2015年1月8日木曜日

島津淡路守



一枚目は、オランダ人ベアトが撮影した写真で、「江戸・高輪の薩摩屋敷」と説明があるだけです。

 幕末の歴史を動かした薩摩藩の江戸上屋敷であれば、「高輪」の東隣にあたる「三田」あるいは「芝」と言うべきなのですが。

 下にUPしました江戸の切絵図(文久元年制)では、右下の矢印が指し示す⑦の「松平修理大夫」とあるのが芝の薩摩藩邸です。「松平」と徳川親藩の名を名乗っていますが、もちろん「島津」家です。
 これをベアトは「高輪の薩摩屋敷」といっているのかどうなのか。

 写真がこの藩邸であれば、幕府軍と庄内藩の連合軍が焼き討ちをかけ、それが戊辰戦争の発端となった歴史的な現場の写真ということになる。

地図の上方(西)に「島津淡路守」屋敷がありますが、島津家の支藩である日向佐土原2万7070石の江戸屋敷です。写真はそんな小藩の江戸屋敷ではないでしょう。これを撮ったとは思えません。

 地図の⑩は田町にあった薩摩蔵屋敷です。西郷隆盛と勝海舟が「江戸無血開城」の膝詰め談判をした場所ですが、ここを「高輪」といっているとは思えないし、海岸の米穀類を貯蔵するための蔵屋敷の光景ではない。

 ということで、わくわく亭としては、やはり⑦にあった三田(または芝)の薩摩藩邸の貴重な写真であると結論したいのです。


[出典]
http://blogs.yahoo.co.jp/morioka_hisamoto/29798175.html

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