2015年1月24日土曜日

杉原凱


青森県三戸町字同心町…三戸大神宮境内


この三戸大神宮の境内には、会津藩藩校の教授だった杉原凱の墓がある。
杉原凱は、文化3年(1806)会津藩の上級武士の家に生まれた。幼い頃から文学を好み、四書訓蒙輯疏で有名な儒学者安倍井帽山に師事、学業を修めた後、会津若松で私塾を開き子弟の教育にあたった。当時「講釈所に及第せんとするに際しては、凱に従わざるものなし」と言われたほどだったと云う。
天保14年(1843)、藩校日新館の学館預に任じられ、その後医学寮師範補助および木草科の教授に進んだ。日新館を退いた後は、自宅で経史などを教授していたが、戊辰戦争後は教え子らと共に斗南に移り、この三戸に住した。学塾を設け後進を育成したが、その1年後の明治4年(1871)66歳で病死した。
その指導法は、いわば現場主義で、常に生徒達とともにあったようで、多くの門下生に慕われたようだ。
この杉原凱没後15年の明治19年(1886)、教え子の沖津醇など、杉原から教えを受けた、あるいは影響を受けた十余名の旧斗南藩士たちにより墓碑が建てられた。
沖津醇は、天保2年(1831)に生まれ、松平容保が京都守護職に就任するとそれに従い、京都では諸藩の士と交友しながら進歩的な思想を吸収した。戊辰戦争では中隊長として白河口において奮戦した。斗南に移住後は、田名部小学校初代主座教員を務め、斗南藩消滅後も青森に残り、ひたすら青森県の学政振興に腐心し、県内小学校教育の普及と充実に努力した。

・会津藩殉難者無縁墓
杉原凱の由来の碑の隣に、昭和51年(1976)、会津藩士の子孫らによって「殉難者無縁墓」が建てられた。
会津戦争に敗れた会津藩は、斗南藩立藩が認められ、藩士らは船で、あるいは徒歩で、会津から斗南に移った。下級藩士の多くは、着の身着のまま徒歩で斗南を目指したが、新政府をはばかり道中では泊めてくれる場所もなく、食料をえることも困難で、旅は過酷を極め多くの者が命を失った。斗南へ移住後も多くの藩士が三戸で亡くなったが、その仔細明らかならず、寺に入れなかった墓も多かった。この「殉難者無縁墓」は、それらの霊を慰めるためのものである。
[出典]
http://mitinoku.biz/hist_walk/hist_aomori/?p=2324

斗南移住者


≪立藩時≫
 陸奥国 ◇ 二戸郡 12村
     ◇ 三戸郡 50村
     ◇ 北郡  46村
 後志国 ◇ 太櫓郡
     ◇ 瀬棚郡
     ◇ 歌棄郡
 胆振国 ◇ 山越郡
≪廃藩時≫
 陸奥国 ◇ 二戸郡 16村
     ◇ 三戸郡 67村 + 1町
     ◇ 北郡  48村
 後志国 ◇ 太櫓郡 せたな町北檜山区太櫓
     ◇ 瀬棚郡 せたな町
     ◇ 歌棄郡 寿都町歌棄町
 胆振国 ◇ 山越郡 長万部町

≪三戸郡  1町+67村≫
三戸町五戸村兎内村切谷内村上市川村下市川村石沢村中市村
又重村戸来村西越村手倉橋村浅水村扇田村豊間内村志戸岸村
七崎村八幡村相内村玉掛村沖田面村大向村赤石村小向村
蛇沼村袴田村貝守村川守田村泉山村梅内村目時村豊川村
斗内村田子村相米村種子村日沢村白板村原村飯豊村
佐羽内村道地村石亀村杉本村茂市村遠瀬村山口村関村
夏坂村河原木村石堂村大仏村根市村花崎村境沢村長苗代村
上野村根岸村売市村沢里村根城村田面木村坂牛村櫛引村
尻内村浜通村大森村野沢村
≪下北郡  34村≫
田名部村大湊村 (安渡村、大平村)田屋村砂子又村奥内村中野沢村
大利村目名村蒲野沢村野牛村岩屋村尻屋村猿ヶ森村尻労村
小田野沢村白糠村関根村正津川村大畑村下風呂村易国間村
蛇浦村大間村奥戸村佐井村長後村城ヶ沢村川内村檜川村
宿野部村蠣崎村小沢村脇野沢村
≪上北郡  15村≫
野辺地村有戸村馬門村法量村奥瀬村大不動村滝沢村米田村
藤島村伝法寺村横浜村天間館村野崎村中岫村沢田村


 斗南藩へ移住した人数は資料によって異なりハッキリしないが、
 ◇ 移住者総数17,320人
 ◇ 戸数2,800戸
が妥当であろうとされている。
 従者や夢を託した町民・村民も含まれるので、会津藩士・家族に限定した概数は、
 ◇ 斗南移住者14,800人
 ◇ 若松で帰農2,000人
 ◇ 東京で就職1,200人
 ◇ 越後高田残留若干名  
 ◇ 不明者2,000人
 ◇ 総人数20,000人
とされる。
 なお、斗南藩に移住しなかった者は藩籍がなくなり、平民となっている。

[出典]
http://www.aizue.net/siryou/hansyu-tonamihan.html

2015年1月23日金曜日

屯田兵


[出典]
http://seuru.pupu.jp/ezoti/ezoti.htm


■琴似屯田兵
 政府は北方警備と士族授産による開墾を目的に、明治8年以降大量の士族を募り屯田兵の制度を導入。
 明治8年5月、まず宮城・青森・酒田の三県士族198戸、965人を琴似(現在の札幌市)に入村させたのを始め、翌年より明治23年迄に2900戸(14000人)の士族が屯田兵として移住した。
 ここでいう「青森」というのは、会津藩より移住した斗南藩士の事で、明治8年5月に琴似に56戸が第一陣として入村、翌9年5月には斗南以外の旧会津藩士53戸が山鼻兵村に入村したのである。




■琴似村(明治8年5月入村)
遠藤登喜蔵 宮本三八郎 弓田代三郎 三沢 毅 井上悌二
佐藤一蔵 山田貞介 林源次郎 竹内清之助 岩田栄吾
佐藤只雄 柏谷 始 猪狩量三 我孫子倫彦 新国幸次郎
斉藤郡大輔 伊藤清司 小松孫八 岡林吉太 島倉庄八
相川清次 平石吉次 宮原隆太郎 長尾市四郎 花泉恒介
一瀬忠吾 阿妻太郎 西川佑一郎 武川綱之助 工藤八郎
県 左門 恒見幾五郎 赤井捨八 二瓶只四郎 大竹己代松
斉藤寅次郎 有瀬千代次郎 太田資忠 神指元太郎 山口伊佐吾
丹生谷友衛 栗原市次郎 村松貞之進 町野彦太郎 吉田幸太郎
永峯忠四郎 簗瀬 栄 笹原民弥 大熊忠之助 大関代次郎
大関雄孟 横山四平 中村家起 斉藤久米蔵 村上弥太郎
■山鼻兵村(明治9年5月入村)
鈴木元治 熊谷源七郎 栃木与作 千里藤太 太田源太郎
樋口孝麿 角猪三郎 田中豊治 合田忠義 大場小右衛門
矢村健蔵 内田孝之進 日向代吉 大嶋八郎 黒河内十太夫
伊東左膳 服部四郎 鈴木元五郎 竹田藤蔵 柳田 毅
吉川良吉 福田喜代治 笹内次郎 永峰松太郎 沢野豊助
好川喜代美 神田直之助 田中甚之丞 荒木進次郎 松本武弥
樋口八三郎 渥美直茂 鯨岡勝美 新妻冨太郎 小山銀次郎
村松勝冶 笹沼寅五郎 加藤安治 佐々木久米吉 市川勝三郎
横地源八 猪狩織之進 太田房吉 渡部勝太郎 福井重吉
大堀岩太郎 林源三郎 佐藤恒治 安藤粂之進 小桧山勝美
渡部松次郎 熊谷留五郎 佐々木留之助    

緋色の衣


会津藩の人たちは、ここ「余市」に住まいを定め、余市 川の恵み・温かな気候・肥沃な土地を見込んで、ここを開拓の場所としました。(中略) しかし、彼らを統括した宗川熊四郎は、質実剛健で、人情に厚く、自 分には厳しい人でした。宗川熊四郎父子の優れたリーダーシップによって、開拓の苦労を乗り越え、導かれ協力しながら、会津魂を発揮していったのです。た だ、悔しい思いをしたのは、「朝敵」(天皇家の敵)と、土地の人にまで意地悪を言われたり、死者が出た時に、どのお寺も「朝敵」には葬式はしてあげれない と言われたことです。
 会津藩の人たちにすれば、最後まで京都にとどまり、体をはって天皇家を守ってきたのは、われわれ会津藩だという思いがあるのです。そのためにこそ、我々 は国を奪われ、家族を殺され、故郷を追われてしまったのだ。天皇家を守った証として、藩主.松平容保公は、じきじきに「緋色の衣」を頂いている。それなの になぜ、「朝敵」なのだ?という悔しさがどんなにか身を焦がしたことでしょう。
「もう、他人に頼るのはやめよう。これからは、我々で葬式を出しましょう。仏の教えは困るものを救うものではなかった。」そういって、仏教に頼らず、神道にのっとり悲しみをこらえて、執り行ったとのことです。
(同書より)

 そんな余市の日々に、変化が。

 その頃、余市に行った人たちは知りませんでしたが、会津藩はすでに明治政府から許され、藩主・松平容保公もご無事で、家名も再興しておりました。会津の人たちはもう無理に北海道にいることはなかったのです。
 ある年、ときの北海道開拓使長官・黒田清隆は、アメリカへの視察のおり、北海道と気候の似ている土地に育った「リンゴ」の苗木を、将来きっと役に立つと 考え、数本持って帰りました。そして、東京の小石川の実験農場で栽培させ、増やした後に、余市の農家の人々にその苗木を植えてみるようにと渡しました。初 めて「リンゴ」の苗木を見た余市の人々は、何だろうと思い、ひとまず庭の隅にうえておき、あまり期待もせずに放っておいたそうです。
(同書より)



[出典]
http://www3.ocn.ne.jp/~swan2001/swanindex10104.html



実際のところ、厳密に森野熊虎のモデルとなった人物はいないようです
ただし、このころの北海道って、ニシンで儲かっていたのですね。
ニシン御殿なんていわれるような網元の豪勢な建物などもありました。

また余市にも旧余市福原漁場という番屋を中心とする
建物群が保存されていて、
ニシン漁で湧いた当時の余市の町を知ることができます。

恐らく明確なモデルとなった人はいなくても、
当時の余市の町には森野熊虎のような漁師の親方は実在したのでしょうね~~
今も昔も漁師さんって豪快そうですし♪

ちなみに、ここで紹介した旧余市福原漁場は見学が可能です
詳細を記しておきますね。

マッサン 福原.jpg

旧余市福原漁場
http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/anoutline/bunkazai/fukuhara.htmより転載

【見どころ】
余市町浜中町に幕末から定住し、ニシン漁を行っていた福原家が所有していた
建物群が福原漁場です。
広い敷地内を散策するとニシン漁に使われていた建物がどのように配置されていたかがつかめます。主屋である番屋は出稼ぎの漁夫の宿泊空間であり、ダイドコ ロと呼ばれる板の間の漁夫溜まりは2階建てになっており、立体的に漁夫を収容できるようになっています。またニシン漁の最盛期には土足のまま食事ができる ように床板がはずれ即席の食卓になりました。藁製品や食料を保管していた米味噌倉では外壁と内壁の間に石を詰め、ネズミの侵入に備えました。
 
このほか、重要な書類や衣服が保管されていた文書庫や漁で使う網などを収めていた網倉、ニシンからとったカズノコ・白子を干して製品にした干場・白子干場が当時と同じ姿で保存されており、ニシン漁でにぎわった時代の漁業経営を知ることができます。


 [出典]
http://massan777.blog.so-net.ne.jp/2015-01-06



2015年1月21日水曜日

緋の衣


1869 (明治2) 年、東京謹慎中の会津藩士らの蝦夷地行きが決まり、同年9月、兵部省の管理下におかれた旧会津藩士団103戸333名は、品川沖からコユール号にて出帆、11日間の船旅の後、オタルナイへと到着しました。
 到着後しばらくは、兵部省の北海道からの引き揚げなどで落ち着き先が決まらない日々が続きました。藩士団は樺太開拓使黒田清隆に請い、樺太開拓使管理下に入りましたが、後には樺太開拓使も廃止となり、開拓はなかなか進展しませんでした。最終的に、余市への移住が開始されたのは、小樽上陸後1年半が過ぎた、1871(明治4) 年旧暦4月のことでした。
  1871(明治4) 年旧暦正月、隊長宗川茂友以下193名による開拓の決意を秘めた血判がおされた御受書がされ、同年4月には先発隊が余市入りし、7月までにほぼ全員の移住が終わりました。彼らは余市川上流の川東に 4ヶ村(黒川村)、川西に 2ヶ村(山田村)を開き、開拓を行ないました。
 入植地には子弟教育の為の日進館、講武館が設けられ、会津から取り寄せた漢籍を使用した日進館は余市町の学校教育の草分けとなりました。入植前後には開拓使から請われて官公吏、教師、警察官となるなど、転出された方もいました。
 前述のように、北海道開拓使は1875 (明治8) 年に札幌、有珠、余市など道内各地にりんご苗木を無償で配布いたしました。余市へは、同8年に500本が各戸に配布されました
 しかし、海のものとも山のものともつかない、初めて見る苗木は、生活苦のどん底にあえいでいた開拓農家にとっては、魅力的なものではありませんでした。配られた苗木はどこの家でも畑の隅に植えられ、ほったらかしにされており、多くの苗木が枯死したようです。

 そのような状態でも、努力の人がいたのです。4年後の1879 (明治12) 年には、会津藩士であった赤羽源八氏宅と金子安蔵氏宅の庭先のリンゴが遂に実りました。
 赤羽氏宅からは配布時の品種名19号の樹から 6 個の大きい果実が収穫できました。この19号は、あとで緋の衣(ひのころも) という日本語の品種名が付けられます。
 この名は、江戸末期、孝明天皇が信頼の証しとして会津藩主松平容保に与えた「緋の御衣」と、戊辰戦争降伏時、式場に敷かれた「緋毛氈」という会津藩にとって明と暗の両方をイメージして名付けられたものとのことです。
 同じく金子氏宅の品種名49号の樹からも 7 個が収穫され、やがて各地で栽培されるようになり、国光という名に統一命名され、明治・大正・昭和の約100年間、日本のリンゴ産業を支える大品種になります。
 翌年もリンゴは結実し、1 本の樹から 50kg 弱ほども収穫できるようになり、札幌で開催された農業博覧会に出品され好評を博しました。リンゴ1貫目(3.75kg)で白米 4 升ほどのよい値段で取引されたリンゴ栽培は、徐々に軌道に乗り、余市地方は北海道におけるリンゴの大産地に発展していきます。

 緋の衣は、昭和の初めまでは、余市のリンゴを代表するほどたくさん栽培されましたが、現在では幻の品種になりつつあります。しかし、幸いなことに、猪苗代出身の吉田清亥氏が園主だった吉田農園で、その品種がまだ大切に守り続けられていました。
 そのことを知った会津若松・会津坂下・塩川のりんご生産者が、会津平成りんご研究会を結成し、福島県の地域づくりサポート事業の支援を受けて、2000 (平成12) 年2月23日、「藩士ゆかりのりんごを会津でも」とその農園から枝を譲り受け、復活に取り組みました。
 また、その農園の現在の園主吉田初美氏から、会津若松市にたくさんの苗木が寄贈され、「あいづ総合運動公園(会津若松市門伝町)」に、2000 (平成12) 年10月23日に、記念樹 2 本を植樹することができました。
 記念樹の前には、次のような、記念碑・案内説明板が設置されています。


[出典]
http://homepage3.nifty.com/malus~pumila/appls/hinokoromo/hinokoromo.htm

余市の誕生


余市の誕生
 話はちょっと前後するが、1869(明治2)年9月に兵部省は会津士族100戸を小樽に連れてきた。これは当初、札幌を開拓させようという目論見があってのことだった。だが、札幌には開拓使が設置されている。おまけに当時、政府機関でありながら兵部省と開拓使の仲は険悪だったそうで、仕方なく兵部省は当別開拓に会津士族を投入することにした。だが、翌1870(明治3)年、 政府施策により兵部省は北海道支配から撤退。会津士族は開拓使に庇護を求めたものの、開拓史はこれを拒絶。政府からは旧主を頼れという通達が出る始末。これではまさにたらいまわしである。だが、元の会津藩である斗南藩に彼らを庇護するだけの力はない。自分達の生活すら危うい状況だったのだ。そこで新たに設置された樺太開拓使に救済を嘆願した。当時、樺太開拓使の次官は 黒田清隆で、黒田はいったん余市で待機させたのち樺太へ移住させて開拓に当たらせようと考えてこれを受諾。一同、余市で樺太へ移住する日を待つことになったのだが、1年半後には樺太開拓使自体が北海道開拓使に吸収されてしまい、この話は立ち消えになった。そこで開拓使では会津士族を余市に定住させることにし、以後開拓募移民ということで保護、指導を受けて余市の開拓にあたることになる。
 さて、北海道に移住した会津士族の数だが、1869(明治2)年の時点で700人ぐらいで、戸数にして211戸だった。余市移住が行われたのは1871(明治4)年4月のことで、211戸中169戸が小樽から移り住んだ。翌1872(明治5)年には11戸が小樽から移住している。さて、会津士族が移り住んだ余市、開拓当初は黒川、山田の2村に分かれていた。黒川も山田も、実は人名から取ったものらしい。黒川の 由来は黒田清隆の黒、そして会津士族団総代・宗川熊四郎の川を合わせたというもので、山田も開拓使判官・大山荘太郎の山と黒田の田を足し合わせたものだそうだ。当初、会津士族たちは慣れない農耕に苦しみ、脱落して札幌や小樽へ移住する者が続出した。そこで開拓使では男1日20坪、女1日8坪の責任開墾を奨励したがこれも効果なし。そこで、1873(明治6)年に開拓使は新しい開墾機械の導入と 会社組織による農耕開拓の指導に入っている。これを受け、黒川・山田の両村から札幌へ技術研修に向かう者が出て、更に黒川村農会社という会社が誕生。これが会津士族にとっての組織的まとまりの根幹となったのは言うまでもない。更に1875(明治8)年には、リンゴ、ブドウ、梨、スモモといった西洋の果樹の苗木が交付されたが、農耕技術が未熟な上に全く経験がない果樹栽培に、会津士族は大いに戸惑ったという。 この苗木、会津士族だけでなく付近の漁民にも交付されたが、成果は黒川・山田両村がはるかに良かったらしい。そこで、ダメもとで1880(明治13)年の農業仮博覧会にリンゴを出品。これが大ブレイクし、会津士族たちはあまりの成果にびっくり仰天。それ以降、余市町をはじめとする余市郡一帯では果樹栽培が盛んになっている。
 また、かつての会津藩と同様に士族子弟の教育にも力が入れられ、余市移住後間もなく、藩校日新館が黒川村に1871(明治4)年に開校している。この日新館、学制公布後も続き、1873(明治6)年に郷学所と改称し、1877(明治10)年には沢町小学校として新たなスタートを切った。会津人の朝敵、逆賊の汚名をそそぐという積年の思いは北の大地に結実していったのだ。現在、余市町は人口2万人を数え、農漁業の町としてだけでなく 宇宙飛行士・毛利衛さんの故郷として有名になり、多くの観光客が訪れるまでになった。さらに、ニッカウイスキーの工場もあり、こちらに訪れる観光客も多い。そういえば、北星学園も余市に高校を持っているが、こちらでは高校中退者などを受け入れるなどしているそうだ。教育の町、でもあるのだ。こういうところ、会津魂が今に続いているのかもしれない。


[出典]
http://web1.nazca.co.jp/hp/comeshining/kyodo2.html

2015年1月20日火曜日

会津藩関連書籍



[出典]
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/aidubunken.htm

古地図 城郭図 会津鶴ヶ城 戊辰若松城下明細全図 附 戦備模様


古地図 城郭図 会津鶴ヶ城 戊辰若松城下明細全図 附 戦備模様

[出典]
http://page9.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/k180994596#enlargeimg

[出典]
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088955

https://www.library.pref.gifu.lg.jp/17-24/map/worlddis/mokuroku/yamasita.htm

陸奥国会津城絵図


http://www.general-museum.fks.ed.jp/03_gallery/04_rekishi/images/rekisi_shouhousiroezu.jpg

100年前の会津若松



現在の地形図と100年前(明治23年)の地形図を見比べてみます。





 明治23年に、若松を本拠とした歩兵第15旅団司令部により市街地の1/20,000の地形図が作成されています。
 陸地測量部が本格的に全国の地形図を作製したのと同じ時期ではありますが、それに比べて測量技術的にはとても未熟だったらしく、地形図というより絵図をいったほうが正確かもしれません。
 そのため、現在の地形図を重ねることは難しいので、今回は並べて見ていただきます。

城の周辺は旧武家屋敷地だったのですが、郡役所や警察署などいくつかの施設が記されているだけですが、その北側の市街地は外堀の外の旧町屋地区にあたります。
 戊辰戦争により、城下町はことごとく焼け落ちた上に、戦後直ぐに斗南(青森県下北半島)移封されたため、武家地は復興できなかったのでしょうが、町屋はしっかり復興したようで、会津商人たちの力強さがここから窺えます。
 また、城下町時代に城郭内(外堀内)に2つのみ配された寺社のうち、諏方神社は記載されていますが、蒲生氏郷菩提寺の興徳寺は記載されていません。戦後の復興が遅れていたのかもしれません。


[出典]
http://www.koutaro.name/machi/wakamatsu.htm


2015年1月18日日曜日

会津若松城下絵図


http://mo6380392.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=18287617&i=201408/02/05/c0185705_1602896.jpg


若松城下概要図



若松城下概要図

http://ringonohanatoryu.blogspot.jp/若松城下概要図


[出典]
http://photohito.com/photo/orgshow/1280203/






2015年1月14日水曜日

招魂


靖国神社は毎年六月二九日に創建祭を行っている。今年の創建祭は一三六年祭。今から一三六年前の明治二年六月二九日,その日から七月三日まで,東京九段に創建された神社で執行された祭祀の名は「招魂祭」。神社の名称は「東京招魂社」。この東京招魂社が明治一二年六月に靖国神社と改称される。つまり,靖国神社は,招魂祭を執行するために建てられたというのが,その始まりであった。
 招魂祭,魂を招く祭。合理的な思考に慣れた多くの現代人の耳には多少不気味な響きが残る。だが,神社を創建し,最初に招魂の祭をしようというのであるから,創建者にとっては,もっとも大切な祭である。それは,亡くなった者を神として祀るにあたり,「招魂」という神事を執行して祀ることにこそ,神社創建の第一かつ緊急の目的があったことを意味している。明治二年六月二九日から五日間にわたり,「魂」を急ぎ招いた招魂祭とはいったい何であったのか。そこにはどのような思想が貫かれていたのか。ここに焦点を据えることで,靖国問題のある部分が見えてくる。

[出典]
http://www.linelabo.com/nagura0508a.htm


辰白河口戦争記


白河市教諭
佐久間律堂氏が昭和16年に発表した作品「戊辰白河口戦争記」

自序

戊辰の役は、明治維新の新建設に伴って起こった極めて複雑した免れ難い戦乱であったが、武家時代最終の戦だけに、東西両軍何れも武士道精神を発揮して戦った
白河口の戦は頗る激戦であり、且つ長期に亘った戦争であったので、白河地方にはその戦跡も多く、史話や記録も亦多く遺されている。余、大正九年白河に居を移し爾来二十有余年此等戦跡を遍く訪ね、古老に実話を質し、或いは旧家に記録を求めた。適々今秋戊辰戦争を隔てる七十四年に方り、此等地方特殊なる郷土史料を一般史に織り込み「戊辰白河口戦争記」と題して上梓に附することとした
本書収むる所、雑録と見るべきものあり、また爐邊物語に類する所も少なくない。これ当時の実況を語るに足るものは片言隻句(へんげんせっく)と雖も之を収録せるに因る。本書戦争史と言わずして戦争記と称したるもこれがためである。ただ著者の浅学寡聞、よく史実を尽くさず、推敲意に満たざる所多し、後日訂正修補の機あらん。されどこの小著世に裨益するあらば幸である。偏に江湖の批正(ひせい)を仰ぐ
口絵の五月一日戦図は、大山元帥伝の付図なるを、特に大山家の御許を得て本書に転載したるもの、戦図の縮写、白河城大手門の複写及び砲弾等の実写は何れも熊田猛夫氏の労を煩わしたるもの、題筌(だいうけ)は大谷五平士の揮毫(きごう)を岩越次郎氏の彫刻されたものである。ここに付記してその好意を深謝す
 昭和十六年九月
 著者識す



戊辰白河口戦争記 第九章 五月朔日の大激戦


第九章 五月朔日の大激戦

慶応 4年(1868)
・ 5月 1日
五月朔日の白河口の激戦は、我が国戦史上での激戦の一つであろう
東軍は二十五日の勝報得て白河城に兵数を増した。仙台藩の大番頭坂本代炊・佐藤宮内・瀬上主膳到り、一柳四郎左衛門もまた到る。棚倉藩平田弾右衛門も兵を率いて之に会したので東軍の勢は頓(とみ)に振った
復古記によれば

 閏四月十八日、奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵・参謀伊地知正治に移牒して白河城の急を報じ援を乞う。正治乃ち薩・長・大垣・忍四藩の兵を率いて来援す
 又二十五日の記に、参謀伊地知正治薩・長・大垣・忍四藩の兵を督して白河城に迫る。賊嶮(けん)に拠って抗拒す、官軍克(か)たず、芦野に退守す
 又二十七日の記に、参謀伊地知正治薩・長・大垣・忍四藩の兵を督して芦野に次し、将に薩・長・大垣三藩の兵の宇都宮に在るものを合し大挙して白河城を攻めんとす、因って土佐・彦根二藩の今市駅及び日光山にある者を分ちて宇都宮を守らしむ

西軍の二十五日の敗戦が江戸に達して因州・備前・大村・柳川・佐土原の兵が来援することとなり、芦野の西軍は宇都宮よりの増援を得て其の数、七百余人、砲七門を以て白河に迫ることとなる。閏四月二十九日、西軍来襲の報あり、之に対して東軍は遠山伊右衛門・鈴木作左衛門・小池周吾・小森一貫斎の会将・瀬上主膳の仙将・棚倉の平田弾右衛門等兵を以て桜町方面を守った
白河口方面には井口源吾・杉田兵庫・新撰組山口次郎等が向った
原方々面は日向茂太郎長坂山の麓に塁を築き、井深右近これに加わって其の兵数合せて二千余人、砲八門であった(日向茂太郎五月朔日米村に戦死)。いよいよ五月朔日午前四時、西軍三道より白河城に迫る
其の一は薩・長・大垣の兵、砲二門を以て黒川村より原方街道に迫った
(原方方面のこの西軍の案内役を勧めたのは上黒川村の問屋内山忠之右衛門であった。五月十八日に至って会津藩は忠之右衛門宅に押入り之を捕まえて会津に連れ行き入牢せしめ、八月二十二日に斬首せりと伝う。忠之右衛門時に年四十二歳。墓所は西郷村大字小田倉字備前にある。後、官より祭祀料一百五十両下賜)
其の二は本道を進んだ薩・長・大垣・忍四藩の兵である
其の三は白坂村より大平八郎を案内として南湖の南に出で桜町、棚倉街道に出た
斯くして東西両軍の大激戦となったものである
(五月朔日の東西両軍の砲数に就て大山元帥伝に、東軍は会二門、仙六門、棚倉二門、西軍は本道四門、黒川方面三門、桜町一門とある)
維新史料に云

 閏四月二十八日、白河城を攻むるの議ありしかど、果さず。五月朔日午前四時を進発の期とし、兵を三道に分ち、薩の二番隊・四番隊は、白河の南湖をめぐり棚倉街道に進み、三番隊、大垣一小隊は本道より進み、五番隊並に大垣・長州・各一小隊は白坂駅より左の方黒川村に進み、それより原方へ出づ。此の時本道已に戦を始む。是れ即ち最初の約束にして、敵をして本街道に力を用いしめ、左右の翼各々敵の背後に至らば、火を揚げて以て一時に攻撃を始むるものとし、其の距離棚倉街道第一なるを以て同所に火を揚ぐるを期とす。已にして烟(けむり)炎天を蔽(おお)う、仍って進んで大に奮激す。敵兵三面に敵を受け、防戦二時間余、猶砲台によりて守禦す、官軍進んで砲台に迫る。賊遂に潰走す。先是我が三番隊は迂回して長坂山の賊を追撃し、四番隊と合し、町口の台場を横撃す。於是賊兵大に潰乱す。仍て又一小隊を二分し、本街道の後山に登り背後を断ち四方一時に攻撃す。賊兵狼狽し進退途(みち)を失す、此の日首級六百八十二なり。四斤半の旋條砲を鹵獲(ろかく)す。これ嘗て米国の贈る所、当時我が国僅に二門を有す。これその一なり

元帥公爵大山巌伝には

 五月一日
 敵軍は其兵力優勢にして、仙台・会津・棚倉・旧幕兵等約三千に達するに拘らず、白河南側に陣地を構築して官軍を待てり。第一次戦闘後官軍は増加隊を得て、其数七百余に達し、三方面より白河を包囲攻撃せんとす
 右翼隊は棚倉街道方面を迂回し、敵の左翼及び其側面に出づ、その兵力薩二・四番隊・臼砲一
 中央隊は正面に於て陽攻し敵を牽制す、兵力薩砲二門・臼砲打手・兵具隊。大垣二隊、長原田小隊砲一門、忍藩砲一門
 左翼は黒川方面より原街道に出で、敵の右翼を包囲攻撃す。兵力薩五番隊・二番隊・砲隊二門、長一中隊と一小隊。大垣二隊・火箭(かせん)砲一門。忍一小隊
 払暁予定の如く諸隊前進し、午前六時頃中央隊先ず砲火を開きしに、敵全く正面に牽制せられ、しばしば出撃せんとす。此間両翼隊の包囲全く成り三方より敵を攻撃し午後二時に至り是を潰滅す
 諸隊は白河を占領し、隊伍を整頓し其地に宿営す。官軍の死傷約七〇。敵は死屍六百余を残し、本街道並に諸間道より散乱退去し、会兵は遠く勢至堂付近に、仙兵は二本松に退却す。爾後官軍は同地に滞在して前進せず

これが西軍の記事である
南湖公園鏡山にある阿部藩の碑に

 五月朔日、官軍囲攻、城兵禦之、奮激戦闘自晨至午、雷轟電撃殺傷相当、而衆寡不敵守兵弾尽刀折、城遂陥、乃退守金山

白河町九番町口にある会藩の碑に

 白河城当奥羽咽喉、為主客必争之地、我兵先拠之。閏四月二十五日、薩摩・長門・忍・大垣之兵来攻、相戦半日、我兵大勝、四藩の兵退保芦野。五月朔日、復自白坂・原方・畑諸道及山林間道来攻、欲以雪前敗其鋒甚鋭。我将西郷頼母・横山主税各率兵数百、与仙台・棚倉兵共当之。自卯至午、奮戦数十百合、火飛電激、山崩地裂、而我兵弾尽刀折、三百余人死之。仙台・棚倉兵亦多死傷、城遂陥

白河戦争報告記に

(この記は白河本町庄屋川瀬才一が明治三年八月二十七日に白河県へ戊辰の戦況を報告した記録である。川瀬庄屋は弾丸雨注の中を侵して見聞したと言われているから実記と見るべきであろう)
 五月朔日卯の上刻、官軍勢五百人、九番町木戸外まで宵の間に潜み、彼所に潜みかくれ、夜の明を待ちて打出てたる砲声の烈しき人目を驚かす。此度は東京口・米村口・原方口・棚倉口を官兵方は四方より討入候故、会藩の手配案に相違し大に周章し、棚倉口の固、第一に破れ候故、挟撃ならんと心付候哉、桜町・向寺町に放火して引退く有様東西に廃れ、南北に走る其の混乱蜘蛛の子を散らすが如し。東京口・米村口・原方口一度に破られ、人数引上げの時登町に放火す。如此四方共に破れ惣崩となり候故、其の日の死亡六百八十三人
此の日の戦に会藩の副総督横山主税は稲荷山に奮戦中弾丸に中って倒れた。戦猛烈にして遺骸を収めて退くに遑(いとま)なく、従者の板倉和泉僅に首を馘(かく)して退いたという

(会津史談会誌に柴大将の談として「白河で戦死された、家老横山主税殿の葬式行列は殿様の行列も見ない奴振りなどが出て、立派なものであった」と、記してある)
軍事奉行の海老名衛門などは龍興寺の後山で血戦し、為すべからざるを知って自ら腹を屠って死んだ
寄合組中隊頭一柳四郎左衛門も死し、混戦状態となるや、総督西郷頼母馬を馳せて叱咤衆を激励するも潰乱制すべからず。頼母決死進んで敵を衝かんとす。朱雀一番士中隊小隊頭飯沼時衝轡(くつわ)を把って諌(いさ)めて曰く、総督の死する時にあらず、退いて後図を計れと、頼母聴かず、時衝乃ち馬首を北にして鞭って向寺の方面に走らす、頼母遂に勢至堂に退く
棚倉藩の将阿部内膳は桜町口を守った所謂十六人組の勇将であったが、奮戦負傷し金勝寺方面に避難し遂に倒れた(金勝寺に避難する時、白河中町の商人五十八歳の小崎直助が力を添えて阿武隈河を越したという美談が今に伝わっている。小崎直助は白河町の旧家であり、阿部様出入の商人である関係上此挙に出でたものであろう)
「仙台からすに十六ささげなけりゃ官軍高枕」
という里謡(りよう)が当時歌われた
仙台からすとは仙台藩の細谷十太夫の率いた一隊で、須賀川地方の博徒百余人を募り衝撃隊と称し、神出鬼没、夜襲が巧で屡々(しばしば)西軍を苦しめたもので、黒い布で覆面し黒装束をして戦に参加したもので烏組の名がある。小田川村の宝積寺などが本営になっていたものだと地方の人は話している。西郷村の鶴生にも烏組が居って出没し、西軍を苦しめたとの話が残っている
十太夫常に部下に謂う。「敵は銃隊であり、遠きに利あり、一二人斃(たお)るるも意とする勿れ、先ず敵を衝け」と。西軍烏組に苦しめらる、これは五月朔日のみでなく、その後にも西軍を辟易せしめたものであった。十六ささげとは、白河地方で栽培する大角豆(ささげ)の一種である。棚倉藩十六人組を指す。棚倉十六人組は洋式の軍装によらず、我が国古来の戎衣(じゅうい)兵器を用い、甲冑に身を固め槍・弓矢での装束であったという
(棚倉藩決死十六人組の氏名左の如し)
     阿部内膳
     有田大助
     大輪準之助
     北部史
     志村四郎
     川上直記
     梅原彌五郎
     須子国太郎
     宮崎伊助
     鶴見龍蔵
     宮田熊太郎
     湯川啓次郎
     岡部鏡蔵
     村社勘蔵
     野村絢
     山岡金次郎
(有田大助は幕末の風雲に際し緩急に備うるため、文久二年白河田町の刀鍛治固山宗俊に託して刃渡ニ尺六寸五分の名刀を用意した。この名刀は現に西郷村の鈴木市太郎氏が所有している。此の種の用意は当時の武士には多かったことであったろう)
五月朔日天未だ明けぬに西軍鼓譟(こそう)して路を分って迫り来る。仙台藩の参謀坂本大炒は天神山に上って之を望む。時に西軍山に拠り、水に沿うて要路を□していた。大炒先頭に立って命を下して突進し、敵を横合から衝いて西軍を辟易せしめたが、大炒が紫旗を林端に立つと飛弾雨注した。従者避くることを勧めたが肯(がえ)んじない。決死の士十五・六人と阿武隈河を徒渉(としょう)して進んだが銃丸に頭を貫かれその場に斃れた。僕の庄太夫これを背負うて逃れしも途に絶命し、今村鷲之助代って屍を担うで陣中に至ったので遺骨を漸く仙台に送るを得たりという。これが坂本参謀の白河口奮戦談である

先に世良参謀を福島に暗殺するの計をなした仙台藩姉歯武之進の勇戦談もある。武之進は仙台藩五番大隊の軍監として瀬上主膳に属し白河に出陣し、奮戦するも仙軍利あらず退却の時、独頑として動かず、敗残の兵を指揮し自ら大砲を放ち、抜刀躍進したが弾丸頻に至り流弾に中って斃れた。これも五月朔日のことである

※ 今に地方に伝わる五月朔日の戦に就ての翁媼(おうおう)の談を記して見る

白河鍛冶町小黒万吉翁の談
 西軍で強いのは薩長、東軍で強いのは会津であった。戊辰の戦は会兵と薩長兵の戦であると言ってもよい。西軍は戦争は上手であったようだ。兵器も西軍の方が新兵器を多く使った。又薩藩は一人でも二人でも銃の声を聞くと吾先に進んだ
 五月朔日の戦の日、八龍神に水車屋を業としていた槌(?)屋桝吉の妻が分娩後五日なので、八竜神の土橋下に避難していた。通り掛った西軍の士、赤児に勝軍太郎と名つけて、曰く官軍は町人や婦人には手は掛けぬ安心せよと。今に伝えて美談としている

白河年貢町石倉サダ媼の談
 媼は当時十六歳
 五月朔日、官軍は九番町、桜町方面から攻めて来た。会津様は敗れて血まみれになって町に逃げ込む。町の人達は老を扶け幼を負うて皆横町から向寺道を逃げたものだ。そのさまは大川の水が流れるようであった。うしろを振り向く暇などあったものではない。躓くものなら倒れる。その狼狽さは何というてよいか譬(たとえ)ようがない。今でも思い出すとゾットする。私達は向寺から根田・本沼を通って船田村の芳賀の親戚に身を託した

白河二番町の後藤みよ媼の談
 私が二十四の年だった。閏四月二十日に二本松様が白河城を守っていた所に、会津様が道場小路から攻入った。小峯寺の住職が鐘を撞いたので会津様に狙いうちされた。二本松様は根田の方に退いて、会津様が白河城に入った
 五月朔日には子供二人を連れて内松村の叔母の所に避難した。五月朔日の戦争の跡を見ようとして白河に来た時、九番町の所で大男の屍が路傍に横ばっているのを見たが惨酷なものであった。内松を引あげて白河に帰って来たのは七月末頃と覚えている。五月朔日の日はジクジクと雨の降る日であった

白河町熊本籐三郎翁の談
 私が二十一歳の年が戦争の年だ。白河城は明城で、仙台様は町固め、平様は市中廻り、三春様は木戸見張りの役であった
 四月二十日に会津様が道場町から入って城を取った
 四月二十五日、西軍と東軍との最初の戦で西軍が敗れた。四月二十七日には戦はない。五月朔日には大戦争があった。私は四月二十九日に棚倉に買物に行き留守をなし、その帰りは五月朔日、金屋町法雲寺の住職と上野出島で出会った。住職曰く、「大戦争である、白河に帰ってはならぬ」と。そこで私は桜岡の英助の家に行き、翌五月二日家に帰った。二日には勝負が決して至って穏であった
 翁の談によって四月二十七日には戦争がなかったことがはっきりする。二十七日に戦があったようにも伝えられるのは誤である

西白河郡西郷村大字米の小針利七翁の談
 戦争の年は十五歳であったが。よく戦争は判っている
 五月朔日、米村に戦があった。当時米村は四十戸であった。皆会津様の宿をした。四百人からの屯所であった。私の家には十人も泊っていた。米村は会津贔屓であって何とかして会津様を勝たせたいと祈ったものだ。官軍は下新田の観音様付近に大砲部二門を据えてドーン、ドーンとうった。会津様は立石に陣を取った
 いよいよ米村の会津様が出発する。日向大勝(日向大勝は米村の兼子大庄屋に居られた)は陣羽織を着て、中山に官軍を激撃せんと指揮したが、官軍に狙撃されて死し、ために会兵の士気衰え、米の南の田や堀を越えて米部落に引揚げた
 この戦に会兵の一人が米の南で弾丸で腹を貫かれて斃れた。天保銭十三枚所持していた
 仙台様は堀川の西南、古天神を守ったが破られて金勝寺に退いた。立石稲荷の前では会兵が十三人も討死した
 この日に生捕になった東軍は、翌日に白河の新蔵の土橋や円明寺の土橋の所で斬られ、胴も頭も谷津田川に捨てられた。今円明寺の橋の袖にある南無阿弥陀仏の碑は、この供養のために後人の建てたものである

白河七番町青木やす媼の談
 私は十三歳
 戦争となると馬に乗せられて、小田川村の芳賀須知の親の里に避難した。毎日親が迎に来るのを待っていた。十五日も立って白河に戻ると、また戦争となり此度は黒川の親戚に行った。芳賀須知では他所からも避難者が集って各戸人が一ぱいであった。戦争というものは本当にオッカネァものであった。白河に帰って見ると家は官軍様に占領されていて、私達は板小屋に寝起していた。官軍様は服を着ていた。七番町の錠屋では炊き出しをした

白河町七番町の柳沼巳之吉翁の談
 私は十二歳
 親は家に居たが、婦人や子供は在の方へ移った。武士は農夫には構わなかった
 大平八郎が案内しなければ白河は破れなかった、大平の案内で桜町が破れそれで九番町口も破れた。会津様が大平八郎を恨むのもわけがあることである
白河町桜町渡部秦次郎の談
 五月朔日の戦に東軍の士で十六七歳の者六人生捕となって桜町の街上に至ると、首を取るから首を差しのべよ。となった。六人の者何れも覚悟して西に向って手を合わせ立派に斬首されたという。その遺骸は町の人が寺小路の榎(えのき)の下に葬った

(著者が三神村酒井寅三郎氏に聞くに、海軍大将日高荘之丞閣下は白河口では白河町菖蒲沢で奮闘されたという。閣下は明治の晩年に数回に亘って矢吹の宮内省御?場に来り酒井氏に泊まられたのである)
五月朔日の東西両軍の兵数に就て、復古記所載の五月七日白河口諸軍への達書に

 白河城乗取、大に朝威を賊地に振い敵鋒を摧(くじ)き、策遠算なく、頗る愉快の勇戦を遂げ、実に欣然踊躍(きんぜんようやく)の至りに不堪、天威之所為と雖、偏(ひとえ)に将士捐躬(えんきゅう)力戦功に非らずんば如何ぞ数倍の賊兵をして一時に敗滅せしめんや。云々

又復古記白河口戦記に左の文がある

 是より先、会津兵・旧幕府捕竄(ほざん)の徒等、白河城を陥る。既にして東山道総督府参謀伊地知正治薩・長・大垣・忍四藩の兵を督して之を克復す(五月朔日)賊退いて仙台・会津・棚倉等諸路に分據(ぶんきょ)し以て官軍の衝路を□す。官軍亦兵を分かちて之に備え、相峙(そうじ)して戦わざること殆どニ旬、此時に当り、仙台・二本松・棚倉・中村・三春・福島・守山等の兵前後賊軍に来り加わり、其の兵数凡そ四千五百人許に至る。而して官軍僅かに六百五十余人に過ぎず、衆寡敵せず、困りて援を大総督に乞う。是に至り、大総督府東山道総督を更めて白河口総督となし、尋て応援兵を発遣す(会津藩の白河出兵数は約千五百人か)

五月十九日岩倉具定が東山道総督を免ぜられて奥羽征討白川口総督となり、同時に東山道副総督岩倉具経も奥羽征討白川口副総督となった
五月朔日の激戦地帯は、九番町口・稲荷山を第一とし、白井掛・薬師山・龍興寺の裏山・蛇石・薩沢等白河市街の南方丘陵地で、市街戦はなかったらしい(桜町方面に小戦があったという。今龍蔵寺境内にある仏像に弾痕あるを見る。この仏像は元西蓮寺のものである)
勝ち戦であった西軍の死骸は白河本町の長寿院に運ばれて回向(えこう)をした。長寿院の住職は豪胆で寺を守っていたので、この寺に運ばれたものだと伝えられている。東軍は惜むべし、その死骸はそのままに遺棄せられて田圃に山中にあるを里人達に葬られて香華(こうげ)を手向(たむけ)られた。同情は勿論東軍に注がれた。後に至りそれぞれ寺小路や花見坂や八竜神に合葬されて里人に供養塔をも建てられた
九番町辺の民家には一軒に五人六人、白井文蔵氏の宅などには九人、その隣には十三人も自尽されてあったと言う。これは東軍の壮烈を物語るものである

※ 大平八郎の間道案内
鎮台日誌第三に大平八郎の感状が載せられている。文に云

     大平八郎
 白川復城之節、棚倉海道間道筋案内、且白坂宿人場継立無滞致周旋(しゅうせん)、前後骨折奇特之至ニ候。依而手錠一挺下賜事
   六月

官版の鎮台日誌に一農民が所載せられたことは栄誉とする所であった。彼も戦後、時々鎮台日誌第三を見よと豪語したという
然し会藩から見れば大平の案内がなかったらと敗戦とはならぬと怨んだ
明治三年八月十一日会津藩士田辺軍次のために白坂村鶴屋旅館に大平は殺さるるに至った。大平を殺した田辺はその場で切腹した。田辺の墓は白坂村観音寺にあったが、後白河九番町の会津藩碑の側に移された。観音寺にあった田辺の墓は、高一尺八寸、七寸角、操刃容儀居士とある碑で、大平八郎の子息に当る者が供養のために建てたもので、墓と共に松並の会津藩の側に移された

閏四月二十九日の夜、大平八郎は薩藩四番隊長河村奥十郎(純義)に面接し、白河城討入の案内を託された。そこで白坂から五器洗を経、夏梨・十文字に出で、搦山の裏手に当る金山街道の蟇(ひき)目橋にかかり、搦山の石切山で白河討入の合図の烽火をあげ、桜町方面から入って東軍を破った。地理不案内の西軍にとってはこの案内が大成功の基をなした。その功によって大平は二人扶持となり、次白坂町人馬継立取締役を仰付かり非常な勢力を持つに至った
白河町本町遲沢信三郎所蔵記録に
     大平八郎
     白坂順之助
     遲沢新左衛門
当分白坂宿取締人馬次立云々
   辰九月
    白河口
     会計官
この記録によれば大平八郎のみが取締役ではなかったものであろう
この方面の西軍の道筋は夜の中に石阿弥陀を通って土武塚、八竜神に出でたとも伝えられていて、幾筋にも通ったものであろう。西郷村の和知菊之助翁の談によると石阿弥陀から池下に出たという

白河金屋町の斉藤千代吉翁の談
 田辺軍次が白河から白坂さして行く、皮籠原の一里壇の所に指しかかった時、白坂から来た白河天神町の古物商大木某に出会った。軍次は何とかして大平を誘い出す工夫はないかと苦心していた時である。その日は雨が少し降っていた日なので、その商人に近づいて
  白坂方面の天気模様を尋ねた
 大木は田辺のボロ袴を付け胡座を着ている醜き姿であるのを侮り、会藩士とは心得ずに
  何だかわからぬ
 と答えた
 武士に向って無礼をいうな、容赦はならぬと。なる
 大木は恐れて白坂に引きかえし大平を頼んで一命を請うことになって、当時会津藩の常宿であった鶴屋に詫を入れる
この話は色々に伝わっている。千代吉翁は十二歳、畳職で父と共に畳替をした年だという

第八章 白河口の戦争

閏四月二十三日奥羽同盟成り、福島に軍次局を置いて仙将坂英力これを督し愈々奥羽軍は西軍と戦うことに決し、会藩もまたこれに加盟した
白河城が会藩の奪う所となったと聞えた西軍は、閏四月二十一日大田原を発し監崎・油井・関谷の東軍を撃破して、二十四日芦野に宿した。東軍の間諜これを知り、鈴木作右衛門・木村熊之進・小池周吾・野田進等の会将等戦略を定め、白坂口へは新撰組隊頭山口次郎を先手とし遊撃隊遠山伊右衛門これに次ぎ、棚倉口へは純義隊長小池周吾、原方街道へは青龍隊長鈴木作右衛門これに当って西軍の来るを待った
二十五日暁天、西軍来って白坂口を攻めたので山口次郎・遠山伊右衛門等隊兵を指揮して戦った
太平口の会藩軍将日向茂太郎は進んで米村に在り、砲声を聞き急に進んで白坂口の横合から西軍に当たった。砲兵隊長樋口久吾は白河九番町より進んで戦った。棚倉口より小池周吾、原方より鈴木作右衛門進撃、義集隊今泉伝之助・井口源吾等歩兵を率いて戦った。西軍は皮籠原に散開して猛烈に東軍を衝いたが遂に三面より包囲され、西軍の参謀伊地知正治(薩藩)其の不利なるを知り、兵を収めて芦野に退いた
東軍勝に乗じて追うて境明神に至る。この日の戦、払暁より日中に亘り激戦数刻殆ど間断なかった
今に有名に語伝えられているのは、この日の戦に薩長大垣十三人の首級を大手門に梟(きょう)したことである。会藩はこの日士気大に振った
本道からの西軍は、小丸山・老久保・与惣小屋方面より来る。十三人は本隊より遥先に出で、白坂街道脇の用水堀に沿へ九番町口東軍の本塁に迫って、石橋下に潜み、稲荷山なる東軍を狙撃し多くの死傷者を出した。遂に東軍に捕らえられて斬首された
白河中町棚瀬利助翁曰く

 十三人の梟首は、大手門で、四寸割の板に五寸釘を打ちつけてそれに梟した。町々からそれ西軍の首を取ったといって、見に行くものが多く、大手門は黒山を築いた。戦慄しながらよく見た。首級に各藩の木札が付けてあったように記憶している

維新戦役実歴談という書がある。これは長藩士の戊辰戦争の実歴談を編したもので、大正六年の出版である。同書中男爵梨羽時起の談に

 二十五日には僅かの人数であった。薩州の四番隊と、吾輩の二番中隊の小隊と、原田良八の小隊それだけで行って、其の他の兵は大田原に残っていたように覚えている。白河の凡そ十町程手前に出ると、何時でも魁をするものが十人ばかりで先手の方でやっている小銃の音が聞える。敵は木や畳で白河の入口に台場を築いて小銃の筒を揃えて出ている。それで中々進まれなかった。その入口というのは、双方が水田で細い畷手(なわて)道で並木がある。敵は向うの低い山に畳台場を立派に拵(こしら)えて畷手道へドンドン打出すから進めなかった。その中に左の方の後の方へ廻られて打出された。どうしても行かれぬので手前の山の所に戻った。所で先に行った十四五人のものはズット台場の下まで行って戦った。その中の半分は殺された
 この時殺されたのは鹿児島の者と長州の者と半々と覚えている。河村さんは右裏の方へ四番隊の中幾人かを連れて、黒羽藩を案内として行ったが道が分からぬので戻って来た。此の日は怪我が多かった。戦の終わったのは昼頃であった。芦野まで戻った。河村さんも一緒であった
 全体二十五日には、伊地知さんは今日は僅かの人数であるから無理だというたが、河村さんがヤレヤレと言い出してやったものだ
 それから五月朔日に白河城を取ったのは人数を増して行ったからだ云々 


[出典]
http://mo6380392.exblog.jp/i76/2/

戊辰白河口戦争記



第十二章 東西相峙す二旬 1/2

慶応 4年(1868)
・ 5月 4日
東軍は五月四日に須賀川で奥羽列藩の会議を開いて各藩の部署を定めた
上小屋方面へは会藩の総督西郷頼母・高橋権太夫・木本内蔵之丞・野田進・杉田兵庫・坂平三郎等の諸隊が陣し、上田八郎右衛門・小池帯刀等は大平方面を固めて羽太村を本営とした
本道には仙藩の将益田歴治、二本松藩の丹羽丹波、会藩の辰野源左衛門等が矢吹に陣した
会将の小森一貫齋・木村兵庫及び相馬・棚倉の兵は金山方面の守備に当たった
愛宕山・八幡台に守兵を出し、刎石・二枚橋の要地に衛兵を置き、金山・七曲には塁を築き、夜は山々に篝火を焚き、西軍の隙もあらば忽ち襲わんとする勢であった
西軍も亦白河に在りて防禦の策を施し、四方に番兵を出し、持場を定めて東軍に備えた
本道・黒川口は薩兵。旗宿口・石川口は長浜・忍兵。湯本口・大谷地口・根田口及び白坂口は大垣兵。各々昼夜を厭わず番兵を出し一方大総督府に加兵を乞うた
閏四月より五月にかけての西軍の指揮は東山道先鋒であったが、東山道先鋒総督岩倉具定は奥羽追討白河口総督となり、同副総督岩倉具経は奥羽追討白川口副総督となって西軍を指揮することになった。具定は具経の二男、具経は八千丸といいて具視の三男である
西軍の其の局に当たったものは公卿と武士で、九條・沢・醍醐・岩倉・鷲尾等は公卿で、西郷・伊地知・板垣・世良・大山・渡辺等は武士であった
・ 5月21日
五月二十一日に七曲の戦があった。七曲とは小田川村の泉田から小田川に越す所の地名である。此の頃の戦に仙藩の所謂烏組が細谷十太夫指揮の下に六十七人悉く抜刀して西軍を潰走せしめた勇壮な話は今に伝わっている
・ 5月25日
五月二十五日、東軍白河に迫り、大田川・小田川・本沼等に小戦があった。東軍の小田川に集るもの百余人、薩・長・大垣の兵が之を破り、大田川を焚いた。大田川の焼かれたのは麦刈時であったと伝わっている。西軍の手負二人、長藩四番隊は鹿島口より本沼に向って東軍五・六十人を破り民家を焼いた。東軍死者十五人、長兵死者一人、傷兵一人。此の日大和田に東軍と大垣藩との小戦があった
・ 5月26日
五月二十六日、また東軍白河城に迫る。棚倉口・矢吹口及び長坂大谷地の諸方面皆進み来る。時に柏野・折口より会兵も進みて戦う。東軍不利。また金勝寺・富士見山・仙台街道の左右の山等に戦あり、西軍の死者一人、手負三人、東軍の死者三十人余(西軍の記録による)。この日、白坂の天王山にある東軍は黒羽・大垣の兵と戦う。東軍は棚倉・中村両藩で死者十一人、西軍は死者一人、手負六人(西軍の記録による)
・ 5月27日
五月二十七日、小戦あり、金勝寺の東軍は大谷地に退いた。比石の焼かれたのも此の日である
・ 5月28日
五月二十八日、金山の東軍白河合戦坂に進撃して小戦あり、釜子の東軍も亦進んで搦山に至るも戦わずして退く。この日死者東軍二人
・ 5月29日
五月二十九日、東軍相議して払暁白河城総攻撃に移る。仙藩の砲兵隊長釜石栄治は白河関門に、芝多賀三郎は山手に、田中惣左衛門は羅漢山及富士見山に、会の高橋権太夫・木村内蔵之丞等は金勝寺から向った。会藩の蜷川友次郎・小池帯刀等は雷神山に、上田八郎右衛門・相馬直登・土屋鉄之助等は折口に、仙藩の中島兵衛之介は愛宕山方面より、会藩の小森一貫齋・木村兵庫等は棚倉口に各々備をなして、山々に篝火を焚いて西軍の隙を窺った
西軍之に応じて本道・黒川口は薩、旗宿口・石川口は長・忍。湯本口・大谷地口・根田口及び白河口は大垣兵これを守った
金勝寺方面まづ薩軍に向って攻撃を開く、仙藩の細谷・大松沢等苦戦したが根田及び長坂に退いた。会藩の小原宇右衛門の率いた砲兵は六段山及び金勝寺山を攻撃したが敗れ、坂本兵衛・遠山虎次郎等戦死。仙藩・二本松藩兵棚倉口より進んで土・長・忍三藩の兵と血戦し、棚倉兵またこれを援戦したが東軍は不利に終り、東軍は会藩の小原宇右衛門・杉浦小膳以下将卒十余人。仙藩は戦死八、負傷二十。西軍は長藩死一。負傷七。大垣藩死一。負傷六。薩藩死二。負傷十三。忍藩負傷五。黒田藩死二。負傷六

阿部正功家記云

 五月二十六日、東軍白河に進撃す。此の日払暁金山の兵進んで合戦坂及び十文字村に戦う。其の兵を分かちて白坂の屯営を撃つ、釜子にある各藩合併の兵進んで搦村に戦う。諸隊弾薬つがず合戦坂・白坂に火を放って兵を収む。此の日吾が藩の死者四人(副軍目付太田友治・銃士林仲作・鈴木熊之丞・銃卒奥貫貞次郎)、傷者五人

藤田氏の記録云

・ 5月23日(26日?)
 五月二十三日(二十六日の誤記か)。白河にある官軍総責と称し、奥羽軍は会津口・仙台口・棚倉口・白河口の諸方より責め来れり。そは金勝寺山及び長坂山より一手。米村口より一手。富士見山・向寺・坂ノ上より一手・搦山・合戦坂より一手。白坂口より一手。其の景況は金勝寺山・長坂山より来りたるは米沢・会津の兵にて山上より続々鉄砲を打かけたれども、官軍の人少のため進むこと能唯会津町土手の杉に隠れて応戦せるを見るのみ、奥羽兵多人数なれば容易に引上げざる有様なり
 官軍は向寺より不動様の坂下を通り、飯沢に出で林中より裏切したるため死傷を残して長坂村を指して逃去れり。米村口より来りたるは会津及び徳川の脱兵にて堀川端にて砲戦す
官軍阿武隈川より米村に至りて敵の後に廻りたり。敵は死傷を出し、米村民家を火し、羽太村に引上げたり
 仙台口より来りたるは仙台・二本松・三春の兵にて向寺坂上にて官軍と合戦中、官軍聯芳寺山より裏切、是れも敗軍小田川村に逃去れり。白坂口よりは会兵小丸山辺まで来たれるも引上げたり
 棚倉口は金山道・五箇村道より責来り、棚倉藩士権田東左衛門隊長となり、真先に進み来りたれば味方不動前に戦死。それがため進み入ることと能わず引揚げたり。斯の如く白河総攻撃とて来れるも時間に相違あり、払暁より開戦せるあり、十時頃より始むるありて敗る
 此の一戦後、町民は多く帰宅せり

又藤田氏記録に云

 官軍の出陣する時は、賊の砲声を聞くや否や直に銃を持ち、着のみ着のままにて寝所を出で、飯も食わずに我先にと出かけたり、御飯を食して御出掛といえば砲丸を食うから腹もへらぬ、飯は後から握飯にして持ち来れという。それ故官軍の戦は何時も早かりき
 奥羽勢の仕度は夫々身を纏め、宿舎主人に飯を炊かせ、十分腹を拵こしらえ握飯を持ちて出かけたれば官軍よりも遅れたり
西軍の出陣のさまは一人でも二人でも砲声を聞くと出掛けたが、東軍は勢揃をして出掛けたものだという。大谷地に伝わっている話に「東軍の陣地が大谷地にあった、それを西軍は根田方面から攻めて来たが、あの根田と大谷地の耕地をつなぐ細流に沿いて上って来た有様というものは、何というてよいかわからぬ機敏さであった」と
小田川村の佐藤庄屋は奥羽軍の屯営所であった、村の人夫が集まってよく握飯を作ったという。当時、多くザル飯を炊いた。ザル飯とは、沸騰している湯釜にとぎ米をザルに入れて煮たものであるという
・ 5月29日
 五月二十九日、東山道先鋒総督参謀板垣退助宇都宮より土軍を率いて白河に入る
 白河金屋町の斉藤千代吉翁の談によれば、大工町の常瑞寺が板垣参謀の陣営であったという。千代吉翁は袋町生れ育ったので、よくこの事は知っていると語る
 藤田氏の記録に板垣退助が白河に入ると、名札を出し、白河近在を探偵するものを人選せよという。藤田氏の家は町役人なる故に。探偵とは何をするものなりやと聞きたるに、笑うて実況を内々に聞取るものなりという。依って目明役(めあかしやく、オカツヒキ)七・八人書出したり云々とある。同記録に、断金隊長の美正貫一郎もこの時来る。美正は二本松打入りの時、本宮の皮を糠沢方面から進んで渡る時に、大内屋の土蔵から狙われて戦死、屍は川に流れたり。後に死体を求むれども見えざりき。とある

川瀬才一の白河県への報告書に云

・ 5月26日
 二十六日、当所を真中にして会藩の徒等惣攻に寄来る、人数凡そ一万人有之候か
 東の方は桜岡村・新小萱村・根田村・向寺町坂ノ上関門まで寄来る。艮の方は葉ノ木平・六反山。乾の方は飯沢村・金勝寺村・阿武隈河を隔てて戦う
 西の方は折口原・水神原の辺より立石山・原方道・高山村・東京街道は皮籠村・小丸山・天王山・龍興寺・三本松
 南の方は鬼越村・南湖池下・焔硝・義五郎窪・蛇石・月待山
 巽の方は関山窪・兜山・豆柄不動・土腐塚・十文字原・合戦坂・味方不動・八龍神・山の神・結城の墟・搦目村・大村・鹿島村に至る
 如斯囲遶(じょう)無透間(すきま)押寄来り、卯の中刻より午の下刻までの大合戦なり。会藩方の大軍へ小勢を以て防戦する官軍方の苦戦は九死一生のその勢、恰も韋駄天の荒れたるが如し。見る者、聞くもの恐怖せざるなし、万方より打こむ砲声は百千の雷地に落つるかと疑うばかりなり
 如斯官軍方の血戦に恐怖せし会藩方は八方とも敗軍しける故、其の日の死亡数知れず、死骸山の如し。血は流水の如し。巳の刻に至り漸く砲声静まり相引に引く
・ 5月27日
 翌二十七日は午の刻より又々攻寄来り、日の落つるまで烈しく打合し、会藩は多く火縄筒故、官軍方六連発こめ故砲声別なり

鹿島富山氏の記録云

・ 5月26日
 二十六日の朝六ツ時、棚倉道に大砲の音致候。其の中合戦坂口の戦と相成候。其の日の総攻と相成候へども、鹿島口戦と相成候に付、村中の者は吉太郎殿の脇のバンカリの塀の中に老人子供まで皆すくみ候
 何れにも搦口大砲甚だしく候へば大砲の玉あんまり上にてわれ候につき生きたる空もなく皆同様に驚き今に命をはるものと覚悟致候内、白河より長州様の大砲二門下の川原ゆより搦目の奥兵めがけて甚だしく打こみ候へば、奥兵大軍とは申しながら、官軍は戦上手にて遂に奥兵を追い散らし漸く少し安堵致候得共、何うも致せ、其の夕より比石下より篝火ひかり昼の如し
 官軍は戦は勝ち候へども、奥兵大軍に候間油断に相成らず、村方の人足にて篝火一ヶ所へ五人づつ割当て昼は木を切り、夜は篝火を焚き、長州様固めの場所鹿島口・八龍神口・南口にて長州と忍との人数にて百五十八人許、奥兵は何分にも大軍なれば油断相成らず、長州様は鹿島村へ御出張相成、村中は御宿と相成候
 尤も度々の大雨にて橋も流れ通行も不都合故、村中御宿と相成候。その中薩州様少しくり込み、土州様も二十七日繰込候で長州様代りに相成候
・ 6月 1日
 六月朔日、西軍二百人許と会津・仙台の兵と合して七曲坂に戦う、此日は西軍敗れて根田に退いた。西軍根田に火を放たんとす、東軍これを見て一斉射撃をして防ぐ、西軍屍を棄てて白河に退いた。東軍の傷々者二人
・ 6月 8日
 六月八日、仙台の細谷十太夫和田山に陣した。西軍は富士見山からこれを砲撃した
・ 6月 9日
 六月九日の刻、西軍数十人中を発しつつ、富士見山から進んだのを細谷組が之に応戦。仙台藩の大松沢掃部之助小田川村にあったが来援したので勝敗決せずに互に兵を収めた
 此の頃奥羽追討総督の任命あり

鎮台日誌に云

 六月十日御沙汰書  正親おおぎ町中将
 奥羽追討為総督出張被仰付候事
           鷲尾侍従
 大総督参謀被仰付奥羽追討白河口出張可有之被付候事
とあって鷲尾侍従が大総督参謀として、白河口に出張となる

[出典]
http://mo6380392.exblog.jp/i76/


2015年1月12日月曜日

會津鑑


目次
葦名盛氏至押領之郡地
葦名修理大夫盛氏旗下之大名
佐原氏葦名袮五黨者
葦名四天老中四人並小頭四人附老中同心八十人
若年寄四人並小頭四人附同心四十人
用人五人並取次十人
側用人五人並取次五人
奉行四人並用人役祐筆諸訳兼勤者八人
郡代十七人並小頭十七人附同心百七十人伹同心十人宛
下郡代十七人伹下郡共勘定頭共云
侍大将十二人同組士外様三百六十人
旗頭八人並與力野士八十人小頭八人其組足軽八十人
弓大将四人並與力士四十人小頭四人足軽四十人
鑓大将四人並與力士四人小頭四人足軽四十人
鉄炮大将三十人並小頭三十人附平足軽六百人伹一組二十人宛
使番十二人
奏者番十二人
大目付四人
寺社奉行四人並小頭4人附同心四十人但一組十人宛
寺社小役十二人
町奉行四人並小頭四人附同心四十人伹一組十人宛
足軽大将三十人並小頭六十人伹一組二人宛足軽九百人伹一組三十人宛
大番組八人並組士七十二人
大書院番十二人
小書院番十二人
留守居番十二人
近習三十二人
小姓頭二人
同奥番九人
小姓組三十六人
奥小姓八人
供番頭三人
戸番六人
平供番十六人
小番頭三人並組士三十人
軍者二人
軍用兵噐役奉行八人
横目十六人
普請奉行四人並小奉行八人杖突四人小頭四人足軽四十人
小普請方四人
藏方並扶持方渡役人八人
吟味頭四人
大納戸頭四人
小納戸頭四人
大扇ノ間定番頭二人並次番二人
同所詰用方八人
本丸番頭四人
二ノ丸番頭二人
三ノ丸番頭二人
火消八人
徒歩頭三人
徒歩士二十人
徒歩目付二十人
腰物番四人
祐筆八人
書物役六人
盗賊改上役二人並書役二人小頭二人同心六十人但一組三十人宛
小人頭十二人組小人百二十人但一手十人宛
無役二十八人
大将先後左右旗本二百余人外様士但家老支配
隱居老臣
由来記云知行附
本文
葦名盛氏代押領之地並屬旗下大名之記曰
葦名盛氏ニ至リ押領之郡地
會津郡 三分一  耶麻郡 四分一  大沼郡 五分一  
河沼郡 半領   蒲原郡 四分一  千葉郡 半領
結城郡 三分一  奈須郡 三分一  白川郡 三分一  
安積郡 三分二  小田郡 半領   行方郡 三分二
磐瀬郡 三分一  宮城郡 半領   安達郡 半領
合十五郡之内令知行高積百二十万石當

葦名修理太夫盛氏旗下之大名
横田中丸城主     山内刑部大輔藤原氏勝                                         
滝谷岩谷城主     山内内匠頭藤原俊基 其子俊之 治部少輔                                        檜野原丸山城主    山内左京亮藤原俊知                                          
沼沢丸山城主     山内出雲守藤原政重                                          
川口玉縄城主     山内左衛門佐藤原俊満                                         
西方嶋城主      山内右近太夫藤原重勝                                         
野尻牛首城主     山内兵庫頭藤原實良     
 右ヲ山ノ内七騎黨ト称ス
白川小峰城主     結城七郎藤原義親                                                       二本松城主      佐々木右京亮源義継(畠山)     
四本枩小濱城主    大内備前守重朝                                            
片平城主       大内助右衛門尉重時(片平)                                          
須賀川城主      二階堂遠江守藤原盛義                                         
伊南柳川城主     河原田治部大輔源盛次                                          
棚倉城主       太田玄蕃頭源政長                                                        南山田嶋鴫山城主   長沼豊後守平實國 其子弥七郎盛秀                                           
仙道苗代田城主    高橋下野守経尹                                            
南馬城主       南馬山城守戸田祐矩  其子左京介 祐清二男刑部少                                        
駒嶺城主       大和備中守保昌                                 
長沼城主       新國上総介頼基                                  
前田沢城主      青木兵部宗長                                             
福嶋城主       石川大和守照光                                            
布沢柵主       山内上野介俊勝                                            
中山城主       大川淡路守徳逸
渋川助右衛門信伊 立野遠江守久勝 高玉太郎左衛門 阿久子嶋治部政詮 新地主多田十郎左衛門
以上二十八人
佐原氏葦名五黨ト称ス者
猪苗代氏 北田氏 藤倉氏 加納氏 
右ハ昔龜山院正元年中(1259)西明寺時頼ノ代ヨリ是ヲ五黨衆ト称ス
私ニ云フ四氏也-何氏ヲ加テ五黨ト為ス乎詳ナラズ

津川狐戻城主 金上遠江守盛備 葦名家數代之執権職
葦名四天老中四人並ニ小頭附ケタリ老中同心八十人  
父筑後
平田左京亮入道如水   小頭 布施七太夫  同心二十人 
居所川領五千石                  
父源兵衛
佐瀬河内        小頭 小草九兵衛  同心二十人   
居所大寺領五千石               
父大膳
松本源兵衛 後図書早世 小頭名畑久右衛門  同心二十人                
居所小松領五千石
父上総
冨田美作        小頭村中加兵衛   同心二十人
 松本氏早世故代針生民部少輔
 俗四天王云所謂松本平田左坐佐瀬冨田右坐也彼等
 氏族松本氏先信州松本氏也云出千信濃源氏平田氏
 先建武葦名盛員戦死時彼扣馬僕而共忠死故賞其子
 孫為家臣長也彼祖名平太故通為平田氏云佐瀬氏先            
 総刕佐瀬郷主而為千葉氏族故累世名常字云冨田氏
 先累世當郡故家也往昔恵日寺武士也佐原氏就封時
 出仕云或記曰長和五年伊豫國住人冨田右近大夫政
 保來會津子孫在耶麻郡猪苗代則茲冨田氏其末孫
                       
松本氏が若く死亡したため、代わりに針生民部少輔
俗に四天王と言うのは、左坐に松本平田。右坐に佐瀬冨田。松本氏は信州松本氏という。出自は信濃源氏。
平田氏は芦名盛員の馬の口取りだったが、葦名盛員戦死の際に忠死したためその子孫を家臣の長とした。
また、その名を平太と言ったので氏を平田とした。
佐瀬氏は現千葉県の佐瀬郷主だったが、千葉氏の一族なので代々名前に常の字が付く。
冨田氏は會津に古くからあった家で恵日寺に属していたが、後に佐原氏に仕えた。
また、ある記録には長和五年伊予の国の住人冨田右近太夫政保會津に来る
子孫耶麻郡猪苗代にあり、とあるが、この冨田の子孫。
若年寄四人小頭四人附同心
父若狭
弓田伯耆   小頭 野勢又兵エ   同心 十人                                         
筑後二男
平田尾張   小頭 山川久太夫   同心十人                                        
大膳三男
松本佐渡   小頭 山崎半六    同心十人                                        
父新國上総
栗村下総   小頭 深田助之丞   同心十人

用人五人取次十人
父大和
佐藤大和   取次 藤村又助    芦沢太右エ門                                      
父長門
一ノ瀬監物  取次 小野崎久兵衛  古沢文八                                        
父若狭
北原若狭   取次 小串五右エ門  武井善六                                        
伯耆二男   
遠藤長門   取次 鬼木門助    公家権助                                        
江嶋大膳   取次 寺井十太夫   小栗七右エ門

側用人五人取次五人
父主水
原田主膳   取次 根本弥太夫                                               
父山城
本城佐渡   取次 寺沢孫太郎                                               
岡部越中   取次 蟻川文助                                                
父中川日向
赤井因幡   取次 芦野庄藏
若名中川近江                                                
増井信濃   取次 安西山三郎

奉行四人用人役祐筆兼諸役兼勤者八人
父主馬
荒木出雲     用人 安中弥右エ門 越川甚平                                  
父久左エ門
佐野伊豆     用人 天野久五郎  成見又三郎                                
美作三男
冨田平十郎    用人 佐竹文七   飯川又右エ門                                
佐原弾正     用人 山中佐市   極掛孫兵衛
郡代十七人小頭十七人同心百七十人但同心十人宛
本名皆川氏父九郎左エ門          父周防本名宇野氏
矢島伊勢  小頭妻形興市         長坂周防   小頭湯浅勝平                                                                                       
父石見                  父山城
斉藤兵部  小頭三善吉十郎        岡部淡路   小頭三崎伊左エ門                                                                                       
本名皆川氏父四郎成道           本名遠山氏
杉浦阿波  小頭白岩本左エ門       須藤伯耆   小頭新井市右エ門                                                                                       
父越後                  本名佐原氏父主計
大町越後  小頭一柳庄九郎        荒川河内   小頭広瀬十助                                                                                         
                     父藤馬
青山左京  小頭平山久内         飯山隼人   小頭北浦甚兵衛                                                                                        
父越後其子冶左エ門
佐治右近  小頭井谷治郎兵衛       丸山主水   小頭葉山甚内                                                                                         
父左京                  本名雄(惟)任氏父長茂二
一柳九郎兵衛 小頭羽柴杢右エ門      丹羽甚平   小頭初鹿直左エ門                                         
         (上記本名とは、本名氏流ではなく、ほんみょう、本当の氏姓の意味)
下郡代十七人但シ下郡共勘定頭共云フ
父九郎左エ門  父外記     父三左エ門    父主水    父近江三男
神保九兵衛   坂部源五郎   梶原三左エ門   石塚太兵衛  櫻田佐五右エ門 
父八エ門    父清太夫    父壹(壱)岐守  父助充    父備前
柳田八兵衛   苗村又兵衛   石田新左エ門   門奈助太輔  中村九兵衛 
父平馬     父伯耆     父佐渡      父徳善院玄以二男 
荒川多門    福森治部    松本勝藏     前田三右エ門 村山杢之助 
父寺嶋大膳   父石本石見
立間民部    野澤長門
同心記載なし。
侍大将十二人 同組士外様三百六十人
父照藏
中ノ目式部太輔組                                                      
園田七右エ門 立野弥兵衛 倉田宗兵衛  佃治右エ門 濱尾内匠 小寺石見 土屋十右エ門 穴沢九郎五郎 荒井万五郎 高山加兵衛  風間十左エ門 大竹市左エ門 松本作右エ門 手代木内膳 大江三郎左エ門 生江大膳 風間久治郎 穴沢善右エ門 金子右京介 棚木隼人 三坪大膳 丹藤一覚 佐藤三右エ門 片山平馬 相沢丹波 五十嵐与七 外嶋作兵衛            

父美作
冨田将監組                                                                                 
田中弥右エ門 佐藤又兵衛 鈴木市郎右エ門 神谷孫左エ門 荒井新兵衛 猪苗代六郎左エ門 河合茂兵衛 浮島帯刀 酒井市郎右エ門 横地清左エ門 長尾大学 宮下精兵衛 吉原新五エ門 井上九郎治 山木平六郎 鈴木七郎左エ門 横田左馬介 小泉七左エ門 横山近内 須貝尾又八郎 樋口小十郎 風間式部 松本義兵衛 片山平馬 山口七郎兵衛 高柳主膳 外嶋角左エ門 穴沢新右エ門 長谷川太郎左エ門 大堀小エ門
             
父周防
本名讃岐組
飯倉十左エ門 太田源左エ門 飯川市郎兵衛 磯又八郎 木村利兵衛 鈴木九右エ門 入間儀右エ門 片桐善太輔 生江主膳 飯沼仁兵衛 須田小八郎 濱尾輿七 泰牧右エ門 横山七郎治 赤松勇七 八幡山久助 冨田又助 石川勘ヶ由 原岡吉右衛門 天野久左エ門 栗村山城 富樫文左エ門 白井宗兵衛 石橋孫左エ門 泥嶋五郎左エ門 石田九郎左エ門 藤倉久太郎 孕石太右エ門 冨田平太郎 下荒井三郎治
父大膳四男
松本土佐組
大江田久右エ門 平田周防 梶原輿八郎 小原長五郎 富山重四郎 宮下新左エ門 村内輿兵衛 田村新藏 加茂文右エ門 江上登之助 小池十郎右エ門 冠木藤左エ門 横川七左エ門 安達右近 中山茂左エ門 赤松勇右エ門 浅岡大助 二瓶三郎兵衛 藤倉久五郎 小野寺主馬 吉川八右エ門 小松九郎治 赤羽半兵衛 野口七左エ門 本名監物 相沢藤藏 門脇外記 田崎伊兵衛 舟木主水 遠藤又兵衛
父椎山山城二男
黒田大和組
吉成治郎左エ門 山口主馬 赤岩兵部 丹野輿八郎 室井周防 室田平馬 近藤九兵衛 公家藤馬 五ノ井仁右エ門 上遠野小八郎 宮本主殿 長谷部新藏 福永瀬兵エ 小島族之助 佐久間八十郎 田口新左エ門 冨永猪六 落合又五郎 山寺虎之助 五十嵐山城 水口小五郎 鯨岡太郎兵衛 近藤八兵衛 山川五左エ門 森左近 首藤又十郎 丹藤雅楽允 高須弥兵衛 保土原久内 小山太郎右エ門
七ノ宮自然斎
栗村弾上組
滝田直左エ門 堤新十郎 金田又助 小山次郎兵衛 坪下主馬 白土縫殿助 長嶺九八郎 田中傳藏 物江小藏 宮森七右エ門 金田小市郎 赤城松右エ門 佐瀬官治 牧原隼人 倉田藏人 佐藤右京 佐藤五郎兵衛 福田城右エ門 安田又十郎 板下十左エ門 佐々木八右エ門 松ノ岸勘介 藤江又七 熊谷孫九郎 三瓶大藏(後物頭)久保田伊賀 長城九郎右エ門 中ノ目左馬介 牧ノ内勘十郎 武田右近
父佐藤監物
小川周防組
中屋半左エ門 熊倉岡右エ門 野村勝右エ門 船渡喜左エ門 小森文内 平山三左エ門 安藤又十郎 谷吉十郎 目黒藤左エ門 玉井徳右エ門 根本孫六 八ヶ田輿治右エ門 神應掃部助 大島作左エ門 宮下外記 河原田兵庫 林源六 中村数馬 新井仁兵衛 青木新八 市岡内記 濱尾十郎治 新井田兵庫 渡部五郎左エ門 沼尾角十郎 市川太左エ門 伊藤角左エ門 植原初右エ門 今田四兵衛 畑六郎左エ門
父山城
小田切山城組
藤倉治右エ門 常世半左エ門 築束八右エ門 小寺彦右エ門 佐原三太輔 槻木佐右エ門 吉田小左エ門 荒川太兵衛 塚本源太輔 飯村半十郎 玉井十右エ門 津田宗太夫 長尾内藏介 大槻太郎左エ門 曽根六右エ門 三浦祖右エ門 中根岡右エ門 竹本善太輔 北田治郎兵衛 長山権七 滝川杢右エ門 小田切三左エ門 名子屋五郎左エ門 八橋磯右エ門 田山清内 野崎善兵衛 益井久三郎 車貞右エ門 國府弥六右エ門 肝付十兵衛
上野土佐組
手代木清兵衛 名越勘内 柏原新八 沢木長右エ門 竹村文左エ門 乙訓輿市 荒川小兵衛 古沢弥市 若森喜三郎 櫻田輿右エ門 粕屋三右エ門 賀島弥五内 石山左市兵衛 奥村忠兵衛 徳山清兵衛 平郡勝右エ門 海道五左エ門 橋本治兵衛 臼木傳左エ門 大平山三郎 漆戸武右エ門 向山幸八郎 富岡輿平治 牛島孫右エ門 多目権太輔
南部久治兵衛 村井作右エ門 根本甚八郎 滝山弥五右エ門 曽我助左エ門 

國分石見組
日向武右エ門 大石勘解由 入善一角 下河原惣左エ門 戸沢谷之介 良本主水 三善藤右エ門 小畑清之進 野瀬文左エ門 人(入)沢仁右エ門 横抜舎人 黒宮忠之丞 中原波右エ門 吉津長九郎 山室和右エ門 土井門左エ門 田原藤太輔 下河辺彦内 遠田江右エ門 丹波四右エ門 三善和佐右エ門 友田伊右エ門 高梨治部左エ門 一ツ橋金右エ門 鳥海佐治右エ門 土橋五郎右エ門 平出友右エ門 東野木弥左エ門 増井太郎左エ門 早川七右エ門

馬場志摩組
坂伊織 飯竹頼母 林森左エ門 五十島是非内 伊佐岡釆女 飯尾左近 堀内宅右エ門 神嶋三太夫 奥田弥市 畑田市兵衛 大草庄左エ門 板坂求馬 鳥井忠左エ門 伊木五郎太輔 大久保兵左エ門 下平弥平兵衛 城秋右エ門 犬飼忠右エ門 千原安右エ門 大熊友左エ門 下司四郎兵エ 大館牧右エ門 本庄仙右エ門 庄田吉左エ門 小倉輿介 沖津忠兵衛 久松傳左エ門 坂部外記 五十楼要人 一ノ宮小左エ門

遠藤左近将監組(後三坂越中)
菅谷作右エ門 萩原宗介 丹羽市左エ門 伊沢兵右エ門 飯垣内匠助 新方鴨右エ門 細井弥三郎 伊保清兵エ 飯田新五左エ門 鳥山深右エ門 本間藤九郎 大竹宇右エ門 小栗復右エ門 妹尾舎人 岡野文助 大沢九郎太輔 川上軍八 井伊兵庫 犬養又六 春日織部 片倉近右エ門 金森九右エ門 竹俣十左エ門 高木小兵衛 武井廣右エ門 長窪民右エ門 中嶋宇源太 長沢六郎右エ門 柏原新八郎 向井新左エ門
旗頭八人與力野士八十人小頭八人其組足軽八十人
父六太夫
渋川左京組     小頭 林田藤右エ門
岸上民部 大和田多助 佐倉雅楽 小笹水右エ門 勝方要人 鳥羽治郎太輔 宇多川右京 神部十兵衛 菊上左兵衛 篭屋弥三治 気田内記 勝屋又藏 木呂子伊織 神應徳之介 城戸左門  川端市左エ門 桐間縫殿 都倉新太郎 木嶋主計 片柳定右エ門 

高坂監物組     小頭 速見栗右エ門
渡部主馬 高置儀兵衛 佐貫主膳 外嶋沢右エ門 北川内記 川口栗左エ門 葛西式部 高畑長治右エ門 崎坂右近 種村波右エ門 界族 但木利助 坂向造酒 高屋勝藏 北田内膳 多門傳兵衛 直田越後 大関兵助 清原外記 小濱軍平
父蜷川義春号刑部 
和田大隅組 但後永井修理組士替 小頭 濱名籾右エ門
小野大膳 鳥原関内 折笠舎人 保々増右エ門 三枝主殿 西谷久六 紀野隼人 堀場武助 平井大炊 岩間松右エ門 北尾織部 生田祖平 青柳掃部 伊奈大藏 木戸勘ヶ由 福原治助 赤尾数馬 熊宮林助 跡部大覚

永井修理介組    小頭 花房輿右エ門
足立市作 黒谷浪助 赤堀小学 栗田稲右エ門 淺羽弾正 伊輿戸茂助 甘粕圖書 岩本徳助 白井中務 石口新吾 青地釆女 成岡治部 赤津丹波 名入鍛冶助 相良備中 熊山虎之助 有田左近 山岡團治 有木藏人 黒部曽平

佐々木大和組    小頭 二宮久治
阿曽沼内藏 甘利監物 赤井宮内 岩渕林藏 足田玄蕃 石上長右エ門 秋鹿治部 板野増右エ門 小林兵庫 三善文助 深沢兵部 山家久米右エ門 福嶋刑部 酒巻文平 福田金吾 猿橋源内 持田頼母 水沢滝藏 安中将監 箕田源治郎

渡部左京介組    小頭 西尾伊兵衛
阿多修理 宮田牧右エ門 原見主水 南河右エ門 栗屋左近 水口浪右エ門 村松右門 壬生丈之助 真駒右仲 小田部勝右エ門 牧野頼母 福良熊藏 漆原左京 宮嶋沖右エ門 矢吹要人 平野仁平太 松波藤馬 小手森和七 町井小膳 久我久藏

西海枝駿河組    小頭 新見佐衛門
藤川帯刀 南部外記 福間加陸 小松又助 武藤掃部 田布作十郎 田畑主計 大角國平 中原久馬 小篠大膳 北條右馬允 立羽玉右エ門 山角佐仲 常世清介 金曲信濃 岡又右エ門 小平潟新内藏 落合加太輔 舟木右京 大崎小助

堀遠江組      小頭 保横初右エ門
渡部舎人 加々山太右エ門 長谷川帯刀 金井久藏 佐藤式部 山下伊左エ門 五十嵐大和 見緒儀兵衛 近藤山城 川中大輔 田部内匠 大西淀右エ門 石川雅楽 諫早三太輔 佐原外記 大津峯右エ門 寺沢造酒 越生仙助 金沢左内 大屋伊右エ門  

                               足軽記載なし。
弓大将四人與力士四十人小頭四人足軽四十人
角田刑部組     小頭 星合久兵衛 
竹俣久兵衛 横沼要人 小室浪藏 落合弥藏 高瀬平太夫 奥津関藏 栗村権左エ門 
勝本友藏 分部七左エ門 大宅十藏 永井掃部介 大堀民藏 白井宗九郎 乙部平藏
荒井彦右エ門 岡崎軍藏 杉原久右エ門 織田竹藏 田中勝右エ門 沖藤藏
小池修理介組    小頭 本田政右エ門
大田原牧右エ門 田嶋隼助 玉垣軍助 谷内吉郎左エ門 川野水右エ門 大門戸助
金沢足右エ門 大磯虎之助 高原忠左エ門 鏡山貞助 田村林兵衛 多々良濱助 飯森仙右エ門
大飯大助 多良尾忠助 田山五助 山垣伊左エ門 大沼九助 本郷里右エ門 笠松喜助
町野山城組     小頭 堀川又八郎
大鳥山清右エ門 武野只九郎 久米山民右エ門 下司傳八郎 柿沼半左エ門 藤村彦十郎
安井嶋右エ門 万力弥一郎 山辺數右エ門 益田源四郎 安富孫七郎 松尾九治郎 窪倉治右エ門
真舟舟四郎 熊津保介 高橋万五郎 常世勘左エ門 真壁文九郎 水野河右エ門 舟山平太郎
大谷越後組     小頭 逸見清左エ門 
舟越門右エ門 江口恵助 深見弥左エ門 松宮勘助 小守仙左エ門 上村里右エ門 駒山宗右エ門
野呂浦右エ門 村松五右エ門 桒(桑)田丹左エ門 埋井政右エ門 桃沢七右エ門 宗像城右エ門
杦(杉)田半兵衛 浦野常左エ門 有賀孫六 永野清太輔 桒原孫九郎丸山新左エ門 若林鹿右エ門
鑓大将四人與力士四人小頭四人足軽四十人
山川伊勢組     小頭 徳沢又十郎
矢木近左エ門 櫻井孫平治 真部吉左エ門 廣沢権兵衛 松原孫太夫 深尾八右エ門 町田歹三左エ門 不破彦治郎 丸山初右エ門 松井孫六郎 曲渕忠左エ門 布施長左エ門 牧田治郎兵衛 前田五太輔 下条七郎左エ門 藤田兵藏 矢口藤太輔 草刈十兵エ 増田喜治右エ門 簗川茂兵エ
伊藤大膳組     小頭 豊田吉六
高坂弾右エ門 児玉守右エ門 小早川縫殿介 小平潟太兵衛 安藤東右エ門 郡仁右エ門 江田安右エ門 青野万七郎 舟窪権左エ門 丸橋吉弥 穴山内藏助 曽我十郎治 明石佐治右エ門 赤羽半左エ門 朝比奈三郎兵衛 明智牧右エ門 秋田治郎右エ門 秋山石右エ門 浅野戸右エ門 江門小市郎
佐原伊豆組     小頭 冨山万右エ門
芦沢近左エ門 佐田新六 浅井雲治 芦田文助 朝倉嶺右エ門 鮎貝又助 佐々常左エ門 
荒波海左エ門 石黨九郎左エ門 粟津六郎左エ門 赤坂安左エ門 沢野水右エ門 相沢兵右エ門 湯田稲右エ門 荒嶋九郎二郎 三浦瀧右エ門 大口平治右エ門 雪下浅右エ門 有泉権太輔 菊野八郎兵衛
金子能登組     小頭 戸島勘六
木村常左エ門 保呂安太輔 北村治部右エ門 鳥部民右エ門 坂崎傳左エ門 新館荒右エ門 本多善左エ門 石東岩右エ門 盤井葉右エ門 大倉源七 飯高平左エ門 小沢清治郎 新達作左エ門 河辺孫太郎 千葉和多右エ門 大渡弥七 佐川濱右エ門 細野又三郎 星野犬左エ門 小池金助
鉄炮大将三十人並小頭三十人附平足軽六百人伹一組二十人宛
松本備中     小頭 友松新九郎        
依田兵庫     同  小西清六
伊南兵庫     同  外村武七郎
丹沢右門     同  寺石又九郎
生江数馬     同  近松万右エ門
中嶋権助     同  天川六四郎
上嶋半藏     同  豊浦善六
東十左エ門    同  西條九八郎
向山半治     同  條瀧文八
佐野河内     同  佐分七右エ門
太郎丸掃部    同  千代清兵衛
小林太兵衛    同  三井近右エ門
倉澤七兵衛    同  大高久兵衛
長谷川山城    同  名川庄九郎
飯田隼人     同  沼山定六
木村弥内     同  野田新八郎
今泉源七     同  大江仁左エ門
添島万五郎    同  九里半助
春日求馬     同  神田源四郎
山田式部     同  矢田野作内
星刑部      同  米沢平三郎
土屋傳左エ門   同  山上角之丞
安孫子監物    同  高尾弥二郎
河野右馬助    同  柳川治右エ門
黒河内半右エ門  同  建部藤助
井深将監     同  深江治郎兵衛
長尾下野     同  成合十郎兵衛
冨塚肥前     同  古瀬藤兵衛
簗田安房     同  中野加太輔
山崎出羽     同  藤井五兵衛
                  足軽記載なし
使番十二人
向井新八郎 竹越平六 木本織部 笹沼隼人 町田内匠 柳沢多宮 
大里藏人 落合新藏 川嶋越中 下司右馬ノ助 赤松四郎五郎 南倉八兵衛

奏者番十二人
東條新九郎 渡部小右エ門 中本弥治兵衛 日向右近 小川隼人 安藤九郎治 
湯田清五郎 武川新次郎 原新左エ門 田中孫太輔 神田新藏 沢田主馬

大目付四人
外嶋若狭 藤巻大和 紀野根津 三城豊前
寺社奉行四人小頭4人同心四十人但一組十人宛
中澤大和     小頭 戸塚浪右エ門    
二瓶安房     同  大浦勝右エ門
大関下野     同  秩父十郎兵衛
兼川勘解由    同  小國文治右エ門
寺社小役十二人
清水八右エ門 高崎乙右エ門 押山戸右エ門 
尾上利平治 鈴木浪右エ門 大田垣仁右エ門
来名忠兵衛 高橋利右エ門 大室小平治 
乙部三右エ門 他二名記載無し
町奉行四人小頭四人同心四十人伹一組十人宛
飯田外記       鎌田弥惣兵衛    
石井出羽       横瀬半五右エ門 
関伊織        川尻平右エ門
満田主計       白星七右エ門
足軽大将三十人小頭六十人伹一組二人宛足軽九百人伹一組三十人宛
平田靫負     小頭 吉岡十兵衛   伊達小八郎  
松本城之助    同  高階八右エ門  相場三太輔
山口但馬     同  夏目新九郎   叶野又右エ門
成田右京進    同  大野九藏    成瀬早右エ門
奥平新助     同  鍋島杢左エ門  野々山十右エ門
諏訪主殿     同  口羽平藏    八代牧右エ門
薄田甲斐     同  屋山藤内    吉部新六
滝野沢壹岐    同  藤戸宗兵衛   寺村政右エ門
片桐主水     同  手嶋小左エ門  沢井善左エ門
手代木主計    同  森田七太夫   三輪茂兵衛
北村式部     同  佐治又助    三木弥八郎
小瀧左馬介    同  鹿島常左エ門  吉彦忠兵衛
沖大和      同  長沢庄治郎   廣川太左エ門
石山甚助     同  竹田兵右エ門  根張利兵衛
田中甚十郎    同  下村金左エ門  廣島安之丞
坂田縫殿助    同  久野孫太夫   須野俣九十郎
物江釆女     同  市原治右エ門  蜂屋吉左エ門
篠原玄蕃     同  飯野三太夫   橋場五郎兵衛
萩野九十郎    同  垣原牧右エ門  羽賀悦右エ門
佐藤右馬允    同  日置團右エ門  富野市十郎
坂内匠      同  徳田林右エ門  大友久左エ門
新國刑部     同  和気元右エ門  亀田庄五郎
武田主馬     同  野木清太輔   八十清助
羽染小泉     同  山寺権九郎   舟田宗八郎
川手佐助     同  中尾五助    上杉長兵衛
小沼隼人     同  深沢平七    寺田又六
中野五郎四郎   同  手塚太郎右エ門 海老沢又十郎
西田兵藏     同  寺崎勘左エ門  江間四右エ門
猪狩玄蕃     同  赤城又左エ門  坂田孫市郎
三原八右エ門   同  佐渡文内    目黒伊右エ門
大番組八人組士七十二人
三浦周防組
結城市藏 下原仁兵衛 廣沢五右エ門 小野崎銀左エ門 常磐金右エ門 
奥山治左エ門 乙葉右エ 勝本宗左エ門 榊宇右エ門
佐瀬平八
下妻市太輔 神原源左エ門 賀ガ見村右エ門 杉田平右エ門 笠尾藤右エ門 
神尾利右エ門 関脇十郎兵衛 金山吉右エ門 岩永太左エ門

金子主計組
垪和与一郎 小坂春右エ門 岡部六郎治 土岐伊織 越智貞右エ門 
神庭善右エ門 十倉勘左エ門 音蟹安右エ門 川勝文左エ門

大浪主膳組
伊庭和右エ門 稲沢丹四郎 星宮源五郎 井口仙五右衛門 石口弥右エ門 
千種蒔右エ門 波多野三右エ門 磯弥惣左エ門 大森傳藏
赤塚藤内
大川五太輔 小野六太輔 堅田万右エ門 萩六郎左エ門 押山杉右エ門 
杉浦佐太輔 柄木新六郎 松浦藤太輔 須賀川野平六

種橋大藏
笠原藤助 仙石助右エ門 菱川仁助 川崎八五郎 関半藏 
須佐清治右エ門 淀川又七郎 望月金右エ門 菅沼武助

慶徳善五郎
吉野六藏 師岡九太輔 荒木弥三郎 高田丑右エ門 桃井八左エ門 
平井定六 大木吉郎右エ門 守岡直右エ門 依田甚右エ門

黒河内十郎左エ門組
曽根仲右エ門 佐藤宗九郎 杉井久三郎 沖宗治右エ門 関本仁平太 
門叶孫助 中谷三左エ門 瀬尾源助 毛利和多助
大書院番十二人

三宅求馬 加藤新九郎 石橋孫内 池田久兵衛 西郷藏丞 村上源太輔 
坂内主計 中条藤太輔 山川八右エ門 長嶺清九郎 松田隼人 平田平右エ門

小書院番十二人

黒田治郎左エ門 山本作右エ門 古川孫六 玉野又市 岡野吉左エ門 安田弥三郎
海老名濱右エ門 石間円治 松原新五右エ門 山路小角 栗城藤右エ門 沼木弥三治

留守居番十二人

今中靫負 山垣丹波 福山尾張 栗原入道幽閑 飯岡筑後 寺沢志摩
手越入道宋栄 安部井入道安清 蜂谷備後 蜷川加賀 保土原入道江南 沢田伊勢
近習三十二人
平田左馬助 松枝小八 外島左内 田口五兵衛 山垣新左エ門 渡部杢右エ門 
新井田隼人 辰野十左エ門 縄田八左エ門 坂井三右エ門 夏目十内 今出川七郎左エ門 佐々修理 笹原宗兵エ 井川民部 杉田長藏 赤羽傳十郎 坂本儀右エ門 石山又兵エ 矢部九助 田部清左エ門 小野九右エ門 矢木理兵エ 遠山藤三郎 伊藤九右エ門 
下川勘解由 五十嵐八郎兵エ 矢島造酒 楢原外記 和田大助 宮森傳藏 佐伯清助
小姓頭二人

三橋越中   鵜浦甲斐

同奥番九人

長峰志摩 目黒伯耆 折橋兵庫 
生江式部 三井佐渡 大庭三左エ門 
中田兵庫 藤沢伊豆 磯辺頼母

小姓組三十六人

冨田半九郎 長峰孫七 森臺又治郎 町々多仲 三瓶平七 川島求馬
赤塚藤九郎 大竹頼母 松本弾上 林甚治郎 本名杢之丞 松本多助
濱尾内藏助 大場平五郎 山田郡治 長谷川甚藏 渡部文藏 大波弥太郎
野口久左エ門 東海林十五郎 中山助九郎 五十嵐又吉 梅津重五郎 和田万吉
佐原又五郎 杉浦平八郎 栗村幸八郎 大関長九郎 福原龍次郎 横山大八郎
立野弥助 宮下七十郎 濱尾新十郎 三井佐仲 山垣藤馬 中ノ目右近

奥小姓八人

濱崎甚五郎 関口熊太郎 勢田亀松 森田関之介
山部又治郎 土方忠治郎 川越又太郎 勢良田梶之介
供番頭三人

伊丹主殿 井澤備後 井関肥前

戸番六人

細川左膳 竹川求馬 米倉藤馬 大窪帯刀 豊良宮内 高井右近
平供番十六人

押部宇源太 上崎孫平治 笠間勝弥 川原五藤太 脇坂小文治 加井庄金弥 神崎佐源太 谷崎平馬 大道寺武助 祢津宇助 長嶋弥太輔 相馬門太輔 筒井善介 南條源藏 梅宮九郎五郎 中地金五郎
小番頭三人組士三十人

犬塚対馬組
梶尾沖右エ門 上村新藏 善方平右エ門 多気吉郎兵エ 高嶋長九郎
田村忠左エ門 田崎瀬左エ門 玉川皆右エ門 多治見九助 気味子十左エ門
石巻内膳組 
横山庄左エ門 立花甚兵衛 園権七 武藤権右エ門 柘植助右エ門 
長谷柳五郎 永井文五郎 梅村庄六 村山平五左エ門 上原忠太 
生駒肥後組
内田市右エ門 能勢沖之助 黒川笹右エ門 栗山伊右エ門 久津清六
矢島円右エ門 柳瀬伊左エ門 八尾治部左エ門 山梨大右エ門 山中左六
軍者二人

信刕松本城主浪人 小笠原大膳太夫長時

相刕岡崎浪人   楠右京太夫橘正範
軍用兵噐役奉行八人

石井山城 片山大隅 廣瀬七右エ門 家城治部左エ門
磯部備仲 松村長門 逸見文左エ門 田崎小隼人

横目十六人

山垣河内 小田嶋三郎左エ門 馬場外記 長谷川伴藏
久保田圖書 池上多門 斎藤九左エ門 樋口又治右エ門
山木仁左エ門 海野要人 大貫新五左エ門 三宅靫負
鈴木又兵衛 大竹宇左エ門 野村勘右エ門 福森助之進
普請奉行四人小奉行八人杖突四人小頭四人足軽四十人

依田右エ門佐組 
小奉行 伊波又四郎  門奈十助  杖突  岩手八右エ門   
小頭  石橋新藏   足軽十人
安藤内藏助組  
小奉行 茨木十右エ門 蜷川清治右エ門 杖突  新潟甚五左エ門  
小頭  西七右エ門  足軽十人

杉原太郎左エ門組
小奉行 堀部又右エ門 杉原善八郎 杖突  岩松多藏
小頭  別府小右エ門 足軽十人  
服部吉右エ門組
小奉行 稲垣太治兵衛 天野作四郎 杖突  冨尾九八
小頭  豊岡弥介   足軽十人

小普請方四人
松沢五右衛門 若林弥四郎 枝末七之助 笹近右エ門
藏方扶持方渡役人八人

川嶋佐仲 中屋七郎右エ門 道家次郎兵衛 常磐友右エ門
長谷部八十郎 赤羽半兵衛 徳永清治右エ門 大塚林右エ門

吟味頭四人

北條九兵衛 三條加右エ門 山岸左兵衛 沢田宗右エ門

大納戸頭四人

野々宮五左エ門 古寺万七郎 矢田舎人 福田与十郎

小納戸頭四人

丹藤十兵衛 金子七郎右エ門 佛沢十郎兵衛 大貫七右エ門

大扇ノ間定番頭二人次番二人

二瓶佐渡   次番 孫太輔
今村常陸   次番 三井宮内

同所詰用方八人
今泉十兵衛 畠山太郎右エ門 一瓶小角 星八右エ門
六郷七左エ門 仁木五兵衛 西山善五右エ門 土肥猪兵衛
本丸番頭四人

大佛主殿 奥野内記 仁科主馬 頓宮修理

二の丸番頭二人

分部金太夫 飯嶋権右エ門

三の丸番頭二人

蒲生源兵衛 横井外記

火消八人

片角宇平太 竹内左太夫 堤沢金六 辻利左エ門
吉村七郎左エ門 相馬弥五兵衛 長沢五太輔 内原仁右エ門
徒歩頭三人

玉村政右エ門 一條宗左エ門 岡村市郎左エ門

徒歩士二十人

千坂茂助 越生久五郎 大坂宗八 乙沢定六 亀山三右エ門
玉木新助 寺西庄吉 脇田吉太輔 河越又治郎 大原弥六
安達杢兵衛 桂山宗兵エ 大寺宅右エ門 長野安兵エ 藤堂加太輔
沼尾助九郎 今井四郎治 沼津六之助 尾林十治郎 大熊貞右エ門

徒歩目付二十人

久永左五左エ門 百井丹弥 杉生勝平 関屋原右エ門 板橋善右エ門
関根筒右エ門 季川弥吉 椎名治五右エ門 本寺清八郎 菅原網右エ門
日外為五郎 水窪鶴右エ門 平石弥五郎 彦坂軍左エ門 片桐直左エ門
宮戸荒右エ門 杉本官治桃 桃井民右エ門 最上仙治郎 新庄八郎太輔
腰物番四人

蟻塚三郎右エ門 笹弥野右エ門 佐久兵左エ門 浮洲治右エ門

祐筆八人

酒巻権六 三田源五左エ門 日向笹右エ門 大庭平左エ門
下河辺久右エ門 水島斧右エ門 伊藤三藏 東條左馬介

書物役六人

宮原佐伍左エ門 平戸吉六 須崎与左エ門 
椎津新左エ門 東又七郎 新宮丹左エ門

盗賊改上役二人人小頭二人同心六十人但一組三十人宛

福岡民部組   書役 伊北玉右エ門 小頭 井沢瀧左エ門  同心三十人
小杉主馬組   書役 新妻忠左エ門 小頭 半田新五右エ門 同心三十人
小人頭十二人組小人百二十人但一手十人宛

藤枝浅右エ門 山村七九郎 山角加右エ門 黒沢金兵衛
牧山宇兵衛 村田文治右エ門 能勢清六 萩田八郎右エ門
黒石又十郎 寺木源右エ門 名星又助 美濃部七太輔   小人記載無し
無役二十八人
近藤靫負亮 猪苗代弾上 吉郎刑部 成田右馬亮 
坪内近江 渡部監物 木曽兵庫 八幡帯刀
内藤主膳正 七宮入道自然斎 宇津宮勘解由 伊南左京亮
山名頼母 穴沢遠江 浦野内匠頭 馬場釆女正
牧内信濃 平田兵部少輔 内田右京進 白山入道宋鑑
長沼伊右エ門 遠藤大隅 草壁主殿頭 長峰數馬
青木修理介 今川筑後 笠原出雲 沿林寺右馬介
大將先後左右旗本二百余人外様士但家老支配
島影源藏 坂東市郎左エ門 吉村丹左エ門 伊勢崎加太輔 直江金左エ門
新川又右エ門 川井武右エ門 芋瀬孫左エ門 村越新左エ門 羽田又左エ門
林十兵エ 岩崎甚右エ門 野尻彦太夫 多古藤右エ門 只見庄右エ門
稲田折右エ門 仁田治郎兵エ 土倉清右エ門 中井庄兵エ 石堂彦左エ門
芳賀喜八郎 永見善左エ門 夏井和右エ門 猪子一角 岩田利左エ門
名倉治左エ門 野間吉郎左エ門 飯森治部 稲村文八郎 米良深右エ門
山形廣右エ門 二星五郎太輔 伴弥八郎 別府吉右エ門 蒲原川兵エ
一宮十郎兵エ 小原七郎兵衛 大岩沢右エ門 南部六右エ門 蜷川雲治
犬山伴藏 伊賀猪兵衛 西川嶋右エ門 堀田猪左エ門 上島軍八
相馬市右エ門 森川水右エ門 外山市郎右エ門 植田隼右エ門 里見半藏
大束万右エ門 鹽沢宗兵衛 熊沢沖右エ門 三瓶安右エ門 額田佐左エ門
豊島忠左エ門 山下惣左エ門 水野弥三右エ門 鳥井杢右エ門 戸塚孫兵エ
牧野勝左エ門 皆川仁左エ門 錦古里新左エ門 鎮西八郎右エ門 馬船三右エ門
篠田要人 掘尾助之丞 大井清兵衛 藤木團治 樋口右近 八王子久右エ門
大河内貞右エ門 福井丈右エ門 須田五左エ門 伊貝十郎左エ門 河村宇平治
寺尾政右エ門 森山仲右エ門 岩城奥左エ門 高松長左エ門 安部金助
足田小隼人 稲葉直右エ門 中田十右エ門 佐々木弥右エ門 平山十太輔
石塚儀左エ門 大村廣治 笹沼七太輔 諏訪雅楽助 猪狩甚六郎 稲毛権藏
堀江平左エ門 大岡忠右エ門 池上猪助 石原源左エ門 保坂八弥 
白土小左エ門 有賀小八 井磧四郎左エ門 徳島戸左エ門 小田萩右エ門
村田常七 泉川喜六 大瀬小兵エ 脇草右エ門 藤沢幸治 石黒半右エ門
小野田徳左エ門 狩野忠助 仁丹四郎左エ門 福王寺嶋右エ門 
押田三左エ門 高力舎人 小幡嶺右エ門 針尾波江 大河原祖右エ門
加賀山和介 大垣作平 野村勘左エ門 岡山五郎左エ門 高瀬治郎八
横須賀小平太 須田幸左エ門 田丸庄治郎 室田鈴右エ門 浦崎佐源太
岩瀬徳右エ門 竹沢清三郎 長尾新六 水村作太輔 生嶋要人 津山滝右エ門
赤木平助 浩江七右エ門 入江九右エ門 長田藤三郎 一色五太輔 
百足清右エ門 日比八五郎 三屋原文助 塩山稲右エ門 武藤芦右エ門
平喜左エ門 芝田太内 新藤桃右エ門 信夫藤八郎 杉村帯刀 
白沢六郎左エ門 島津伊右エ門 下津倉右エ門 下毛野外記 宮川小十郎
新波武助 新納四五右エ門 末松丹右エ門 神保茂太輔 庄田谷兵衛
嶋山栗右エ門 芝村治太夫 嶋田勘右エ門 完戸草右エ門 水尾波右エ門
白山清藏 篠塚万藏 嶋崎銀藏 白鳥羽右エ門 宮目兵九郎 渋谷金平 
下宮吉兵エ 三橋推右エ門 嶺小式部 櫻山文治郎 鹽沢万六 
水上川右エ門 芝山善藏 白河儀左エ門 篠原新右エ門 設楽勇助
清水九兵エ 庄司又三郎 嶋尾安兵エ 宮部亀右エ門 逆瀬文右エ門
櫻井竹右エ門 鹽田七十郎 志賀近左エ門 新發田弥右エ門 
松倉三郎四郎 芥川半内 秋元民左エ門 御子柴平右エ門 北畠戸右エ門
榊原安左エ門 木俣庄藏 見頃長左エ門 溝口清左エ門 渥美新十郎 有馬求馬
隠居老臣
西海枝駿河盛俊  萩野右馬亮興綱  鵜浦甲斐氏國
須生但馬重氏   鹽田兵部輔尚   針生民部少輔清次
船窪出雲道泰   栗村備仲義景   相馬五郎左エ門信國
平塚丹波實恒   神應丹波頼基   神應若狭頼春 後家康公ニ仕フ
武藤中努丞義元  日出山豊後實顕  森田彦兵エ憲明
佐原新左エ門實詮 薄左京太夫満長  松本長門入道幽閑
慶徳善五郎盛勝  松本圖書氏輔   満田尾張忠勝
三城豊前信勝   冨田美作盛實   佐瀬源兵衛安石

合士分以上千三百五十人余
野士八十人余
外輿力徒歩士合三千六百人
旗下大名五万六千人余
都合六万騎余
由来記云地行附
葦名氏代々之知行千令積百六十万石余
一万八千石   三浦太夫盛國   居所 猪苗代
一万石     関柴備中守       関柴
五千石     三坪大内藏       大鹽
三千石     穴沢善右エ門尉     檜原
一万石     中ノ目式部大輔     中ノ目
五千石     平田兵部少輔      鹽川
五千石     松本源兵衛尉      小松
五千石     佐瀬河内守       大寺
五千石     冨田将監        荒井
三千石     松本太郎左エ門     笈川
三万八千石   金上遠江守       金上・津川
一万石     沼沢出雲守       沼沢
八千石     伊南源介        伊南
八千石     山ノ内丹波守      田嶋
一万五千石   山内刑部左エ門     横田
五千石     横田治部少輔      川口
三千石     山内播磨守       伊並
四千石     河原田兵部太夫     伊北
三万八千石   白川義次        白川
四千石     栗村弾上        藤田
二千石     棚倉玄蕃        棚倉
四千石     浮嶋帯刀        浮嶋
一万石     鵜浦甲斐守       中田
八千石     栗村下総守       稲川
一万五千石   新国上総守       中地
二万石     二本松右京亮      二本松
八千石     鹿ノ子田出雲守     安民(熱海)
二千石     高田間太郎左エ門尉   高田間(高玉)   
一万石     二階堂盛義       須ヶ川(須賀川)
五千石     片平助右エ門      片平
八百石     大里内藏人       大槻
五百石     小檜山縫殿之助     三代
五百石     佐瀬平八郎       大寺
二百石     栗村掃部        森代
四百石     伴野治郎兵衛
三百石     伴野五郎兵衛


[出典]
http://www2.ocn.ne.jp/~you/CCP024.html