生年不詳~建仁3年(1203) 関東相模国三浦半島の中央、衣笠城に本拠を置き、同地方を支配した三浦一党の三浦大介義明の末子で、源頼朝の側近三浦義澄の弟にあたる。 正室は武田信光の娘。衣笠城の東南・佐原(現・神奈川県横須賀市佐原)に居住していたため、「佐原氏」を称した。 建久元年(1190)左衛門尉に任じられ、佐原十郎左衛門尉義連と称する。 一の谷の戦いには源義経に従い、鵯越えの坂落しに真っ先かけて崖を駆け降りるなど、三浦一党の中でも武勇の誉れが高かった。 北条時政の三男時連(後の時房)の元服の際に烏帽子親を命じられたほか、治承・寿永の乱や奥州合戦にも従軍し、頼朝の義連に対する信頼は特に厚かったという。 奥州合戦の軍功により、頼朝から会津四郡を与えられたが、義連自身が会津へ下向した形跡はない。 佐原氏の惣領となった孫の光盛が葦名氏を名乗り、会津葦名氏は奥羽の有力な戦国大名へと成長するが、葦名氏の祖と言えば光盛ではなく義連を指す。 墓は、義連自身が開基した満願寺(神奈川県横須賀市)にあり、会津にも喜多方市(旧・熱塩加納村)半在家に「伝・佐原義連の墓」があって県の指定史跡になっている。
[出典]
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/aizu-jiten/koumoku-sa.htm
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