東京大学史料編纂所所蔵島津家文書の情報化
島津家文書の概要
山本
博文
:
東京大学史料編纂所
1.
島津家文書の概要
島津家文書は、旧薩摩藩主島津家重代相伝の文書で、東京大学史料編纂所
(
以下、本所と略
称
)
に残る
「物品管理通知書」によれば、昭和三十二年十二月二十日に本所が島津鑑康氏から
購入したものである
。
総点数は一万七千点余
、
その他島津家本と称する写本類約六千五百点、
及び薩摩藩の史官伊地知季安
・季通父子の編纂した
『薩藩旧記雑録』前編
・後編
・追録
・付録
計三百六十二冊がある
。
時期は平安時代から幕末維新期におよび
、
わが国武家文書の白眉とい
われる。
島津家文書のうち黒漆塗箱に収納された文書は
、
一九九七年に国の重要文化財に指定された。
内訳は、手鑑七帖、巻子二百三十八巻で、文書総数は五五七八通である
(
別表1参照
)
。内容は、
源頼朝下文を含む始祖島津忠久以来の歴代の中世文書と十五代貴久以来本宗家を継いだ伊作
島津氏の中
・近世文書を中心とする
。これらの文書の内、手鑑仕立てのものは、島津家にとっ
ての最重要文書である。
『歴代亀鑑』二帖は、源頼朝
・足利尊氏
・織田信長らの文書、
『国統新
亀鑑』一帖は、徳川家康書状および御内書、同秀忠
・家光の御内書の一部、
『宝鑑』二帖は、
関東下知状
・鎮
西下知状などの鎌倉幕府関係文書、足利尊氏
・同直義らの御教書
、
室町幕府奉
行人奉書などの鎌倉
・室町時代の重要文書、
『手鑑』二帖は、近衛前久ら近衛家よりの書状類
を収めている。
その他は
、
鎌倉期
・室町期の文書も含めて巻子仕立てにされている
。量的に大部分を占める
のは
、
戦国期以降の近世島津氏に関わる文書で
、
薩摩藩第二代藩主島津光久の文書までが巻子
仕立てにされ、
『御文書』と外題が付されている。以上の文書は、受け入れ当時、計十九箱の
黒漆塗の箱に収められていた。
それ以後の文書は白木箱
・大箱
・中箱
・小箱
・長持などに収めら
れ、原本の形がよく保存さ
れている
(
別表2参照
)
。また
『島津家世録正統系図
』
などの系図や国絵図なども伝存している。
さらに、江戸時代に島津家に入った町田
・樺山
・比志島
・二階堂など家臣諸家の中
・近世文書、
台明寺
・福昌寺
など寺院文書
なども含んでいる。
東京大学史料編纂所では、
『大日本古文書』のシリーズで
「家わけ第十六
島津家文書」と
して
『歴代亀鑑』
『国統新亀鑑』
『宝鑑』などの手鑑、及び
『御文書』の一部を刊行している。
島津家本は、明治二十一年七月、宮内大臣より編纂を命じられた
『島津家国事鞅掌史料』及
びこれを編纂するために蒐集
・作成した写本
・刊本類を中心に、その後の島津家家史編纂所で
蒐集
・作成された写本等も納めている
。
本所では
、伝来の違いから島津家文書とは別置してい
る。
2
島津家文書伝存の事情
島津家文書は
、
藩政時代には非常時持ち出し可能なように鹿児島城本丸御番所に置かれてい
たが
、
明治四年廃藩置県後
、
鹿児島城三の丸内御厩の裏手
「岩崎六ヶ所御蔵
」
に収納された
(
五
味克夫
「薩藩史料伝存の事情と事例」
『鹿大史学』第二十七号
)
。藩政史料については
、明治五
年夏、大山綱良が鹿児島県令の時、
「旧習が脱けぬと云う所から、藩庁
の家老座
・大監察局
・
其他公用帳簿類、土蔵に詰めて有りましたのも
、
悉く綱良が指揮で焼き棄て」られた
。また江
戸藩邸の帳簿類も
、
慶応三年十二月二十五日
、
庄内藩ら幕府側諸藩が三田の薩摩藩邸を焼き打
ちした時に全焼している
(
「市木四郎君講演」
『史談会速記録』第三輯
)
。
明治十年西南戦争の際
、
西郷隆盛ら私学校党が東上して留守の鹿児島に征討参軍川村純義率
いる政府軍の軍艦十二艘が入港し、兵員を上陸させ鹿児島城下各地に哨兵線を張った
(
四月二
十七日
)
。肥後にあった西郷軍は、急遽兵を分かちて鹿児島に馳せ戻らせ、要害の地に陣を張
った
。
御厩地域は政府軍の占領下にあり
、
島津家歴代の文書を保管してあった岩崎六ヶ所御蔵
は、御厩の裏手であったから、まさに戦地の中央に位置した。
島津家文書の焼失を恐れた島津家家令東郷重持は
、
五月三日
、
田ノ浦に置かれた政府軍本営
に行き、川村純義に面接して
、
島津家文書転送の許可を願った
。元薩摩藩士の川村はこれを了
承したが
、
翌日未明には西郷軍への攻撃を敢行する予定となっており
、
御厩政府軍陣の東門の
番兵は門を開くことを拒絶した
。
東郷は
、
東門より北門へ移ったが
、
ここでも同様に拒絶され、
「退カスンバ軍法ニ処シテ汝ヲ斬ラン
」と恫喝される。東郷は、
「斬ルベケレバ斬ラレヨ、余
ハ決シテ身命ヲ惜シム者ニアラス
、
島津家ノ文書ヲ惜シム者ナリ
、
故ニ主命ヲ奉シ之ヲ全フセ
ス
、
空シク帰リテ何ノ面目アリテ再ヒ復命センヤ
、
余ハ島津家ノ文書ト共ニ死セハ遺憾ナシ
(
後
略
)
」と死を賭けてその場に留まり
、
ついに番兵も隊長に取り次ぎ
、塁内に入ることを許され、
文書の搬出を認められた。以下、その時の記録
(
「磯島津家日記」明治十年五月三日条
『鹿児
島県史料 西南戦争』第三巻
)
である。
東郷大ニ悦ヒ謝シテ乃六ヶ所御蔵ヲ開扉シ、御文書箱惣数七十九個ヲ出ス、官兵剣ヲ抜
テ箱ヲ破リ中ヲ改ム、東郷モ故サラニ進出シテ一、二個ヲ打破リテ正物ナルヲ示ス、検
査ノ官兵最可シト曰テ引渡ス、時ニ庁下到処既に兵線ヲ張リ道梗テ通セス御文書ヲ御邸
ニ致スコト能ハス、故ニ東郷ヲ始メ同列凡ソ五拾名計リ各自担荷シテ竊ニ市下上行屋海
岸桐野孫太郎カ宅ニ護送シ夫ヨリ一船ヲ傭テ積載シ、之ヲ桜島ヘ回漕ス、高島及ヒ其他
ノ人員警衛渡海ス、東郷ハ直ニ帰邸シテ復命ス、是御家無二至重ノ御文書及御系譜無欠
完全タルコトヲ得ル所以ノ事実ニシテ亦タ県下兵乱中ノ一大苦難事ナリ、
この時存在した
「
御文書箱惣数
」は七十九個
、
東郷以下五十名ばかりが各自担いで上行屋海
岸の桐野孫太郎宅に搬出し、船を雇って桜島へ回漕した。桜島には、同日、旧主島津久光
・忠
義父子が避難していた
。東郷は
、
この七十九個を搬出したことをもって
「御家無二至重ノ御文
書及御系譜無欠完全タルコトヲ得ル
」
と誇っているから
、
明治期に伝存していた島津家文書の
中枢部分はここで運び出されたと考えてよい
。
その後
、
明治二十三年頃東京袖ヶ崎邸に移送さ
れ、一部は鹿児島の磯邸に残された。
本所に受け入れた時の文書箱総数は九十一
、
この時搬出された島津家文書がほぼ現在本所に
ある島津家文書にあたると思われる
。
十二箱という箱数のズレについては不明であるが
、
少な
くとも
「御家無二至重ノ御文書及御系譜
」
がほぼ完璧に残され
、本所に入っていると思われる。
なお、箱そのものについてはほぼ保存されているが
、
大破しているものもあり
、
すでに箱が存
在しない番号だけのものもある。
[出典]
http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-1/mokuji/3401.pdf
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