2015年1月14日水曜日

戊辰白河口戦争記 第九章 五月朔日の大激戦


第九章 五月朔日の大激戦

慶応 4年(1868)
・ 5月 1日
五月朔日の白河口の激戦は、我が国戦史上での激戦の一つであろう
東軍は二十五日の勝報得て白河城に兵数を増した。仙台藩の大番頭坂本代炊・佐藤宮内・瀬上主膳到り、一柳四郎左衛門もまた到る。棚倉藩平田弾右衛門も兵を率いて之に会したので東軍の勢は頓(とみ)に振った
復古記によれば

 閏四月十八日、奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵・参謀伊地知正治に移牒して白河城の急を報じ援を乞う。正治乃ち薩・長・大垣・忍四藩の兵を率いて来援す
 又二十五日の記に、参謀伊地知正治薩・長・大垣・忍四藩の兵を督して白河城に迫る。賊嶮(けん)に拠って抗拒す、官軍克(か)たず、芦野に退守す
 又二十七日の記に、参謀伊地知正治薩・長・大垣・忍四藩の兵を督して芦野に次し、将に薩・長・大垣三藩の兵の宇都宮に在るものを合し大挙して白河城を攻めんとす、因って土佐・彦根二藩の今市駅及び日光山にある者を分ちて宇都宮を守らしむ

西軍の二十五日の敗戦が江戸に達して因州・備前・大村・柳川・佐土原の兵が来援することとなり、芦野の西軍は宇都宮よりの増援を得て其の数、七百余人、砲七門を以て白河に迫ることとなる。閏四月二十九日、西軍来襲の報あり、之に対して東軍は遠山伊右衛門・鈴木作左衛門・小池周吾・小森一貫斎の会将・瀬上主膳の仙将・棚倉の平田弾右衛門等兵を以て桜町方面を守った
白河口方面には井口源吾・杉田兵庫・新撰組山口次郎等が向った
原方々面は日向茂太郎長坂山の麓に塁を築き、井深右近これに加わって其の兵数合せて二千余人、砲八門であった(日向茂太郎五月朔日米村に戦死)。いよいよ五月朔日午前四時、西軍三道より白河城に迫る
其の一は薩・長・大垣の兵、砲二門を以て黒川村より原方街道に迫った
(原方方面のこの西軍の案内役を勧めたのは上黒川村の問屋内山忠之右衛門であった。五月十八日に至って会津藩は忠之右衛門宅に押入り之を捕まえて会津に連れ行き入牢せしめ、八月二十二日に斬首せりと伝う。忠之右衛門時に年四十二歳。墓所は西郷村大字小田倉字備前にある。後、官より祭祀料一百五十両下賜)
其の二は本道を進んだ薩・長・大垣・忍四藩の兵である
其の三は白坂村より大平八郎を案内として南湖の南に出で桜町、棚倉街道に出た
斯くして東西両軍の大激戦となったものである
(五月朔日の東西両軍の砲数に就て大山元帥伝に、東軍は会二門、仙六門、棚倉二門、西軍は本道四門、黒川方面三門、桜町一門とある)
維新史料に云

 閏四月二十八日、白河城を攻むるの議ありしかど、果さず。五月朔日午前四時を進発の期とし、兵を三道に分ち、薩の二番隊・四番隊は、白河の南湖をめぐり棚倉街道に進み、三番隊、大垣一小隊は本道より進み、五番隊並に大垣・長州・各一小隊は白坂駅より左の方黒川村に進み、それより原方へ出づ。此の時本道已に戦を始む。是れ即ち最初の約束にして、敵をして本街道に力を用いしめ、左右の翼各々敵の背後に至らば、火を揚げて以て一時に攻撃を始むるものとし、其の距離棚倉街道第一なるを以て同所に火を揚ぐるを期とす。已にして烟(けむり)炎天を蔽(おお)う、仍って進んで大に奮激す。敵兵三面に敵を受け、防戦二時間余、猶砲台によりて守禦す、官軍進んで砲台に迫る。賊遂に潰走す。先是我が三番隊は迂回して長坂山の賊を追撃し、四番隊と合し、町口の台場を横撃す。於是賊兵大に潰乱す。仍て又一小隊を二分し、本街道の後山に登り背後を断ち四方一時に攻撃す。賊兵狼狽し進退途(みち)を失す、此の日首級六百八十二なり。四斤半の旋條砲を鹵獲(ろかく)す。これ嘗て米国の贈る所、当時我が国僅に二門を有す。これその一なり

元帥公爵大山巌伝には

 五月一日
 敵軍は其兵力優勢にして、仙台・会津・棚倉・旧幕兵等約三千に達するに拘らず、白河南側に陣地を構築して官軍を待てり。第一次戦闘後官軍は増加隊を得て、其数七百余に達し、三方面より白河を包囲攻撃せんとす
 右翼隊は棚倉街道方面を迂回し、敵の左翼及び其側面に出づ、その兵力薩二・四番隊・臼砲一
 中央隊は正面に於て陽攻し敵を牽制す、兵力薩砲二門・臼砲打手・兵具隊。大垣二隊、長原田小隊砲一門、忍藩砲一門
 左翼は黒川方面より原街道に出で、敵の右翼を包囲攻撃す。兵力薩五番隊・二番隊・砲隊二門、長一中隊と一小隊。大垣二隊・火箭(かせん)砲一門。忍一小隊
 払暁予定の如く諸隊前進し、午前六時頃中央隊先ず砲火を開きしに、敵全く正面に牽制せられ、しばしば出撃せんとす。此間両翼隊の包囲全く成り三方より敵を攻撃し午後二時に至り是を潰滅す
 諸隊は白河を占領し、隊伍を整頓し其地に宿営す。官軍の死傷約七〇。敵は死屍六百余を残し、本街道並に諸間道より散乱退去し、会兵は遠く勢至堂付近に、仙兵は二本松に退却す。爾後官軍は同地に滞在して前進せず

これが西軍の記事である
南湖公園鏡山にある阿部藩の碑に

 五月朔日、官軍囲攻、城兵禦之、奮激戦闘自晨至午、雷轟電撃殺傷相当、而衆寡不敵守兵弾尽刀折、城遂陥、乃退守金山

白河町九番町口にある会藩の碑に

 白河城当奥羽咽喉、為主客必争之地、我兵先拠之。閏四月二十五日、薩摩・長門・忍・大垣之兵来攻、相戦半日、我兵大勝、四藩の兵退保芦野。五月朔日、復自白坂・原方・畑諸道及山林間道来攻、欲以雪前敗其鋒甚鋭。我将西郷頼母・横山主税各率兵数百、与仙台・棚倉兵共当之。自卯至午、奮戦数十百合、火飛電激、山崩地裂、而我兵弾尽刀折、三百余人死之。仙台・棚倉兵亦多死傷、城遂陥

白河戦争報告記に

(この記は白河本町庄屋川瀬才一が明治三年八月二十七日に白河県へ戊辰の戦況を報告した記録である。川瀬庄屋は弾丸雨注の中を侵して見聞したと言われているから実記と見るべきであろう)
 五月朔日卯の上刻、官軍勢五百人、九番町木戸外まで宵の間に潜み、彼所に潜みかくれ、夜の明を待ちて打出てたる砲声の烈しき人目を驚かす。此度は東京口・米村口・原方口・棚倉口を官兵方は四方より討入候故、会藩の手配案に相違し大に周章し、棚倉口の固、第一に破れ候故、挟撃ならんと心付候哉、桜町・向寺町に放火して引退く有様東西に廃れ、南北に走る其の混乱蜘蛛の子を散らすが如し。東京口・米村口・原方口一度に破られ、人数引上げの時登町に放火す。如此四方共に破れ惣崩となり候故、其の日の死亡六百八十三人
此の日の戦に会藩の副総督横山主税は稲荷山に奮戦中弾丸に中って倒れた。戦猛烈にして遺骸を収めて退くに遑(いとま)なく、従者の板倉和泉僅に首を馘(かく)して退いたという

(会津史談会誌に柴大将の談として「白河で戦死された、家老横山主税殿の葬式行列は殿様の行列も見ない奴振りなどが出て、立派なものであった」と、記してある)
軍事奉行の海老名衛門などは龍興寺の後山で血戦し、為すべからざるを知って自ら腹を屠って死んだ
寄合組中隊頭一柳四郎左衛門も死し、混戦状態となるや、総督西郷頼母馬を馳せて叱咤衆を激励するも潰乱制すべからず。頼母決死進んで敵を衝かんとす。朱雀一番士中隊小隊頭飯沼時衝轡(くつわ)を把って諌(いさ)めて曰く、総督の死する時にあらず、退いて後図を計れと、頼母聴かず、時衝乃ち馬首を北にして鞭って向寺の方面に走らす、頼母遂に勢至堂に退く
棚倉藩の将阿部内膳は桜町口を守った所謂十六人組の勇将であったが、奮戦負傷し金勝寺方面に避難し遂に倒れた(金勝寺に避難する時、白河中町の商人五十八歳の小崎直助が力を添えて阿武隈河を越したという美談が今に伝わっている。小崎直助は白河町の旧家であり、阿部様出入の商人である関係上此挙に出でたものであろう)
「仙台からすに十六ささげなけりゃ官軍高枕」
という里謡(りよう)が当時歌われた
仙台からすとは仙台藩の細谷十太夫の率いた一隊で、須賀川地方の博徒百余人を募り衝撃隊と称し、神出鬼没、夜襲が巧で屡々(しばしば)西軍を苦しめたもので、黒い布で覆面し黒装束をして戦に参加したもので烏組の名がある。小田川村の宝積寺などが本営になっていたものだと地方の人は話している。西郷村の鶴生にも烏組が居って出没し、西軍を苦しめたとの話が残っている
十太夫常に部下に謂う。「敵は銃隊であり、遠きに利あり、一二人斃(たお)るるも意とする勿れ、先ず敵を衝け」と。西軍烏組に苦しめらる、これは五月朔日のみでなく、その後にも西軍を辟易せしめたものであった。十六ささげとは、白河地方で栽培する大角豆(ささげ)の一種である。棚倉藩十六人組を指す。棚倉十六人組は洋式の軍装によらず、我が国古来の戎衣(じゅうい)兵器を用い、甲冑に身を固め槍・弓矢での装束であったという
(棚倉藩決死十六人組の氏名左の如し)
     阿部内膳
     有田大助
     大輪準之助
     北部史
     志村四郎
     川上直記
     梅原彌五郎
     須子国太郎
     宮崎伊助
     鶴見龍蔵
     宮田熊太郎
     湯川啓次郎
     岡部鏡蔵
     村社勘蔵
     野村絢
     山岡金次郎
(有田大助は幕末の風雲に際し緩急に備うるため、文久二年白河田町の刀鍛治固山宗俊に託して刃渡ニ尺六寸五分の名刀を用意した。この名刀は現に西郷村の鈴木市太郎氏が所有している。此の種の用意は当時の武士には多かったことであったろう)
五月朔日天未だ明けぬに西軍鼓譟(こそう)して路を分って迫り来る。仙台藩の参謀坂本大炒は天神山に上って之を望む。時に西軍山に拠り、水に沿うて要路を□していた。大炒先頭に立って命を下して突進し、敵を横合から衝いて西軍を辟易せしめたが、大炒が紫旗を林端に立つと飛弾雨注した。従者避くることを勧めたが肯(がえ)んじない。決死の士十五・六人と阿武隈河を徒渉(としょう)して進んだが銃丸に頭を貫かれその場に斃れた。僕の庄太夫これを背負うて逃れしも途に絶命し、今村鷲之助代って屍を担うで陣中に至ったので遺骨を漸く仙台に送るを得たりという。これが坂本参謀の白河口奮戦談である

先に世良参謀を福島に暗殺するの計をなした仙台藩姉歯武之進の勇戦談もある。武之進は仙台藩五番大隊の軍監として瀬上主膳に属し白河に出陣し、奮戦するも仙軍利あらず退却の時、独頑として動かず、敗残の兵を指揮し自ら大砲を放ち、抜刀躍進したが弾丸頻に至り流弾に中って斃れた。これも五月朔日のことである

※ 今に地方に伝わる五月朔日の戦に就ての翁媼(おうおう)の談を記して見る

白河鍛冶町小黒万吉翁の談
 西軍で強いのは薩長、東軍で強いのは会津であった。戊辰の戦は会兵と薩長兵の戦であると言ってもよい。西軍は戦争は上手であったようだ。兵器も西軍の方が新兵器を多く使った。又薩藩は一人でも二人でも銃の声を聞くと吾先に進んだ
 五月朔日の戦の日、八龍神に水車屋を業としていた槌(?)屋桝吉の妻が分娩後五日なので、八竜神の土橋下に避難していた。通り掛った西軍の士、赤児に勝軍太郎と名つけて、曰く官軍は町人や婦人には手は掛けぬ安心せよと。今に伝えて美談としている

白河年貢町石倉サダ媼の談
 媼は当時十六歳
 五月朔日、官軍は九番町、桜町方面から攻めて来た。会津様は敗れて血まみれになって町に逃げ込む。町の人達は老を扶け幼を負うて皆横町から向寺道を逃げたものだ。そのさまは大川の水が流れるようであった。うしろを振り向く暇などあったものではない。躓くものなら倒れる。その狼狽さは何というてよいか譬(たとえ)ようがない。今でも思い出すとゾットする。私達は向寺から根田・本沼を通って船田村の芳賀の親戚に身を託した

白河二番町の後藤みよ媼の談
 私が二十四の年だった。閏四月二十日に二本松様が白河城を守っていた所に、会津様が道場小路から攻入った。小峯寺の住職が鐘を撞いたので会津様に狙いうちされた。二本松様は根田の方に退いて、会津様が白河城に入った
 五月朔日には子供二人を連れて内松村の叔母の所に避難した。五月朔日の戦争の跡を見ようとして白河に来た時、九番町の所で大男の屍が路傍に横ばっているのを見たが惨酷なものであった。内松を引あげて白河に帰って来たのは七月末頃と覚えている。五月朔日の日はジクジクと雨の降る日であった

白河町熊本籐三郎翁の談
 私が二十一歳の年が戦争の年だ。白河城は明城で、仙台様は町固め、平様は市中廻り、三春様は木戸見張りの役であった
 四月二十日に会津様が道場町から入って城を取った
 四月二十五日、西軍と東軍との最初の戦で西軍が敗れた。四月二十七日には戦はない。五月朔日には大戦争があった。私は四月二十九日に棚倉に買物に行き留守をなし、その帰りは五月朔日、金屋町法雲寺の住職と上野出島で出会った。住職曰く、「大戦争である、白河に帰ってはならぬ」と。そこで私は桜岡の英助の家に行き、翌五月二日家に帰った。二日には勝負が決して至って穏であった
 翁の談によって四月二十七日には戦争がなかったことがはっきりする。二十七日に戦があったようにも伝えられるのは誤である

西白河郡西郷村大字米の小針利七翁の談
 戦争の年は十五歳であったが。よく戦争は判っている
 五月朔日、米村に戦があった。当時米村は四十戸であった。皆会津様の宿をした。四百人からの屯所であった。私の家には十人も泊っていた。米村は会津贔屓であって何とかして会津様を勝たせたいと祈ったものだ。官軍は下新田の観音様付近に大砲部二門を据えてドーン、ドーンとうった。会津様は立石に陣を取った
 いよいよ米村の会津様が出発する。日向大勝(日向大勝は米村の兼子大庄屋に居られた)は陣羽織を着て、中山に官軍を激撃せんと指揮したが、官軍に狙撃されて死し、ために会兵の士気衰え、米の南の田や堀を越えて米部落に引揚げた
 この戦に会兵の一人が米の南で弾丸で腹を貫かれて斃れた。天保銭十三枚所持していた
 仙台様は堀川の西南、古天神を守ったが破られて金勝寺に退いた。立石稲荷の前では会兵が十三人も討死した
 この日に生捕になった東軍は、翌日に白河の新蔵の土橋や円明寺の土橋の所で斬られ、胴も頭も谷津田川に捨てられた。今円明寺の橋の袖にある南無阿弥陀仏の碑は、この供養のために後人の建てたものである

白河七番町青木やす媼の談
 私は十三歳
 戦争となると馬に乗せられて、小田川村の芳賀須知の親の里に避難した。毎日親が迎に来るのを待っていた。十五日も立って白河に戻ると、また戦争となり此度は黒川の親戚に行った。芳賀須知では他所からも避難者が集って各戸人が一ぱいであった。戦争というものは本当にオッカネァものであった。白河に帰って見ると家は官軍様に占領されていて、私達は板小屋に寝起していた。官軍様は服を着ていた。七番町の錠屋では炊き出しをした

白河町七番町の柳沼巳之吉翁の談
 私は十二歳
 親は家に居たが、婦人や子供は在の方へ移った。武士は農夫には構わなかった
 大平八郎が案内しなければ白河は破れなかった、大平の案内で桜町が破れそれで九番町口も破れた。会津様が大平八郎を恨むのもわけがあることである
白河町桜町渡部秦次郎の談
 五月朔日の戦に東軍の士で十六七歳の者六人生捕となって桜町の街上に至ると、首を取るから首を差しのべよ。となった。六人の者何れも覚悟して西に向って手を合わせ立派に斬首されたという。その遺骸は町の人が寺小路の榎(えのき)の下に葬った

(著者が三神村酒井寅三郎氏に聞くに、海軍大将日高荘之丞閣下は白河口では白河町菖蒲沢で奮闘されたという。閣下は明治の晩年に数回に亘って矢吹の宮内省御?場に来り酒井氏に泊まられたのである)
五月朔日の東西両軍の兵数に就て、復古記所載の五月七日白河口諸軍への達書に

 白河城乗取、大に朝威を賊地に振い敵鋒を摧(くじ)き、策遠算なく、頗る愉快の勇戦を遂げ、実に欣然踊躍(きんぜんようやく)の至りに不堪、天威之所為と雖、偏(ひとえ)に将士捐躬(えんきゅう)力戦功に非らずんば如何ぞ数倍の賊兵をして一時に敗滅せしめんや。云々

又復古記白河口戦記に左の文がある

 是より先、会津兵・旧幕府捕竄(ほざん)の徒等、白河城を陥る。既にして東山道総督府参謀伊地知正治薩・長・大垣・忍四藩の兵を督して之を克復す(五月朔日)賊退いて仙台・会津・棚倉等諸路に分據(ぶんきょ)し以て官軍の衝路を□す。官軍亦兵を分かちて之に備え、相峙(そうじ)して戦わざること殆どニ旬、此時に当り、仙台・二本松・棚倉・中村・三春・福島・守山等の兵前後賊軍に来り加わり、其の兵数凡そ四千五百人許に至る。而して官軍僅かに六百五十余人に過ぎず、衆寡敵せず、困りて援を大総督に乞う。是に至り、大総督府東山道総督を更めて白河口総督となし、尋て応援兵を発遣す(会津藩の白河出兵数は約千五百人か)

五月十九日岩倉具定が東山道総督を免ぜられて奥羽征討白川口総督となり、同時に東山道副総督岩倉具経も奥羽征討白川口副総督となった
五月朔日の激戦地帯は、九番町口・稲荷山を第一とし、白井掛・薬師山・龍興寺の裏山・蛇石・薩沢等白河市街の南方丘陵地で、市街戦はなかったらしい(桜町方面に小戦があったという。今龍蔵寺境内にある仏像に弾痕あるを見る。この仏像は元西蓮寺のものである)
勝ち戦であった西軍の死骸は白河本町の長寿院に運ばれて回向(えこう)をした。長寿院の住職は豪胆で寺を守っていたので、この寺に運ばれたものだと伝えられている。東軍は惜むべし、その死骸はそのままに遺棄せられて田圃に山中にあるを里人達に葬られて香華(こうげ)を手向(たむけ)られた。同情は勿論東軍に注がれた。後に至りそれぞれ寺小路や花見坂や八竜神に合葬されて里人に供養塔をも建てられた
九番町辺の民家には一軒に五人六人、白井文蔵氏の宅などには九人、その隣には十三人も自尽されてあったと言う。これは東軍の壮烈を物語るものである

※ 大平八郎の間道案内
鎮台日誌第三に大平八郎の感状が載せられている。文に云

     大平八郎
 白川復城之節、棚倉海道間道筋案内、且白坂宿人場継立無滞致周旋(しゅうせん)、前後骨折奇特之至ニ候。依而手錠一挺下賜事
   六月

官版の鎮台日誌に一農民が所載せられたことは栄誉とする所であった。彼も戦後、時々鎮台日誌第三を見よと豪語したという
然し会藩から見れば大平の案内がなかったらと敗戦とはならぬと怨んだ
明治三年八月十一日会津藩士田辺軍次のために白坂村鶴屋旅館に大平は殺さるるに至った。大平を殺した田辺はその場で切腹した。田辺の墓は白坂村観音寺にあったが、後白河九番町の会津藩碑の側に移された。観音寺にあった田辺の墓は、高一尺八寸、七寸角、操刃容儀居士とある碑で、大平八郎の子息に当る者が供養のために建てたもので、墓と共に松並の会津藩の側に移された

閏四月二十九日の夜、大平八郎は薩藩四番隊長河村奥十郎(純義)に面接し、白河城討入の案内を託された。そこで白坂から五器洗を経、夏梨・十文字に出で、搦山の裏手に当る金山街道の蟇(ひき)目橋にかかり、搦山の石切山で白河討入の合図の烽火をあげ、桜町方面から入って東軍を破った。地理不案内の西軍にとってはこの案内が大成功の基をなした。その功によって大平は二人扶持となり、次白坂町人馬継立取締役を仰付かり非常な勢力を持つに至った
白河町本町遲沢信三郎所蔵記録に
     大平八郎
     白坂順之助
     遲沢新左衛門
当分白坂宿取締人馬次立云々
   辰九月
    白河口
     会計官
この記録によれば大平八郎のみが取締役ではなかったものであろう
この方面の西軍の道筋は夜の中に石阿弥陀を通って土武塚、八竜神に出でたとも伝えられていて、幾筋にも通ったものであろう。西郷村の和知菊之助翁の談によると石阿弥陀から池下に出たという

白河金屋町の斉藤千代吉翁の談
 田辺軍次が白河から白坂さして行く、皮籠原の一里壇の所に指しかかった時、白坂から来た白河天神町の古物商大木某に出会った。軍次は何とかして大平を誘い出す工夫はないかと苦心していた時である。その日は雨が少し降っていた日なので、その商人に近づいて
  白坂方面の天気模様を尋ねた
 大木は田辺のボロ袴を付け胡座を着ている醜き姿であるのを侮り、会藩士とは心得ずに
  何だかわからぬ
 と答えた
 武士に向って無礼をいうな、容赦はならぬと。なる
 大木は恐れて白坂に引きかえし大平を頼んで一命を請うことになって、当時会津藩の常宿であった鶴屋に詫を入れる
この話は色々に伝わっている。千代吉翁は十二歳、畳職で父と共に畳替をした年だという

第八章 白河口の戦争

閏四月二十三日奥羽同盟成り、福島に軍次局を置いて仙将坂英力これを督し愈々奥羽軍は西軍と戦うことに決し、会藩もまたこれに加盟した
白河城が会藩の奪う所となったと聞えた西軍は、閏四月二十一日大田原を発し監崎・油井・関谷の東軍を撃破して、二十四日芦野に宿した。東軍の間諜これを知り、鈴木作右衛門・木村熊之進・小池周吾・野田進等の会将等戦略を定め、白坂口へは新撰組隊頭山口次郎を先手とし遊撃隊遠山伊右衛門これに次ぎ、棚倉口へは純義隊長小池周吾、原方街道へは青龍隊長鈴木作右衛門これに当って西軍の来るを待った
二十五日暁天、西軍来って白坂口を攻めたので山口次郎・遠山伊右衛門等隊兵を指揮して戦った
太平口の会藩軍将日向茂太郎は進んで米村に在り、砲声を聞き急に進んで白坂口の横合から西軍に当たった。砲兵隊長樋口久吾は白河九番町より進んで戦った。棚倉口より小池周吾、原方より鈴木作右衛門進撃、義集隊今泉伝之助・井口源吾等歩兵を率いて戦った。西軍は皮籠原に散開して猛烈に東軍を衝いたが遂に三面より包囲され、西軍の参謀伊地知正治(薩藩)其の不利なるを知り、兵を収めて芦野に退いた
東軍勝に乗じて追うて境明神に至る。この日の戦、払暁より日中に亘り激戦数刻殆ど間断なかった
今に有名に語伝えられているのは、この日の戦に薩長大垣十三人の首級を大手門に梟(きょう)したことである。会藩はこの日士気大に振った
本道からの西軍は、小丸山・老久保・与惣小屋方面より来る。十三人は本隊より遥先に出で、白坂街道脇の用水堀に沿へ九番町口東軍の本塁に迫って、石橋下に潜み、稲荷山なる東軍を狙撃し多くの死傷者を出した。遂に東軍に捕らえられて斬首された
白河中町棚瀬利助翁曰く

 十三人の梟首は、大手門で、四寸割の板に五寸釘を打ちつけてそれに梟した。町々からそれ西軍の首を取ったといって、見に行くものが多く、大手門は黒山を築いた。戦慄しながらよく見た。首級に各藩の木札が付けてあったように記憶している

維新戦役実歴談という書がある。これは長藩士の戊辰戦争の実歴談を編したもので、大正六年の出版である。同書中男爵梨羽時起の談に

 二十五日には僅かの人数であった。薩州の四番隊と、吾輩の二番中隊の小隊と、原田良八の小隊それだけで行って、其の他の兵は大田原に残っていたように覚えている。白河の凡そ十町程手前に出ると、何時でも魁をするものが十人ばかりで先手の方でやっている小銃の音が聞える。敵は木や畳で白河の入口に台場を築いて小銃の筒を揃えて出ている。それで中々進まれなかった。その入口というのは、双方が水田で細い畷手(なわて)道で並木がある。敵は向うの低い山に畳台場を立派に拵(こしら)えて畷手道へドンドン打出すから進めなかった。その中に左の方の後の方へ廻られて打出された。どうしても行かれぬので手前の山の所に戻った。所で先に行った十四五人のものはズット台場の下まで行って戦った。その中の半分は殺された
 この時殺されたのは鹿児島の者と長州の者と半々と覚えている。河村さんは右裏の方へ四番隊の中幾人かを連れて、黒羽藩を案内として行ったが道が分からぬので戻って来た。此の日は怪我が多かった。戦の終わったのは昼頃であった。芦野まで戻った。河村さんも一緒であった
 全体二十五日には、伊地知さんは今日は僅かの人数であるから無理だというたが、河村さんがヤレヤレと言い出してやったものだ
 それから五月朔日に白河城を取ったのは人数を増して行ったからだ云々 


[出典]
http://mo6380392.exblog.jp/i76/2/

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