2016年3月29日火曜日

葦名盛氏代押領之地並旗下大名之記


會津鑑一
巻之三 葦名盛氏代押領之地並旗下大名之記
編集者 会津資料体系刊行会
発行者 阿部 隆一
発行所 歴史春秋社
昭和56年6月1日初版発行

「會津鑑」は会津藩番頭井深監物組に属する組士高嶺覚大夫慶忠知行百五十石によって編纂され、寛政元年(1789)に、藩庁へ提出された書物です。
内容は「葦名盛氏代分限帳」または「葦名家侍帳・士録」ともいうものです。同じ会津内でも、猪苗代や南山、金山、伊南の同盟者は直属として記録されていますが、その士は記録されていません。
以下にそれぞれの具体的人名を記しますが、旧字に加えて難字も多く、誤記があるかもしれませんので、より興味のある方は、最後に記しておきました原典を参考になさってください。
この内容に関しては、中世当事にこのような厳密かつ詳細な職制が存在したのか、という疑問が考えられますが、ある程度の形はなくてはならず、このままではなかったにせよ、近からず遠からずのものはあったと考えて良いと思います。
また、具体的人名に関しても、根拠が不明なのが気になりますが、四家合考等にも登場し、御子孫から確認のとれる名も挙げられており、当時、編集者がその責任において、それ相応の根拠に基づいて記したものと信じます。
なを、文中()は私の補足です。こちらもただの引き写しではなく、難字解読に苦労いたしましたので私の著作であると主張させていただきますので、引用はご一報ください。


目次
葦名盛氏至押領之郡地
葦名修理大夫盛氏旗下之大名
佐原氏葦名袮五黨者
葦名四天老中四人並小頭四人附老中同心八十人
若年寄四人並小頭四人附同心四十人
用人五人並取次十人
側用人五人並取次五人
奉行四人並用人役祐筆諸訳兼勤者八人
郡代十七人並小頭十七人附同心百七十人伹同心十人宛
下郡代十七人伹下郡共勘定頭共云
侍大将十二人同組士外様三百六十人
旗頭八人並與力野士八十人小頭八人其組足軽八十人
弓大将四人並與力士四十人小頭四人足軽四十人
鑓大将四人並與力士四人小頭四人足軽四十人
鉄炮大将三十人並小頭三十人附平足軽六百人伹一組二十人宛
使番十二人
奏者番十二人
大目付四人
寺社奉行四人並小頭4人附同心四十人但一組十人宛
寺社小役十二人
町奉行四人並小頭四人附同心四十人伹一組十人宛
足軽大将三十人並小頭六十人伹一組二人宛足軽九百人伹一組三十人宛
大番組八人並組士七十二人
大書院番十二人
小書院番十二人
留守居番十二人
近習三十二人
小姓頭二人
同奥番九人
小姓組三十六人
奥小姓八人
供番頭三人
戸番六人
平供番十六人
小番頭三人並組士三十人
軍者二人
軍用兵噐役奉行八人
横目十六人
普請奉行四人並小奉行八人杖突四人小頭四人足軽四十人
小普請方四人
藏方並扶持方渡役人八人
吟味頭四人
大納戸頭四人
小納戸頭四人
大扇ノ間定番頭二人並次番二人
同所詰用方八人
本丸番頭四人
二ノ丸番頭二人
三ノ丸番頭二人
火消八人
徒歩頭三人
徒歩士二十人
徒歩目付二十人
腰物番四人
祐筆八人
書物役六人
盗賊改上役二人並書役二人小頭二人同心六十人但一組三十人宛
小人頭十二人組小人百二十人但一手十人宛
無役二十八人
大将先後左右旗本二百余人外様士但家老支配
隱居老臣
由来記云知行附
本文
葦名盛氏代押領之地並屬旗下大名之記曰
葦名盛氏ニ至リ押領之郡地
會津郡 三分一  耶麻郡 四分一  大沼郡 五分一  
河沼郡 半領   蒲原郡 四分一  千葉郡 半領
結城郡 三分一  奈須郡 三分一  白川郡 三分一  
安積郡 三分二  小田郡 半領   行方郡 三分二
磐瀬郡 三分一  宮城郡 半領   安達郡 半領
合十五郡之内令知行高積百二十万石當

葦名修理太夫盛氏旗下之大名
横田中丸城主     山内刑部大輔藤原氏勝                                         
滝谷岩谷城主     山内内匠頭藤原俊基 其子俊之 治部少輔                                                    檜野原丸山城主    山内左京亮藤原俊知                                           
沼沢丸山城主     山内出雲守藤原政重                                          
川口玉縄城主     山内左衛門佐藤原俊満                                         
西方嶋城主      山内右近太夫藤原重勝                                         
野尻牛首城主     山内兵庫頭藤原實良     
 右ヲ山ノ内七騎黨ト称ス
白川小峰城主     結城七郎藤原義親                                                              二本松城主      佐々木右京亮源義継(畠山)     
四本枩小濱城主    大内備前守重朝                                            
片平城主       大内助右衛門尉重時(片平)                                          
須賀川城主      二階堂遠江守藤原盛義                                         
伊南柳川城主     河原田治部大輔源盛次                                          
棚倉城主       太田玄蕃頭源政長                                                               南山田嶋鴫山城主   長沼豊後守平實國 其子弥七郎盛秀                                           
仙道苗代田城主    高橋下野守経尹                                            
南馬城主       南馬山城守戸田祐矩  其子左京介 祐清二男刑部少                                        
駒嶺城主       大和備中守保昌                                 
長沼城主       新國上総介頼基                                  
前田沢城主      青木兵部宗長                                             
福嶋城主       石川大和守照光                                            
布沢柵主       山内上野介俊勝                                            
中山城主       大川淡路守徳逸
渋川助右衛門信伊 立野遠江守久勝 高玉太郎左衛門 阿久子嶋治部政詮 新地主多田十郎左衛門
以上二十八人
佐原氏葦名五黨ト称ス者
猪苗代氏 北田氏 藤倉氏 加納氏 
右ハ昔龜山院正元年中(1259)西明寺時頼ノ代ヨリ是ヲ五黨衆ト称ス
私ニ云フ四氏也-何氏ヲ加テ五黨ト為ス乎詳ナラズ

津川狐戻城主 金上遠江守盛備 葦名家數代之執権職

葦名四天老中四人並ニ小頭附ケタリ老中同心八十人  

父筑後
平田左京亮入道如水   小頭 布施七太夫  同心二十人 
居所川領五千石                  

父源兵衛
佐瀬河内        小頭 小草九兵衛  同心二十人   
居所大寺領五千石               

父大膳
松本源兵衛 後図書早世 小頭名畑久右衛門  同心二十人                
居所小松領五千石

父上総
冨田美作        小頭村中加兵衛   同心二十人
 松本氏早世故代針生民部少輔
 俗四天王云所謂松本平田左坐佐瀬冨田右坐也彼等
 氏族松本氏先信州松本氏也云出千信濃源氏平田氏
 先建武葦名盛員戦死時彼扣馬僕而共忠死故賞其子
 孫為家臣長也彼祖名平太故通為平田氏云佐瀬氏先            
 総刕佐瀬郷主而為千葉氏族故累世名常字云冨田氏
 先累世當郡故家也往昔恵日寺武士也佐原氏就封時
 出仕云或記曰長和五年伊豫國住人冨田右近大夫政
 保來會津子孫在耶麻郡猪苗代則茲冨田氏其末孫
                       
松本氏が若く死亡したため、代わりに針生民部少輔
俗に四天王と言うのは、左坐に松本平田。右坐に佐瀬冨田。松本氏は信州松本氏という。出自は信濃源氏。
平田氏は芦名盛員の馬の口取りだったが、葦名盛員戦死の際に忠死したためその子孫を家臣の長とした。
また、その名を平太と言ったので氏を平田とした。
佐瀬氏は現千葉県の佐瀬郷主だったが、千葉氏の一族なので代々名前に常の字が付く。
冨田氏は會津に古くからあった家で恵日寺に属していたが、後に佐原氏に仕えた。
また、ある記録には長和五年伊予の国の住人冨田右近太夫政保會津に来る
子孫耶麻郡猪苗代にあり、とあるが、この冨田の子孫。

若年寄四人小頭四人附同心

父若狭
弓田伯耆   小頭 野勢又兵エ   同心 十人                                         

筑後二男
平田尾張   小頭 山川久太夫   同心十人                                        

大膳三男
松本佐渡   小頭 山崎半六    同心十人                                        

父新國上総
栗村下総   小頭 深田助之丞   同心十人

用人五人取次十人

父大和
佐藤大和   取次 藤村又助    芦沢太右エ門                                      

父長門
一ノ瀬監物  取次 小野崎久兵衛  古沢文八                                        

父若狭
北原若狭   取次 小串五右エ門  武井善六                                        

伯耆二男   
遠藤長門   取次 鬼木門助    公家権助                                        


江嶋大膳   取次 寺井十太夫   小栗七右エ門

側用人五人取次五人

父主水
原田主膳   取次 根本弥太夫                                               

父山城
本城佐渡   取次 寺沢孫太郎                                               

岡部越中   取次 蟻川文助                                                

父中川日向
赤井因幡   取次 芦野庄藏
若名中川近江                                                

増井信濃   取次 安西山三郎

奉行四人用人役祐筆兼諸役兼勤者八人

父主馬
荒木出雲     用人 安中弥右エ門 越川甚平                                  

父久左エ門
佐野伊豆     用人 天野久五郎  成見又三郎                                

美作三男
冨田平十郎    用人 佐竹文七   飯川又右エ門                                

佐原弾正     用人 山中佐市   極掛孫兵衛

郡代十七人小頭十七人同心百七十人但同心十人宛

本名皆川氏父九郎左エ門          父周防本名宇野氏
矢島伊勢  小頭妻形興市         長坂周防   小頭湯浅勝平                                                                                       

父石見                  父山城
斉藤兵部  小頭三善吉十郎        岡部淡路   小頭三崎伊左エ門                                                                                       

本名皆川氏父四郎成道           本名遠山氏
杉浦阿波  小頭白岩本左エ門       須藤伯耆   小頭新井市右エ門                                                                                       

父越後                  本名佐原氏父主計
大町越後  小頭一柳庄九郎        荒川河内   小頭広瀬十助                                                                                         

                     父藤馬
青山左京  小頭平山久内         飯山隼人   小頭北浦甚兵衛                                                                                        

父越後其子冶左エ門
佐治右近  小頭井谷治郎兵衛       丸山主水   小頭葉山甚内                                                                                         


父左京                  本名雄(惟)任氏父長茂二
一柳九郎兵衛 小頭羽柴杢右エ門      丹羽甚平   小頭初鹿直左エ門                                         
         (上記本名とは、本名氏流ではなく、ほんみょう、本当の氏姓の意味)
下郡代十七人但シ下郡共勘定頭共云フ

父九郎左エ門  父外記     父三左エ門    父主水    父近江三男
神保九兵衛   坂部源五郎   梶原三左エ門   石塚太兵衛  櫻田佐五右エ門 

父八エ門    父清太夫    父壹(壱)岐守  父助充    父備前
柳田八兵衛   苗村又兵衛   石田新左エ門   門奈助太輔  中村九兵衛 

父平馬     父伯耆     父佐渡      父徳善院玄以二男 
荒川多門    福森治部    松本勝藏     前田三右エ門 村山杢之助 

父寺嶋大膳   父石本石見
立間民部    野澤長門
同心記載なし。

侍大将十二人 同組士外様三百六十人

父照藏
中ノ目式部太輔組                                                      
園田七右エ門 立野弥兵衛 倉田宗兵衛  佃治右エ門 濱尾内匠 小寺石見 土屋十右エ門 穴沢九郎五郎 荒井万五郎 高山加兵衛  風間十左エ門 大竹市左エ門 松本作右エ門 手代木内膳 大江三郎左エ門 生江大膳 風間久治郎 穴沢善右エ門 金子右京介 棚木隼人 三坪大膳 丹藤一覚 佐藤三右エ門 片山平馬 相沢丹波 五十嵐与七 外嶋作兵衛            

父美作
冨田将監組                                                                                 
田中弥右エ門 佐藤又兵衛 鈴木市郎右エ門 神谷孫左エ門 荒井新兵衛 猪苗代六郎左エ門 河合茂兵衛 浮島帯刀 酒井市郎右エ門 横 地清左エ門 長尾大学 宮下精兵衛 吉原新五エ門 井上九郎治 山木平六郎 鈴木七郎左エ門 横田左馬介 小泉七左エ門 横山近内 須貝尾又八郎 樋口小 十郎 風間式部 松本義兵衛 片山平馬 山口七郎兵衛 高柳主膳 外嶋角左エ門 穴沢新右エ門 長谷川太郎左エ門 大堀小エ門
             
父周防
本名讃岐組
飯倉十左エ門 太田源左エ門 飯川市郎兵衛 磯又八郎 木村利兵衛 鈴木九右エ門 入間儀右エ門 片桐善太輔 生江主膳 飯沼仁兵衛  須田小八郎 濱尾輿七 泰牧右エ門 横山七郎治 赤松勇七 八幡山久助 冨田又助 石川勘ヶ由 原岡吉右衛門 天野久左エ門 栗村山城 富樫文左エ門 白 井宗兵衛 石橋孫左エ門 泥嶋五郎左エ門 石田九郎左エ門 藤倉久太郎 孕石太右エ門 冨田平太郎 下荒井三郎治

父大膳四男
松本土佐組
大江田久右エ門 平田周防 梶原輿八郎 小原長五郎 富山重四郎 宮下新左エ門 村内輿兵衛 田村新藏 加茂文右エ門 江上登之助 小池十郎右エ門 冠木 藤左エ門 横川七左エ門 安達右近 中山茂左エ門 赤松勇右エ門 浅岡大助 二瓶三郎兵衛 藤倉久五郎 小野寺主馬 吉川八右エ門 小松九郎治 赤羽半兵 衛 野口七左エ門 本名監物 相沢藤藏 門脇外記 田崎伊兵衛 舟木主水 遠藤又兵衛

父椎山山城二男
黒田大和組
吉成治郎左エ門 山口主馬 赤岩兵部 丹野輿八郎 室井周防 室田平馬 近藤九兵衛 公家藤馬 五ノ井仁右エ門 上遠野小八郎 宮本主殿 長谷部新藏 福 永瀬兵エ 小島族之助 佐久間八十郎 田口新左エ門 冨永猪六 落合又五郎 山寺虎之助 五十嵐山城 水口小五郎 鯨岡太郎兵衛 近藤八兵衛 山川五左エ 門 森左近 首藤又十郎 丹藤雅楽允 高須弥兵衛 保土原久内 小山太郎右エ門

七ノ宮自然斎
栗村弾上組
滝田直左エ門 堤新十郎 金田又助 小山次郎兵衛 坪下主馬 白土縫殿助 長嶺九八郎 田中傳藏 物江小藏 宮森七右エ門 金田小市郎 赤城松右エ門 佐 瀬官治 牧原隼人 倉田藏人 佐藤右京 佐藤五郎兵衛 福田城右エ門 安田又十郎 板下十左エ門 佐々木八右エ門 松ノ岸勘介 藤江又七 熊谷孫九郎 三瓶大藏(後物頭)久保田伊賀 長城九郎右エ門 中ノ目左馬介 牧ノ内勘十郎 武田右近

父佐藤監物
小川周防組
中屋半左エ門 熊倉岡右エ門 野村勝右エ門 船渡喜左エ門 小森文内 平山三左エ門 安藤又十郎 谷吉十郎 目黒藤左エ門 玉井徳右エ門 根本孫六 八ヶ 田輿治右エ門 神應掃部助 大島作左エ門 宮下外記 河原田兵庫 林源六 中村数馬 新井仁兵衛 青木新八 市岡内記 濱尾十郎治 新井田兵庫 渡部五郎 左エ門 沼尾角十郎 市川太左エ門 伊藤角左エ門 植原初右エ門 今田四兵衛 畑六郎左エ門

父山城
小田切山城組
藤倉治右エ門 常世半左エ門 築束八右エ門 小寺彦右エ門 佐原三太輔 槻木佐右エ門 吉田小左エ門 荒川太兵衛 塚本源太輔 飯村半十郎 玉井十右エ門  津田宗太夫 長尾内藏介 大槻太郎左エ門 曽根六右エ門 三浦祖右エ門 中根岡右エ門 竹本善太輔 北田治郎兵衛 長山権七 滝川杢右エ門 小田切三左 エ門 名子屋五郎左エ門 八橋磯右エ門 田山清内 野崎善兵衛 益井久三郎 車貞右エ門 國府弥六右エ門 肝付十兵衛

上野土佐組
手代木清兵衛 名越勘内 柏原新八 沢木長右エ門 竹村文左エ門 乙訓輿市 荒川小兵衛 古沢弥市 若森喜三郎 櫻田輿右エ門 粕屋三右エ門  賀島弥五内 石山左市兵衛 奥村忠兵衛 徳山清兵衛 平郡勝右エ門 海道五左エ門 橋本治兵衛 臼木傳左エ門 大平山三郎 漆戸武右エ門 向山幸八郎 富 岡輿平治 牛島孫右エ門 多目権太輔
南部久治兵衛 村井作右エ門 根本甚八郎 滝山弥五右エ門 曽我助左エ門 

國分石見組
日向武右エ門 大石勘解由 入善一角 下河原惣左エ門 戸沢谷之介 良本主水 三善藤右エ門 小畑清之進 野瀬文左エ門 人(入)沢仁右エ門 横抜舎人  黒宮忠之丞 中原波右エ門 吉津長九郎 山室和右エ門 土井門左エ門 田原藤太輔 下河辺彦内 遠田江右エ門 丹波四右エ門 三善和佐右エ門 友田伊右エ 門 高梨治部左エ門 一ツ橋金右エ門 鳥海佐治右エ門 土橋五郎右エ門 平出友右エ門 東野木弥左エ門 増井太郎左エ門 早川七右エ門

馬場志摩組
坂伊織 飯竹頼母 林森左エ門 五十島是非内 伊佐岡釆女 飯尾左近 堀内宅右エ門 神嶋三太夫 奥田弥市 畑田市兵衛 大草庄左エ門 板坂求馬 鳥井忠 左エ門 伊木五郎太輔 大久保兵左エ門 下平弥平兵衛 城秋右エ門 犬飼忠右エ門 千原安右エ門 大熊友左エ門 下司四郎兵エ 大館牧右エ門 本庄仙右エ 門 庄田吉左エ門 小倉輿介 沖津忠兵衛 久松傳左エ門 坂部外記 五十楼要人 一ノ宮小左エ門

遠藤左近将監組(後三坂越中)
菅谷作右エ門 萩原宗介 丹羽市左エ門 伊沢兵右エ門 飯垣内匠助 新方鴨右エ門 細井弥三郎 伊保清兵エ 飯田新五左エ門 鳥山深右エ門 本間藤九郎  大竹宇右エ門 小栗復右エ門 妹尾舎人 岡野文助 大沢九郎太輔 川上軍八 井伊兵庫 犬養又六 春日織部 片倉近右エ門 金森九右エ門 竹俣十左エ門  高木小兵衛 武井廣右エ門 長窪民右エ門 中嶋宇源太 長沢六郎右エ門 柏原新八郎 向井新左エ門

旗頭八人與力野士八十人小頭八人其組足軽八十人

父六太夫
渋川左京組     小頭 林田藤右エ門
岸上民部 大和田多助 佐倉雅楽 小笹水右エ門 勝方要人 鳥羽治郎太輔 宇多川右京 神部十兵衛 菊上左兵衛 篭屋弥三治 気田内記 勝屋又藏 木呂子伊織 神應徳之介 城戸左門  川端市左エ門 桐間縫殿 都倉新太郎 木嶋主計 片柳定右エ門 

高坂監物組     小頭 速見栗右エ門
渡部主馬 高置儀兵衛 佐貫主膳 外嶋沢右エ門 北川内記 川口栗左エ門 葛西式部 高畑長治右エ門 崎坂右近 種村波右エ門 界族 但木利助 坂向造酒 高屋勝藏 北田内膳 多門傳兵衛 直田越後 大関兵助 清原外記 小濱軍平

父蜷川義春号刑部 
和田大隅組 但後永井修理組士替 小頭 濱名籾右エ門
小野大膳 鳥原関内 折笠舎人 保々増右エ門 三枝主殿 西谷久六 紀野隼人 堀場武助 平井大炊 岩間松右エ門 北尾織部 生田祖平 青柳掃部 伊奈大藏 木戸勘ヶ由 福原治助 赤尾数馬 熊宮林助 跡部大覚

永井修理介組    小頭 花房輿右エ門
足立市作 黒谷浪助 赤堀小学 栗田稲右エ門 淺羽弾正 伊輿戸茂助 甘粕圖書 岩本徳助 白井中務 石口新吾 青地釆女 成岡治部 赤津丹波 名入鍛冶助 相良備中 熊山虎之助 有田左近 山岡團治 有木藏人 黒部曽平

佐々木大和組    小頭 二宮久治
阿曽沼内藏 甘利監物 赤井宮内 岩渕林藏 足田玄蕃 石上長右エ門 秋鹿治部 板野増右エ門 小林兵庫 三善文助 深沢兵部 山家久米右エ門 福嶋刑部 酒巻文平 福田金吾 猿橋源内 持田頼母 水沢滝藏 安中将監 箕田源治郎

渡部左京介組    小頭 西尾伊兵衛
阿多修理 宮田牧右エ門 原見主水 南河右エ門 栗屋左近 水口浪右エ門 村松右門 壬生丈之助 真駒右仲 小田部勝右エ門 牧野頼母 福良熊藏 漆原左京 宮嶋沖右エ門 矢吹要人 平野仁平太 松波藤馬 小手森和七 町井小膳 久我久藏

西海枝駿河組    小頭 新見佐衛門
藤川帯刀 南部外記 福間加陸 小松又助 武藤掃部 田布作十郎 田畑主計 大角國平 中原久馬 小篠大膳 北條右馬允 立羽玉右エ門 山角佐仲 常世清介 金曲信濃 岡又右エ門 小平潟新内藏 落合加太輔 舟木右京 大崎小助

堀遠江組      小頭 保横初右エ門
渡部舎人 加々山太右エ門 長谷川帯刀 金井久藏 佐藤式部 山下伊左エ門 五十嵐大和 見緒儀兵衛 近藤山城 川中大輔 田部内匠 大西淀右エ門 石川雅楽 諫早三太輔 佐原外記 大津峯右エ門 寺沢造酒 越生仙助 金沢左内 大屋伊右エ門  

                               足軽記載なし。

弓大将四人與力士四十人小頭四人足軽四十人
角田刑部組     小頭 星合久兵衛 
竹俣久兵衛 横沼要人 小室浪藏 落合弥藏 高瀬平太夫 奥津関藏 栗村権左エ門 
勝本友藏 分部七左エ門 大宅十藏 永井掃部介 大堀民藏 白井宗九郎 乙部平藏
荒井彦右エ門 岡崎軍藏 杉原久右エ門 織田竹藏 田中勝右エ門 沖藤藏

小池修理介組    小頭 本田政右エ門
大田原牧右エ門 田嶋隼助 玉垣軍助 谷内吉郎左エ門 川野水右エ門 大門戸助
金沢足右エ門 大磯虎之助 高原忠左エ門 鏡山貞助 田村林兵衛 多々良濱助 飯森仙右エ門
大飯大助 多良尾忠助 田山五助 山垣伊左エ門 大沼九助 本郷里右エ門 笠松喜助

町野山城組     小頭 堀川又八郎
大鳥山清右エ門 武野只九郎 久米山民右エ門 下司傳八郎 柿沼半左エ門 藤村彦十郎
安井嶋右エ門 万力弥一郎 山辺數右エ門 益田源四郎 安富孫七郎 松尾九治郎 窪倉治右エ門
真舟舟四郎 熊津保介 高橋万五郎 常世勘左エ門 真壁文九郎 水野河右エ門 舟山平太郎

大谷越後組     小頭 逸見清左エ門 
舟越門右エ門 江口恵助 深見弥左エ門 松宮勘助 小守仙左エ門 上村里右エ門 駒山宗右エ門
野呂浦右エ門 村松五右エ門 桒(桑)田丹左エ門 埋井政右エ門 桃沢七右エ門 宗像城右エ門
杦(杉)田半兵衛 浦野常左エ門 有賀孫六 永野清太輔 桒原孫九郎丸山新左エ門 若林鹿右エ門

鑓大将四人與力士四人小頭四人足軽四十人
山川伊勢組     小頭 徳沢又十郎
矢木近左エ門 櫻井孫平治 真部吉左エ門 廣沢権兵衛 松原孫太夫 深尾八右エ門 町田歹三左エ門 不破彦治郎 丸山初右エ門 松井孫六郎 曲渕忠左エ門  布施長左エ門 牧田治郎兵衛 前田五太輔 下条七郎左エ門 藤田兵藏 矢口藤太輔 草刈十兵エ 増田喜治右エ門 簗川茂兵エ
伊藤大膳組     小頭 豊田吉六
高坂弾右エ門 児玉守右エ門 小早川縫殿介 小平潟太兵衛 安藤東右エ門 郡仁右エ門 江田安右エ門 青野万七郎 舟窪権左エ門 丸橋吉弥 穴山内藏助  曽我十郎治 明石佐治右エ門 赤羽半左エ門 朝比奈三郎兵衛 明智牧右エ門 秋田治郎右エ門 秋山石右エ門 浅野戸右エ門 江門小市郎
佐原伊豆組     小頭 冨山万右エ門
芦沢近左エ門 佐田新六 浅井雲治 芦田文助 朝倉嶺右エ門 鮎貝又助 佐々常左エ門 
荒波海左エ門 石黨九郎左エ門 粟津六郎左エ門 赤坂安左エ門 沢野水右エ門 相沢兵右エ門 湯田稲右エ門 荒嶋九郎二郎 三浦瀧右エ門 大口平治右エ門 雪下浅右エ門 有泉権太輔 菊野八郎兵衛
金子能登組     小頭 戸島勘六
木村常左エ門 保呂安太輔 北村治部右エ門 鳥部民右エ門 坂崎傳左エ門 新館荒右エ門 本多善左エ門 石東岩右エ門 盤井葉右エ門 大倉源七 飯高平左 エ門 小沢清治郎 新達作左エ門 河辺孫太郎 千葉和多右エ門 大渡弥七 佐川濱右エ門 細野又三郎 星野犬左エ門 小池金助
鉄炮大将三十人並小頭三十人附平足軽六百人伹一組二十人宛
松本備中     小頭 友松新九郎        
依田兵庫     同  小西清六
伊南兵庫     同  外村武七郎
丹沢右門     同  寺石又九郎
生江数馬     同  近松万右エ門
中嶋権助     同  天川六四郎
上嶋半藏     同  豊浦善六
東十左エ門    同  西條九八郎
向山半治     同  條瀧文八
佐野河内     同  佐分七右エ門
太郎丸掃部    同  千代清兵衛
小林太兵衛    同  三井近右エ門
倉澤七兵衛    同  大高久兵衛
長谷川山城    同  名川庄九郎
飯田隼人     同  沼山定六
木村弥内     同  野田新八郎
今泉源七     同  大江仁左エ門
添島万五郎    同  九里半助
春日求馬     同  神田源四郎
山田式部     同  矢田野作内
星刑部      同  米沢平三郎
土屋傳左エ門   同  山上角之丞
安孫子監物    同  高尾弥二郎
河野右馬助    同  柳川治右エ門
黒河内半右エ門  同  建部藤助
井深将監     同  深江治郎兵衛
長尾下野     同  成合十郎兵衛
冨塚肥前     同  古瀬藤兵衛
簗田安房     同  中野加太輔
山崎出羽     同  藤井五兵衛
                  足軽記載なし
使番十二人
向井新八郎 竹越平六 木本織部 笹沼隼人 町田内匠 柳沢多宮 
大里藏人 落合新藏 川嶋越中 下司右馬ノ助 赤松四郎五郎 南倉八兵衛

奏者番十二人
東條新九郎 渡部小右エ門 中本弥治兵衛 日向右近 小川隼人 安藤九郎治 
湯田清五郎 武川新次郎 原新左エ門 田中孫太輔 神田新藏 沢田主馬

大目付四人
外嶋若狭 藤巻大和 紀野根津 三城豊前
寺社奉行四人小頭4人同心四十人但一組十人宛
中澤大和     小頭 戸塚浪右エ門    
二瓶安房     同  大浦勝右エ門
大関下野     同  秩父十郎兵衛
兼川勘解由    同  小國文治右エ門
寺社小役十二人
清水八右エ門 高崎乙右エ門 押山戸右エ門 
尾上利平治 鈴木浪右エ門 大田垣仁右エ門
来名忠兵衛 高橋利右エ門 大室小平治 
乙部三右エ門 他二名記載無し
町奉行四人小頭四人同心四十人伹一組十人宛
飯田外記       鎌田弥惣兵衛    
石井出羽       横瀬半五右エ門 
関伊織        川尻平右エ門
満田主計       白星七右エ門
足軽大将三十人小頭六十人伹一組二人宛足軽九百人伹一組三十人宛
平田靫負     小頭 吉岡十兵衛   伊達小八郎  
松本城之助    同  高階八右エ門  相場三太輔
山口但馬     同  夏目新九郎   叶野又右エ門
成田右京進    同  大野九藏    成瀬早右エ門
奥平新助     同  鍋島杢左エ門  野々山十右エ門
諏訪主殿     同  口羽平藏    八代牧右エ門
薄田甲斐     同  屋山藤内    吉部新六
滝野沢壹岐    同  藤戸宗兵衛   寺村政右エ門
片桐主水     同  手嶋小左エ門  沢井善左エ門
手代木主計    同  森田七太夫   三輪茂兵衛
北村式部     同  佐治又助    三木弥八郎
小瀧左馬介    同  鹿島常左エ門  吉彦忠兵衛
沖大和      同  長沢庄治郎   廣川太左エ門
石山甚助     同  竹田兵右エ門  根張利兵衛
田中甚十郎    同  下村金左エ門  廣島安之丞
坂田縫殿助    同  久野孫太夫   須野俣九十郎
物江釆女     同  市原治右エ門  蜂屋吉左エ門
篠原玄蕃     同  飯野三太夫   橋場五郎兵衛
萩野九十郎    同  垣原牧右エ門  羽賀悦右エ門
佐藤右馬允    同  日置團右エ門  富野市十郎
坂内匠      同  徳田林右エ門  大友久左エ門
新國刑部     同  和気元右エ門  亀田庄五郎
武田主馬     同  野木清太輔   八十清助
羽染小泉     同  山寺権九郎   舟田宗八郎
川手佐助     同  中尾五助    上杉長兵衛
小沼隼人     同  深沢平七    寺田又六
中野五郎四郎   同  手塚太郎右エ門 海老沢又十郎
西田兵藏     同  寺崎勘左エ門  江間四右エ門
猪狩玄蕃     同  赤城又左エ門  坂田孫市郎
三原八右エ門   同  佐渡文内    目黒伊右エ門
大番組八人組士七十二人

三浦周防組
結城市藏 下原仁兵衛 廣沢五右エ門 小野崎銀左エ門 常磐金右エ門 
奥山治左エ門 乙葉右エ 勝本宗左エ門 榊宇右エ門
佐瀬平八
下妻市太輔 神原源左エ門 賀ガ見村右エ門 杉田平右エ門 笠尾藤右エ門 
神尾利右エ門 関脇十郎兵衛 金山吉右エ門 岩永太左エ門

金子主計組
垪和与一郎 小坂春右エ門 岡部六郎治 土岐伊織 越智貞右エ門 
神庭善右エ門 十倉勘左エ門 音蟹安右エ門 川勝文左エ門

大浪主膳組
伊庭和右エ門 稲沢丹四郎 星宮源五郎 井口仙五右衛門 石口弥右エ門 
千種蒔右エ門 波多野三右エ門 磯弥惣左エ門 大森傳藏
赤塚藤内
大川五太輔 小野六太輔 堅田万右エ門 萩六郎左エ門 押山杉右エ門 
杉浦佐太輔 柄木新六郎 松浦藤太輔 須賀川野平六

種橋大藏
笠原藤助 仙石助右エ門 菱川仁助 川崎八五郎 関半藏 
須佐清治右エ門 淀川又七郎 望月金右エ門 菅沼武助

慶徳善五郎
吉野六藏 師岡九太輔 荒木弥三郎 高田丑右エ門 桃井八左エ門 
平井定六 大木吉郎右エ門 守岡直右エ門 依田甚右エ門

黒河内十郎左エ門組
曽根仲右エ門 佐藤宗九郎 杉井久三郎 沖宗治右エ門 関本仁平太 
門叶孫助 中谷三左エ門 瀬尾源助 毛利和多助
大書院番十二人

三宅求馬 加藤新九郎 石橋孫内 池田久兵衛 西郷藏丞 村上源太輔 
坂内主計 中条藤太輔 山川八右エ門 長嶺清九郎 松田隼人 平田平右エ門

小書院番十二人

黒田治郎左エ門 山本作右エ門 古川孫六 玉野又市 岡野吉左エ門 安田弥三郎
海老名濱右エ門 石間円治 松原新五右エ門 山路小角 栗城藤右エ門 沼木弥三治

留守居番十二人

今中靫負 山垣丹波 福山尾張 栗原入道幽閑 飯岡筑後 寺沢志摩
手越入道宋栄 安部井入道安清 蜂谷備後 蜷川加賀 保土原入道江南 沢田伊勢
近習三十二人
平田左馬助 松枝小八 外島左内 田口五兵衛 山垣新左エ門 渡部杢右エ門 
新井田隼人 辰野十左エ門 縄田八左エ門 坂井三右エ門 夏目十内 今出川七郎左エ門 佐々修理 笹原宗兵エ 井川民部 杉田長藏 赤羽傳十郎 坂本儀右エ門 石山又兵エ 矢部九助 田部清左エ門 小野九右エ門 矢木理兵エ 遠山藤三郎 伊藤九右エ門 
下川勘解由 五十嵐八郎兵エ 矢島造酒 楢原外記 和田大助 宮森傳藏 佐伯清助
小姓頭二人

三橋越中   鵜浦甲斐

同奥番九人

長峰志摩 目黒伯耆 折橋兵庫 
生江式部 三井佐渡 大庭三左エ門 
中田兵庫 藤沢伊豆 磯辺頼母

小姓組三十六人

冨田半九郎 長峰孫七 森臺又治郎 町々多仲 三瓶平七 川島求馬
赤塚藤九郎 大竹頼母 松本弾上 林甚治郎 本名杢之丞 松本多助
濱尾内藏助 大場平五郎 山田郡治 長谷川甚藏 渡部文藏 大波弥太郎
野口久左エ門 東海林十五郎 中山助九郎 五十嵐又吉 梅津重五郎 和田万吉
佐原又五郎 杉浦平八郎 栗村幸八郎 大関長九郎 福原龍次郎 横山大八郎
立野弥助 宮下七十郎 濱尾新十郎 三井佐仲 山垣藤馬 中ノ目右近

奥小姓八人

濱崎甚五郎 関口熊太郎 勢田亀松 森田関之介
山部又治郎 土方忠治郎 川越又太郎 勢良田梶之介
供番頭三人

伊丹主殿 井澤備後 井関肥前

戸番六人

細川左膳 竹川求馬 米倉藤馬 大窪帯刀 豊良宮内 高井右近
平供番十六人

押部宇源太 上崎孫平治 笠間勝弥 川原五藤太 脇坂小文治 加井庄金弥 神崎佐源太 谷崎平馬 大道寺武助 祢津宇助 長嶋弥太輔 相馬門太輔 筒井善介 南條源藏 梅宮九郎五郎 中地金五郎
小番頭三人組士三十人

犬塚対馬組
梶尾沖右エ門 上村新藏 善方平右エ門 多気吉郎兵エ 高嶋長九郎
田村忠左エ門 田崎瀬左エ門 玉川皆右エ門 多治見九助 気味子十左エ門
石巻内膳組 
横山庄左エ門 立花甚兵衛 園権七 武藤権右エ門 柘植助右エ門 
長谷柳五郎 永井文五郎 梅村庄六 村山平五左エ門 上原忠太 
生駒肥後組
内田市右エ門 能勢沖之助 黒川笹右エ門 栗山伊右エ門 久津清六
矢島円右エ門 柳瀬伊左エ門 八尾治部左エ門 山梨大右エ門 山中左六
軍者二人

信刕松本城主浪人 小笠原大膳太夫長時

相刕岡崎浪人   楠右京太夫橘正範
軍用兵噐役奉行八人

石井山城 片山大隅 廣瀬七右エ門 家城治部左エ門
磯部備仲 松村長門 逸見文左エ門 田崎小隼人

横目十六人

山垣河内 小田嶋三郎左エ門 馬場外記 長谷川伴藏
久保田圖書 池上多門 斎藤九左エ門 樋口又治右エ門
山木仁左エ門 海野要人 大貫新五左エ門 三宅靫負
鈴木又兵衛 大竹宇左エ門 野村勘右エ門 福森助之進
普請奉行四人小奉行八人杖突四人小頭四人足軽四十人

依田右エ門佐組 
小奉行 伊波又四郎  門奈十助  杖突  岩手八右エ門   
小頭  石橋新藏   足軽十人
安藤内藏助組  
小奉行 茨木十右エ門 蜷川清治右エ門 杖突  新潟甚五左エ門  
小頭  西七右エ門  足軽十人

杉原太郎左エ門組
小奉行 堀部又右エ門 杉原善八郎 杖突  岩松多藏
小頭  別府小右エ門 足軽十人  
服部吉右エ門組
小奉行 稲垣太治兵衛 天野作四郎 杖突  冨尾九八
小頭  豊岡弥介   足軽十人

小普請方四人
松沢五右衛門 若林弥四郎 枝末七之助 笹近右エ門
藏方扶持方渡役人八人

川嶋佐仲 中屋七郎右エ門 道家次郎兵衛 常磐友右エ門
長谷部八十郎 赤羽半兵衛 徳永清治右エ門 大塚林右エ門

吟味頭四人

北條九兵衛 三條加右エ門 山岸左兵衛 沢田宗右エ門

大納戸頭四人

野々宮五左エ門 古寺万七郎 矢田舎人 福田与十郎

小納戸頭四人

丹藤十兵衛 金子七郎右エ門 佛沢十郎兵衛 大貫七右エ門

大扇ノ間定番頭二人次番二人

二瓶佐渡   次番 孫太輔
今村常陸   次番 三井宮内

同所詰用方八人
今泉十兵衛 畠山太郎右エ門 一瓶小角 星八右エ門
六郷七左エ門 仁木五兵衛 西山善五右エ門 土肥猪兵衛
本丸番頭四人

大佛主殿 奥野内記 仁科主馬 頓宮修理

二の丸番頭二人

分部金太夫 飯嶋権右エ門

三の丸番頭二人

蒲生源兵衛 横井外記

火消八人

片角宇平太 竹内左太夫 堤沢金六 辻利左エ門
吉村七郎左エ門 相馬弥五兵衛 長沢五太輔 内原仁右エ門
徒歩頭三人

玉村政右エ門 一條宗左エ門 岡村市郎左エ門

徒歩士二十人

千坂茂助 越生久五郎 大坂宗八 乙沢定六 亀山三右エ門
玉木新助 寺西庄吉 脇田吉太輔 河越又治郎 大原弥六
安達杢兵衛 桂山宗兵エ 大寺宅右エ門 長野安兵エ 藤堂加太輔
沼尾助九郎 今井四郎治 沼津六之助 尾林十治郎 大熊貞右エ門

徒歩目付二十人

久永左五左エ門 百井丹弥 杉生勝平 関屋原右エ門 板橋善右エ門
関根筒右エ門 季川弥吉 椎名治五右エ門 本寺清八郎 菅原網右エ門
日外為五郎 水窪鶴右エ門 平石弥五郎 彦坂軍左エ門 片桐直左エ門
宮戸荒右エ門 杉本官治桃 桃井民右エ門 最上仙治郎 新庄八郎太輔
腰物番四人

蟻塚三郎右エ門 笹弥野右エ門 佐久兵左エ門 浮洲治右エ門

祐筆八人

酒巻権六 三田源五左エ門 日向笹右エ門 大庭平左エ門
下河辺久右エ門 水島斧右エ門 伊藤三藏 東條左馬介

書物役六人

宮原佐伍左エ門 平戸吉六 須崎与左エ門 
椎津新左エ門 東又七郎 新宮丹左エ門

盗賊改上役二人人小頭二人同心六十人但一組三十人宛

福岡民部組   書役 伊北玉右エ門 小頭 井沢瀧左エ門  同心三十人
小杉主馬組   書役 新妻忠左エ門 小頭 半田新五右エ門 同心三十人
小人頭十二人組小人百二十人但一手十人宛

藤枝浅右エ門 山村七九郎 山角加右エ門 黒沢金兵衛
牧山宇兵衛 村田文治右エ門 能勢清六 萩田八郎右エ門
黒石又十郎 寺木源右エ門 名星又助 美濃部七太輔   小人記載無し
無役二十八人
近藤靫負亮 猪苗代弾上 吉郎刑部 成田右馬亮 
坪内近江 渡部監物 木曽兵庫 八幡帯刀
内藤主膳正 七宮入道自然斎 宇津宮勘解由 伊南左京亮
山名頼母 穴沢遠江 浦野内匠頭 馬場釆女正
牧内信濃 平田兵部少輔 内田右京進 白山入道宋鑑
長沼伊右エ門 遠藤大隅 草壁主殿頭 長峰數馬
青木修理介 今川筑後 笠原出雲 沿林寺右馬介
大將先後左右旗本二百余人外様士但家老支配
島影源藏 坂東市郎左エ門 吉村丹左エ門 伊勢崎加太輔 直江金左エ門
新川又右エ門 川井武右エ門 芋瀬孫左エ門 村越新左エ門 羽田又左エ門
林十兵エ 岩崎甚右エ門 野尻彦太夫 多古藤右エ門 只見庄右エ門
稲田折右エ門 仁田治郎兵エ 土倉清右エ門 中井庄兵エ 石堂彦左エ門
芳賀喜八郎 永見善左エ門 夏井和右エ門 猪子一角 岩田利左エ門
名倉治左エ門 野間吉郎左エ門 飯森治部 稲村文八郎 米良深右エ門
山形廣右エ門 二星五郎太輔 伴弥八郎 別府吉右エ門 蒲原川兵エ
一宮十郎兵エ 小原七郎兵衛 大岩沢右エ門 南部六右エ門 蜷川雲治
犬山伴藏 伊賀猪兵衛 西川嶋右エ門 堀田猪左エ門 上島軍八
相馬市右エ門 森川水右エ門 外山市郎右エ門 植田隼右エ門 里見半藏
大束万右エ門 鹽沢宗兵衛 熊沢沖右エ門 三瓶安右エ門 額田佐左エ門
豊島忠左エ門 山下惣左エ門 水野弥三右エ門 鳥井杢右エ門 戸塚孫兵エ
牧野勝左エ門 皆川仁左エ門 錦古里新左エ門 鎮西八郎右エ門 馬船三右エ門
篠田要人 掘尾助之丞 大井清兵衛 藤木團治 樋口右近 八王子久右エ門
大河内貞右エ門 福井丈右エ門 須田五左エ門 伊貝十郎左エ門 河村宇平治
寺尾政右エ門 森山仲右エ門 岩城奥左エ門 高松長左エ門 安部金助
足田小隼人 稲葉直右エ門 中田十右エ門 佐々木弥右エ門 平山十太輔
石塚儀左エ門 大村廣治 笹沼七太輔 諏訪雅楽助 猪狩甚六郎 稲毛権藏
堀江平左エ門 大岡忠右エ門 池上猪助 石原源左エ門 保坂八弥 
白土小左エ門 有賀小八 井磧四郎左エ門 徳島戸左エ門 小田萩右エ門
村田常七 泉川喜六 大瀬小兵エ 脇草右エ門 藤沢幸治 石黒半右エ門
小野田徳左エ門 狩野忠助 仁丹四郎左エ門 福王寺嶋右エ門 
押田三左エ門 高力舎人 小幡嶺右エ門 針尾波江 大河原祖右エ門
加賀山和介 大垣作平 野村勘左エ門 岡山五郎左エ門 高瀬治郎八
横須賀小平太 須田幸左エ門 田丸庄治郎 室田鈴右エ門 浦崎佐源太
岩瀬徳右エ門 竹沢清三郎 長尾新六 水村作太輔 生嶋要人 津山滝右エ門
赤木平助 浩江七右エ門 入江九右エ門 長田藤三郎 一色五太輔 
百足清右エ門 日比八五郎 三屋原文助 塩山稲右エ門 武藤芦右エ門
平喜左エ門 芝田太内 新藤桃右エ門 信夫藤八郎 杉村帯刀 
白沢六郎左エ門 島津伊右エ門 下津倉右エ門 下毛野外記 宮川小十郎
新波武助 新納四五右エ門 末松丹右エ門 神保茂太輔 庄田谷兵衛
嶋山栗右エ門 芝村治太夫 嶋田勘右エ門 完戸草右エ門 水尾波右エ門
白山清藏 篠塚万藏 嶋崎銀藏 白鳥羽右エ門 宮目兵九郎 渋谷金平 
下宮吉兵エ 三橋推右エ門 嶺小式部 櫻山文治郎 鹽沢万六 
水上川右エ門 芝山善藏 白河儀左エ門 篠原新右エ門 設楽勇助
清水九兵エ 庄司又三郎 嶋尾安兵エ 宮部亀右エ門 逆瀬文右エ門
櫻井竹右エ門 鹽田七十郎 志賀近左エ門 新發田弥右エ門 
松倉三郎四郎 芥川半内 秋元民左エ門 御子柴平右エ門 北畠戸右エ門
榊原安左エ門 木俣庄藏 見頃長左エ門 溝口清左エ門 渥美新十郎 有馬求馬
隠居老臣
西海枝駿河盛俊  萩野右馬亮興綱  鵜浦甲斐氏國
須生但馬重氏   鹽田兵部輔尚   針生民部少輔清次
船窪出雲道泰   栗村備仲義景   相馬五郎左エ門信國
平塚丹波實恒   神應丹波頼基   神應若狭頼春 後家康公ニ仕フ
武藤中努丞義元  日出山豊後實顕  森田彦兵エ憲明
佐原新左エ門實詮 薄左京太夫満長  松本長門入道幽閑
慶徳善五郎盛勝  松本圖書氏輔   満田尾張忠勝
三城豊前信勝   冨田美作盛實   佐瀬源兵衛安石

合士分以上千三百五十人余
野士八十人余
外輿力徒歩士合三千六百人
旗下大名五万六千人余
都合六万騎余
由来記云地行附
葦名氏代々之知行千令積百六十万石余
一万八千石   三浦太夫盛國   居所 猪苗代
一万石     関柴備中守       関柴
五千石     三坪大内藏       大鹽
三千石     穴沢善右エ門尉     檜原
一万石     中ノ目式部大輔     中ノ目
五千石     平田兵部少輔      鹽川
五千石     松本源兵衛尉      小松
五千石     佐瀬河内守       大寺
五千石     冨田将監        荒井
三千石     松本太郎左エ門     笈川
三万八千石   金上遠江守       金上・津川
一万石     沼沢出雲守       沼沢
八千石     伊南源介        伊南
八千石     山ノ内丹波守      田嶋
一万五千石   山内刑部左エ門     横田
五千石     横田治部少輔      川口
三千石     山内播磨守       伊並
四千石     河原田兵部太夫     伊北
三万八千石   白川義次        白川
四千石     栗村弾上        藤田
二千石     棚倉玄蕃        棚倉
四千石     浮嶋帯刀        浮嶋
一万石     鵜浦甲斐守       中田
八千石     栗村下総守       稲川
一万五千石   新国上総守       中地
二万石     二本松右京亮      二本松
八千石     鹿ノ子田出雲守     安民(熱海)
二千石     高田間太郎左エ門尉   高田間(高玉)   
一万石     二階堂盛義       須ヶ川(須賀川)
五千石     片平助右エ門      片平
八百石     大里内藏人       大槻
五百石     小檜山縫殿之助     三代
五百石     佐瀬平八郎       大寺
二百石     栗村掃部        森代
四百石     伴野治郎兵衛
三百石     伴野五郎兵衛


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蘆名家記



これは群書類従巻第三百八十九合戦部二十一収録の軍記物ですが、会津四家合考をお読みになってから読まれると解りやすく説明も不要です。また、文中の氏名や地名、領地などは総て原文のままです。


この文章は物語風な現代語に意訳しており読みやすいのですが、原文を掲示しない訳文ですので、もしも内容に誤りがあっても気づかずに過ぎてしまうという難点がありますので、ご承知置きください。
内容中の会津人の会話は、私の祖父の年代が話していた、現在よりもさらに古い会津弁です。
武士だからと言って標準語であるはずはなく、会津弁を話していたに違いありませんので、あえてリアルに会津弁にしてみました。
現在の若年の会津の人には理解不能な会津弁には()書きで訳を入れておきましたので、読んでみてください。
群書類従巻第三百八十九合戦部二十一
蘆名家記巻第一目録
蘆名家滅亡濫觴之事附盛興簾中之事
盛隆生害之事
米澤政宗従檜原越働入會津事
関柴備中守謀反之事
関柴合戦之事
蘆名家記第二目録
穴澤善右衛門尉武勇之事
蘆名家養子之事
高玉合戦之事
蘆名家記第三目録
摺上一戦
金上遠江守討死之事附河原田新國武勇之事


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善竜寺



小田山の麓には芦名家廟所(びょうしょ)・宝積寺(ほうしゃくじ)・建福寺・恵倫寺(えりんじ)・善竜寺(ぜんりゅうじ)などがあります。
 小田山の北麓一帯は中世における会津の藩主芦名氏の墓地でしたが、今は16代盛氏(もりうじ)を中心に、西に17代盛興(もりおき)、東に18代盛隆(もりたか)の墓の3基が残っており、芦名家廟所(びょうしょ)とか花見ヶ森廟所とよばれています。
 小田山西麓の恵倫寺(曹洞宗)は、蒲生氏郷が父賢秀(かたひで)の菩提を弔うために開いた寺で、封内の僧録司(会津領内における曹洞宗の総本山)として大きな規模を誇りましたが、戊辰戦争の兵火で焼失しました。寺宝は木造蒲生賢秀坐像などで、境内には柴四郎(東海散士)・柴五郎(陸軍大将)など柴家累代の墓があります。
 建福寺(臨済宗)には、戊辰戦争で活躍した長岡藩家老河井継之助(かわいつぐのすけ)の埋骨遺跡があります。また肥前島原城主松倉勝家の弟重頼とその臣野添作兵衛の墓があります。
 善竜寺(曹洞宗)は、保科正之に従って信州高遠・山形・会津と移った寺で、山門は竜宮城をみるような美しい形をしています。この寺の裏山は窪山と称し、会津藩士の墓地でしたが、戊辰戦争時の家老西郷頼母(たのも)夫妻の墓などがあります。善竜寺境内の「奈与竹の碑」は自決した頼母の妻千重子の辞世「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節のありとこそきけ」にちなんで建てられました。

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諏訪神社



若松城跡の北西1kmの諏訪神社は、 1294(永仁二)年芦名氏が勧請したと伝えられ、室町・戦国期になると芦名氏勢力拡大にともない、会津の総鎮守的な地位につきました。近世に入ると、蒲 生氏が100石の社領を寄進し、以後歴代の会津藩主もこれにならいました。しかし、1868(明治元)年、戊辰戦争の兵火にかかり、広大な敷地に造られた 社殿は灰燼(かいじん)に帰して、今は昔の面影をとどめていません。鉄製注連(しめ)(県文化)があり、注連に下げられた小札に、「永仁二(1294)年」の銘が刻まれています。   


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門田莊黒川



会津盆地の東縁に位置するこの地域は、東北地方でも最古に属する大塚山古墳や白鳳時代の山口瓦窯跡群があり、古くから文化が栄えました。中世になると門田 莊黒川(会津若松)に本拠をおく芦名氏が他の領主たちを圧倒し、ほぼ会津全域を支配する戦国大名に成長しました。戦国末期に芦名氏を滅ぼした伊達氏はすぐ に会津を去り、1590(天正一八)年、蒲生氏郷が入部すると黒川は若松と改め、その後、上杉・蒲生(再)・加藤・保科(松平と改姓)と領主は代わりまし たが、城下町若松は常に会津の政治・経済・文化の中心として栄えました。


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2016年3月18日金曜日

会津門田町

頼朝の東北征服

      このような、律令国家(大和国家のこと)の北方進出にとって、7世紀に会津を手に入れたことが大きな役割を演じた事は容易に理解できる。この会津の政治地理的役割は、歴代の武家によっても重視され、そして彼らによって利用されている。

      11世紀には「前9年の役」を源頼義が挑発して北方に侵入した。俘囚(服属した蝦夷)の阿部氏を征服しようと試み、長期の苦戦のあと、ようやく俘囚の長で ある清原武則の参戦を得てこれを破った。それに続く「後3年の役」においては源義家が陸奥の守として赴任したが、源氏は依然として東北の覇権を獲得するこ とは出来なかった、この騒乱を経て、蝦夷の勢力はより発展し、東北の一円支配を確立した藤原氏は高度な平泉文化を築き上げた。藤原氏は事実上「独立国家」 を作り上げ、源氏と平家に対して中立的態度をとり、両者の闘争の圏外に立とうとした。
      1185年に頼朝に追われた義経が平泉の秀衡の庇護の下に逃げ込んだが、そのことを絶好の口実として、頼朝はまたもや奥州に攻め込んだ。凡庸な泰衡の指揮 により藤原家は壊滅し、東北地方は頼朝のものとなった。1192年頼朝は征夷大将軍となり、ようやく東北に対する支配体制を確立した。

秀吉と会津

      そして、鎌倉幕府の滅亡、建武の中興、室町幕府、応仁の乱、戦国の乱世、織田信長の台頭、豊臣秀吉による全国の統一というふうに歴史は続いていくが、この 経過は広く知られている通りである。豊臣秀吉の全国統一の基礎は、刀狩による完全な兵農分離、検地による全国の大名石高の明確化、その上に立つ大名知行制 度の有効さの確保であった。秀吉の朝鮮遠征は、もはや大名たちに与えるべき土地の余裕がなくなったことが背景になっていた。秀吉は、反抗する大名を個別に 降伏させて、かれらに忠誠を誓わせる以外のことは出来なかった。九州の島津氏を討って忠誠を誓わせた後も、秀吉にとって不安が残っていたのは、小田原の北 条氏、そして勝手に芦名氏を壊滅させて黒川城に入り、東北のパワーバランスをその手に握って東北の最有力者として振舞っていた伊達正宗であった。秀吉は自 ら小田原を囲んで北条氏を降伏させ、さらに唯一残っていた奥州に向かった。
      ここで会津の問題が、崇神天皇の四道将軍の派遣以来始めて、ふたたび問題になった。今回の東北仕切りにおいては、秀吉は、刀狩り、検地をあらかじめ充分に 行うことを命じた。そして正宗の罪を処断する為、会津、岩瀬、安積を没収し、本領に加えて二本松、安達郡などを安堵することを決定した。徹底的な奥羽仕置 を終えた秀吉は、三日後に京に向かった。

      京にもどった秀吉は、会津の地を蒲生氏郷に与えると事とした。会津は、関東、奥州、北陸の要に当たるところから、この地を最も信頼の置ける武将に託したのである。

      蒲生氏郷による会津引き受け後、すぐに現在の宮城県で一揆が発生するなど、いろいろなことがあったが、ここではひとまず、会津の重要性について、すでに家康が天下を取った時点の観点から検討することにする。

幕府守護のための会津藩

      会津藩の最も際立った特徴は、外様大名の多い奥羽地方をにらんだ、幕府の防衛拠点であったということである。江戸から100-200キロの範囲で、幕府に 忠誠な親藩と譜代による防壁が張り巡らされた。この幕府の布陣において重要な役割が与えられたのは、まず水戸藩、白川藩、会津藩などである。地図を見れ ば、扇の要に座って精神的にこれらを督戦するような形で日光の東照宮がこれをバックアップしていることがわかる。これに対応して、勿来関、白川関、念珠関 (現山形県)の「東北三関」が置かれていた。中でも、下野(しもつけ)街道によって日光に直接通じており、阿賀川によって日本海の北前船交易の重要拠点で ある新潟と結ばれていた会津藩は、最も精強な、かつ機動的な戦闘集団、打撃部隊とも防衛部隊となる役割を負わされていた。昨年のNHK大河ドラマ「新撰 組」を見た読者は、幕府の崩壊局面において京都所司代を引き受けさせられた会津藩主松平容保に率いられる会津藩の役割が、煎じ詰めれば、ほかならぬ幕末の 西南雄藩の討幕運動に対抗して組織された浪士集団の新撰組に課せられた役割と同じであることが理解できたであろう。幕府親藩第一線の会津藩は、この役割 を、新撰組などよりはるかに以前から長期間、大規模に遂行してきたが、戊辰(ぼしん)戦争における敗北によって、悲劇的な終末をむかえたのであった。

会津藩成立以前の会津の地

      戦国期に、会津の地は、はじめは、平安期に三浦半島で勢力を伸ばし、文治奥州合戦の功で源頼朝からこの地を賜ったといわれる芦名氏が支配していた。芦名氏 は既に南北朝時代から会津の地で活躍していたといわれる。現在も三浦半島には芦名という地名の海岸がある。筆者は昔すこしばかりこの暖かい芦名の湾でヨッ トを楽しんだ経験がある。なお付け加えれば、当初の三浦半島の主ともいうべき豪族は三浦氏であるが、芦名氏はこの三浦一族の出である。芦名氏は16世紀後 半には、東北で伊達氏に匹敵する力を有していたが、1589年に伊達政宗が摺上原の合戦で芦名氏を破り、会津地域を占領した。これで伊達氏は関東地方をう かがう勢いを示すことができるようになった。
      東北の勢力均衡が破れたことを憂慮した秀吉の奥州仕置により、伊達氏は追い出され、蒲生氏郷が1590年に90万石の領主となり黒川城に入った。この城 は、会津盆地を南から北に流れる阿賀川(当時は黒川と呼ばれた)と東山温泉から流れ出る湯川にはさまれた地点を占める要衝である。

ついでながら、 現在の阿賀川は、那須岳の西、日光の北の会津高原に源を発し、会津盆地の南端から北に流れ、猪苗代湖から流れ出る日橋川(にっぱしがわ)をあわせて盆地の 北端にいたる。ここで只見川と合流して非常に大きな流れになる。尾瀬を水源とする只見川は豊富な水量で有名であり、戦後米国のTVA(テネシー川流域開発 計画)に範をとった20件ちかいの発電所と水利施設を持つ日本最初の大型発電カスケードとなっている。。阿賀川は只見川とのは合流点から西に向かい、福島 県から新潟県内に入る。そして、阿賀野川と名称を変えて新潟県を横断して西に流れ、新潟市で日本海に入る。湯川は後世における改修により、現在では若松市 街で湯川放水路で流れの主要部分を阿賀川に導いている為、本来の流れは小さな川となって、湯川村へ流れて、そこでせしらぎ川に合流して阿賀川へ入る。なお湯川村は、現在は会津米の中心的な産地で、全村ほとんどが水田である。但し、すぐ近くにある猪苗代湖は、すべて東京電力が水利権を有している。非常に美しい景観を有するこれら会津の水系は、観光開発の点から言えば、ほとんど未開拓に近い。

      黒川の地は15世紀後半から芦名氏の所領として発展してきたが、氏郷はさらに7層の天守閣を持つ城郭と市街を整備し、この地を自分の生地にちなんで若松と名付けた。

      この会津若松の地が、安定した幕府の防衛拠点になるには、家康による天下掌握以後も、かなりの変遷を経なければならなかった。
      蒲生氏郷の死後、その子秀行は、1598年秀吉により下野(しもつけ)の宇都宮に18万石で移された。会津の地には、秀吉の任命により上杉氏が120万石 をもって越後春日山からここに移り、会津若松城主となった。これは、上杉景勝が秀吉の命により越後を統一し、続いて秀吉の小田原征伐に参加し、続いて出羽 検地、奥羽一揆鎮圧、朝鮮遠征参加など、秀吉に尽くした功績の対する褒賞であると共に、秀吉が自分の死後の豊臣家の覇権が家康に奪われることを憂慮した、 彼のパワーゲームであった。
      果たせるかな、慶長3年(1598年)秀吉が死ぬと、大名間の緊張は爆発し、秀吉の遺書に書かれた政治体制、すなわち家康を筆頭とする五大老による秀頼後 見と、石田三成ら五奉行による政務執行という二本立ての仕組みはもろくも破産した。1599年正月19日この両グループの対立が激しさを加えるなか、家康 は伏見城本丸に入り、天下を一人で支配する意思を表示した。他の4大老はそれぞれに帰国し、事実上家康だけが大坂城に残っ た。                                                      
      帰国した上杉景勝は、秀吉のあと天下を握るために画策していた家康との衝突を不可避と見て、これに対する防備の為に、会津若松の近く、阿賀川と湯川の中間地点である神指(こうざし)に有利な場所を選び(現在の会津若松市神指町高瀬)、慶長5年(1600年)より新しい城(神指城)の築城工事を開始した。
      上杉謀反の報を受けた家康は、書面による釈明、上洛を要求したが、上杉側は釈明も上洛も拒否した。
      家康は直ちに上杉討伐を宣言し、慶長5年7月21日江戸城を出発した。しかし、7月17日に上方では石田三成が挙兵し、戦乱が始まった。
      家康は上杉討伐を中止し8月5日小山から江戸に帰り、9月1日に江戸を発って西に向かった。
      この慶長5年(1600年)9月15日関が原において決定的な会戦が行われ、午後2時頃には勝敗が決し、東軍の勝利に終わった。
      家康は9月27日大坂城に入り、天下を掌握した大勝利を固める為の戦後処理を行った。その中心は諸大名の移封による論功行賞と、徳川支配体制の確立であっ た。家康は、大名たちを支配する為に必要な土地を朝鮮などに求めるようなことはせず、最終的には鎖国体制による国内の安定、すなわち厳格な封土割当と、敵 意や失策を見せた大名からの容赦ない土地取り上げ、減封や転封による支配でもって大名たちの締め付けをはかる方向によることとした。後に、会津藩などは、 この体制の「番人」の役目を割り当てられることになる。これは、大航海時代も最終段階にあって、オランダ、フランスが17世紀に入ってすぐ1602年と 1604年にそれぞれ「東インド会社」を設立したという時期における世界の情勢との関係という観点から見れば、きわめて保守的、反動的な支配方法であっ た。そしてこれが、幕府と、その忠実な「番犬」役をつとめた会津藩その他の徳川親藩の運命を決することとなる。とりわけ歴史は会津藩に厳しい運命を振り当 てたことになる。

      翌年(慶長6年8月16日)上杉景勝は伏見城において家康と会見し謝罪した。その結果、上杉は会津の地を取り上げられ、米沢30万石に減封、転封された。

      この神指城跡は、1991年より数次の発掘調査が行なわれ、確認されている。
    調査の詳細は、下記をクリックすれば立派な報告書と写真に接することが出来る。

      他方、蒲生秀行は関が原で功績を立てたために、それを評価されてふたたび若松に戻った。しかし男子が生まれなかったため、蒲生氏は断絶した。
      そのあと1627年加藤嘉明が伊予松山から40万石でここに入封した。しかしその子明成のとき、城の改修による年貢増徴、寛永の大飢饉による農民の逃散などから「お家騒動」が起こり、加藤氏は領地返上を願い出て改易となった。

徳川親藩としての会津藩の成立

      1643年に徳川家光の異母弟である保科正之が、北方最重要の前線を固めるべく最上からこの地に転封されて、本領23万石(ほかに幕府領地の南山預かり地5万5千石)にて家門親藩の会津藩が成立した。(預かり地の石高は幕府の都合で年により変動した)。

      保科正之は徳川秀忠の三男であり、母は秀忠の乳母の侍女お静であった。秀忠は恐妻家で知られ、正妻達子(織田信秀の娘・お市)に知られることを恐れ、生ま れた正之(幼名幸松)は春日局を通じて、秀忠の乳母の友人見性院に預けられ、秘密で育てられた。7歳のとき信州高遠藩主保科正光がこれを預かって養子とい う名目で育てた。1631年このことを知った家光により見出され、高遠藩3万石の藩主となった。
      秀忠の死後家光は異母弟を大切に扱い、1636年山形藩20万石を彼に与え、1643年に会津藩の藩主とした。慶安4年(1651年)家光は死に臨み、正 之に「徳川本家をよろしく頼む」と言い遺した。これに感激した正之は1668年(寛文8年)「会津家訓15箇条」を定め、幕府を守ることを誓ったのであ る。

      このエピソードは講談、浪曲などを通じて広く市井に伝えられている。最近は、「家康の息子浮気で会津生み」などという川柳が若い人達から出るほどである。 本来大名というのは側室を抱えて、男子系統を絶やさないようにしていたのだから、どこでも「浮気」で藩が保ったということが出来る。ところが、会津では、 天下の大藩がこの「浮気」により生まれて、幕府守護の大命題を200年以上も追求し続け、天下の大乱のなかで悲惨な崩壊をとげた、というのであるから尋常 ではない。
      保科家は1695年(元禄8年)に松平の姓と葵の紋が許されて、最も重要な幕府親藩の地位を与えられた。これは、会津藩から「嫡出子でない徳川傍系の藩 主」という外部からの目と藩内の劣等意識を拭い去るものであったに違いない。家康のなし遂げた事業を完全にシステム化して強固な権力を打ち立て、「余は生 まれながらの将軍である」と大名たちに豪語した家光の直系の弟であることが天下に示され、会津藩の意識と士気をますます高揚させるものであったにちがいな い。しかし、「大藩」とはいえ、歴史を振り返るとき、このような「誇り」と「体裁」を維持するのは、藩にとって、そして藩士にとって、非常に高価なものに ついたと言えるだろう。

会津藩家訓と、藩士たちの実際の生活

ここで、保科正之のさだめた、藩の憲法とも言うべき、会津藩家訓とはどんなものであったかを見てみよう。

全15条の第一条で「大君の儀、一身大切に忠勤に励 み、他国の令をもって自ら処すべからず、もし二心を抱かばわが子孫にあらず。面々決して従うべからず」と書かれている。その内容を現代風に言えば、藩の基 本的戦略方向を述べたものであるが、ここでは大君(徳川将軍)への忠勤を、藩主保科正之の子孫、すなわち自分の後を継ぐ歴代会津藩主の義務という形で示し ている。
藩士の義務は、第4条の「主を重んじ、法を畏るべし」 というところで明文化されている。それに先立つ三つの条は、武備の重要性、人事採用の原則、兄弟、上下の分の厳守の強調、「婦人女子の言、一切聞くべから ず」なという文言など、藩主およびその家族の心得が述べられている。
第6条から第13条までは、賄賂、えこひいきの禁止、 藩士に対する賞罰権を家老のみに与え、またつげ口および「利害による道理の歪曲」の禁止、法の厳守など、「風儀」の問題としてまとめて藩内の日常問題に対 する戒めが説かれている。この部分は藩の統治者集団、官吏としての藩士層のおよそ一般的な行動規範である。
14条に、飢饉に備えたコメの備蓄「社倉」の設置が定められているが、同時にこの備蓄の「他用」を禁じている。また15条で奢侈を戒めている。
ここではじめて領民との関係が意識され、同時に経済問 題に触れられている。徳川時代には、会津藩を含め、どの大名も経済問題が大問題であった。実際には、飢饉は領民の動揺、領内一揆の危険を意味した。会津藩 においては、幕府警護という「藩の存在のアイデンティティ」にとっては最も警戒すべき問題であった。

現在の立場から考えると、第1条以外は、当時の藩士に たいする「あたりまえ」の日常的な要求である。会津藩祖の家訓に示された将来へ向けた政治原則、戦略的方向は、結局は第一条の、「将軍を守れ」、という規 定だけであった。しかし、幕末に至って、この規定を守るために京都所司代を引き受けざるを得なかったことは、この藩の悲惨な終末を運命付けたのである。

徳川末期の武士と百姓

      実際には、この会津藩家訓は表向きの看板というべきであろう。この時代には、既にどの藩でも、藩主及び藩士の最大の重大事は、一揆とお家騒動を引き起こさ ないことであった。実際に会津藩をはじめ、どの藩も遭遇した最大の困難は財政問題、コメの作柄、農民の貧窮や逃散、年貢の不納であった。藩士も楽ではな かった。会津藩では、寛延2年(1749年)12月から翌年1月にかけて1万数千人が参加する一揆が起こった。藩では鉄砲組を配置し、発砲して農民を町か ら追い返した。しかし一揆に参加する農民数はますます増加し、1月25日、家老たちを退役させ、貧窮者には年貢を半減し、領内全般に5分下げを実施してよ うやく一揆を収めた。会津藩では藩政時代を通じて全領域に拡大した一揆はこれ一回のみであるが、藩政に深刻な影響を及ぼした。この一揆のあと、年貢の納付 率は、宝暦元年(1754年)とその翌年はそれぞれ46.5%、3%と、いずれも50%以下の低率になった。これでは藩の借財元利合わせて4万2千余両の 返済が出来ず、商人たちにたいして一時返済を中止すると共に、城下町の商人の活動を盛んにする施策を採用した。また農民の年貢を3カ年間出来高に関係なく 定額とした。家臣からは150石以上の者は4分、50石以上は3分、30石以上は2分5厘を徴収(借上げ)して財政危機を切り抜けることにした。これ以外 にも多くの手を打ったが財政困難は解決せず、ついに明和7年(1770年)4月、藩財政の中心人物であった井深主水がひそかに出奔してしまった。

  天明2年(1782年)から3年にかけて更にひどい凶作に見舞われ、藩は2年9月に200俵、4年正月には1000俵の米を放出して領民の救済を図 り、また銀3000貫を幕府から借用したが、この年は参勤交代を免除してもらう窮状であった。天明6年(1781年)に豊作となり息を吹き返した。
  天明7年(1787年)家老田中三郎兵衛玄宰は藩政改革に関する大綱を提出、同じく家老の北原恒茂、三宅孫兵衛、高橋小右衛門らによって審議され、藩 主容頌らによって審議され、藩主容頌の決断で寛政の改革が開始された。改革の中心的推進者には下級の藩士が多かったが、いずれも経済の学に通じていたこと に注目しなければならないであろう。

  寛政の改革は農村の復興から始まり殖産興業、軍事・学制改革に及ぶものであって一応の安定をもたらしたものであるが、これが領民の一揆により始まったものであることを明記すべきであろう。

  しかし、これらの改革は、藩財政の改善の問題を解決するには至らなかった。その状況に重なって、軍事費の増大が」始まった。文化5年(1808年)幕 府は東北諸藩に北方蝦夷地の警備の為に出兵を命じ、会津藩には樺太警備の為の出兵が命じられ、会津藩は600人の軍勢を樺太に派遣した。これは1年足らず で終わったが、今度は江戸湾の警備が命令された。

      ここに述べたのは、会津藩の財政窮乏の一時期の典型的な状況である。この繰り返しは幕末の藩の敗北まで続く。東北各藩も同様であろうが、徳川封建体制は回復力を有していなかった。会津藩が力を注いだ殖産興業も、武士たちの政権の力の及ぶものではなかった。

わが家の先祖に見る実例

      わが出羽家の先祖は、実は譜代木村忠左衛門である。会津藩の資料を見ると、木村忠左衛門は、安永7年(1779年)3月から天明2年(1782年)3月ま で4年間猪苗代城代(要するに本城である会津若松の鶴ヶ城に次ぐ要衝である猪苗代城の守備隊長)を務めていた。石高は500石であった。この天明2年に木 村忠左衛門は木村家の家督を弟に譲り、隠居を申し出た。藩主はこれを認め、同時に、そのとき森台村(現在の湯川村森 台部落)で、地方御家人の出羽家が絶家になっているので、これを復活し相続するよう命じたという。木村忠左衛門が隠居を申し出たのは、一応の表向きは、跡 継ぎの男子が無かったためとでもしたのであろう。この主命に従い、彼は森台村に居を構え、地方御家人という藩士の身分で出羽伝内と名乗るようになったとい う。現在この私もそこに住んでいるわけである。

      地方御家人(じかたごけにん)とは、会津藩の農地の減少対策として、1776年に設けられた制度である。農業の衰退、郷村人口の減少により、手余地(てあ まりち、放棄された農地)が増大し、安永5年にはおよそ1万2900石の手余り地が記録されている。そこで、藩士の帰農が奨励されることとなった。これが 「地方御家人」である。藩士として資格は確保され、参勤交代のときには藩主にお目通りが許された。本田10石につき6両2分、新田には4両の手当てが貸与 され、家作の材木は下付し、引越しのための馬も貸与された。制度施行後10年後には総計8000石以上の耕地の再生がみられた。そればかりでなく、会津藩 においては、この後に来る天明、寛政の改革において、改革派の中心人物が地方御家人から多く輩出して、新しい体制への脱皮を志向するようになったことが画 期的な意義として評価されている。

      木村忠左衛門退陣の場合は、すでに寛延2年(1749年)の一揆もあったことであり、天明2年の飢饉による藩の財政赤字を考慮し、城代が地方御家人として 帰農することは、藩の難局に率先して立ち向かう意味もあったと考えられる。上記のように、辞任帰農の翌年の天明3年は、前年に輪をかけた不作、大飢饉と なった。
     
      当時会津藩の俸禄の支給は藩財政の逼迫の為「四つ成り」方式であった。すなわち公表禄高の4割が支払われるということであった。実際には、このころから借 知(藩による借上げ)という名目で藩士の俸禄の減額支給が常態となる。この天明2年(1782年)は不作、天明3年には凶作、大飢饉であった。家族は妻と 3人の娘があるだけで、男子はいなかった。ただ40歳を越したばかりのの本人の年齢を考慮すれば、この引退、隠居は、藩の難局に呼応して決心された可能性 が大きい。その後、伝内は、砲術の達人満田重蔵を婿養子として迎え、出羽嘉一郎喜時を名乗らせた。
      木村忠左衛門(出羽伝内)の場合は、家禄は減らされなかった。これを弟が引き継いだわけである。これには、上記の自発的引退と共に、木村忠左衛門の「家 系」が考慮されたようである。実は、保科正之の初期家臣団名典のなかに木村忠左衛門忠成という名が見える。これが木村忠左衛門の先祖であるらしい。
      大阪夏の陣で豊臣家の重臣であった木村長門守重成の遺児木村理兵衛忠次が寛永11年(1615年) 保科正之に召抱えられた。豊臣家滅亡のときには木村理兵衛忠次は七・八歳であったと思われる。世間をはばかり然るべき人の庇護をうけて育てられたのであろう。
      豊臣の遺児が徳川直系の保科正之に召し抱えられたのは奇妙に思われるかもしれない。木村重成は、幼少より豊臣秀頼に仕え(ということは、淀君とも近かった ことを意味するであろう)、大阪冬の陣では、佐竹義宣、上杉景勝の兵を今福、鴫野に破って奮戦し、夏の陣で井伊直孝と若江で闘って戦死した天下に隠れもな き豪の者である。秀吉の奥州仕置の際、蒲生氏郷が「天下の剛勇の士」を召抱えることを条件に会津拝領を引き受けた例もあり、大阪城陥落から19年も経った 後では、このようなことが行われたのであろう。
      そして木村忠左衛門忠成はその子供である。本当に彼らが木村重成の血筋を引くであったとすれば、相当の考慮でもって会津藩で遇せられてきたことが考えられる。
      木村忠左衛門(出羽伝内)が家督を譲った弟の木村家について言えば、会津戦争当時の当主は、500石木村兵庫である。会津落城のとき一家は自刃して果てた。

      いずれにせよ、このように徳川後期になると、禄高どおり実際の俸禄が支給されないことは普通になり、会津藩の藩士、特に下級藩士の生活は楽でなかったはずである。


戊辰戦争後の会津

    こういう状態であるから、会津の農民は会津戦争に必ずしも協力的ではなかった。会津藩では会津落城後、世直し一揆として、各地の農民が蜂起して、藩政組織 の末端に在った在地役人の家を襲った。2代目出羽伝内も地方御家人として、会津戦争の時には玄武隊に属し、本宮口に出陣し、弟横沢七郎は青竜隊に属して白 川口に出陣して奮戦したと伝えられる。農民一揆の群れは我が家にもやってきたが、出陣武士の留守家族だ、ということで略奪を免れたという。農民は決してた だの無思慮、無力な存在でもなく、暴徒と化したのでもなかった。
      戦争から帰ってきた2代目出羽伝内は、会津藩降伏後提供された替地、現在の青森県の酷寒の地である斗南藩行きを拒否し、故郷の会津森台村に残留帰農した が、、チョンマゲをつけたままで農業を行っていたという。しかし新政府に反対した「賊軍」ということで差別待遇を受け、明治政府から許されて福島県氏族に 編入されたのは、ようやく明治25年であった。
      戊辰戦争後の会津についてはまだまだ書くことがあるが、掲載はもう少し勉強してからにする。


会津藩の学制

      現在、会津にも、会津藩家訓を「武士道の鏡」として賛美する向きもあるが、このような、藩の必要、藩運営の実体を知らないで、あるいは顧慮しないで「武士 道」を論ずるのは、空論というべきであろう。必要だったのは、経済の知識、農学や産業に関する知識、そして世界の大勢に明るい人材であった。それらを駆使 して藩財政を再建する才覚を持った「武士」が藩にとって必要であった。そのような人材を生み出し、登用することが出来なかった藩は、いずれにせよ滅亡を免 れなかったのである。日本全体を見たとき、幕末には、このような方向で才能と識見、そして組織能力、実行力を発揮した武士や専門家は、幕府の機構内にも、 各藩内、とりわけ情報に恵まれていた西南地域各藩にも、また民間にも、数多く出現していたのである。

   会津では、寛政改革の時期に、学制の改革が進められ、藩校として日進館が創設された。これは藩士およびその子弟を文武両面で教育するものであるが、 幕末には蘭学も講じられるようになった。庶民の為には町講所と藩内15箇所の郷校が藩によって設置された。ほかに寺小屋があり、若松町方だけで20箇所に 達した。
   藩の儒学として朱子学が中心となったが、民間では、中江藤樹の流れを汲む心学が喜多方地域を中心に普及し、会津心学と呼ばれるようになった。 1617年幕府の公的な学問としての朱子学保護のため、一時陽明学の普及が禁止されたが、心学者は農民の教化を目的とするものであり、朱子学や神道と矛盾 しないものとして後に解禁された。

   但し、上記は、会津若松市発行の「会津の歴史」の一部ををそのまま紹介したものである。「会津精神」「会津魂」といわれるものの中身については、更に研究のうえ、本稿読者の皆様にお知らせしたい。

   これらの学校及び民間教育施設で、何がどのように教えられていたか、私は今のところ何も知らない。だだ、この家に転居してから物置を調べたら、4つ の木箱に入った漢籍を見つけ出した。岳父に問い合わせると、これは寺小屋の教科書セットであろうということであった。会津若松の県立博物館に持ち込んで、 学芸員の方にお願いして鑑定して頂いたら、「会津地域で町方や農村の豪家などでよく見つかる標準的な漢籍のセットである」ということであった。私として は、数十冊の水戸光圀が編纂した「大日本史」が入っていたことが特に印象に残ったが、これは本来ならば総計本記合計397巻の大作であるはずであるが、箱 に入れられているのは30冊ぐらいである。明らかに「寺小屋の教科書セット」だろうと納得できた。こういうものも会津において寺小屋レベルで読まれてい た、ということも私にとっては、会津藩の本質的な方向からして、納得できる「新情報」でもある。岳父に照会したところ、この漢籍セットは、わが出羽家の初 代出羽嘉一郎(通称出羽伝助二代目)の次男の漢学者で、江戸で修学し、戊辰戦争敗北後、身分を隠すために事実上安藤家を創始して安藤修三と名乗り、会津に 帰って漢学塾を創設した人の持ち物の一部であろうということであった。安藤修三は、そのご明治政府が郵便事業を設立したときに、初代若松郵便局長に任じら れた人物である。郵便の創設は、明治政府にとって非常に大きな意義を持つ近代化事業であった。地方の学識者や素封家が、この事業にこういう形で選ばれ、動 員された。
   私としては興味はあるが、この漢籍セットは、今のところは納屋の2階において、「ネズミがかじるという批判」(マルクスの言葉)に出会わないようにして保管している。

   現在の会津においては、地方の新聞を見ても、依然として、会津藩家憲15条の幕府に対する至誠こそ会津魂であり、武士道である、という風な賛美が幅 を利かせている。最近、JR会津若松駅前に「ならぬものはなりませぬ」という石塔が立てられた。これは、会津藩家憲を補充する文書で、会津藩士の子供たち の生活規律を規定した「什の教え」の一節であり、藩の規律に対する無条件の服従を説いたものである。今回建設された「石塔」は、自動車の運転者たちに交通 規則順守を呼びかけるものであるらしいが、こういうものが日常生活で大手を振って出てくるのが、会津の現状である。

   心学についても、私は今のところは何も知らない。ただ、これが喜多方方面を中心として拡大発展した、ということと、明治に入ってまず喜多方を中心と して自由民権運動が芽生えたことと関係があるのかもしれないと考えているだけである。「会津の思想」に関しては、いずれ多くの人の意見を聞き、研究の上、 ホームページの読者に私の意見をお知らせしたいと思っている。。



http://www001.upp.so-net.ne.jp/dewaruss/aizu_histroy.htm

井深八重


井深 八重(いぶか やえ、1897年10月23日 - 1989年5月15日)は日本の看護婦台北生まれ。父は衆議院議員をつとめた井深彦三郎明治学院総理の井深梶之助は伯父。ソニーの創始者井深大とは遠縁にあたる。遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』のヒロインのモデルでもある。

来歴

八重が7歳の時に両親が離婚、母は八重を井深家に置いて去る。父・彦三郎も多忙なため伯父の梶之助に預けられ育つ。1910年、小学校を卒業して同志社女学校普通学部に入学。家族から離れた8年間の寄宿舎生活を始める。1918年、同志社女学校(現在の同志社女子大学)専門学部英文科卒業。長崎県立長崎高等女学校の英語教師となったが、1919年ハンセン病と診断されて神山復生病院に隔離入院。3年後の1922年になってそれは誤診だったと判明[1]するが、彼女はハンセン病患者を献身的に看護する院長ドルワール・ド・レゼー神父の姿に感銘を受け病院に留まることを決意する。1923年、 看護婦学校で学び資格を所得し病院初の看護婦となる。当時はハンセン病やその患者に対する激しい差別と偏見が存在した時代であったにも関わらず、極貧の状 態だった神山復生病院の婦長として献身的な看護にあたり、生涯をハンセン病患者の救済に捧げた。その活動は国際的に高く評価され、1959年には教皇ヨハネ23世より聖十字勲章を、1961年には赤十字国際委員会よりナイチンゲール記章を受章。日本カトリック看護協会(JCNA)初代会長。1977年度朝日社会福祉賞受賞。
井深家については井深宅右衛門#井深家を参照。

補注

  1. ^ 再診に当たったのは当時東京大学で皮膚病の権威であった土肥慶蔵日本テレビHPなどで「親戚の医者が八重の再診を行った」とするが誤りである。土肥慶蔵について
 
 
 

一心寺



大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗の寺。正式には「坂松山高岳院一心寺」。
 文治元年(1185)、法然上人がこの地に草庵を結んだことを開基とし、慶長元年(1596)に三河の本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で1000 日の念仏修法を行って寺を再興した。本誉上人の一心称名をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれている。

 大坂冬の陣・夏の陣では徳川家康の本陣がこの寺に置かれ、ことに元和元年(1615)5月の夏の陣では近辺で激戦が展開されたため、一心寺に埋葬された戦死者の数は3000体を数えたという。

 幕末、京都守護職である会津藩主松平容保の大坂における定宿となり、会津藩の大坂藩邸的な役割も果たした。
 会津藩士のうち、大坂夏の陣の際に信州保科家の家臣として戦死した祖先を持つ者たちには、この寺に祖先の墓を建てて供養していった者もいたという。
 慶応4年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いの後、傷を負って退却してきた会津藩士たちの多くはこの寺に収容されたが、そのまま息を引き取る者も少なくなかった。現在も墓域には、会津藩士関係の墓が並んでいる。

 明治以後、関西会津会らがたびたび供養顕彰を行ない、昭和12年には門前に「明治戊辰戦歿会津藩士之碑」が建てられた。



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井深八重



明治30年(1897)~平成元年(1989)
 井深彦三郎の娘として、台北に生まれる。
 母親が早くに亡くなったうえ、父は極めて多忙で家にいることがほとんどなかったため、物心がついたころに父方の叔父である井深梶之助の家に預けられた。
 そこで何不自由なく英才教育を施されて育ち、同志社女学校を卒業後、英語教師として長崎の県立女学校へ赴任する。
 希望に満ち、前途洋々たる1年間が過ぎた22歳の某日、体調に異変を感じ、福岡の大学病院で精密検査を受けたところ、突如病名をふせられたまま御殿場の 神山復生病院に隔離入院させられてしまう。彼女には、当時忌むべき病とされていた「ライ病(ハンセン病)」との診断が下されたのである。

 一族の恥、ということで籍も抜かれてしまった彼女は、失意の底に沈みつつ入院生活を始めるが、自分も感染するかもしれないのに素手で患者をなでさするな ど、笑顔で献身的な看護を続ける院長のレゼー神父と、死と直面しているとは思えない患者たちの明るい姿を目の当たりにすることとなる。この病院には医師は レゼー神父しかおらず、看護婦に至っては皆無。比較的軽い症状の患者が、重い症状の患者の看護をしているという状況で、もはや先には死しかないという絶望 の館であるにもかかわらず、院長の笑顔と信仰に支えられた患者たちはことのほか明るく、互いに支えあうその姿は、限りなく純粋な愛に包まれているようです らあった。

 1年後の再検査で、幸いにも彼女のライ病罹患は誤診ということが判明する。しかし彼女は即座に病院に戻ることを決意し、東京半蔵門にある看護婦学校速成 科で大正12年9月に看護婦免許を取得すると、直ちに財団法人神山復生病院唯一の看護婦として働き始めた。彼女の看護婦としての帰還を、レゼー老院長や患 者たちがどんなに喜んで迎えたことか。井深八重、27歳の秋であった。

 彼女の仕事は、老院長を助けての患者の看護は勿論のこと、病衣や包帯等の洗濯から食事の世話、経営費を切り詰めるための畑仕事、義援金の募集、経理ま で、およそ病院に関わること全般におよんだ。昭和5年にレゼー老神父が病没し、その後は日本人神父が院長を後継したが、彼女の献身的な仕事は変わらなかっ た。

 やがて、長年にわたった彼女の苦労は人も知るところとなり、晴れて報われることとなる。
 昭和34年、ローマ法王ヨハネスク23世からその献身的な看護を表彰されたのに始まり、日本では黄綬褒章が授与され、さらに2年後の昭和36年には、最高の栄誉であるフローレンス・ナイチンゲール記章が授与されたのである。

 その後も彼女は復生病院の看護婦長であり続けたが、平成元年5月15日、御殿場市内の病院において91歳で永眠した。救ライ事業に全生涯をかけた人生であった。



井深彦三郎



慶応2年(1688)~大正5年(1916)
 井深宅右衛門の3男として、若松城下に生まれる。
 
 明治19年、義兄荒尾義行に従って清に渡り、中国、満州、蒙古の国情調査に当たる。日清戦争では第1軍司令部の通訳官を務め、その後、民政事務に参画する。
 明治37年勃発の日露戦争でも軍政に従事し、戦後清国の招きに応じ、東三省の政務顧問として満州開発に貢献した。

 明治45年、衆議院議員に選出される。


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井深宅右衛門



文政13年(1830)~明治30年(1897)
 会津藩士井深清太夫家7代。藩の学校奉行を務め、家禄は550石。文武に秀でて博学多識、特に漢籍に深い造詣を持つ。また会津怡渓派の茶道の皆伝書を受けている。
 妻の八代子は西郷頼母近悳の妹、長男は井深梶之助。

 物頭、組頭、町奉行を歴任して、文久2年(1862)江戸常詰の聞番となる。翌年、軍事奉行仮役として京都に上り、慶応2年(1866)学校奉行に転じて会津に帰った。
 戊辰の役には第2遊撃隊の隊頭として越後方面に出陣し、後任を相澤平右衛門に譲るまで、小出をはじめとした越後戦線各地で戦闘を行なっている。
 その後、用人として藩主父子に付き添って籠城戦を戦い、開城後は滝沢村に謹慎、喜徳が東京の有馬邸に移された際にもこれに従い、明治3年に至って赦免さ れた。この間、萱野権兵衛切腹の日の朝、手元の竹の火箸を取り一刀流溝口派の奥義を伝授した相手が、この宅右衛門であった。
 同年10月、家族と共に斗南へ移住したが、同6年に若松に帰り、小学校の教員をつとめたあと、大沼郡書記、南会津郡書記、田島村組戸長などを歴任している。

 晩年は東京に移っていたらしく、墓は青山霊園にある。


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井深重光

元和3年(1617)~元禄12年(1699)
 監物重次の子として信州高遠に生まれる。半弥のち茂右衛門と称し、隠居後は常敬と号した。

 祖父の茂右衛門重吉は保科正光の家臣で、武田家滅亡のおり、人質になっていた正光の危難を救った忠臣である。

 重光は、保科正之から正容まで仕え、家禄は1000石から2200石まであがり、家老として藩政にあずかること31年の長きに渡った。

 その実直な人柄は、上下からの信頼が共に篤かったという。


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井深梶之助


安政元年(1854)~昭和15年(1940)
 会津藩校日新館の学頭・井深宅右衛門の長男として、若松城下本三之丁(現在の東栄町)に生まれる。母は、家老西郷頼母近思の娘八代子。

 14歳で会津戦争に際会し、一度は父の率いた「第2遊撃隊」とともに小千谷に出撃し、小出では激闘をも経験するが、小出から敗走した後、父命により若松 へ戻った。帰城後は藩主容保の小姓となり、滝沢本陣での白虎隊出撃や、1千の兵を率いた佐川官兵衛の出陣など、籠城戦の始終を君側から目撃することとな る。

 降伏後、他の会津藩士とともに斗南に移住するが、西洋の圧倒的な技術力を知り、その背景となる西洋学を学ぶべく16歳で上京、斗南藩・土佐藩の私塾を転々とした後、横浜の「修文館」の学僕となった。
 その「修文館」で英語を教えていたのが宣教師ブラウンで、この非常に人道的な宣教師の影響を強く受け、ついにキリシタン禁制解除前にもかかわらず洗礼を受けることを決意し、これを受けた。ときに梶之助19歳であった。

 明治10年、ブラウンの塾が発展的に解消して東京一致神学校となり、同19年に明治学院となった。
 梶之助は学院の副総理を務め、36歳でアメリカのニューヨーク・ユニオン神学校に留学し、帰国後、ヘボンの後をうけて総理に就任する。救済事業に尽力し つつ、知育偏重教育の弊を改め、意志と情操の教育を尊重し、有能な技術者や博識な学者のみならず、宗教的かつ円満な人格者の養成を常に主張した。
 
 墓は、青山霊園にある。


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一ノ堰の六地蔵


会津若松市門田町一ノ堰にある地蔵尊。萩之原六地蔵尊。
 天台宗神護山照谷寺の先代石川清海住職の撰文によると、堀川天皇寛治4年(1090)6月、当村山田近右衛門が草刈のおり、萩の株から1寸8分の地蔵尊を発見し、持仏堂に安置して供養したのが始まり。
 その後22年間、日々の供養を怠らないでいたところ、天永3年(1112)に大川の洪水で大木が流れ着いて近右衛門の名を呼んだ。近右衛門は驚きながら もこれを地蔵様の導きと解釈し、その大木を霊木として6体の地蔵尊を刻み、漂着した場所に堂を建てて安置した。
 以来、人々はこの地蔵尊を「萩之原の六地蔵」と呼んで篤く崇敬したという。

 ところが寛永20年(1643)春に、堂宇が炎上してしまう。その後建てられた草堂は、ひどく粗末なものであったらしい。
 50有余年間に渡り、人々の悲しみをよそに草堂は粗末なままであったが、元禄12年(1699)、諸国修行中の向誉上人がこの地に至り、10年の歳月を かけて草堂を方6間の堂宇に改め、金色の六地蔵を修造し、宝永5年(1708)7月24日に入仏供養を行なった。これが現在の一ノ堰地蔵尊である。

 さらに大正14年、堂宇が老朽化したので鞘堂を増築して瓦葺とし、現在に至っている。
 縁日は8月23日・24日。

 昭和の頃、この六地蔵尊の前に非常に美味い棒鱈を食べさせてくれる店があったのが、残念ながらもうないらしい。


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長沼流


長沼流(ながぬまりゅう) は、長沼澹斎によって編み出された兵法軍学の流派。


信濃国松本藩士・長沼澹斎によって編み出された兵法軍学の流派で、長沼流兵法長沼流軍学の名で知られている。澹斎は父・長政の主君・松平直政の転封に従い、出雲国松江藩播磨国明石藩を転々とするが、美濃国加納藩で成人し、日本兵法の諸流、明代の中国兵法を学んだ。
寛文6年に「長沼流兵法兵要録」が発表され、同時代の山鹿素行による山鹿流と並ぶ新兵法学の双璧として江戸で名が知れ渡った。
『兵要録』では練兵関係が多く著述され、『握奇八陣集解』では、「兵義なきなれば人心和し、天心応ず」という義兵論に主張の中心があった。山鹿素行と異なるのは、根底に朱子学的理念が流れている点だと石岡久夫は指摘している。[1]

長沼流の系譜

  • 長沼澹斎の門人は千人と言われるが、中でも井上実下、田山重好、仁田正武、土岐光晴、宮川忍斎佐枝尹重らが有力な高弟である。宮川系は黒田藩中心に栄え、佐枝系は、尾張藩津藩会津藩仙台藩などで伝承された。[2]
  • 尾張藩では、佐枝尹重門人の太田教品、近松茂矩の伝系が長く伝えられた。
  • 会津藩では、幕末の戊辰戦争まで藩校日新館にて長沼流の兵法が教えられていた。[3]
  • 長沼流を中心に活躍した武術家に平山行蔵がいる。宮川系の斎藤三太夫(利雄)、佐枝系の渋川時英より長沼流兵法を習得、兵法、武術を講義した。勝海舟の父・小吉、乃木希典の父・十郎、男谷精一郎も兵原の講義を受けた。[4]
  • 宮川系の斎藤三太夫(利雄)に長沼流を伝授された門人の中には、男谷精一郎と親しい関係で、山鹿流を軸に、甲州流軍学越後流、長沼流を兼修、幕府講武所頭取兼兵学師範役を務めた窪田清音がいる。林靏梁は窪田清音から長沼流を学んでいる。[5]

医師矢沢宗益


医王寺
いおう-じ  南会津郡只見町塩沢にある真言宗の寺。高野山遍照光院の末寺。塩光山と号し、本尊は薬師如来。
 
 境内に、幕末の長岡藩家老、河井継之助の墓がある。
 慶応4年7月25日、長岡城下の激戦で膝下に重傷を負った継之助は、会津で再起をはかるべく八十里越えを経て会津領塩沢に至り、医師矢沢宗益宅に投宿す るが、8月16日、傷の悪化によりこの地で没した。荼毘に付された遺骨は会津へと運ばれたが、その際に拾い残された細骨を村人が集めて建てた墓が現地に 残っている。

 例年、継之助の命日である8月16日に墓前祭が挙行されている。


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会津領主


最初の殿様
 不明です。会津最初の領主は、1189年に佐原義連が最初となります。佐原氏は葦名氏(あしなし)と名のるようなり、4代泰盛
(やすもり)頃に会津に落ち着き、本拠地の城館を築きます。黒川城としては、7代葦名直盛(なおもり)が整備しています。
歴代の殿様
   佐原氏(さわらし)・葦名氏(あしなし) 1189年~1589年(400年)、3代目から葦名となる
    ※葦名氏の系図は諸説あり、確定しない部分(8代~11代)があります。
     初代・佐原義連(よしつら)、2代・佐原盛連(もりつら)、 3代葦名光盛(みつもり)
     4代・葦名泰盛(やすもり)、 5代・葦名盛宗(もりむね)、 6代・葦名盛員(もりかず)
     7代・葦名直盛(なおもり)、 8代・葦名詮盛(あきもり)、 9代・葦名盛政(もりまさ)
     10代・葦名盛信(もりのぶ)、11代・葦名盛久(もりひさ)、12代・葦名盛詮(もりあき)
     13代・葦名盛高(もりたか)、14代・葦名盛滋(もりしげ)、15代・葦名盛瞬(もりきよ)
     16代・葦名盛氏(もりうじ)、17代・葦名盛興(もりおき)、18代・葦名盛隆(もりたか)、
     19代・葦名亀若丸(かめわかまる)(隆氏・たかうじ)、20代・葦名義広(よしひろ)(盛重・もりしげ)
   伊達氏(だてし) 1589年~1590年(2年)
     伊達政宗(まさむね)     
   蒲生氏(がもうし) 1590年~1598年(9年)
     初代・蒲生氏郷(うじさと)、2代・蒲生秀行(ひでゆき)
   上杉氏(うえすぎし) 1598年~1601年(4年)
     上杉景勝(かげかつ)・執政が直江兼続
   再蒲生氏(さいがもうし) 1601年~1627年(27年)
     2代・蒲生秀行(ひでゆき)、3代・蒲生忠郷(たださと)、4代・蒲生忠知(ただとも)
   加藤氏(かとうし) 1627年~1643年(17年)
     初代・加藤嘉明(よしあき)、2代・加藤明成(あきなり)
   保科氏(ほしなし)・松平氏(まつだいらし) 1643年~1868年(226年)、3代目から松平
     初代・保科正之(まさゆき)、2代・保科正経(まさつね)、3代・松平正容(まさかた)、
      4代・松平容貞(かたさだ)、5代・松平容頌(かたのぶ)、6代・松平容住(かたおき)、
      7代・松平容衆(かたひろ)、8代・松平容敬(かたたか)、9代・松平容保(かたもり) 
最後の殿様
  9代松平容保(かたもり)です。
最初に石垣を築いたのは
  葦名氏ですが、その遺構は残っていません。伊達政宗は、天正18年(1590)町人を動員して石垣を積んでいます。
天守閣を建てたのはだれか
  蒲生氏郷です。大坂城のような黒い天守閣で7層、黒い瓦、軒先に金箔を張ったもので、天守台の石垣いっぱいに建ってい
ました。後に天守閣を建て直す時に蒲生忠郷や加藤氏が白壁の5層の天守閣にしました。
領主と藩主の墓
  佐原・葦名氏 初代佐原義連は、神奈川県横須賀市の万願寺にあり、供養塔が喜多方市熱塩加納にあります。 市街地
南東の小田山山麓に寿山廟と花見ヶ森廟、東山の天寧に狸(たぬき)ヶ森廟にあります。
  伊達氏、上杉氏、加藤氏 墓はありません。
  蒲生氏 氏郷が興徳寺、秀行が館馬町の弘真院、忠郷が中央二丁目の高巌寺にあります。
  保科・松平氏  初代保科正之が磐梯山麓の猪苗代町土津神社が墓所、2代目以降は市内東山町の
会津藩主松平家墓所にあります。

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2016年3月17日木曜日

岩村田藩



元禄16年(1703年)8月、武蔵国赤沼藩武蔵国上野国常陸国上総国下総国など各地で1万5000石)から転じて内藤正友が佐久郡のうち27ヶ村で1万6000石を与えられ、岩村田陣屋が置かれたことに始まる。その後、1万石分が摂津国河内国(現在の大阪府)内の地へ一時移封されたが、その次男である第2代藩主・内藤正敬の代に再度佐久郡内の地へ移封された。また三男の内藤正直に1000石が分知された。このように所領の場所が頻繁に入れ替わることが多かったが、藩政で特に見るべきところはなく、そのまま代替わりした。
第6代藩主・内藤正縄老中水野忠邦の実弟であった関係で、伏見奉行となってその功績により城主格に昇進された。最後の藩主・内藤正誠は日光祭礼奉行・奏者番・寺社奉行などを歴任する。戊辰戦争では新政府軍に与して宇都宮城の戦い北越戦争に出兵した。この頃、岩村田では築城計画がなされていたが、明治2年(1869年)に版籍奉還が行なわれ、さらに廃藩置県が行なわれて藩が廃されたため、城は未完成のまま廃城となった。そして岩村田県は長野県に吸収された。
なお、現存建物として蔵が陣屋跡近くの中嶋公園に移築現存している。

飯山藩


慶長8年(1603年)、松平忠輝が北信濃4郡を支配したとき、その付属大名である皆川広照が4万石で飯山に入ったことが、飯山藩の始まりである。しかし慶長14年(1609年)に広照は忠輝のもとで敏腕を振るっていた家老・花井吉成を讒言したために徳川家康の怒りを買い、改易されてしまった。翌年、越後の堀一族が改易されると、その一族の一人であった堀直寄が飯山に入る。直寄は千曲川の治水工事や新田開発を積極的に推し進めて藩の支配体制を固めようとしたが、元和2年(1616年)に直寄は越後長岡藩へ移封となる。代わって近江国内より佐久間安政が3万石で入る。安政は織田信長の家臣で「鬼玄蕃」の異名を取った佐久間盛政の弟である。安政の後はその子・佐久間安長、そして安長の子・佐久間安次が継いだが、寛永15年(1638年)に安次が夭逝したため、佐久間氏は無嗣断絶で改易となった。
翌年、松平忠倶遠江掛川藩から4万石で入る。忠倶・松平忠喬の二人は地方巧者の野田喜左衛門を登用して用水路開設や新田開発、税制の確立に努めて藩政を安定化させた。宝永3年(1706年)に松平氏は掛川に戻され、代わって播磨赤穂藩から永井直敬が3万3,000石で入る。しかし直敬は5年後の正徳元年(1711年)に武蔵岩槻藩へ移封され、代わって摂津尼崎藩から青山幸秀(幸侶)が4万8,000石で入る。しかしこれもわずか6年後の享保2年(1717年)に丹後宮津藩に移封された。代わって越後糸魚川藩より本多助芳が2万石で入る。この本多氏は、本多正信に近い系統である。
しかし助芳は糸魚川1万石から1万石加増されて2万石になったが、実質的には千曲川の水害のために糸魚川1万石よりも収入が少なかった。このため、家老の本多弥五兵衛の献身的な忠義が幕府に認められたこともあって、享保9年(1724年)に替え地が用意された。また藩領を城下・外様組・川辺組・山之内組に分けて支配した。明治元年(1868年)の戊辰戦争では、越後高田藩から旧幕府軍の衝鋒隊が飯山に侵入し、城下は戦火に見舞われた。その後北越戦争会津戦争に参戦した。翌年、第9代藩主・本多助寵版籍奉還により飯山藩知事となる。そして明治4年(1871年)の廃藩置県により、飯山藩は廃藩となって飯山県となり、同年末には長野県に編入された。

玅笑寺 長沼歴史研究会


戦国信濃島津氏は千曲川の西岸善光寺付近から豊野町飯縄町一帯を領した戦国大名で、甲越の川中島の戦いの境目に位置した信濃の国人領主です。

 信濃島津氏は九州島津氏と同根で、忠久が承久三年5月(1221)大田庄地頭職に補せられ、文治二年(1186)正月8日、塩田庄の地頭に補せられました。安貞元年(1227)孫の高久が大田庄の地頭職を継いで、長沼に住しました。

 室町期、元中元年(1387)4月、漆田の戦、応永六年(1399)、大塔の戦いでは守護に抗し、守護軍と戦い破った記録があります。永享十三年(1440)3月に起きた結城合戦では、長沼島津氏は時の信濃守護小笠原政康の指揮下、茨城結城城を攻め、結城陣番帳十三番に島津氏の名が見えます。永正(1504-1520)頃には、埴科葛尾城主村上氏に属したようです。

戦国期島津領は本拠とした長沼館、詰めの要害と思われる大倉城、飯縄地方の中心とした矢筒城を拠点としました。

 武田が北信濃に侵攻を始めると、島津阿波守は、天文二十二年八月、村上義清と共に上田原において武田晴信と戦い、これを破りますが、天文二十二年(1553)葛尾城が落ち、村上氏は越後の長尾氏を頼ります。弘治元年(1555)には、長沼城が武田に攻略され島津安房守は越後に走りますが、上杉が取り返し争奪があったようです。弘治三年葛山城が落ちると島津月下斉は大倉城に退き、後、島津安房守は越後に落ちます。月下斉、安房守、後述する淡路守は、同一人物島津忠直のことと思います。

矢筒城 飯綱地方の拠点 
病院が建っているあたりに館があり、運河を利用した物資集散する基地としての機能と城下町を備えていた。
        
イメージ 3          
大倉城 
 長沼は島津時代は館程度のもので、大倉城を詰めの城としたのではないだろうか。
 飯山の高梨氏とは緊張関係にあった時代もあり、飯山方面への備えの意味もあったと思います。

大倉城の様子はこちらに http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10311370.htmlまとめました。



 永禄四年九月の第四回川中島合戦では、島津勢は上杉軍の先陣として死闘を繰り広げたことでしょう。しかし第四回川中島合戦以降は、長沼は武田の支配するところとなり、長沼館は武田の北信における一大拠点城として改修されていきます。(替佐、壁田、若宮は最前線であり、長沼城が一歩後方の一大拠点) 前線の各城はこちらを御覧ください。替佐城http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10086589.html、壁田城http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10117498.html、若宮城http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10226597.html


長沼公民館に掲示されている長沼古城図です
  武田により、永禄四年十月、掻揚、何倍もの大きさとした。
        永禄十一年さらに大規模に拡張された。 
 上の図は 江戸時代元和二年(1688)から元禄元年(1688)までこの地を領した佐久間時代以降の城下の図です。外郭は佐久間時代、内郭(三日月掘りの中)が武田時代の城郭と考えます。

南方から見た現在の推定城域です。
貞心寺から守田神社の間に長沼城がありました。天王社に長沼城の碑と説明版があります。

貞心寺前から見た城内方向。道はお馬道といわれる城時代の道筋です。

天王社の石祠と長沼城の碑

長沼城の北端付近にある守田神社
 守田は大田庄の 田を守るといういわれがあるらしい。
 境内には島津氏が祀っていた天神宮が石祠として残っています。

守田神社境内

島津氏の菩提寺と伝わる玅笑寺

現、長沼歴史研究会の中心として、長沼城の研究を進めておられます。
 
妙笑寺には長沼城のものと伝わる門扉が残されてます。

妙笑寺様から頂いた研究資料中、明治28年の地籍図には、三日月堀の痕跡が残ります。鋭意、研究中ということでしたので、今後の長沼歴史研究会の研究に期待します。どのような姿が顕れるのか、楽しみですね。発掘、研究会、発表会の際は私にもお声掛けいただけますようお願いしてきました。


信濃島津氏ですが、甲越の争いに際し、当主安房守は後越後上杉を頼りますが、武田を頼った分家が他にあったようです。川中島戦以降も安房守は同じく越後に身を寄せ、後の謙信死後の御館の乱では景勝につき、武田を滅ぼし川中島に入った織田の森長可が本能寺での変で上方へ去ると、上杉軍の一員として信濃を回復し、長沼城に復帰します。文禄三年定納員数目録では信州侍中に知行6190石371人の軍役を担い、さらに二十五人の桂(葛)山衆も抱える大身として島津淡路守の名があります。その後も会津、米沢と上杉に従い、明治の初期に東京へ出、家門を伝えています。
 
 武田を頼った分家は尾張守を当主とする一族だったようです。永禄六年八月に武田晴信が嶋津尾張守に宛、戦乱で逃亡した住人を呼び返すよう命令する文書が残っています。
「長沼地下人并従先々在嶋之族□悉集、可遂居住長沼地者也。仍如件、永禄六年亥癸八月十五日」
また、設楽ヶ原の戦い後、武田勝頼が軍役強化をはかり川中島の土地調べをした際、嶋左京亮津泰忠が知行地を書き出した文書も嶋津泰忠知行注文として残っています。
 上杉に従って会津へ行ったは別に、島津家が当地に現在も伝わっています。
 以下現地の方々からの聞き取りと文献からの私の推論です。
 赤沼の島津家が武田についた尾張守で、武田家中として牟礼三水を安堵され、上杉の会津移封には従来の経緯からついて行かず半帰農し江戸期は飯山藩に仕えたのではないでしょうか。


赤沼の島津館跡


浅野に伝わる島津屋敷

島津家家紋 丸に十の字

長沼村史を参考に、長沼歴史研究会、長沼公民館、浅野郵便局、赤沼郵便局の皆様にお話を伺って作成しました。


http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10290498.html


2016年3月15日火曜日

1574



信濃史料

巻十四 天正二年(1574)~ 

天正八年(1580) 武田勝頼、島津某を常陸介となす、

    [出典]
     嶋津文書・○・長野市長門町・県立長野図書館所蔵
 
 

信濃史料 巻二十五 寛永五年(1628)~



巻二十五 寛永五年(1628)~
巻二十六 寛永九年(1632)~
巻二十七 寛永一四年(1637)~
巻二十八 寛永一七年(1640)~
補遺編-上 崇神~
補遺編-下 慶長元年(1596)~