2015年1月8日木曜日
会津移封
●1598年(慶長三)豊臣秀吉は、奥州会津九十三万石の蒲生秀隆を、宇都宮十八万石に移し、続いて上杉景勝をその後がまに据えた。奥州、羽州の一部を旧 領佐渡を加えて百三十二万石であった。このとき秀吉は、景勝の国替えについて、侍以下奉公人は一人も残さず奥羽へ召連れて行くこと、但し、検地帳面に登載 されている百姓は一切連れて行くことを禁じた。
このとき景勝の分国であった北信濃四郡には、海津城に須田相模守満親、長沼城に島津淡路守忠直、飯山城に岩井備中守信能、牧島城の芋川越前守親正らが在 職していたが、これらの諸将にはそれぞれ新領地に配置を定め、その他の地士たちにも、謙信以来の勲功に報ゆるために、それぞれ高禄を給した。
このとき海津城将だった須田満親には二万三千石、清野助次郎長範には一万四千石、その他西条氏、寺尾氏、大室氏らも優遇して禄を給せられた。
かくて北信濃の武士たちは妻子一族を連れて会津に移ったのである。
●1598年(慶長三)豊臣秀吉が死去すると景勝は家康と対立。
●1600年(慶長五)景勝は会津から出兵。東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦うが、9月15日の本戦で三成ら西軍が敗れたため、12月に家康に降伏することを余儀なくされる。
●1601年(慶長六)上洛して家康に謝罪。上杉景勝は、出羽米沢30万石藩主として減移封される。
●1614年(慶長十九)大坂の陣で、徳川方について先鋒として活躍する。
[出典]
http://www41.tok2.com/home/capino/mori/mori06/06_12_31kurahone/kiyono.html
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