林檎の花、龍の爪
波間に浮かぶ士魂。ある士族のルーツを訪ねます。
2016年3月15日火曜日
信濃史料 巻二十一 慶長一六年(1611)~
巻二十一 慶長一六年(1611)~
慶長一六 建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、
慶長一六 幕府謡始、小笠原秀政等、之に参列す、
慶長一六 大久保長安の手代杉田九郎兵衛、来る三月より江戸城普請の行はるべき旨、、、
慶長一六 高坂宗広・塩入安貞・新井直盛等、水内郡水内橋を造らんとし、、、
慶長一六 某、伊那郡某藤左衛門等に請文を出す、
慶長一六 仏涅槃日、建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、
慶長一六 松平忠輝、高井郡相之島村の新田を検地す、
慶長一六 諏訪頼満、頼水、諏訪郡御射山神戸新町の善之丞等をして、、、
慶長一六 大久保長安、某のために甲府より岐阜までの諸宿をして、、、
慶長一六 水内郡飯山城主堀直寄、水内郡大正寺をして、寺領を安堵せしむ、
慶長一六 後陽成天皇、伊那郡開善寺住持玄種蛮宿、を山城妙心寺住持となす、
慶長一六 某藤左衛門、平沢新十郎に伊那郡虎岩村の年貢勘定目録を指出す、
慶長一六 某利政、姓闕く安曇郡平福寺境内に於いて竹木を伐採するを停む、
慶長一六 伊那郡飯田城主小笠原秀政、諏訪頼満頼水、に書を送り、、、
慶長一六 下総岩冨城主北条氏勝、卒す、養子繁広、家臣堀内某と和せず、、、
慶長一六 筑摩郡松本城主石川康勝、同郡慈眼寺観音堂を造立す、
慶長一六 木曽代官山村良安、木曽上松・岩之郷村等に、定書を頒つ、
慶長一六 仏 誕生日、建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、
慶長一六 甲田吉成、水内郡柏原村百姓をして新田を開かしむ、
慶長一六 高井郡東大滝村、年貢を皆済す、
慶長一六 誾朔、日州、拈笑派之大事切紙を小県郡安楽寺の徒京鷲に伝授す、
慶長一六 真田昌幸、紀伊高野山の配所に卒す、
慶長一六 是より先、小県郡東上田村と海禅寺村、分水につき相論す、、、
慶長一六 小県郡上田城主真田信之、父昌幸を弔はんとし、本多正信の意見を徴す、、、
慶長一六 城景茂、真田信之に父昌幸の死を弔問す、
慶長一六 幕府、小笠原手代衆千村良重等をして、千石夫を出す給人衆の、、、
慶長一六 伊那郡虎岩村、本年年貢納帳を記す、、、
慶長一六 羽田右近等、小県郡和田村前年の年貢勘定目録を、、、
慶長一六 幕府、小県郡和田宿等の駄賃条規を定む、
慶長一六 山城南禅寺金地院主崇伝、以心、その徒元良最岳、の上野草津入湯につき、、、
慶長一六 是より先、諏訪頼満頼水、の家臣千野頼房の被官人、江戸城普請人足を、、、
慶長一六 松平忠輝、越後より水内郡長沼への往還につき、横道通行を禁ず
慶長一六 松平忠輝、善光寺をして、同寺領水内郡朝日山を安堵せしむ、
慶長一六 松平忠輝、河中島の内二万石を松城領となし、花井吉成をして、、、
慶長一六 是より先、更級郡大豆島村、水内郡長池村と地を争ふ、、、
慶長一六 僧存佐、嗣法論之次第を書写す、
慶長一六 松平忠輝、水内郡古間宿等領内諸宿に伝馬条目を頒つ、
慶長一六 真田信之、小県郡和田町の条目を定む、
慶長一六 松平忠輝、水内郡古間・柏原・野尻宿等諸村の、伝馬役等を勤むるに依り、、、
慶長一六 高井郡綿内村肝煎堀内彦兵衛等、同村内給人等の知行割を記す、
慶長一六 松平忠輝、埴科郡明徳寺に寺領を寄進す、 大久保長安の明徳寺宛書状
慶長一六 山城聖護院門主興意、埴科郡皆神山和合院を川中島四郡の年行事職となす、、、
慶長一六 信濃等、凶作となる、
慶長一六 達磨忌、建仁寺住持慈稽、古澗、拈香仏事を修して、之を追薦す、
慶長一六 真田信之、浦野七左衛門等に命じ、上野吾妻の地を検地せしむ、
慶長一六 堀直寄、島津大進をして、高井郡安源寺・草間・江辺・片塩等四ヶ村の、、、
慶長一六 堀直寄、高井郡下木島百姓をして、新田を開き、新町を立てしむ、
慶長一六 建仁寺大統院塔主慈稽、古澗、同寺前住持東鋭利峯、の同寺に、、、
慶長一六 木曽山口の諏訪大明神の社殿、成る、
慶長一六 真田信之、成沢勘左衛門をして、小県郡岩門の地を安堵せしむ、、、
慶長一六 佐久郡貞祥寺住持正佶、楽翁、寂す、
慶長一六 諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
慶長一六 真田信之、小県郡小林九右衛門より、金子等を請取る、、、
慶長一六 二木寿最、重吉、二木家記を編述し、小笠原秀政に献ず、
慶長一六 真田信之、金井忠兵衛・中沢次兵衛より本年綿年貢等を請取る、
慶長一六 堀直寄、高井郡大島村并びに水内郡下今井村百姓に同村荒地を開かしむ、
慶長一六 伊那郡飯沼の百姓等、本年年貢納付のため、蔵米を借用す、
慶長一六 真田信之、小県郡小林九右衛門より金子を請取る、
慶長一六 筑摩郡徳雲寺是隆、某切紙を書す、
慶長一六 諏訪郡仏法寺俊翁、尊永に三衣大事を書し与ふ、
慶長一六 伊那郡光前寺の徒公諄、簠簋内伝金鳥玉兎集を書写す、
慶長一六 堀金平右衛門、同氏の系譜を記す、
慶長一六 浦野重政、松本に卒す、
慶長一六 信濃の人小田切昌吉、卒す、
慶長一六 清太夫、高井郡赤岩の神宮寺に鈴を寄進す、
慶長一七 堀直寄等、駿府の徳川家康に歳首を賀し、太刀・馬を献ず、
慶長一七 幕府、法令三箇条を諏訪頼満頼水、等諸大名に示し、その誓書を徴す、
慶長一七 堀直寄、高井郡島津大進をして、新田百姓の逃散せるを還住せしむ、
慶長一七 某茂右衛門等、筑摩郡青柳太兵衛より、年貢の毛革を請取る、
慶長一七 埴科郡明徳寺住持厳雄、大源門徒傑堂派参詣目録を円祝に伝授す、
慶長一七 雲室、高井郡常楽寺領山支配のことを定む、
慶長一七 堀直寄、高井郡島津大進をして、新田開発に励ましめ、、、
慶長一七 真田信之、長井九助に小県郡須川郷の地を知行せしむ、
慶長一七 小県郡安楽寺住持建応、量室、同寺の寺領及び年貢等を記す、
慶長一七 佐久郡の人榎本藤右衛門、武蔵に移り新田を開発せんとす、、、
慶長一七 筑摩郡牛伏寺、焼く、
慶長一七 小県郡原浄貞、阿弥陀如来像の台座及び光背を新造して、、、
慶長一七 奈良原又兵衛、年貢の金子を真田信之に納む、
慶長一七 石林平左衛門、伊那郡米川村の未進米等を、慶長十六年の納方にて算用す、、、
慶長一七 仙石秀久、佐久郡南相木の鷹見人に扶持を給す、、、
慶長一七 木曽三尾村阿弥陀堂の再興、成る、
慶長一七 安曇郡千見郷神明社の造立、成る、
慶長一七 佐久郡宮平村百姓等、同郡南阿江木の新海大明神を同村に勧請す、
慶長一七 徳川家康、水内郡戸隠社に社領を寄進し、その条規を定む、
慶長一七 徳川家康、大久保長安をして、山村良安等に命じ、、、
慶長一七 堀直寄、水内郡西巖寺に地を寄進す、
慶長一七 是より先、山村良安、尾張名護屋城普請の材木を調進す、、、
慶長一七 木曽無社宝殿の再興、成る、
慶長一七 山城東福寺南昌院塔主礼格、越渓、同寺住持となる、、、
慶長一七 是より先、幕府、五味豊直等に命じ、武蔵六郷大橋用材を伊那郡遠山より、、、
慶長一七 仙石秀久、佐久郡岩村田若宮八幡宮に、神事料を寄進す、
慶長一七 小笠原秀政、伊那郡仲仙寺に禁制を掲ぐ、
慶長一七 建仁寺開山栄西明庵、の忌日、同寺住持慈稽、古潤、拈香仏事を修す、
慶長一七 大久保長安、山村良安・千村良重等に命じ、武蔵六郷大橋の用材を、、、
慶長一七 諏訪頼満、頼水、諏訪社上社法華寺の釈迦三尊像を修理す、
慶長一七 堀直寄の家臣小野角右衛門、高井郡稲泉寺に同郡稲荷村の地を寄進す、
慶長一七 松井昌守等、海野藤八に染口伝を伝授す、
慶長一七 堀織部正、高井郡安源寺村八幡祢宜立神某知行跡の社領の処分を定む、
慶長一七 真田信之、河野清右衛門の、亡父昌幸に奉公せるを賞し、、、
慶長一七 真田信之、鈴木久次郎に足軽十五人を預け、その給分を、、、
慶長一七 松平忠輝、埴科郡本誓寺に禁制を掲ぐ、
慶長一七 建仁寺大統院塔主慈稽、古澗、漢和聯句会を同院に張行す、
慶長一七 諏訪頼満、頼水、諏訪社上社五重塔の上葺を行ふ、
慶長一七 伊那郡伊久間郷、慶長十六年の年貢払勘定書を記す、
慶長一七 小笠原秀政、筑摩郡小野宮に伊那郡松島村の地を寄進す、
慶長一七 松平忠輝、駿府に赴き、徳川家康に謁す、
慶長一七 仙石秀久、佐久郡野沢村庄屋等をして、甲州道作人夫を出さしむ、
慶長一七 山城南禅寺金地院主崇伝、以心、真田信之・石川三長康長、に音信す、、、
慶長一七 真田信昌、信尹、真田信之に唐木田勘兵衛の赦免を請ふ、
慶長一七 真田信之、小県郡白山寺をして、白山社別当職及び寺領を安堵せしむ、
慶長一七 伊那郡大草村の本年年貢高名寄帳、成る、
慶長一七 是より先、伊那郡大草郷香坂仁兵衛持高帳、成る、、、
慶長一七 石川三長の家臣青山一成、筑摩郡泉郷の年貢納高を定む、
慶長一七 伊那郡川そこの与十郎等、千村役所蔵米を借用し、榑木にて支弁すべきを、、、
慶長一七 幕府、保科正光等信濃の諸大名に命じ、材木を伊那山に採り、、、
慶長一七 伊那郡殿岡の矢沢太郎兵衛、闕落人六蔵を中村孫四郎より引取る、
慶長一七 諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
慶長一七 小笠原秀政、伊那郡木下に陣屋を設け、二木政実等諸士を配置す、
慶長一七 小県郡定津院、火く、尋いで、縫殿之助、姓闕く仏殿を再建す、
慶長一八 松平忠輝の使者及び堀直寄等、駿府に至り、徳川家康に加歳す、
慶長一八 真田信之の家臣木村綱茂、小林九右衛門尉をして、、、
慶長一八 江戸城謡初、松平忠輝・小笠原秀政等、之に参列す、
慶長一八 盛海、鷲林拾葉鈔を伊那郡光前寺高浄院尊運に贈る
慶長一八 伊那郡新三郎の被官百姓孫十郎、代米を以つてその身分より放たる、
慶長一八 仙石秀久、神津里右衛門等諸士に、酒代として、米を与ふ、
慶長一八 松平忠輝の家臣香取安久、長瀬村甚右衛門等を高井郡志久見山鷹巣守と、、、
慶長一八 小笠原秀政室、尾張津島社に初穂料を進む、、、
慶長一八 是より先、水内郡戸隠山顕光寺、南禅寺金地院塔主崇伝以心、、、
慶長一八 仏涅槃日、建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、
慶長一八 諏訪郡荒神薬師堂阿弥陀如来像、成る、
慶長一八 小笠原秀政、伊那郡仲仙寺本堂を再建す、
慶長一八 諏訪頼満、頼水、領内村々の毛付高帳を幕府に指出す、、、
慶長一八 堀直寄、高井郡飯縄社及び天神堂に地を寄進す、
慶長一八 伊那郡香坂仁兵衛、千村良重の手代久野九左衛門等に榑木手形を出す、
慶長一八 仙石秀久、佐久郡若宮八幡社人に知行を宛行ふ、、、
慶長一八 伊那郡大島村の市丞等、蔵米を借用し、榑木にて弁済すべきを、、、
慶長一八 真田信之、矢沢頼幸等に命じ、人足を下伊那に遣はし、、、
慶長一八 松平忠輝、駿府に到り、徳川家康に謁す、
慶長一八 諏訪郡真志野村庄五郎、同村善右衛門尉の子の幼少なるにより、、、
慶長一八 仏誕生日、建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、
慶長一八 南禅寺金地院塔主崇伝、以心、松平忠輝の蝋燭を贈れるを謝す、
慶長一八 大久保長安、駿府に卒す、尋いで松平忠輝の家臣浦野源左衛門、、、
慶長一八 山城本願寺光寿、教如、水内郡勝善寺所蔵の自像に裏書を加ふ、
慶長一八 木曽山村良勝、谷中の慶長五年より同十六年までの勘定目録を、、、
慶長一八 水内郡戸隠山本院我浄坊、知行を付せられんことを幕府に訴へんとし、、、
慶長一八 是より先、水内郡戸隠山賢清、寂し、慈恩寺某、嗣ぐ、、、
慶長一八 山村良勝、木曽御成箇郷帳を駿府勘定所に指出す、
慶長一八 木曽妻篭村百姓、同年年貢免除の次第を、山村良勝に指出す、
慶長一八 真田信之、金井兵左衛門の屋敷番・作事以下の奉公を賞し、知行を与ふ、
慶長一八 仙石秀久、佐久郡岩村田山王社に祗園会神事料を寄進す、
慶長一八 真田信之、窪田角左衛門に知行を与ふ、、、
慶長一八 小笠原秀政、百瀬甚兵衛に筑摩郡端埴原郷内の地を給す、
慶長一八 宮崎安重等、千村良重の手代久野九左衛門慰より江戸用材本切の、、、
慶長一八 徳川秀忠、水内郡戸隠社に神領を寄進し、同社の掟を定む、
慶長一八 堀直寄、水内郡英岩寺に地を寄進す、
慶長一八 小笠原秀政、伊那郡鳩ヶ嶺八幡社を修理す、
慶長一八 堀直寄、高井郡天神堂村肝煎をして、新田を開かしむ、
慶長一八 山城本願寺光昭、准如、高井郡円光寺明春所蔵の兼寿蓮如、、、
慶長一八 松平忠輝の老臣花井吉成、埴科郡松城に於いて卒す、
慶長一八 真田信之、金井善兵衛に当知行の替地として、小県郡房山の地を与ふ、
慶長一八 伊那郡下殿岡村、年貢名寄帳を記す、
慶長一八 仙石秀久、鷲見九一郎等の知行を給す、
慶長一八 南禅寺金地院塔主崇伝、以心、石川三長に音信し、奈良墨を贈る
慶長一八 筑摩郡牛伏寺憲康、同寺大般若経を書写す、
慶長一八 真田信之、菅沼二郎右衛門を小県郡内大代官となす、
慶長一八 仙石秀久、佐久郡野沢の兵左衛門等に蔵米を給す、
慶長一八 小笠原秀政、伊那郡白山権現社の神木を伐るを禁ず、
慶長一八 石川三長、倉科盛軌に筑摩郡松本町問屋職を命ず、
慶長一八 幕府、石川三長の、大久保長安と結び、知行を隠匿せるに依り、、、
慶長一八 堀直寄、駿河・江戸近辺に国替を望み、その成就の祈念を、、、
慶長一八 諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
慶長一八 仏成道日、建仁寺住持慈稽古澗、上堂説法す、
慶長一八 真田信之、小県郡長窪町問屋小林九右衛門より、貸金を請取る、
慶長一八 信濃の人森山盛房、卒す、
慶長一八 鹿島清左衛門等、見崎喜兵衛より慶長十五年分夫銀を請取る、
慶長一八 小笠原秀政、伊那郡飯田より筑摩郡松本に移り、家臣等の知行割を行ふ、、、
慶長一八 幕府、越前北庄城主松平忠直の家臣林忠定の罪科あるに依り、、、
慶長一九 建仁寺住持慈稽、古澗、上堂説法す、
慶長一九 幕府謡初、小笠原秀政等、之に参列す、
慶長一九 伊那郡虎岩村肝煎彦右衛門・勘右衛門、各の年貢高を記す、
慶長一九 真田信之、恩田仁介に、上野吾妻郡内に於いて知行を与ふ、
慶長一九 真田信之、出浦対馬守・大熊勘右衛門をして、上野沼田及び吾妻郡のこと、、、
慶長一九 真田信之、上野平川戸に伝馬条目を頒つ、
慶長一九 幕府、松平忠輝の居城を越後福島より同国高田に移さんとし、、、
慶長一九 伊那郡牛牧村等の百姓、榑木を引当に、千村預り領の蔵米を前借す、、、
慶長一九 真田信之、小県郡大林寺に禁制を掲ぐ、
慶長一九 小笠原秀政、筑摩郡保福寺宿の条規を定む、、、
慶長一九 小笠原秀政、大日向重吉に、安曇郡滝沢に於いて知行を与ふ、
慶長一九 是より先、幕府、真田信之・仙石秀久等に越後高田城普請を命ず、、、
慶長一九 是より先、美濃岩村城主松平家乗、山村良安に美濃竹折村兵右衛門女房の、、、
慶長一九 小笠原秀政の家臣光三郎左衛門等、伊那郡平沢勘右衛門等をして、、、
慶長一九 筑摩郡筑摩社別当、同社神主の非分を小笠原秀政に訴ふ、
慶長一九 小原弥次左衛門、松平忠輝の代官見崎喜兵衛より夫銀を請取る、
慶長一九 千村良重、慶長十年以後の間切勘定書並びに同十四年以後の榑木の算用状、、、
慶長一九 小笠原秀政、安曇郡千手院に寺領を寄進す、
慶長一九 総持寺五院、明年同寺第二代韶碩峩山、の二百五十年忌を行はんことを、、、
慶長一九 伊那郡荊口薬師堂、成る、
慶長一九 諏訪頼満、諏訪社上社御頭帳を記す、
慶長一九 小笠原秀政、大和小兵衛を領内高出村等の代官となす、
慶長一九 伊那郡多薗権現社、成る、
慶長一九 伊那郡虎岩村、本年の年貢勘定目録を記す、
慶長一九 伊那郡虎岩村、同郡飯田奉行所より借米す、、、
慶長一九 仏誕生日、建仁寺大統院塔主慈稽、古澗、同寺住持東鋭利峯、に代つて、、、
慶長一九 安曇・筑摩両郡村高帳成る、 筑摩・安曇両郡郷村御朱印御高付帳、成る、、、
慶長一九 仙石忠政、山城南禅寺金地院塔主崇伝以心、に書状を送る、、、
慶長一九 小県郡定津院住持英点、雪堂、同寺を英鷟、鸞峰、に譲る、
慶長一九 信濃の人下総古河城主小笠原信之、同国古河に卒す、
慶長一九 中井正清、木曽山材木奉行森川六右衛門等に、江戸城長屋門矢倉用材を、、、
慶長一九 小笠原秀政、領内代官に条規を示す、
慶長一九 小笠原秀政、筑摩郡筑摩八幡宮に神領を寄進す、、、
慶長一九 真田信之、小県郡小林九右衛門より、年貢の金子を請取る、、、
慶長一九 小笠原秀政、筑摩郡青柳宿等の伝馬役の員数を定む、
慶長一九 佐久郡小諸城主仙石秀久、卒す、尋いで、子忠政、嗣ぐ、
慶長一九 小笠原秀政、筑摩郡岩殿寺をして、旧の如く同郡仁熊・東条郷等の、、、
慶長一九 小笠原秀政、安曇郡沢渡神明社をして、祭料を安堵せしめ、、、
慶長一九 小笠原秀政、筑摩郡小野社・正麟寺等に地を寄進す、、、
慶長一九 小笠原秀政、筑摩郡広沢寺並に同寺内竹渓庵に寺領を寄進す、
慶長一九 小笠原秀政、領内諸郷に法度を頒つ、
慶長一九 林小一郎、諏訪社上社に鎌を奉納す、、、
慶長一九 伊達政宗、松平忠輝を饗す、
慶長一九 真田信之、小県郡小林九右衛門より年貢の金子を請取る、
慶長一九 真田信之の家臣出浦対馬守、市場太郎左衛門をして、、、
慶長一九 真田信之、越後在留の伊達政宗に物を贈りて存問す、、、
慶長一九 建仁寺開山栄西明庵、四百年忌、同寺住持慈稽、古澗、拈香仏事を修す、
慶長一九 小笠原秀政、小野七左衛門・小林弥右衛門を筑摩郡本山問屋となす、
慶長一九 仙石忠政、駿府に至り徳川家康に謁して、亡父秀久の跡目相続を謝す、
慶長一九 是より先、幕府、下野佐野城主佐野信吉を改易し、其身を、、、
慶長一九 美濃代官手代林次郎右衛門等、木曽山よりの流材並びに、、、
慶長一九 小笠原秀政、同忠脩、駿府に至り、徳川家康に謁す、
慶長一九 真田信之、小県郡小林九右衛門より年貢の金子を請取る、
慶長一九 仙石忠政、南禅寺金地院塔主崇伝以心、に音信す、
慶長一九 伊那郡下殿岡村、同村前年の年貢を納む、
慶長一九 小笠原秀政、筑摩郡開善寺に、寺領を寄進す、
慶長一九 小笠原秀政、領内に法度を頒つ、
慶長一九 小笠原秀政父子、天満天神社を筑摩郡宮村に移建し、是日、遷宮を行ふ、、、
慶長一九 小笠原秀政、筑摩郡安楽寺に寺領を寄進す、
慶長一九 松平忠輝、山田将監に水内郡田子村等を知行せしむ、
慶長一九 真田信之、関口庄右衛門等に職方同使を申付く、
慶長一九 建仁寺大統院塔主慈稽、古澗、延暦寺根本中堂前の竹台の来由を、、、
慶長一九 仙石忠政、佐久郡野沢組村々庄屋・長百姓役人等に、本年物成のことを、、、
慶長一九 紀伊高野山大徳院、伊那郡香坂二兵衛より金子を贈らる、
慶長一九 小笠原秀政、安曇郡仁科神明等に地を寄進す、
慶長一九 是より先、徳川家康、大坂の豊臣秀頼との間に隙あり、、、
慶長一九 堀直寄、原理兵衛に大坂従軍を命じ、知行をその父弥左衛門に預く、
慶長一九 幕府、真田信之に、大坂出陣の用意を以つて江戸参着すべきを命ず、、、
慶長一九 是より先、高井郡高井野村の山城本願寺信徒等、光寿教如、に銀子を贈る、、、
慶長一九 真田信繁父子、大坂城に入らんとして、紀伊高野山を発す、
慶長一九 真田信之、渡右馬助等に上野に於いて知行を宛行ふ、
慶長一九 徳川家康、大坂出陣のため、親を諸軍を率ヰて、駿府を発す、、、
慶長一九 真田信之、出浦対馬守をして、新鉄砲の者に扶持を与へしむ、
慶長一九 是より先、徳川秀忠、松平忠輝を江戸城留守居たらしむ、、、
慶長一九 竹内与三右衛門等、伊那郡虎岩村の勘右衛門等より、上納の薪を請取る、
慶長一九 堀直寄、高橋新兵衛等に水内郡飯山上町等の夜番の取締を命ず、、、
慶長一九 是より先、徳川秀忠、仙石忠政・真田信吉等信濃諸大名に大坂出陣を命じ、、、
慶長一九 真田信之の室、同信吉・信政の信之に代りて大坂出陣するを、、、
慶長一九 幕府、木曽山村良勝に大坂参陣を命ず、
慶長一九 飯川某、更級郡八幡宮神宮持をして、同社注連竹を同郡羽尾村普賢寺に、、、
慶長一九 筑摩郡松本宮村町屋敷取間数絵図、成る、、、
慶長一九 伊那郡虎岩村、本年の年貢納帳を記す、
慶長一九 徳川家康、真田信尹信昌、等を大坂の陣中目付となす、
慶長一九 是より先、矢沢頼幸、真田信吉に随ひ大坂に出陣す、、、
慶長一九 小笠原秀政、安曇郡千見城番及び松本城留守番を定む、
慶長一九 某小兵衛、高井郡中島村の年貢米を請取る、
慶長一九 安曇郡借馬村、同村の検地名寄帳を記す、尋いで定納帳を記す、
慶長一九 小笠原忠脩、大坂参陣の途次、近江長沢に於いて徳川秀忠に謁す、
慶長一九 真田信之の子信吉・信政兄弟、京都に着す、尋いで、大坂に参陣す、
慶長一九 小笠原忠政、安曇郡田原主馬丞等の奉公を賞し、米を給す、
慶長一九 真田信繁等、大坂天王寺の徳川勢の陣を攻撃すべきを、、、
慶長一九 是より先、幕府、東山・東海両道要所に関所を置きて行人を検せしめ、、、
慶長一九 小笠原忠政、渋田見縫殿助等に条目を付し、松本城内外のことを、、、
慶長一九 信濃の人山城大徳寺前住持宗章、竜室、寂す、
慶長一九 徳川家康、京都を発し、大坂に赴かんとす、、、
慶長一九 小笠原忠政、小沢縫殿介をして、その父の知行所を安堵せしむ、
慶長一九 徳川家康、諸軍の陣列を定め、仙石忠政・真田信吉等を酒井家次の配下に、、、
慶長一九 是より先、保科正光、山城淀城に在番し船橋の横目を命ぜらる、、、
慶長一九 小笠原秀政、筑摩郡広沢寺住持に大坂出陣の叶はざるを歎き、、、
慶長一九 真田信之、小林九右衛門より金子を請取る、、、
慶長一九 小笠原秀政、筑摩・安曇両郡の闕落百姓還住等につき、条目を示す、
慶長一九 小笠原秀政の家臣春日淡路、安曇郡一本木村の検地定納帳を記し、、、
慶長一九 伊達政宗、松平忠輝の老臣花井義雄の、政宗の営を訪ひしを謝す、
慶長一九 諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋いで、重ねての御渡あり、
慶長一九 松平忠輝の使者花井義雄、徳川家康に謁す、
慶長一九 本多忠朝、摂津今福に陣し、真田信吉・同信政・仙石忠政等、之が、、、
慶長一九 是より先、小笠原忠脩の家臣大輪監物、同元久の父より勘当せらる、、、
慶長一九 堀直寄、徳川家康の命のより、水野勝成等と共に、、、
慶長一九 小県郡東昌持住持昌隆、盛応、宗林姓闕くの請に応じ、、、
慶長一九 小笠原忠脩、陣中より松本の小笠原政信に陣況を報じ、、、
慶長一九 仙石忠政、摂津住吉に至り、徳川家康に謁す、、、
慶長一九 徳川家康、大坂城外茶臼山に陣し、諸勢をして真田信繁の陣を攻めしむ、、、
慶長一九 真田信之、大坂在陣の小山田之知等に、書を送り、病気恢復を待つて、、、
慶長一九 伊那郡の百姓又次郎、本年の年貢未進により、香坂仁兵衛に田地を渡す、
慶長一九 本多正純、真田昌尹昌信、を本多正重の許に遣はし、真田信繁を、、、
慶長一九 仙石忠政、摂津岡山に至り、徳川家康に謁す、
慶長一九 小笠原秀政の家臣光三郎左衛門等、安曇郡大沢寺寺領の年貢定納高を定む、、、
慶長一九 真田信之の家臣出浦対馬守、市場太郎左衛門をして、、、
慶長一九 小笠原秀政、安曇郡大沢寺・筑摩郡牛伏寺に寺領を寄進す、
慶長一九 本多正純、知久則直の物を送れるを謝し、伊那郡浪合関警固を、、、
慶長一九 小笠原秀政の子忠知、従五位下壱岐守となり、川中島に於いて五千石を、、、
慶長一九 小笠原忠脩、筑摩郡浅間に法性寺を創建し、岡甫和尚を請じて開山とす、、、
慶長一九 伊那郡虎岩村、本年の種借納帳を記す、
0 件のコメント:
コメントを投稿
次の投稿
前の投稿
ホーム
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿