2014年12月18日木曜日


古墳時代(3世紀~6世紀頃)

 古墳時代になると、国家組織は更に複雑化し、幾つかの階層を構成するようになり、技術者はその業によって権力者に隷属し、生活の保護を受けました。
この様にして、技術者の分業化は進み、その仕事を専門にする集団が生まれました。
 玉作部・鏡作部・鍛部(かぬちべ)・楯部(たてぬいべ)・弓削部・矢作部・土部(はしべ)・鞍作部などは、その職業によって名付けられた技術集団の名称で、これらの集団には、貴族が大陸の進んだ工芸に憧れ、技術者を大陸から招き、土地を与えて、税を免じて優遇した人々も多く含まれていました。
 漢系の渡来人達は、かなり古くから畿内に住み、生駒山を挟み奈良の大和と大阪の河内に分かれて居住していました。
  その後、秦氏は地方豪族的な道を辿ったために、秦系の技術者が地方に分散していきました。
また、漢氏は中央と結びつき、官人としての地位を築いていったようです。
 奈良県田原本町の鏡作神社付近を中心に、黒田郷地域に移住していた鏡作部の人々は、かなり古く4世紀には存在していた鋳工集団で、5世紀以降は、多くの鋳工を抱えていた秦氏の支配下に組み込まれていたと考えられています。
鞍作部の人達も、蝋型造形の技術を持った技術集団で、後の仏教公伝の頃には、舎利容器、法具・仏像・金銅鍍金・燈籠・金銀象嵌・香炉などを蝋型造形法により鋳造し、畿内の下田、石上、三輪、五位堂などに分散し、活躍を始めました。
【帯方郡・楽浪郡滅亡の影響】 
西暦313年、公孫氏が支配していた遼東半島から朝鮮半島西部までの帯方郡・楽浪郡を、高句麗が攻撃し滅亡させました。
 これにより、その地にいた中国人または中国系工人(職人)達は、日本に渡来し、畿内で三角縁神獣鏡の製作を始めたと思われます。
 三角縁神獣鏡は、豪族からの需要に追いつかず、日本人にその技術を学ばせ、舶載鏡か仿製鏡(和製)かを迷わせる鏡を製作するようになりました。
しかし、渡来の工人が絶え、日本人工人だけにその技術は低下し、やがて消滅していったのではないかと、その出土品から考えられています。

[出典]
http://www.imono-ya.org/imonosinorekisi-kohunnjidai.htm

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