2015年1月12日月曜日

緋ノ衣


北海道で1879年、日本で初めて西洋リンゴ「緋ノ衣」(ひのころも)の栽培に成功した1人、赤羽源八は、旧高遠藩主保科正之が東北に転封した際、随従した同藩の子孫であることが分かった。昨年10月、福島県会津地方の果樹農家有志が、北海道以外で初めて「緋ノ衣」の結実に成功した─との新聞記事を見た駒ケ根市東伊那の農業福沢文雄さん(75)が、北海道余市町や会津若松市の関係者に問い合わせて突き止めた。自らもリンゴを栽培する福沢さんは、リンゴの取り持つ縁と郷土の歴史の隠れた一面に思いをはせている。

 福沢さんは東伊那郷土研究会の会員でもあり、高遠藩の歴史にも興味を寄せていた。記事の中で源八の名前を見つけ、赤羽姓から高遠藩出身ではないかと直感。戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられ、極寒の地に入植させられながらも懸命に生きた高遠藩の子孫のことをもっと明らかにしたい─との願いだった。

 手始めに、余市農協(三宅武組合長)のリンゴ担当者に連絡を取った。「何と組合長さんが旧会津藩士の子孫で、直接電話をくれた。源八とは先祖同士が入植当時、住宅が隣だったと聞かされ驚いた」という。送ってもらった「余市生活文化発達史」などの写しの中の壬申(じんしん)戸籍に源八の記載があった。これで、少なくとも源八が会津藩士だったことは確かめられた。

 正之が最初に出羽最上に転封になった時、藩士の中に複数の赤羽姓の随従者がいたことは知られている。氏名を記した書物は「蕗原拾葉」など幾つかあるが、全員の名前は出ていない。源八の子孫は、正之が最上から会津に転封になった時に随従した可能性も否定できない。

 福沢さんが高遠町教育委員会に聞いてみると、「会津若松市が保管している『会津藩諸士系譜』を見るしかない」とのことだった。会津若松市教育委員会に問い合わせると、会津図書館に勤め、「要略 会津藩諸士系譜」を出版した芳賀幸雄さんを紹介された。芳賀さんから直接、「会津の赤羽姓はすべて高遠藩の子孫」と教えられ、ようやく核心に触れた。

 福沢さんは、芳賀さんから近く資料を送ってもらうことになっている。「それを見れば源八の出身地も分かるかもしれない」と、到着を心待ちにしている。

[出典]
http://www.nagano-np.co.jp/modules/news/article.php?storyid=2301


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