文禄の役で渡朝したもう一つの島津軍団と立岩喜兵衛
信州塩田庄(上田市、長門市)からはるばる博多・箱崎浜に展開した島津久長、有坂弥次郎軍の活躍は、肥後国・海東郡小川村地頭、竹崎季長の作成した「国宝・蒙古襲来絵詞」に蒔絵として記してある。
竹崎季長と共に蒙古軍を相手に戦い、竹崎季長の軍功の証人となり、季長が鎌倉まで行って恩賞を貰う話は有名である。
元寇後、島津3代・久経は長らく箱崎・鎮西の守備の任務に残り当地で没する。
久経の2男・久長は元寇の後、薩摩国に下向し、島津伊作家の始祖となる。
奇しくも、島津伊作家は島津義弘へと繋がっていく。
信州・塩田庄地頭に任じられていた島津久長は当然塩田庄に血を分けた親類縁者を残した。
この島津氏が千曲川沿岸・善光寺西北地方、水内郡で信州の小軍団として島津の血をつなぎ、川中島の戦いの時には上杉に仕えていったものと思われる。
この信州・島津氏は川中島決戦時は長野市千曲川沿いに信玄が造った海津城に対峙する、謙信側の長沼城・城主として活躍した。
[出典]
http://blogs.yahoo.co.jp/untmzn/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=7
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