林檎の花、龍の爪
波間に浮かぶ士魂。ある士族のルーツを訪ねます。
2016年3月15日火曜日
信濃史料 巻四 安貞元年(1227)~
巻四 安貞元年(1227)~
安貞元 信濃の僧承仙、山城泉涌寺維那職となる、
安貞元 藤原定家、信濃の国務を覧る、定家の伝記、
安貞元 水内郡太田庄地頭嶋津忠久卒し、子忠時嗣ぐ、太田庄相伝系図、
安貞元 藤原定家の使者、信濃より京都に帰り、国情を報ず、
安貞元 是より先、藤原定家、信濃国司の補任を待つ、、、
安貞元 幕府、島津忠時をして、水内郡太田庄小嶋・神代・石村南・津野、、、
安貞元 水内郡千田郷庁官貢進の貢物、藤原定家の許に到る、
安貞元 藤原定家、信濃より貢進の干桑・梨・銭等を収納す、、、
安貞二 将軍藤原頼経、相模由比浜に犬追物を覧る、小笠原時長等、射手を勤む、
安貞二 将軍頼経、小笠原時長等をして、馬場殿に流鏑馬を行はしむ、
安貞二 将軍頼経、相模杜戸浦に遊び、遠笠懸等を行ふ、、、
安貞二 将軍頼経、三浦義村の相模田村の山荘に逗留す、、、
安貞二 北安曇郡社村木舟の鉄製鰐口成る、
安貞二 信濃国知行主藤原為家、今年五節舞姫を献ずベきを定めらる、
寛喜元 幕府弓始、藤澤光清等、射手を勤む、
寛喜元 藤原兼頼、信濃介に任ぜらる、
寛喜元 将軍頼経、相模杜戸浦に遊び、犬追物を覧る、小笠原時長等、射手を勤む、
寛喜元 将軍頼経、相模由比浜に流鏑馬を覧る、小笠原時長等、射手を勤む、
寛喜元 是より先、中野能成、その所領高井郡志久見山の鷹ノ子のことに就きて、、、
寛喜元 是より先、藤原隆仲、信濃の吏務を執る、是日、隆仲出家す、
寛喜二 将軍頼経、相模由比浜に笠懸等を覧る、小笠原時長等、作物を射る、
寛喜二 幕府、中野助能をして、その所領筑前勝木庄を本主勝木則宗に返付せしめ、、、
寛喜二 将軍頼経、相模由比浜に犬追物を覧る、小笠原時長等、射手を勤む、
寛喜二 鎌倉の諸士、幕府及び北條泰時第の門前に群集して騒動す、、、
寛喜二 加々美遠光卒す、
寛喜三 県召除目、大江景頼、信濃権介に任ぜらる、
寛喜三 信濃国、源雅親の知行国となり、同頼俊、信濃守に任ぜらる、
寛喜三 信濃守源頼俊、信濃異損の由を奏上す、
貞永元 相模和賀江嶋の修築成る、幕府、諏訪盛重等をして、之を巡検せしむ、
貞永元 源輔通、信濃守に任ぜらる、
天福元 幕府垸飯、小井弖師貞等、之に参仕す、
天福元 藤原宗範、信濃権守に任ぜらる、
天福元 後堀河上皇、京都新日吉社小五月会に赴き、流鏑馬を覧る、、、
天福元 石清水八幡宮寺所司等、更級郡小谷庄地頭等、、、
文暦元 京都北野社火く、尋で、信濃国、同社拝殿再興の事を課せらる、
文暦元 北條泰時の孫経時、元服す、諏訪盛重等、参仕す、
嘉禎元 善光寺三尊像、京都に写し造らる、道俗、競ひて之を拝す、
嘉禎元 鎌倉法華堂辺の湯屋火け、諏訪盛重、消火につとむ、、、
嘉禎元 信濃の僧覚心(無本、心地房)東大寺戒壇院に受戒す、、、
嘉禎二 幕府、善光寺僧徒の訴に依り、同寺前地頭長沼宗政の代官等の非法を停む、
嘉禎二 信濃の人平林頼宗、豊後毛井社頭職に補せらる、、、
嘉禎二 将軍頼経、鎌倉若宮大路新造御所に徙る、、、
嘉禎二 幕府弓始、藤澤光清等、射手を勤む、
嘉禎二 北條泰時、新第を営み之に徙る、諏訪盛重、その南角に居を構ふ、
嘉禎三 幕府垸飯、小井弖師貞等、之に参仕す、
嘉禎三 幕府弓始、小笠原時長等、射手を勤む、
嘉禎三 幕府、近習の番を定む、平賀三郎兵衛尉等、その結番に入る、
嘉禎三 将軍頼経、源頼朝ノ室政子追善のために、相模大慈寺内に丈六堂を建立、、、
嘉禎三 幕府、小笠原時長をして、明年の摂津箕面堂供養の請僧布施を沙汰せしむ、
嘉禎三 将軍頼経、丈六堂供養に臨む、平賀三郎兵衛尉等、之に供奉す、
嘉禎三 海野幸氏、北條泰時の命に依り、泰時の子時頼に流鏑馬の故実を指南す、
嘉禎三 幕府、諏訪社の明年五月会の神事等のことを沙汰す、
嘉禎三 善光寺五重塔婆供養あり、僧生仏、善光寺に参詣す、
暦仁元 幕府垸飯、小井弖師貞等、之に参仕す、
暦仁元 幕府弓始、藤澤光清等、射手を勤む、
暦仁元 将軍頼経、京都に入る、大井光長等信濃の諸士、多く随兵を勤む、
暦仁元 是より先、将軍頼経、権中納言等に任ぜらる、是日、拝賀を行ふ、、、
暦仁元 諏訪重信、諏訪社上社の大祝の位に即く、
暦仁元 将軍頼経、大和春日社に参詣す、大井光長等、随兵を勤む、
暦仁元 北條経時、相模大庭野に猟す、小笠原時長等、之に随ふ、
延應元 幕府弓始、藤澤光清等、射手を勤む、
延應元 北條泰時、小県郡小泉庄室賀郷内の田地を、善光寺不断念仏料所として寄進、、、
延應元 幕府、信濃国司初任検注の時、諏訪社上社五月会・御射山会頭人の所領、、、
延應元 覚心(無本、心地房)行勇(退耕、荘厳房)の相模寿福寺住持となり、、、
仁治元 幕府垸飯、小井弖師貞等、之に参仕す、
仁治元 幕府弓始、小諸左衛門尉等、射手を勤む、
仁治元 幕府、信濃の人落合某の後家尼と、その子太郎との争論を裁して、、、
仁治元 将軍頼経、二所参詣のために、鎌倉を発す、大井光長等、之に随ふ、
仁治元 五節の儀あり、信濃国知行主源輔通、五節舞姫を献ず、
仁治二 幕府垸飯、小井弖師貞等、之に参仁す、
仁治二 幕府弓始、小笠原時長等、射手を勤む、
仁治二 将軍頼経、馬場殿に射的の儀を行ふ、海野幸氏・望月重隆等、見證に候す、
仁治二 藤原雅平、信濃権介に任ぜらる、
仁治二 僧光具、諏訪社仁王会料所として、田地を寄進す、
仁治二 海野幸氏、武田信光と、上野三原庄と佐久郡長倉保との境を争論す、、、
仁治二 善光寺金剛五鈷鈴成る、貞應三年八月一八日、比丘栄忍等、金剛五鈷鈴を、、、
仁治二 北條経時、父時氏の遺命に依り、信濃の人奈古又太郎の承久勲功の追賞を、、、
仁治二 北條経時、海野長氏等を随へて、伊豆藍沢に猟す、、、
仁治二 将軍頼経、秋田義景ノ武蔵鶴見の別荘に、笠懸を行ふ、、、
仁治三 小笠原長清卒す、
仁治三 覚心(無本、心地房)山城極楽寺に道元に参じ、菩薩戒を受く、
寛元元 幕府、将軍臨時供奉人の結番を定む、小笠原時長等、之に加へらる、
寛元元 信濃の人平林頼宗、豊後毛井社地頭職を、同頼忠に譲る、
寛元元 将軍頼経、鶴岡八幡宮に流鏑馬を行ふ、小笠原時長等、射手を勤む、
寛元元 滋野光氏、所領小県郡海野庄加納田中郷地頭職を、子経氏等に譲る、
寛元二 東筑摩郡坂北村碩水寺の阿弥陀如来像成る、
寛元二 是より先、信濃の人市村景家、千田蓮性の人勾引をなす由を幕府に訴ふ、、、
寛元二 佐久郡落合新善光寺の阿弥陀如来像、、、
寛元二 幕府、市河高光の、旧妻藤原氏の密通にかかる讒訴を斥け、、、
寛元二 幕府、滋野経氏をして、小県郡海野庄加納田中郷地頭職を安堵せしむ、
寛元三 幕府弓始、小笠原七郎等、射手を勤む、
寛元三 源季遠、信濃権守に、藤原公斉、同権介に任ぜらる、
寛元三 将軍藤原頼嗣、鶴岡八幡宮に、流鏑馬を行ふ、小笠原時長等、射手を勤む、
寛元三 諏訪盛重、左衛門尉に任ぜらる、
寛元四 幕府弓始、大井光長等、射手を勤む、
寛元四 善光寺供養あり、
寛元四 是より先、執権北條経時卒し、同時頼嗣ぐ、北條光時等、之に乗じて、、、
寛元四 法興院御八講始、信濃等の諸国、所課の料物を進めず、
寛元四 将軍頼嗣、馬場殿に笠懸を行ふ、小笠原長澄等、射手を勤む、
寛元四 幕府、藤原惟家をして、諏訪社上社領筑摩郡白河郷地頭職を安堵せしむ、、、
寛元四 幕府、金刺為頼をして、和田郷地頭職を安堵せしむ、
寛元四 諏訪盛重等、北條時頼の命に依りて、幕府臺所乱入の徒を尋問す、
宝治元 将軍頼嗣浜出始、小笠原長澄等、犬追物の射手を勤む、
宝治元 某、水内郡戸隠社の大般若経を書写す
宝治元 是より先、三浦泰村の族叛す、是日、北條時頼、諸将をして之を討たしむ、、、
宝治元 八田知定、疑状を幕府に呈し、恩賞に與らんことを請ふ、、、
宝治元 小笠原長経卒す、
宝治元 将軍頼嗣、馬場殿に遠笠懸を覧る、小笠原長澄等、射手を勤む、
宝治元 覚心(無本、心地房)上野長楽寺に到り、同寺住持栄朝(釈円坊)、、、
宝治二 将軍頼嗣、相模由比浜に百番小笠懸を行はしむ、、、
宝治二 諏訪盛重、北條時頼の子宝寿時輔、の乳人となる、、、
宝治二 覚心(無本、心地房)朗誉(蔵叟、悲願房)と共に、、、
宝治二 将軍頼嗣、鶴岡放生会に臨む、小笠原長澄等、随兵を勤む、
建長元 藤原茂通、信濃権介に任ぜらる、藤原公佐、先に信濃守りたり、
建長元 覚心(無本、心地房)筑前博多を発して入宋し、、、
建長元 僧幸万、懸仏を筑摩郡岩殿寺に寄進す、
建長元 中野能成、高井郡中野・志久見両郷の惣地頭職を、子忠能に譲る、
建長二 幕府垸飯、諏訪盛頼等、之に参仕す、
建長二 僧行西、佐久郡福王寺の阿弥陀如来像を修理す、
建長二 幕府、閑院内裏造営を諸士に課し、その目録を作り、、、
建長二 将軍頼嗣、方違のために、北條時頼第に入る、、、
建長二 平林西仏、弟故頼宗の旧妻尼行阿と、、、
建長二 将軍頼嗣、相模由比浜に犬追物を行ふ、小笠原長澄等、射手を勤む、
建長二 藤原道家、家領を処分す、、、
建長二 覚心(無本、心地房)湖州護聖万寿寺(道場)に、同寺住持如珏(荊叟)、、、
建長三 幕府弓始、諏訪盛頼等、射手を勤む、
建長三 諏訪社辺に鳥群斃死す、
建長三 小井弖能綱、伊那郡小井弖・二吉両郷の地頭職等を子師能に譲る、、、
建長三 是より先、諏訪社々頭の湖面に大島並びに唐船等幻出す、、、
建長三 幕府、諏訪盛重に命じ、陰陽師をして、風災を攘ひ、豊稔を祈らしむ、
建長三 将軍頼嗣、相模由比浜に於て遠笠懸、犬追物等を行ふ、、、
建長三 是より先、鎌倉の人心動揺す、是日、幕府、謀叛人僧了行等を捕へ、、、
建長三 信濃の僧普門(無関)、入宋して、杭州霊隠景徳寺如珏(荊叟)、に参じ、、、
建長四 幕府弓始、海野助氏、相手射手なきに依りて、射手を罷めらる、
建長四 宗尊親王、鎌倉に下向し、是日、相模片瀬に到る、、、
建長四 将軍宗尊親王、始めて鶴岡八幡宮に参詣す、小笠原長澄父子等、之に随ふ、
建長四 幕府、平林頼敏をして、埴科郡英多庄八郎丸名平林内桑井屋敷を安堵、、、
建長四 是より先、小井弖師能、弟宮熊と伊那郡春近領内井弖・二吉両郷内の田堺、、、
建長四 十訓抄成る、その中に信濃に関する説話あり、
建長四 将軍宗尊親王、新第に移徙す、平賀惟時等、之に供奉す、
建長四 将軍家新第的始、信濃の人薩摩祐広等、射手を勤む、
建長四 幕府、中野西願の訴を斥け、弟同忠能をして高井郡中野西條、、、
建長四 幕府、中野正康をして、高井郡中野郷内の屋敷・田地及び志久見郷内、、、
建長四 覚心(無本、心地房)天台山に上り、石橋に羅漢の応現を拝す、
建長五 将軍宗尊親王行始、諏訪盛経等、之に供奉す、
建長五 幕府弓始、海野助氏等、射手を勤む、
建長五 僧某、水内郡戸隠社の大般若経を書写す、
建長五 善光寺の修造成り、是日、供養を行ふ、
建長五 是より先,僧覚心(無本、心地房)明州大梅山に登り、法常の塔を拝し、、、
建長五 藤原兼経、所領目録を注す、その中に伊那郡蕗原庄等信濃の庄園六箇所あり、、、
建長五 諏訪盛重、故北條泰時の菩提を弔はんがため、鎌倉山内に一堂を建立、、、
建長六 幕府的始、海野助氏等、射手を勤む、
建長六 是より先,僧覚心(無本、心地房)杭州護国寺住持慧開(無門)に告別帰国、、、
建長六 僧覚心(無本、心地房)宋より帰朝し、高野山禅定院に同院住持行勇、、、
建長六 幕府、滋野経氏をして、小県郡海野庄加納田中郷地頭職を安堵せしむ、
建長六 幕府、中野能成の女藤原氏をして、高井郡中野西條内田在家を安堵せしむ、
建長七 源通教、信濃介に任ぜらる、
康元元 将軍宗尊親王御行始、諏訪盛時等、之に参仕す、
康元元 幕府的始、藤沢時親等、射手を勤む、
康元元 高野山禅定院首座覚心(無本、心地房)杭州護国寺住持慧開(無門)に書信、、、
康元元 将軍宗尊親王相模最明寺に参詣す、小笠原時直等、随兵を勤む、
正嘉元 相模大慈寺の修理成り、是日、供養を行ふ、将軍宗尊親王、之に臨む、、、
正嘉元 覚心(無本、心地房)高野山禅定院住持となり、嗣香を慧開(無門)に焼き、、、
正嘉二 諏訪盛重、的始の射手の選定にあたり、信濃の人知久信貞を推す、、、
正嘉二 佐久郡釈尊寺観音堂成る、
正嘉二 源泰清、信濃守に任ぜらる、藤原教房、さきに信濃守たる、
正嘉二 将軍宗尊親王、相模勝長寿院供養に臨む、小笠原時直等、随兵を勤む、
正嘉二 将軍宗尊親王、鶴岡八幡宮放生会に臨む、小笠原政直等、随兵を勤む、
正嘉二 是より先、諏訪刑部左衛門入道、伊具四郎入道殺害の疑に依りて捕へらる、、、
正嘉二 覚心(無本、心地房)高野山禅定院を退院し、紀伊由良に赴き、、、
文応元 幕府弓始、藤沢光朝等、射手を勤む、
文応元 源通頼、信濃権守に、同具守、信濃介に任ぜらる、
文応元 信濃の僧性円(慧静房)、大和戒壇院円照より、受戒す、
弘長元 幕府垸飯、諏訪盛頼等、之に参仕す、
弘長元 僧租円(規庵)水内郡長池に生る、
弘長元 幕府的始、望月師重等、射手を勤む、
弘長元 故三浦義村の子僧良賢等、謀叛の企あり、諏訪盛重等、良賢を鎌倉亀谷に捕、、、
弘長元 将軍宗尊親王、鶴岡八幡宮放生会に臨む、小笠原時直等、随兵を勤む、
弘長元 前信濃守護北條重時卒す、
弘長元 普門(無関)、杭州淨慈報恩光孝寺住持妙倫(断橋)、より、法衣・頂相、、、
弘長二 覚心(無本、心地房)紀伊浜宮八幡宮に利生方便の成就を祈る、
弘長二 普門(無関)、宋より帰朝して、薩摩にあり、
弘長三 幕府垸飯、諏訪盛頼等、之に参仕す、
弘長三 幕府的始、松岡時家等、射手を勤む、
弘長三 是より先、北條時頼、水内郡深田郷の地を買得し、是日、之を善光寺に寄進、、、
弘長三 北條時頼、臨終にあたり、諏訪蓮仏の極楽住生を引導せんことを契る、
文永元 覚心(無本、心地房)紀伊西方寺に愛染法及び五大尊法を修して、、、
文永元 信濃の僧観実房、大和戒壇院円照より受戒す、、、
文永元 紀伊西方寺開基葛山景倫(願性)、同寺及び同寺領を開山、、、
文永元 小笠原長忠卒す、
文永元 普門(無関)、東福寺に圜爾を省覲し、尋で、寿福寺に朗誉、、、
文永二 幕府弓始、海野泰信等、射手を勤む、
文永二 是より先、中野為泰、父忠能の遺領高井郡中野・志久見両郷地頭職を、、、
文永二 藤原資兼、更級郡藤長御厨年貢未進の代として、伊勢継橋郷内の地を、、、
文永二 是より先、幕府、奉行人を置き、善光寺警固に充つ、、、
文永三 幕府弓始、海野泰信等、射手を勤む、
文永三 是より先、木工権頭親家、京都より鎌倉に帰り、後嵯峨上皇の諷詞を幕府に、、、
文永三 覚心(無本、心地房)、信濃に帰り、母を省す、、、
文永四 藤原季顕、信濃権介に任ぜらる、
文永四 御嵯峨上皇、石清水八幡宮寺領更級郡小谷庄に造伊勢大神宮役夫工米の徴収、、、
文永四 覚心(無本、心地房)、の母尼妙智寂す、、、
文永四 亀山天皇、石清水八幡宮寺領更級郡小谷庄に、造豊受大神宮役夫工米の徴収、、、
文永四 嶋津忠時、水内郡太田庄等の所領を妻子等に譲る、
文永五 善光寺焼く、
文永五 信濃の僧戒円房、大和戒壇院円照より受戒す、明日、寂す、
文永五 相模寿福寺覚心、(無本、心地房)を同寺住持に請ず、覚心、固辞、、、
文永六 祇園御霊会、神人等闘諍す、信濃の人某、少将井社の神輿を射る、
文永六 信濃の僧観勇寂す、
文永八 智真(一遍)、善光寺に参籠す、
文永八 笠原信親、某と争論す、是日、信親、幕府に証文目録を提出す、
文永八 日蓮、相模龍口に斬られんとするに臨み、旨を伊那郡殿岡の地頭四條頼基に、、、
文永八 善光寺堂供養あり、鶴岡八幡宮寺社務隆弁、その導師を勤む、
文永八 幕府、平林親継をして、埴科郡英多庄八郎丸内平林屋敷内桑井傔仗屋敷等、、、
文永九 信濃・越後・佐渡等の僧俗、佐渡塚原に日蓮を誹謗し、却って、その説法に、、、
文永九 源通雄、信濃権介に任ぜらる、
文永九 尼寂阿弥陀仏、(袈裟)、高井郡志久見郷下条平林地頭職併びに中野西條内、、、
文永九 信濃の僧祖円(規庵)、紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)の会下にあり、、、
文永一一 藤原為雄、信濃介に、藤原実時、信濃権介に任ぜらる、
文永一一 幕府、市河盛房をして、高井郡中野郷西條内屋敷・筥山並びに志久見郷、、、
文永一一 日蓮、幕府の赦免に遇ひて、佐渡の配所を出で、信濃を過ぎ、、、
文永一一 是より先、中野仲能、市河盛房の高井郡志久見郷南北境を違乱するを、、、
文永一一 信濃の僧妙意(慈雲)生る、
建治元 智真(一遍)、覚心(無本、心地房)に参禅す、淨阿、覚心に参ず、
建治元 北條実時、水内郡太田庄大倉・石村両郷等を藤原氏に譲る、、、
建治二 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同寺開基葛山景倫(願性)、、、
建治三 薩摩入来院塔原郷地頭渋谷重経、子重員・頼重勘当の旨、、、
建治三 北條義政、出家して鎌倉を出奔す、、、
建治三 将軍惟康親王、北条時宗に肥前・肥後安富庄地頭職を与へんとす、、、
弘安元 藤原長忠、信濃権介に任ぜらる、
弘安元 平氏女、懸仏を安曇郡仁科神明に寄進す、
弘安元 高梨朝定、亡母の菩提のために、碑を建つ、
弘安元 是より先、中野忠能後家蓮阿、市河重房と、忠能の女釈阿の遺領、、、
弘安元 伊那郡殿岡の地頭四条頼基、佐渡に新知を給せらる、、、
弘安二 尾張長母寺住持道暁(無住、一円房)、沙石集を選述す、、、
弘安二 小笠原光長、佐久郡落合新善光寺に銅鐘を寄進す、
弘安二 智真(一遍)、佐久郡伴野庄に踊念仏を行ふ、
弘安二 長野市最勝院の板碑成る、長野県に現存する板碑、
弘安三 智真(一遍)、善光寺に詣づ、山内入道、善光寺如来の霊夢により智真に、、、
弘安三 亀山上皇、京都新日吉社小五月会に臨み、流鏑馬を覧る、、、
弘安三 幕府、信濃等諸国の地頭・御家人等に令して、石清水八幡宮放生会以前の、、、
弘安三 是より先、四條頼基、日蓮に米を贈る、是日、日蓮、書を贈りて之を謝す、
弘安三 東福寺住持圜爾、病篤きを以て、普門(無関、普門房、)をして、同寺住持、、、
弘安三 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同国熊野妙法寺に登る、
弘安三 祖円(規庵)、建長寺に、同寺住持祖元(無学、)に参ず、
弘安三 僧覚勇、紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)の行実縁起を撰す、
弘安四 嶋津久経、子久長に水内郡太田庄神代・津野両郷地頭職等を譲る、
弘安四 信濃の人有坂弥二郎等、竹崎季長の元冦軍忠の評定に、証人となる、、、
弘安四 北條義政、小県郡塩田庄に卒す、
弘安四 藤原実経、普門(無関、普門房)を東福寺住持となす、
弘安四 亀山上皇、紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)を招請して禅門を問ひ、、、
弘安五 北条時宗、相模に円覚寺を開剏して、建長寺住持祖元(無学、)を開山に請、、、
弘安六 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同寺景倫(願性)、追薦のため、、、
弘安六 知久敦幸、伊那郡文永寺に五輪塔及び石室を造立す、、、
弘安七 是より先、紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、紀伊報恩寺の大殿を造営、、、
弘安七 幕府、近国諸社の修理・祈祷・訴訟・所領寄進等の事を引付に沙汰せしむ、、、
弘安七 是より先、興福寺造営料国信濃国目代定尭、検注物並びに年貢等を違乱す、、、
弘安七 北條時宗、相模円覚寺をして、正観寺上畠等の地を安堵せしむ、、、
弘安七 嶋津某、水内郡太田庄内大倉・石村両郷の検注居合請料及び除田の勘料銭を、、、
弘安八 藤原定藤、信濃権守に任ぜらる、
弘安八 幕府、嶋津久長をして、水内郡太田庄内神代・津野両郷等の地頭職を安堵、、、
弘安八 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、弟子覚円の請に応じて頂相に自賛、、、
弘安八 信濃の人伴野長泰、安達泰盛の謀叛に与し、誅せらる、
弘安八 内大臣藤原師継、山城鳴滝の別業を禅寺となし、妙光寺と号し、、、
弘安八 妙意(慈雲)、越後五智山に出家して、具足戒を受く、
弘安九 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、予め安骨の石櫃を造り、、、
弘安九 建長寺住持祖元(無学)、寂す、、、
弘安九 信濃の僧相模建長寺住持道然(葦航)、同寺正続院年分打給の規式を定む、
弘安九 尼妙法、安曇郡仁科神明に懸仏を寄進す、同郡神城村神明宮ノ懸仏
弘安一〇 是より先、信濃守藤原親世、大和春日社造営を勤む、是日、同社遷宮あり、、、
正応元 安倍雅遠、信濃守に任ぜらる、
正応元 信濃国司、鈎匙を給ひ、不動倉を開検せんことを奏請す、
正応元 伊那郡鳩ヶ嶺八幡宮の神像成る、
正応元 是より先、小井弖道覚、同盛綱の伊那郡小井弓・二吉両郷河成加增分の年貢、、、
正応元 深澤有経、佐久郡平賀郷内滑瀬村内の地等を、子信経に譲る、
正応元 妙意(慈雲)、建長・円覚両寺を往来して参禅す、
正応二 藤原雅任、信濃守に任ぜらる、
正応二 紀淑氏の母円覚尼、その母平氏の十三回忌追善のため、、、
正応三 是より先、嶋津久長、越後彦三郎政国と水内郡太田庄内神代郷地頭職を争ふ、、、
正応三 幕府、屋代乙王をして、埴科郡倉科庄東條内の地を安堵せしむ、
正応三 下伊那郡大下條村早稲田神社の鰐口成る、
正応三 是より先、中野泰重、同仲能・小田切実道等と、高井郡中野郷堀内・町田及、、、
正応四 隕石、紀伊西方寺の東南の山中に落つ、、、
正応四 藤井真里、信濃目に任ぜらる、
正応四 是より先、亀山法皇の東山離宮(松下殿)に妖怪の変しばしば起る、、、
正応四 禅林寺(南禅寺)開山普門(無関、普門房)、寂す、、、
正応四 亀山上皇、禅林寺(南禅寺)、開山普門(無関)の推挙に依り、祖円、、、
正応五 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同国粉河寺誓度院の規式を定む、、、
正応五 上野松井田の一結衆十二人、佐久郡今熊野社に銅鐘を寄進す、
正応五 是より先、嶋津忠時女子尼忍覚、甥同久長と水内郡太田庄神代郷、、、
正応五 宋僧円空、大般若経を書写して、筑摩郡浅間社に納む、、、
正応五 亀山法皇、禅林寺開山普門(無関、普門房)の一周忌に当り、その頂相に賛、、、
正応五 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)紀淑文の画像に賛す、
永仁元 南禅寺住持祖円(規庵)、同寺仏殿梁牌に銘す、
永仁元 東福寺、その前住普門(無関、普門房)の三回忌仏事を行ひ、、、
永仁元 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)の徒弟等、覚心の寿像を造顕す、
永仁二 源長通、信濃介に任ぜらる、
永仁二 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、後鳥羽天皇の神霊より、、、
永仁二 小笠原長政卒す、
永仁二 僧良栄、水内郡戸隠社の大般若経を書写す、
永仁二 僧観海、諏訪社上社神宮寺の釈迦三尊像を造立し、是日、供養を行ふ、
永仁二 幕府、深澤信経をして、佐久郡平賀郷内滑瀬内田屋敷等を安堵せしむ、
永仁二 伊賀頼泰、筑摩郡麻績御厨内矢倉村等を、子光貞に譲る、、、
永仁二 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、その受業の師行勇(退耕、荘厳房)、、、
永仁三 是より先、水内郡太田庄雑掌道念、領家年貢の収納を、絹を以てせん、、、
永仁三 山内時通、筑摩郡下平田郷内公田地頭職等を、子通綱・通氏等に譲る、
永仁三 是より先、大工宗仲、嶋津久長と水内郡太田庄内津野郷のことを争論す、、、
永仁三 僧宗昭(覚如)、更級郡康楽寺の僧淨賀と共に、親鸞上人絵伝を著す、
永仁三 幕府、望月重直をして、小県郡海野庄賀沢村田在家を安堵せしむ、
永仁四 尼道しやう、小県郡海野庄三文條今井村内田在家地頭職を、甥望月重直に、、、
永仁四 藤原時盛、筑摩郡福満寺に、般若心経等を読誦せしむ、
永仁四 妙意(慈雲)、越中の関野に到りて庵居す、
永仁五 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同寺に寿塔思遠庵を営む、、、
永仁五 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同国護国寺を開剏す、、、
永仁五 知久敦幸、諏訪社上社神宮寺に銅鐘を寄進す、
永仁五 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同国粉河寺大門慶賛供養の導師、、、
永仁五 妙意(慈雲)、覚明(孤峯)に見え、その誘導に依りて、紀伊西方寺に至り、、、
永仁六 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、病む、
永仁六 紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同寺規式を定む、
永仁六 藤原氏女、筑摩郡麻績御厨大吉原郷田在家等を養子かくふんに譲る、
永仁六 宮某、山城高山寺をして、同国仁和寺領更級郡四宮勅旨・無量寿院領木曽、、、
永仁六 是より先、伊達念性女子尼妙海、嶋津久長と水内郡太田庄神代郷内中尾村、、、
永仁六 僧行祐(円琳坊)、水内郡戸隠社の観音菩薩坐像を造立す、
永仁六 紀伊西方寺(興国寺)、山城妙光寺開山覚心(無本、心地房)、寂す、
永仁六 紀伊西方寺、同寺開山覚心(無本、心地房)の舎利及び遺骨の一部を、、、
正安元 僧明円(禅実房)、僧善豪(教釈房)、の勧進により、水内郡戸隠社の大般若経、、、
正安元 善光寺塔供養行はる、永仁四年十一月十一日、慈阿弥陀仏・願阿弥陀仏、、、
正安元 妙意(慈雲)、覚明(孤峯)の指示に依り、越中二上山の旧隠に東松寺、、、
正安二 幕府、中野幸重をして、論所高井郡中野郷西條内の田地並びにその押領得分、、、
正安二 金刺満貞、建長寺住持一寧(一山)に参禅し、諏訪郡に慈雲寺を開創す、、、
正安二 幕府、奥春近領高井郡志久見郷を地頭請所となし、請料を段別銭二百文と定、、、
正安三 幕府、藤原秀信をして、小県郡国分寺南条内の田在家を安堵せしむ、
正安三 僧明空、宴曲集を編む、その中に善光寺に関する曲あり、
正安三 前建長寺住持道然(葦航)、寂す、
乾元元 諏訪社上社の上空に、白竜現ると伝ふ、
乾元元 越中東松寺(国泰寺)、住持妙意(慈雲)、覚明(孤峯)を請じて陞座説法、、、
乾元元 一寧(一山)、円覚寺住持となり、入院す、、、
乾元元 是より先、市河盛房、小田切実道女子性阿と高井郡中野西条並びに志久見郷、、、
嘉元元 南禅寺住持祖円(規庵)、達磨の像に賛す、
嘉元元 南禅寺開山普門(無関)、十三年忌、後宇多天皇、普門に仏心禅師の号、、、
嘉元二 東筑摩郡坂北村碩水寺阿弥陀如来坐像の修理成る、
嘉元二 紀伊西方寺(興国寺)開山覚心(無本、心地房)七年忌、、、
嘉元二 南禅寺住持祖円(規庵)、偈を東福寺の師錬(虎関)に贈り、、、
嘉元三 武蔵称名寺、同国金沢瀬戸橋造営のために、同寺領水内郡太田庄大倉・石村、、、
嘉元三 嶋津久長、水内郡太田庄神代郷上山熊野権現に、料田を寄進す、
嘉元三 某、水内郡太田庄津野・神代両郷の領家年貢の員数を注進す、
嘉元三 薄葉景光、水内郡太田庄神代郷代官職に補せられ、是日、請文を島津久長に、、、
徳治元 後宇多上皇、昭慶門院をして筑摩郡捧勅旨等の所領を安堵せしむ、
徳治元 是より先、中沢真直・同真光、兄為真後家と為真遺領伊那郡中沢郷中曽蔵村、、、
徳治二 北条貞時、円覚寺毎月四日大斉に勤仕すべき直臣を結番す、、、
延慶元 僧覚元、木曽池口寺に鰐口を施入す、
延慶元 山城醍醐寺報恩院憲淳、諏訪左衛門尉に託して、弟子隆勝を関東祈祷僧に、、、
延慶元 下高井郡夜間瀬村出土の鉦鼓成る、南佐久郡岸野村平見堂出土の鉦鼓の銘、
延慶元 諏訪社上社神宮寺五重塔鉄露磐成る、
延慶元 南禅寺住持祖円(規庵)、建長寺正続院に赴き、祖元(無学)の塔を拝し、、、
延慶二 望月重直、その女姫夜又に小県郡加沢村内の田在家を譲る、
延慶二 信濃国司某、高井郡志久見郷地頭中野家仲の所領同郷湯山田在家に、、、
延慶二 是より先、南禅寺開山普門(無関)の門弟等、同寺住持祖円(規庵)の、、、
延慶二 是より先、山城醍醐寺報恩院隆勝、傍輩と法流相承のことを争ふ、、、
延慶三 幕府、尼永忍の申請に依りて、水内郡太田庄大倉郷地頭職を、武蔵称名寺に、、、
延慶三 幕府、慈野経長をして、小県郡田中郷内田在家を安堵せしむ、
延慶三 藤原盛世、若狭倉見庄御賀尾浦に勧請の諏訪社下社に、神田を寄進、、、
延慶三 幕府、甲斐柏尾寺修造のため、同寺をして、信濃国中に、棟別銭を徴、、、
延慶三 伏見上皇、山城高山寺をして木曽小木曽庄・更級郡四宮庄を安堵せしむ、
延慶三 小笠原長氏卒す、
延慶三 紀伊西方寺(興国寺)開山覚心(無本、心地房)、十三年忌、、、
応長元 滋野経長、小県郡海野庄田中郷地頭職を、孫宮一丸に譲る、
応長元 円覚寺住持昭元(無為)、退院せんとし、妙意(慈雲)を、その後任に起用、、、
応長元 小県郡大門村の宝篋印塔成る、
応長元 石清水八幡宮寺検校善法寺尚清、権別当同康清に検校職並びに更級郡小谷庄、、、
応長元 南禅寺住持祖円(規庵)、法衣・湯瓶・水瓶を建長寺正続院に施入す、、、
正和元 是より先、信濃の人中沢円性等、出雲淀本庄雑掌経範と同庄地頭職を争論す、、、
正和二 善光寺火く、僧某、善光寺に参詣す、、、
正和二 佐久郡大井法華堂源覚、大井一家・依田一族等の熊野二所の先達職となる、
正和二 南禅寺住持祖円(規庵)、寂す、
正和二 是より先、貝新座寄人故四郎の女犬女、亡父の信濃の人右馬太郎に預けし銭、、、
正和二 尼たうしやう、所領水内郡越郷田在家地頭職を曽孫曽我資光に譲る、、、
正和二 一寧(一山)、南禅寺住持となり、入院す、、、
正和三 藤原盛世、若狭倉見庄御賀尾浦に勧請の諏訪社下社に、神田を寄進す、
正和三 山城醍醐寺報恩院隆勝、諏訪左衛門入道に託して、弟子隆舜を関東祈祷僧に、、、
正和三 南禅寺住持一寧(一山)、山城妙光寺歳寒庵に覚心(無本、心地房)の塔を、、、
正和四 伊賀頼泰、所領筑摩郡麻績御厨矢倉郷等の地を、子光貞に譲る、、、
正和四 某、若狭倉見庄御賀尾浦刀祢百姓等をして、諏訪社下社に毎年贄魚を献、、、
正和四 南禅寺住持一寧(一山)、紀伊西方寺(興国寺)、住持心開(鉄関)の請に、、、
正和四 平繁長、小県郡霊泉寺木造阿弥陀如来坐像並びに阿弥陀堂を造立す、、、
正和四 北条実時後家(慈性)、水内郡太田庄石村南郷を金沢貞顕に譲る、、、
正和五 是より先、若狭倉見庄御賀尾浦百姓等、諏訪社下社御贄運送人夫役、、、
文保元 是より先、山内通資、同通忠と筑摩郡下平田郷地頭職等につき争論す、、、
文保元 嶋津久長、子宗久に水内郡太田庄神代郷等を譲る、、、
文保元 良聰(聞渓)、諏訪郡慈雲寺住持仁恭(石梁)の、筑前聖福寺住持となり、、、
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