■続藩翰譜後御事蹟/白井吉郎重高著
荘内藩主酒井左衛門尉忠徳、天明八年二月七日、東海道川々堤防疏通の助役を被命、役終て同三月九日時服を賜り、家人等も白銀時服を下り賜りぬ、寛政八年侍従に任ぜられ、同九年大納言家(家慶)御元服の有し時、京都の御使を奉る。(享和三年五月、甲州川々浚防の助役を被命、役終て同年十二月朔日時服を賜ふ、家人等又白銀時服下し賜る、)頃学校を経営して家人等に物学ばせん事を請奉りて御許しを蒙る、文化二年九月、病に依て致仕し、右兵衛佐と称し同九年九月十八日五十八歳にて卒す。
嫡子忠器初名新太郎、享和元年十一月十五日初て将軍家(家齋)に謁し奉り、同三年叙爵して摂津守に任じ。文化二年九月二十五日家継で左衛門尉と召さる、同四年六月、蝦夷地島々異国船來侵しぬ、箱館奉行羽太安芸守より人数を被請、則物頭二人に足軽を遣しぬ。同年十二月、四品に叙し、文政四年侍従に任ぜられ、同五年右大将家(家慶)の為御使京都へ被遣。天保三年十二月、溜詰の格に被成。同四年十一月二十日溜詰を被命。同八年九月京都え御使として被遣。同年少将に任ぜられる。同九年三月西城御造営の助役を命ぜられ役終りて同十二月六日時服を賜ふ、家人等又白銀時服を下し賜はる。
同十一年十一月、越後國長岡の城を賜はりて彼地へ移るべき由の仰を承る、同十二年七月別の儀を以て再び庄内を可領旨仰下されしかば移るに及ばず、同九月溜詰を免さる。同十三年四月病によりて致仕し、左兵衛督と称し、安政元年三月、六十五歳にて卒す。
嫡子忠発初名小五郎、文政九年四月初て将軍家家齋に謁し奉り、同十二月十六日叙爵して摂津守に任じ、天保四年十二月十六日四品に叙し、同十三年家継で左衛門尉と召さる。同十四年利根川分水路印旛沼古堀筋開浚の助役を命ぜらる。翌年に至りて役半いんて息み、時服を賜る。家人等又白銀時服を下し賜る。嘉永元年八月女御入内のありし時、京都の御使を奉り侍従に任ず。
安政元年、内海守衛第五の砲台を可守との仰を奉る。同六年蝦夷地開墾守衛は當今専要の時務なるを以て蝦夷の内所領に下し賜はり、箱館松前警衛の事其心得可有旨被仰下、内海守衛は被免、其後北蝦夷地警衛の事を被命、同十一月西蝦夷地ハマシケ領並ルルモツへ領よりテシホ領迄でウレンケシク島々下し賜はり、オタスワ領よりアワタ領迄警衛の事を命ぜらる、依て警衛の人数其他農商の者共多く指遣し専ら上の意に順適し土地を墾し、商旅を通じ、人民を生育して、往々外国侵凌の備を充實せんとす。同八年病によりて致仕し豊山と號す、是より前舎弟富之進忠寛を望請て養子とす。忠寛初め富之進と称し万延元年正月二十八日初て将軍家(家慶)に謁し奉る。同十二月十六日叙爵して摂津守に任じ文久元年八月六日家継で左衛門尉と召さる。蝦夷地警衛等は忠発が時の如しと仰下さる。同二年蝦夷地開墾等猶力を盡し速かに成功を計らんが為、暫の内御暇を賜り翌年九月中参府の事を請ひ奉り御許しを蒙り同四月御暇賜はりて庄内下る、同十月忠寛來年二月御上洛(長州征伐)の節御先に上京すべき由を被命、此時忠寛病に冒されて御上洛の御供不可叶のよしを以て辞し忠発の男繁之丞忠篤を養子とせんことを望み、請て同二十五日二十四歳にて卒す。
忠篤は忠発の四男、十二月十八日養父忠寛の遺領を賜ひ、蝦夷地警衛等忠寛の時の如しと被仰下、忠篤初め繁之丞と称し家継で同二十八日初て将軍家(家慶)に謁し奉る、同三年三月二十九日禁闕守護の為十萬石以上の大名一萬石に家人一人宛京都へ可指登旨被命、同十月禁闕守護の家人共歸國すべき由被仰下金子等下し賜はる。
文久三年四月四日、當今英國の軍艦入港不容易時勢、市中其外動揺に乗じ奸悪の徒徘徊亂妨可致も計がたく、因て(江戸)取締り命ぜらるゝに付、人数を出し日夜市中を巡邏せしめ、狼藉の者は速かに搦捕、時宜に寄りては討果し不苦旨、命を蒙る、此時西洋各國数々來いRて盟約を要し公武の間頗ぶる嫌隙を生ず、上方の諸候或は又是非の論有、此際に乗じ浮浪無頼の者共私に黨を結び類を集め、尊王攘夷を唱へ竊かに不軌を謀る者少からず、因て此命あり(諸大名の中五六藩同此事を命ぜらる)、同十四日新徴組の者共不軌を企るやの聞へあり、速かに本所三笠町へ人数を可出の命奉り同夜人数を進め、石坂周造、村上俊五郎等を捕へてまゐらす、翌日新徴組の儀御委任被遊の旨被仰下、御府内晝(昼)夜巡邏を免さる。
同十六日此度の儀並御府内巡邏等を精力を盡せし事御感の旨、執政松平豊前守仰を傳ふ、同十一月朔日、近頃無頼の諸浪士共種々偽名を称し無謂金銀を強奪し或は白刃を振て市人を劫かし財貨を押取り、竊かに不軌を企る者有し故、此度御府内取締を被命、忠篤家系は御當家格別の御由緒有之、且神祖以來之儀を思召出され特命を以て被仰下所也、狼藉の者共速かに鎮撫し取締相立候様忠勤相励盡力致すべき旨執政井上河内守、有馬遠江守仰を傳ふ。素より區々の小藩加之蝦夷地警衛の為既に人数を彼地に遣しぬ、然りと雖も當時天下の形勢切迫の時、家系由緒且つ祖先以來奉公の儀を思召被出、特命を以て仰下さるゝ條深く感激し奉り、庄内より家人等数を盡してめし登せ晝(昼)夜隙なく巡邏せしめ、浪士輩狼藉不法の者或は搦捕或は斬殺し、専ら御府内を静謐して、将軍家の御威令遠きに布かん事を計りぬ。
同二十日、新徴組の者共、是迄騒立かましき時のみ人数を出し、鎮撫を謀らしめるゝと雖共、向後賞罰をはじめ萬事忠篤へ御委任遊さる。暫くの内、組頭以下役々附属せしむると雖共、重大事件の外、手限りに所置致し、暴発の憂無之様可致、新徴組支配は追て廃止せしむべき旨、牧野備前守仰を傳ふ。程なく組頭以下の役々を免されぬ。
同十二月十六日叙爵して左衛門尉に任ず。元治元年六月十一日、家人共義勇の志格別の事故、野州邊暴行の浮浪追討可被命所、折節當地御守衛厳ならず、遠路出兵難被命に付、彌以市中取締勉励可致旨被仰下、是より前、水戸の家臣武田耕雲齋といへる者、先君の遺志と称し、同志の士及諸方の浮浪を催し、湊に屯集し、尊王攘夷の論を首張し遠近を動揺しぬ。水戸の人数を初め近辺の大名兵を出して追討すと雖共、事いまだ平かず、此際に乗じ常野の間浮浪無頼の徒、所々に嘯集し、民家を破却し、財寶を掠奪す、是全く追討の人々力を盡さぬが致す所也と、家人(荘内藩士)等大に憤り頻りに常野の賊を平げて、天下の為に一方の憂を除かんと申すが故に、追討の議を望み請し所、前の如くに仰下されし也。
今年、毛利大膳大夫、己が國に引籠り、召せども参らず、擅に英國の船艦に発砲し彼と戦を構え、加之、家人國司信濃兵等兵を率いて禁闕を侵し奉る。又江戸麻布の邸内に多くの人数を匿し、浮浪の徒を誘ひ、市中を動揺せしむの聞へあり、同七月二十五日、毛利大膳大夫麻布の屋敷召上らるゝに付、同所に人数を出し可請取旨仰を承り、翌二十六日黎明、人数を進め、麻布檜坂の邸を圍み、応接稍々久敷して事故なく右の邸を請取て、住居の家人共悉く引具し、上杉弾正大弼に相渡す、同二十七日、将軍家の御前に召され、昨夜以來格別骨折家人共一同盡力御感斜ならず被思召、此上猶勉励可致旨被仰下、御菓子等下賜はる、家人松平権十郎、将軍家へ拝謁を被命。
同八月十八日、昨亥年以來、市中巡り其他度々臨時の事相勤、殊に新徴組御委任に付ては格別粉骨の條御機嫌に被思召、依之出羽國田川郡の御領兼て被預置し二萬七千石餘の地為御手擬下賜はり、新徴組は家來同様御附興に相成候條十分所置可致旨被仰下、同二十一日毛利大膳大夫為御征伐御進発の節御旗本御先手を被命、同九月二十四日今度御進発の節、家系を以御旗本本被命べき所、御進発遊さるゝに就ては御留守をも夫々被命と雖、左衛門尉には兼て御府内御取締命ぜられ事馴候事故、御旗本御先手は被免、御跡に留りて御府内取締厳重警衛向怠り無之様被仰下の旨、執政の人々の仰を傳ふ。同二十五日執政牧野備前守より家人松平権十郎を召て被仰渡、常野の浮浪今に鎮静致さず、其勢ひ御府内をも可侵の聞へ有之、此度御進発被遊に付ては色々御配慮ありて、左衛門尉御先手御免御留守に指置かるゝ儀は、御跡の儀御顧慮被為在間敷との思召より仰出されし事故、此後時宜に寄り野州邊へ討手命ぜらるゝ儀も可有之、其心得に候様被仰含。
同十月二十六日、左衛門尉儀若年の上且つ家継し以來、年月不久と雖共兼て命ぜられし御府内取締に付ては家人共身命を惜まず奉公の條、畢竟(要するに)家政向宜しき故と深く感じ思召別の儀を以、溜詰の格を被命、猶勉励可致旨執政松平伯耆守仰を傳ふ、同十一月四日家人松平権十郎、新徴組一同の人和を得たる由暫く當地に指置候様被命、同十五日先達て御手當に賜りたる地所を加え十七萬石の格に被成、新徴組は勿論、小林登之助門弟(後に火砲組と称す)共迄賞罰進退家來と同く致し、十七萬石の軍役をすべしと被仰下、同二十五日四品に叙す。
慶応元年四月十六日、御府内晝(昼)夜巡邏一手に引受、市中鎮静可致旨執政阿部豊後守仰を傳ふ、同五月十七日今度御進発御首途を祝し奉り舊例を以て勝栗を献る。
同九月二十九日、松平権十郎を召され、執政の人々列坐して、此度新徴組の者共市中巡邏先に於て兼て令せし趣により、羽賀軍太郎、中村常右衛門、千葉雄太郎の三人、馬上の士壹人討果したる所、小普請組石川又四郎支配永島直之丞なるを承り、同人身分に対し公義を重じ、左衛門尉を憚り事の始末認置何れも腹切たる條、左衛門尉常々懇篤の情義徹底致し居る故に可有之聞、猶向後は此度改めて令せし趣を以て、新徴組の者共へ可申含被仰、是より前新徴組の者市中巡邏の折、一人馬上にて隊中へ駈入り剩へ鐡鞭を以て續さまに打けるが、夜るの事にてはあり白刃を打振りし様に見へたりければ、三人して相討にぞしたりける。其後執政の人々より右の者は小普請組永島直之丞なる故、公義御家臣を容易に討果候事、上に対し恐少なからず、三人の者御糺明の上定めて御所置あるべきか、速かに政府へ出すべき様被申旨ありけれ共、此頃重ねて市中巡邏先に於て亂暴狼藉の者は切捨不苦との命ありて、其事既に下知し畢ぬ。然るに今に及んで御糺問の為可指出其謂はれなし、詮ずる所は左衛門尉が下知せしより、事爰に及ぬれば市中取締を辞し奉るに不レ如と申せしを傳聞て腹切し也。
慶応三年十月十三日、二條の城に於て京都詰の家人を被召、國家の大事意見御尋有之の間上京可致旨被仰下趣、大目附戸川伊豆守仰を傳ふ、仰承りし者同二十日江戸に至ぬる所に此日當時取締被命居に付、上京に不及旨御留守の執政仰を傳ふ、同十五日傳奏日野大納言殿より雑掌を以て渡さるゝ所の御書、同十六日御渡所と両通を帯し急便東著す、其略慶喜建白被聞召、尚天下共に同心盡力致し皇國を維持し可奉安宸襟事と載せられ、召の諸候上京の上御決定有之迄、徳川支配地市中取締等先づ是迄の如くたるべし、依之上京の事被仰出の趣を載せられたり、同十一月三日先達上京の儀朝廷の命ありと云へ共、江府取締命ぜらるゝ折柄故、上京御許されの儀従公義言上遊さるゝ所、上京に不及家人の内宗徒の者可指登様傳奏衆申さるゝ旨、執政松平周防守之を傳ふ、則家人を京都に差登す。
同十二月二十五日(四カ)、松平権十郎西城に召され執政少老の人々列坐して、島津修理大夫が三田の邸に浪人共多く潜匿し市中暴行、野州出流山にて捕縛さる竹内披(竹内啓カ)等の言にも薩邸に同志の者有之趣、加之一昨二十三日の夜、左衛門尉巡邏人数屯所へ暴発致せし者共不残薩邸へ立入の由、市中取締は素より左衛門尉御委任の事故人数指遣し応接の上返答次第踏込て打取べし、為加勢陸軍方可指遣、松平大和守、松平伊豆守、松平和泉守よりも人数を可出旨被命の間速かに可罷向、朝倉藤十郎、長坂血槍九郎、水上藤太郎検使として遣はさるゝ旨被仰渡、會津藩甘利源次郎薩邸の案内能存じたる故、案内者に遣はさる。
同二十六(五カ)黎明、家人石原倉右衛門主将として西城下より押出し、先づ使者を以て近頃市中暴行の浪士多く當邸に潜匿の趣、野州出流山にて捕得せる竹内披が言にも有之、一昨夜三田同朋町に於て、左衛門尉市中巡邏の人数屯所へ発砲の賊徒も入居候事、彼是其證分明也、速かに右の者搦捕るべき旨仰を承りて罷向ひぬ、疾く渡さるべしと云はしむ、天下の形勢實に憂危の秋なれば、主家深き心より浪士共集置くと云へ共、右等の所業致候者當邸に一人も無之趣返答す、猶応接に及所、篠崎彦十郎、關太郎と申両人対面して、悪浮浪の徒實に當邸に潜匿等不致、本藩に於て公邊に対し御敵可仕結構更に無之由を陳し、事を左右に托し、時を延すに似たり、使者依て多言を用ひず直ちに可打入由を云て歸る。
邸中頗る狼狽の躰也ければ、三田西北の角へ大炮一発するや否や、大小の炮銃焼玉等を弾射す、火邸内に発す、支封酒井大学頭(當時紀伊守)の者一番に進入、一隊の賊徒、松平伊豆守、松平中務大輔の固る所、無勢とや見たりけん、無二無三に切抜て品川の方へ逃さりぬ、降人に出る者四十二人、討取る所の首二級、島津淡路守邸には新徴組を遣はし有合ふ所の人数悉く召捕りぬ。
(未完)→②に続く
[出典]
http://seuru.pupu.jp/siryou/syounaizokuhankanhu1.htm
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