2015年1月8日木曜日

会津比売神社



●松代の古名・海津という地名の起源。
 史実と証明できるものではありませんが、『松代町史』(上巻)第二節には、この地の産土神(うぶすながみ)と伝わる皆神山にある皆神神社(熊野出速雄神 社)の祭神で、諏訪の健御名方命(たけみなかたのみこと)の子でこの地の開拓を任じられた出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)と、その御子である斎 場山(旧妻女山)の麓にある会津比売神社の祭神・會津比賣命(あいづひめのみこと・出速姫神)の、會津(あいづ)または出(いづ・伊豆)が転訛して海津と なったという説が記されています。

 延喜元年(901年)に成立した『日本三代実録』には、貞観二年(860年)に出速雄神に従五位下、貞観八年(866年)に會津比売神と妹の草奈井比売 命に従四位下を授くとなっています。その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)に従五位上に、元慶二年(878年)に正五位下を授くとなっています。当 時の埴科郡の大領は、諏訪系統の流れを汲む金刺舎人正長であったため、産土神としての両神社の叙位を申請したものと思われるということです。金刺舎人正長 は、貞観4年(862)に埴科郡大領外従7位に任命されています。[信濃史料]

出速雄命の父、健御名方命は、大国主命の子ですから出雲系。出速雄命の出は、出雲の出。出雲=伊豆毛(日本書紀)=伊都・伊豆志=伊豆。イヅ=厳で、斎み 清めること。『古事記』のみに記されている伊邪那岐命の禊(みそぎ)によって生まれた神々のひとり、伊豆能売(いづのめ)神が元か。伊豆能売を祀る神社は 現存しないため「埋没神」ともいわれています。
 会津とは、崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ 遣わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。 『日本書紀』
 相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
 この会津と、会津比売命の関係やいかに・・。なぜ父出速雄命は娘に会津比売とつけたか。

 里俗伝によると、皆神山の小丸山古墳が出速雄命の、斎場山の斎場山古墳が會津比賣命の墳墓ということですが、しかし、古墳様式から推察される年代、及び 発掘調査から、古墳は7世紀のものといわれているので、両命の墓ではないように思われます。あるとすれば、もっと古い年代の前方後円墳などではないでしょ うか。
小丸山古墳は、ずっと下って飛鳥時代の第三十四代舒明天皇(在位:629-641)の皇子・古人大兄命(ふるひとおおえのみこと)の墳墓ともいわれてお り、大化の改新に至る皇位継承争いの末に吉野を逃れてこの地に落ち延び、皆神山を開いたという里俗伝もあります。
 そうなると、積石塚古墳群と同様に古墳時代後期のものということになります。実際は吉野で殺害されたといわれていますが。小丸山古墳の側には、古人大兄 命の子の墓といわれる大輪王墳墓があります。古人大兄命は、大化の改新の首謀者?である中大兄皇子(後の天智天皇)の異母兄です。古墳の築造年代とも合致 するのでありえない話ではないということになります。

 斎場山麓の會津比賣命神社は、同名の社がどこにもない極めて特異な神社です。會津比賣命神社は、往古は山上にあったが(御陵願平か)、川中島合戦の折に 上杉謙信が庇護していたため武田信玄により放火され、その後斎場山の麓にひっそりと再建されたとの里俗伝があります。
 金刺氏は、欽明(きんめい)天皇( 539 ~ 571年在位)に仕え、大和国磯城島の金刺宮に由来するものです。金刺氏は諏訪下社の大祝(おおほうり・シャーマン)であり、中世に上社大祝によって追放 されるまで存続しました。屋代遺跡群出土木簡には「他田舎人」や「金刺舎人」の名が見られます。



 [出典]
http://www41.tok2.com/home/capino/mori/mori04/04_08_14hayashi/m07.html

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