天正十年(1582)三月、武田氏を滅亡した織田軍が北信に乱した。この時、住民達は一揆して反抗したが、中に高山村山田の住民等も加わっていたが、須坂のことは不明である。織田信長は、この六月本能寺に仆れ、織田軍は反軍、あとを追って上杉軍が進出、川中島四群を攻め、海津に城代を置いて統治したが、越後へ逃れた郷土の武士は帰ってこなかった。
ただ須田満親は海津城代に帰り咲きましたが、慶長三年(1598)三月、豊臣秀吉の大移封により、上杉景勝の配子として東北柳川に移っていった。武士といわれた者達を引き連れ、菩提寺まで遷した。郷土の上層の人達は立去った。この頃の消息を伝える『永禄定納員数目録』がある。栗岩英治先生が苦心して筆録されたもので当時の上杉家臣国の石高表である。須田満親海津城代頃の永禄三年(1594)の文書である。大要を次に、
「・越後侍中定納一紙 ニニ七七石 山浦源吾 二二六五石 高梨薩摩守 一九〇二石 須田左ヱ門大夫 四三四石 楡井又三郎 三五石 大狭織部佐 五〇三石 大狭狭八郎 一九六石 小田切主水正 外略
・五十騎衆定一紙 郷士在名多いが略す。 六〇石 八丁伝助
・信州侍中定一紙 一二〇八六石 須田相模守、貝津留守役衆 一二〇〇石 井上左ヱ門大夫、井上、貝津留守居トモニ 三二一〇石 尾崎三郎左ヱ門支配、四〇人仁礼衆分
・御手明衆御弓衆、大狭織部組(織部前出) 十石前後の禄高で七四人、氏名のみ記す、 卯原2、大狭5、田中6、羽生田4、玉井2、成田3、篠塚・丸山・青木・小島・桜井2・小河原・楡井その他在地の姓が多い。
・貝津須田相模守同心(十一名略) 二百石 広田太夫(天神鎮免明神料)
・福島須田相模守抱 一二二八石(73人分)須田左ヱ門尉、内七三名、鎮守天神領 外略 同心四八九石 川田玄蕃 同心七八石 須坂主税・小島豊後・坂田采女助 同心二二名 興国寺料(外一七名略)
[出典]
http://blog.livedoor.jp/kutanda135/archives/51881406.html
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