2014年12月18日木曜日


2)長野県内の弥生文化と朝鮮半島
長野県の下高井郡木島平村の根塚遺跡(ねつかいせき)は、東西105m・南北58m・丘頂標高329.66mの楕円形の低い根塚丘陵にあり、盆地に一面に広がる水田の中の独立した遺跡だ。自然残丘を利用したテラス状の段丘をもつ集団墳墓である。縄文時代・弥生時代・古墳時代・平安時代・中世にわたる複合遺跡であり、その中心が弥生時代である。この根塚と呼ばれる丘の中央部から発見された墳丘墓は、長方形で3段のテラスを造っているが、長方形の斜面には張石が一面に敷かれてある。弥生時代後期のあまり例を見ない墳丘墓といえる。ここから弥生時代後期、3世紀後半の箱清水期の土器が大量に発見された。千曲川流域の土器の特徴である赤色塗彩の特徴が見られる。更にその筆順から、朝鮮半島との関連を示す資料として話題を呼んだ「大」と記された刻書土器、3点もここから出土した。
また墳丘墓墳頂部に木棺が埋葬され、木棺には1振りの鉄剣と多量のガラス小玉や管玉が副葬されていた。この棺内から出土した細形管玉とガラス小玉の点数は県内最多であり、鉄剣は舶載の実戦刀であった。さらに、遺跡内の別地区からは2本の鉄剣が出土し、その内の2号剣には3箇所に渦巻文が確認され、「渦巻文装飾付鉄剣(うずまきもんそうしょくつきてっけん)」と命名された。2号剣は長さ74cm、幅3.5cm、厚さ1cm、弥生時代終末期の鉄剣としては日本最大である。この剣は柄頭の脇から右手に一本突起が出ていて、その先端は渦巻状に丸くなっている。柄尻は鉄を2つに割いて、内側に2ヵ所の渦巻文装飾が施されている。渦巻文の装飾は朝鮮半島南部の伽耶地方独特のもので、また上記3振りの鉄素材の成分分析から、鉄剣は朝鮮半島製であることが確認された。木島平村と伽耶との日本海ルートを通じた直接交流を示唆している。さらに蝦夷の蕨手刀と同様、刀身と柄が一体の共鉄柄で、柄によって反り生じている。
それにしても、弥生時代、2世紀から3世紀代前半に、朝鮮半島の南の伽耶、洛東江下流域の釜山あたりから日本列島にこの鉄剣が運び込まれて、木島平にまで来ている。木島平村から千曲川、信濃川を下ると、すぐ日本海、越後平野に通じる。寧ろ、野尻湖の手前、荒川から関川に下り、直江津に出る最短ルートに興味が惹かれる。しかし約4万~3万年前とされる骨器文化の野尻湖遺跡と、それに匹敵する和田峠を中心とする黒曜石文化の存在は、単にその流通ルートを、河川だけに限定する不自然性が感じられる。古代山間部の生業は、植物採集、漁労、狩猟等で、原始に近いほど、その生産性が低いため、広域的な領域を必要としていた。当然、人類にも獣道的なルートが、現代人には想像できないほど多岐に広がっていたと想像できる。人口密度は希薄であっても、そのルートの使用頻度は、現代を超えるものであったとおもう。現代文明の急速な進歩に惑わされ、古代人の懸命な生存を掛けた営みを軽視してはならない。山間部には、河川に頼らない行動ルートが、現代人の想像を超えた範囲で広がっていたと思える。
 いずれにしろ従来の日本の考古学の理解、つまり伽耶の地域から対馬、壱岐、北九州、瀬戸内から畿内へ入り、そして畿内勢力によって、後の東山道を通って信濃の国にもたらされたという見解は、考古学的事実ではなかった。日本列島は、その存在が現代のように形付けられる前より、北海道から沖縄まで、諸民族の大移動が繰り返されていた。北海道も例外ではなく、ましてアイヌ族は、独立して存在せず、どの時点で、その人種が形成されたか、誰が説明できるのだろうか。古代では、国境なき民が、絶え間なく流入し、その生存権を争い、その勝者が支配権を握るが、混血が止む事はない。インドでも、厳しいカースト制の戒律がありながら、インド人の多くの容姿は、明らかに混血民族化している。
朝鮮半島南部の伽耶から人と新しい技術が日本海沿岸に直接に渡来している。海は文化を隔てるものではなく、寧ろ容易に人と物を繋げている。つまり大和政権や北九州を媒介せずとも、越の国や東北地方、更には北海道に、直接伝播する交流が、我々が想像すり以上も前から存在していた。東日本の古代文化の理解は、相当考え直さねばならない。


[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/emisi/b.htm

0 件のコメント:

コメントを投稿