2015年1月21日水曜日
緋の衣
1869 (明治2) 年、東京謹慎中の会津藩士らの蝦夷地行きが決まり、同年9月、兵部省の管理下におかれた旧会津藩士団103戸333名は、品川沖からコユール号にて出帆、11日間の船旅の後、オタルナイへと到着しました。
到着後しばらくは、兵部省の北海道からの引き揚げなどで落ち着き先が決まらない日々が続きました。藩士団は樺太開拓使黒田清隆に請い、樺太開拓使管理下に入りましたが、後には樺太開拓使も廃止となり、開拓はなかなか進展しませんでした。最終的に、余市への移住が開始されたのは、小樽上陸後1年半が過ぎた、1871(明治4) 年旧暦4月のことでした。
1871(明治4) 年旧暦正月、隊長宗川茂友以下193名による開拓の決意を秘めた血判がおされた御受書がされ、同年4月には先発隊が余市入りし、7月までにほぼ全員の移住が終わりました。彼らは余市川上流の川東に 4ヶ村(黒川村)、川西に 2ヶ村(山田村)を開き、開拓を行ないました。
入植地には子弟教育の為の日進館、講武館が設けられ、会津から取り寄せた漢籍を使用した日進館は余市町の学校教育の草分けとなりました。入植前後には開拓使から請われて官公吏、教師、警察官となるなど、転出された方もいました。
前述のように、北海道開拓使は1875 (明治8) 年に札幌、有珠、余市など道内各地にりんご苗木を無償で配布いたしました。余市へは、同8年に500本が各戸に配布されました
しかし、海のものとも山のものともつかない、初めて見る苗木は、生活苦のどん底にあえいでいた開拓農家にとっては、魅力的なものではありませんでした。配られた苗木はどこの家でも畑の隅に植えられ、ほったらかしにされており、多くの苗木が枯死したようです。
そのような状態でも、努力の人がいたのです。4年後の1879 (明治12) 年には、会津藩士であった赤羽源八氏宅と金子安蔵氏宅の庭先のリンゴが遂に実りました。
赤羽氏宅からは配布時の品種名19号の樹から 6 個の大きい果実が収穫できました。この19号は、あとで緋の衣(ひのころも) という日本語の品種名が付けられます。
この名は、江戸末期、孝明天皇が信頼の証しとして会津藩主松平容保に与えた「緋の御衣」と、戊辰戦争降伏時、式場に敷かれた「緋毛氈」という会津藩にとって明と暗の両方をイメージして名付けられたものとのことです。
同じく金子氏宅の品種名49号の樹からも 7 個が収穫され、やがて各地で栽培されるようになり、国光という名に統一命名され、明治・大正・昭和の約100年間、日本のリンゴ産業を支える大品種になります。
翌年もリンゴは結実し、1 本の樹から 50kg 弱ほども収穫できるようになり、札幌で開催された農業博覧会に出品され好評を博しました。リンゴ1貫目(3.75kg)で白米 4 升ほどのよい値段で取引されたリンゴ栽培は、徐々に軌道に乗り、余市地方は北海道におけるリンゴの大産地に発展していきます。
緋の衣は、昭和の初めまでは、余市のリンゴを代表するほどたくさん栽培されましたが、現在では幻の品種になりつつあります。しかし、幸いなことに、猪苗代出身の吉田清亥氏が園主だった吉田農園で、その品種がまだ大切に守り続けられていました。
そのことを知った会津若松・会津坂下・塩川のりんご生産者が、会津平成りんご研究会を結成し、福島県の地域づくりサポート事業の支援を受けて、2000 (平成12) 年2月23日、「藩士ゆかりのりんごを会津でも」とその農園から枝を譲り受け、復活に取り組みました。
また、その農園の現在の園主吉田初美氏から、会津若松市にたくさんの苗木が寄贈され、「あいづ総合運動公園(会津若松市門伝町)」に、2000 (平成12) 年10月23日に、記念樹 2 本を植樹することができました。
記念樹の前には、次のような、記念碑・案内説明板が設置されています。
[出典]
http://homepage3.nifty.com/malus~pumila/appls/hinokoromo/hinokoromo.htm
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