2015年1月9日金曜日
<米沢藩時代と先祖書>
この伊東家は伊豆伊東流とされるので、会津芦名家からその没落後上杉家に仕えた工藤祐経二男祐長流と推察される。伊東家に伝わる家系譜によれば下記の通り忠太祖父祐直より6代前の伊東彦右衛門なる人物から後代は明らかである。
しかし、先祖の名が武家と思われる(彦右衛門・その子祐雪)この伊東氏は、米沢藩の「先祖書」には出て来ないと言う。天 正17年(1589)芦名氏を滅ぼした伊達政宗が会津全土と伊東氏の安積郡を握るが、豊臣秀吉は奥州仕置により蒲生氏郷に支配させる。このため伊東氏の子 孫は、一旦伊達氏に従って米沢へ移り住むが後に伊達氏が仙台に移ったので祐長流伊東氏(安積伊東氏)は消えたとされる。従って、この歴史と米沢藩の先祖書 とは符合する。とすれば、西洋医学・蘭学・長崎との接点を持ったこの「彦右衛門~祐雪~祐久・・・・」と続くこの伊東氏は何処から来て米沢藩に仕えたので あろうか。
「父祖の系を伝えず」とされた当時の政治・時代背景と共に関心を生むところである。
伊東彦右衛門 延宝4年(1676)4月24日没
伊東庄助祐雪 正徳元年(1711)10月24日没
伊東救安祐久 享保20年(1735)1月23日没
伊東道安祐英 安永4年(1775)12月12日没
伊東道安祐将 寛政2年(1790)7月24日没
伊東昇迪祐徳 天保4年(1833)3月10日没
伊東昇迪祐直 明治21年(1888)5月21日没
伊東祐順 大正13年(1922)6月18日没
<参考史料>米沢市史、松野良寅著「東北の長崎--米沢医学の系譜」
<米沢藩以前先祖の家系考察>
伊東氏の系譜については、「大伊東主義」と言われる歴史観によって、伊豆・日向・奥州をはじめ全国的なつながりも見られ、鎌倉・南北朝・戦国各時代の戦 乱を通じて各地に一族が移動・進出して、明治維新まではその家系図もかなり保たれてしばしば交流もあったという。
この時期、琉球、中国、東南アジア、西洋諸国との海外貿易において圧倒的な勢力を発揮していた薩摩藩において、戦国末期没落以後日向を離れて島津藩主に 近侍して、長崎、佐賀、琉球、種子島など各地で異国船取締り・海外交易監視分野で活躍した日向流薩摩伊東氏がいた。この系統には、関ケ原の合戦以降、同族 の養子「彦方」に始まる伊東氏がおり本城出仕官名において「彦右衛門」など「彦」を通字として用い、その子孫にも「祐雪」「祐久」「祐順」「祐徳」などの 同姓同名が見られる。佐賀藩士伊東家の「伊東玄朴」もこの系統である。
(「中郷史」鮫島政章編・非売品、「伊東一族」日本家紋家系研究所 昭和58年、 種子島家譜/薩摩藩・締方横目巡察の条)
また、文政11年には、徳川将軍家斉の岳父・舅殿で当時政界一番の実力者であった薩摩藩主・島津重豪が長崎のオランダ商館を舞台に繰り広げた海外貿易に 関係して親交の深かったシーボルトのスパイ事件が発生。島津氏の幕府に対する権勢の伸張をを恐れた将軍家斉の処断であったと言われ、重豪は藩主を引退し、 幕府の弾圧によって多くの関係者が巻き込まれ追放や処罰を受けたという。また、米沢藩主の上杉鷹山は、日向伊東氏の旧領高鍋藩主の秋月種長氏の二男で上杉 家に養子になり藩主になった。ここにも伊東氏と日向・秋月氏との交流の歴史的接点があった。忠太父祐順は、慶応元年江戸で、28才で日向飫肥藩で藩公伊東 祐相に仕え、文久2年(1862)には63才で徳川将軍お抱えとなった大儒学者安井息軒の「三計塾」に入塾していた記録がある。(安藤英雄「雲井龍雄全 伝」)
もし、この米沢藩伊東氏が、伊達氏流経由の「安積祐長流伊東氏」で無かった場合、このような背景をもとに伊東氏系図から再度考察した時、伊東玄朴の佐賀 藩士伊東家の場合と同じようなケースが推察される。すなわち、日向祐時流の薩摩伊東氏が、蘭学・医学・はじめ当時の西洋ハイテク情報の先進基地・長崎・佐 賀・薩摩から縁起し、当時先進的人材の登用や異色の経営方針の実践によって、徳川将軍家から「諸侯中随一の名君」として褒賞され誉れ高い上杉鷹山の米沢藩 に登用された可能性も否定できない。
興味あるところであるが何分手元の限られた情報からは断定できないので今後有志による研究が期待される。
[出典]
http://www12.ocn.ne.jp/~n2003ito/chuhta.html
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