2015年1月8日木曜日


庄内は戦国末期(17世紀後半)、武藤家・最上家・上杉家による戦乱が繰り返され、越後・信濃などから侍・武将がつぎつぎに来庄しました。

 地元長沼の研究家で故人となった岩浪安男さんは、生前『村名(長沼)について』というレポートを書いています。

 以下に出てくる島津淡路守規久が長野県の長沼城主、福島県の長沼城主になっていることから、彼が本町の長沼の由来に関係がないだろうかと、思いつき気味に推測しています。今後の研究にも期待して紹介し、私見も少し書こうと思います。

 長野県に鎌倉時代、長沼村が見え、戦国時代に長沼城が築かれて上杉景勝(謙信の養子)の家臣・島津淡路守規久が城主となり、長沼組をつくり一帯を治めま した。その配下には善光寺城主で後に藤島城主や添川楯主になった栗田永寿もいて、上杉の庄内支配の一翼を担いました。長沼の開拓者・大沼兵部、上新田の開 拓者・富樫道雲と斎藤弥左右衛門、十文字の大川源右衛門なども越後と何らかの関係があるのではとしています。

 長沼組の組頭でもある島津淡路守規久についてはこれ以上の説明がないので、少し調べてみました。『庄内人名辞典』に、忠直ともいい、天正18年 (1590)庄内検地のとき尾浦城に配備されて一揆勢と戦ったとあります。慶長3年(1598)、上杉景勝が秀吉の命で会津に移り、長沼城主(現福島県長 沼町)になったとあります。ここの長沼の由来は、島津淡路守が赴任する前に、長い沼の地形に由来とか、それ以前の支配者であった長沼宗秀の居住にちなむな どとされていて、島津淡路守とは無関係のようです。しかし、長野・福島の長沼城主、さらに尾浦城主などと長沼と関係がないのだろうか、と考えたくなるので す。

[出典]
http://homepage3.nifty.com/sizenrankato/minpou/minpou2005/minpou2005.9.11/newpage8.html

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