2016年3月12日土曜日

燕山荘


雪焼けして帰宅した父は、初めて私の誕生を知った。大正12年1月のことである。
 南安曇郡旧有明村の赤沼家は、天蚕の飼育と製糸業を幅広く営み、製品は「世界一」の商標で京都の西陣や丹後に出荷していた。大勢の女性工員、お手伝い、作男などが住み込み、にぎやかだった。祖母の満江は包容力があり慈悲深く、多くの村人から敬愛され、実質的な大黒柱的存在だった。
 その祖母から「子供が産まれるというのに、2カ月も家を留守にして心配をかけるなんて」と大層しかられた父。だが、そんなことには懲りず、その年の数・・・・11月から翌年3月にかけて厳冬期の薬師岳から上ノ岳、黒部五郎岳、槍ケ岳、上高地の大登山プランを立案、実行した。
 前進基地に山小屋を3個所建設し、それぞれの小屋を撮影のベースにした。その費用に伊藤さんは当時の金で20@万円という莫大なお金を投入した。この時のフィルムは当時代議士だった伊藤さんの叔父さんの口ききで天覧に供せられた。
 伊藤さんはそれだけ大金を使ったにもかかわらず、完成したフィルムを売る気などは毛頭なかった。叔父上から「そんな山の写真を撮ってどうするつもりだ」と聞かれた時、「自宅で家族一同がまず観る。それから信州へ持っていき、大町の百瀬と有明の赤沼に見せた上、越中の芦峅へ行き参加した人たちや家族に見せる」と言った。
 この撮影に要した35ミリフィルム2万フィートは戦時中わが家の土蔵に保管され、長い間ほこりをかぶっていた。しかし、今日では日本の山岳映画の初期を飾る画期的な映像として貴重な存在になっている。
 私の生母みのるは、私が1歳半、兄が3歳のとき病を得て他界してしまった。祖母は母親を失った私達を不憫に思い、殊のほか私をかわいがってくれた。そして10歳上のミヨさんを子守役に住み込ませた。
 母が亡くなって1年後、みのるの姉はまへが後添えに来てくれた。私はある程度成長するまで実母とばかり思っていた。叔母でもある母が90歳で他界するまで継母だからと思ったことは一度もなかった。
 ミヨさんとは相性がよかったのか、口げんかを一つしたことがなかった。ある冬の夜、「腹が減った」というと、彼女はどこからか餅を持ってきて、こたつの火を吹きながら二人で焼いて食べた。私が成長してからは、19歳で嫁ぐまでわが家の手伝いをしていた。たびたび失敗しては忙しい母によくしかられていた。祖母は陰に陽に彼女をかばい、学校に通わせ、裁縫を習わせるなど面倒をよくみてやった。
 彼女は現在、よき家族に囲まれ幸せに過ごしている。すでに84歳。自分で作った野菜や漬物などをどっさり持って、よく遊びに来てくれる。今ではほとんど失われた昔気質を持ち続けるミヨさんに、私たち夫婦は大変感謝している。
 私が初めて燕岳に登ったのは昭和3年、4歳の夏だった。合戦小屋からは父のリュックサックに入れられて登った。小屋の薄暗い物置には、たくさんのランプが掛けてあり、小屋番が毎朝すすけたホヤを磨いているのを珍しく思い、じっと眺めていた。そのころは宿泊者もせいぜい40人程度だったが、案内人はいつでも7、8人はいた。煙のたちこめる囲炉裏を囲んで、面白おかしく語り合い、そのそばで登山者たちは興味深く聞き入っていた。この光景は、石油の匂いをかぐたびに今も思い出される。

http://www.matsusen.jp/myway/akanuma/akanuma02.html

0 件のコメント:

コメントを投稿