永禄6年には、飯縄山麓に国中の人夫を動員して軍道を造り、赤沼にいた島津尾張守には、武田信玄から長沼の地下人(農民、庶民、地元の人)を帰住させるよう命じられていることから、越後上杉攻めの拠点を海津城より北側に移していったものと思われます。3回目の改修は永禄11年(1568)に馬場美濃守信春が命じられたようで、軍団が常駐できるようにし、城下も整備されたものうです。なお、この年の7月に信玄は長沼城に在陣して飯山城を攻めています。
[出典]
http://blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/folder/643141.html?m=lc&p=3
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