれば味方不動前に戦死。それがため進み入ることと能わず引揚げたり。斯の如く白河総攻撃とて来れるも時間に相違あり、払暁より開戦せるあり、十時頃より始むるありて敗る
 此の一戦後、町民は多く帰宅せり

又藤田氏記録に云

 官軍の出陣する時は、賊の砲声を聞くや否や直に銃を持ち、着のみ着のままにて寝所を出で、飯も食わずに我先にと出かけたり、御飯を食して御出掛といえば砲丸を食うから腹もへらぬ、飯は後から握飯にして持ち来れという。それ故官軍の戦は何時も早かりき
 奥羽勢の仕度は夫々身を纏め、宿舎主人に飯を炊かせ、十分腹を拵こしらえ握飯を持ちて出かけたれば官軍よりも遅れたり
西軍の出陣のさまは一人でも二人でも砲声を聞くと出掛けたが、東軍は勢揃をして出掛けたものだという。大谷地に伝わっている話に「東軍の陣地が大谷地にあった、それを西軍は根田方面から攻めて来たが、あの根田と大谷地の耕地をつなぐ細流に沿いて上って来た有様というものは、何というてよいかわからぬ機敏さであった」と
小田川村の佐藤庄屋は奥羽軍の屯営所であった、村の人夫が集まってよく握飯を作ったという。当時、多くザル飯を炊いた。ザル飯とは、沸騰している湯釜にとぎ米をザルに入れて煮たものであるという
・ 5月29日
 五月二十九日、東山道先鋒総督参謀板垣退助宇都宮より土軍を率いて白河に入る
 白河金屋町の斉藤千代吉翁の談によれば、大工町の常瑞寺が板垣参謀の陣営であったという。千代吉翁は袋町生れ育ったので、よくこの事は知っていると語る
 藤田氏の記録に板垣退助が白河に入ると、名札を出し、白河近在を探偵するものを人選せよという。藤田氏の家は町役人なる故に。探偵とは何をするものなりやと聞きたるに、笑うて実況を内々に聞取るものなりという。依って目明役(めあかしやく、オカツヒキ)七・八人書出したり云々とある。同記録に、断金隊長の美正貫一郎もこの時来る。美正は二本松打入りの時、本宮の皮を糠沢方面から進んで渡る時に、大内屋の土蔵から狙われて戦死、屍は川に流れたり。後に死体を求むれども見えざりき。とある

川瀬才一の白河県への報告書に云

・ 5月26日
 二十六日、当所を真中にして会藩の徒等惣攻に寄来る、人数凡そ一万人有之候か
 東の方は桜岡村・新小萱村・根田村・向寺町坂ノ上関門まで寄来る。艮の方は葉ノ木平・六反山。乾の方は飯沢村・金勝寺村・阿武隈河を隔てて戦う
 西の方は折口原・水神原の辺より立石山・原方道・高山村・東京街道は皮籠村・小丸山・天王山・龍興寺・三本松
 南の方は鬼越村・南湖池下・焔硝・義五郎窪・蛇石・月待山
 巽の方は関山窪・兜山・豆柄不動・土腐塚・十文字原・合戦坂・味方不動・八龍神・山の神・結城の墟・搦目村・大村・鹿島村に至る
 如斯囲遶(じょう)無透間(すきま)押寄来り、卯の中刻より午の下刻までの大合戦なり。会藩方の大軍へ小勢を以て防戦する官軍方の苦戦は九死一生のその勢、恰も韋駄天の荒れたるが如し。見る者、聞くもの恐怖せざるなし、万方より打こむ砲声は百千の雷地に落つるかと疑うばかりなり
 如斯官軍方の血戦に恐怖せし会藩方は八方とも敗軍しける故、其の日の死亡数知れず、死骸山の如し。血は流水の如し。巳の刻に至り漸く砲声静まり相引に引く
・ 5月27日
 翌二十七日は午の刻より又々攻寄来り、日の落つるまで烈しく打合し、会藩は多く火縄筒故、官軍方六連発こめ故砲声別なり

鹿島富山氏の記録云

・ 5月26日
 二十六日の朝六ツ時、棚倉道に大砲の音致候。其の中合戦坂口の戦と相成候。其の日の総攻と相成候へども、鹿島口戦と相成候に付、村中の者は吉太郎殿の脇のバンカリの塀の中に老人子供まで皆すくみ候
 何れにも搦口大砲甚だしく候へば大砲の玉あんまり上にてわれ候につき生きたる空もなく皆同様に驚き今に命をはるものと覚悟致候内、白河より長州様の大砲二門下の川原ゆより搦目の奥兵めがけて甚だしく打こみ候へば、奥兵大軍とは申しながら、官軍は戦上手にて遂に奥兵を追い散らし漸く少し安堵致候得共、何うも致せ、其の夕より比石下より篝火ひかり昼の如し
 官軍は戦は勝ち候へども、奥兵大軍に候間油断に相成らず、村方の人足にて篝火一ヶ所へ五人づつ割当て昼は木を切り、夜は篝火を焚き、長州様固めの場所鹿島口・八龍神口・南口にて長州と忍との人数にて百五十八人許、奥兵は何分にも大軍なれば油断相成らず、長州様は鹿島村へ御出張相成、村中は御宿と相成候
 尤も度々の大雨にて橋も流れ通行も不都合故、村中御宿と相成候。その中薩州様少しくり込み、土州様も二十七日繰込候で長州様代りに相成候
・ 6月 1日
 六月朔日、西軍二百人許と会津・仙台の兵と合して七曲坂に戦う、此日は西軍敗れて根田に退いた。西軍根田に火を放たんとす、東軍これを見て一斉射撃をして防ぐ、西軍屍を棄てて白河に退いた。東軍の傷々者二人
・ 6月 8日
 六月八日、仙台の細谷十太夫和田山に陣した。西軍は富士見山からこれを砲撃した
・ 6月 9日
 六月九日の刻、西軍数十人中を発しつつ、富士見山から進んだのを細谷組が之に応戦。仙台藩の大松沢掃部之助小田川村にあったが来援したので勝敗決せずに互に兵を収めた
 此の頃奥羽追討総督の任命あり

鎮台日誌に云

 六月十日御沙汰書  正親おおぎ町中将
 奥羽追討為総督出張被仰付候事
           鷲尾侍従
 大総督参謀被仰付奥羽追討白河口出張可有之被付候事
とあって鷲尾侍従が大総督参謀として、白河口に出張となる

[出典]
http://mo6380392.exblog.jp/i76/


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