行基菩薩開山以来「薬師如来」を本尊として奉祀してきた高尾山は、俊源大徳の祈請によって「飯縄大権現」を勧請し、爾来これを本尊として奉安している。
「飯縄大権現」は、その信仰の起こりとしては、信州善光寺の北にそびえる飯綱山、戸隠山一帯に淵源を発する。この地方は善光寺の起こりと共に仏教の歴史も古く、戸隠、飯綱の山岳信仰も古い修験道の歴史を伝えている。
飯綱山は、戸隠山と共に我が国修験道の始祖、役(えん)の行者神変大菩薩(ぎょうじゃじんぺんだいぼさつ)によって山岳修験道場の基礎が開かれた。その後嘉祥三年(八五〇)学問行者が飯綱山から戸隠山に入り、役の行者の跡を再興して、初めて戸隠山の別当職に就き両山を治めた。やがて、戸隠山は天台派修験道の道場として栄え、鎌倉時代初期には延暦寺の末寺となり、一山八十二坊を数えた。一方、真言派の修験の寺も西光寺を中心に、道場を飯綱山方に占めて、次第に勢力を伸ばして行った。
飯綱山は、初め飯綱大明神と称し、天皇足穂命が降臨した所として崇められていたが、天福元年(一二三三)水内郡萩野城主、伊藤兵部太夫忠縄が山頂に飯縄大権現を祀り、修行の後、神通力を得て、百才以上の長寿を得たという。その子、次郎太夫盛縄もこの山に入り修行、霊験を得て妖術「飯縄法(いづなほう)」を編み出し、「千日太夫」を名乗った。以後、子孫が千日太夫を世襲して、この妖術を世に広めた。
「飯縄法」とは、管狐と呼ばれる鼠ほどの小動物を飯綱山から得て、長さ四、五寸の管に入れて養い、常に懐中して、この小動物の霊能を用いて術を行ったという。伝説では、この管狐は著しい霊能力を持ち、変幻出没自在で、予言をなし、人になつき、飼い主には非常な利益をもたらすものと信じられ、恐れられた。
殊に戦国時代の世に武将の間で、優れた妖術として熱い信仰を集め、武田信玄は、飯縄大権現の小像を懐中して、守護神としたと語られ、山形県上杉神社に遺される上杉謙信の兜の前立には、飯縄大権現の尊像が祀られているのである。
元来、飯綱山の麓、長野県上水内郡、下水内郡の辺りでは、飯綱山の残雪を「種蒔き爺(じ)っさ」と視て取って、苗代の籾播きをする慣わしが在り、農耕を司る守護神として山を崇めてきた。
こうして農耕神としてあった飯縄大権現が時代の趨勢に伴って戦神として崇められ、戦国武将の熱い信仰を寄せられた。時代が降って、徳川幕府の天下平定による平和な時代の訪れと共に、「飯縄法」の妖術は「邪教」の烙印を押され、厳しい禁制の下でその使命を終わる事となった。
高尾山もこうした時代背景の下に、戦国武将の移動に導かれるようにして「飯縄大権現奉祀の霊場」としての発展を遂げるのであるが、妖術「飯縄法」が本地仏を勝軍地蔵とするのに対して、高尾山の飯縄大権現は不動明王の変化身であるとして「飯縄不動尊」などと呼ばれた時代もあり、今日でも、不動明王に準じた供養、祈祷が勤められているのである。
[出典]
http://www.takaosan.or.jp/about_yakuouin.html
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