2014年12月11日木曜日

泉忠記




泉忠記 会北軍篇十三巻
伊南伊北ノ城主一味而従景勝請ふ加勢事
当郷は奥州南の隅にて西は越後大山を隔て南は上野山続き、北に会津之葦名の幕下にて伊南河原田治部少輔盛次、泉田五十嵐和泉守道正、簗取山内左馬丞、小林 二瓶駿河守、布沢山内上野介、横田山内刑部大輔氏勝とて何れも忠信の人々也、然る所摺上の一戦に裏切の者多く成、会津方討負義広黒川城へ引取給ひ、伊南伊 北ノ者共も簗取村に参会評議して云ふ、政宗此地へ乱入近日之内と云共降参有間敷(ありましき)旨評定して連判極けり、扨又金山谷西方治部少輔、河口左衛門 尉、宮崎右近、野尻兵庫介、砂子原四郎左衛門尉、坂下之沼沢、本名等山内七騎党横田の下知に随越後上杉景勝え御加勢を請、伊南馬場蔵人、同杢右衛門、横田 左馬之介、泉田掃部介、下田川村彦左衛門を以披露言上す、景勝聞召是迄忠信頼母敷(たのもしき)政宗天下江対逆心成ば加勢可遣、然共人質無ては覚束無証人 被越、追付加勢を可遣しと有ければ皆々悦帰りけり。

政宗黒川城を乗取〕
猪苗代盛国、富田、平田、長沼盛秀を始逆徒の人人集めけり、扨金山谷へ大波玄蕃ノ丞、八代勘解由兵衛を大将として会津新降参ノ武士を先(さきだち)とし、 八月始に柳津通、金山谷太郎右衛門桑原原に出張して各降参有可し無きは攻ほろぼさんと云ふ、西方治部少輔、宮崎右近、川口左衛門尉、本名右衛門尉、砂子原 四郎左衛門尉、野尻信濃守、坂下等皆降人と成にけり、横田刑部大輔は為後結の河口須佐房沢を前に当て伐払と云ふ所へ出ばりしてひかへしに、西方ノ者共一戦 に不及降参の由聞へければ河口へ押寄んとせしに川口本名先がけにて推向山内氏勝、須津房沢を理隔待ち居たり、向ノ坂を下る所を矢先を揃へ射懸ば悉く辟易 す、跡より鉄炮二三百挺放しければ氏勝不叶引取伊達も相引す、布沢上野介、小林駿河守、政宗の御手に入にけり、政宗会津四郡打随給ふ共、伊南伊北軍支度と 聞及大軍を以て可攻と有ければ、小林も布沢へ縁者故に降参仕り本領内、布沢、瀧原、布沢口、泥嶋、此度の中賞に蒲生、寄岩、塩沢、楢戸加増に御朱印給りけ り。

伊達勢横田へ責来る事〕
山内等の中、西方治部は横田縁者にて家来、新国和泉は川向西部に住居故横田へ志し深し、坂下之西方弟の末にて同意也、滝谷、桧野原、名入大登り西方横田家 来也、金山谷の屋つばら、本名館より一々攻亡し素懐を散んとて軍兵を催しけり、金山谷にて伝聞き黒川へうつたえ八月中旬に待大将屋代勘解由兵衛尉、大波玄 蕃丞、弓大将鉄炮足軽二千余の軍兵、先陣には川口左衛門家来栗木、長谷川、渡部出雲を先として宮崎左近家来目黒大石引卒し都合三千五百余西谷口より攻寄、 横田より本名の川向大ふかに節所を切塞氏勝二男大学ノ頭(かみ)一族左馬介、中丸蔵人、横山紀伊守、同掃部丞、須佐下総、同帯刀、管家対馬、同太郎左衛門 尉、横田日向、同淡路、須佐大膳亮、谷沢式部、宇津野雅楽丞、横山清左衛門、常井備中を始として待構、中野沢小符荷に伏勢をこめ置寄手鉄炮千挺、弓二百 張、馬上四百十余騎、旗指物家々の馬印翻し襲ひ来る、去共弓手は山急に列(つらなり)妻手(めて)は大川を見をろし細道一騎打成ば先陣は木戸近く寄共後陣 は未た西谷に支(つかえ)、先手螺を鳴し凱歌を揚れば後陣一度に叫びけり、横田ときを会しかば山を響かし震動し寄手筒先を揃へ打懸ると云い共、土手を築き 上、柵を結い立ければ弓鉄炮一つも不当、横田家中常井備中上手にて進者打倒跡よりは結寄脇へ開所無、笠山よりは寄手の真中へ射懸られ先陣より後陣へ引と呼 ば大波玄蕃も先ず今日は引可とて我先にと引帰る、横田勢勝に乗り大戸を開き少々追付ず手負死人多かりけり、西谷表に宿陣し所々にかがり火用心す、横田の若 者共夜討して三ッ討取引帰る、次の夜も首二ッ、三日目に暁押寄せ鬨を咄と作、横田勢木戸を開き突崩す、寄手挟き路に列てたまりえず引帰す、大波玄蕃此口よ り攻入事不可叶とて皆々引にけり。

越後江人質に横田左馬之助嫡子仙太郎遣し置事〕
越後へ証人為と従弟横田左馬助之長男仙太郎を遣し置候間飛脚立ければ御加勢の大将木戸玄斉是は諸国矢箭執行廻る武功の名人也、並に高梨勘解由登坂甚兵衛、 下田七手組の大将には、川村彦左衛門尉、篠原弥七郎三千五百ノ軍兵八十里山を越伊北只見村に着陣す、又塩谷とち尾の大将丸田伊豆守一千五百ノ勢六十里山を 越え着陣す、只見水久保ノ要害を拵へ大塩ノ城を築く、河原田家臣馬場蔵人長子文蔵を横田に置く。

政宗勢簗取責布沢簗取降参仕る事〕
氏勝思様は布沢、小林政宗を招き入れ由聞ければ松坂打越覚束無し、先つ布沢、小林を攻め簗取、泉田と心を合せ政宗を入まじと布沢へ物見足軽遣し置所に南ノ 山長沼弥七郎盛秀は布沢へ、逸見、大竹、星、室井、児山、猪股、湯田、渡部二千余騎布沢へ入ければ、もの見告知す、又翌早天にもの見来る所に上野介妻を離 別して勝鬨どつと挙引帰す、越後加勢は一支も不支にげ返る、氏勝水窪、大学は大塩ノ城に楯籠けり。

政宗右降参の者共を先陣に而和泉田を責事〕
政宗勢簗取へ寄来事、屋代勘解由兵衛、原田左馬之介数千ノ軍兵を卒し、小俣通博士峠を越し野尻より布沢の地へ入り、小林二瓶駿河弟主水布沢へ来り伊達に加 り、簗取山内左馬丞は父上総守の時は近辺八騎の旗頭にて早世也、左馬丞伯父豊前名代を勤め近年成長して城主分たり、後の山を要害に拵搦手は山続き東は山高 く城中見透さる、西南よりは寄なん迚追手の東に土手を築き柵を拵い搦手を堀切黒一文字に旗差固め、布沢上野計略を以て討しと毘砂沢の住簗取弾正は左馬丞家 来也、彼来て左馬丞方へ降参の意見すれ共不承引、弾正を事の外怒り伯父山内豊前、同下野一族治郎大蔵右衛門佐、善五郎家臣菊池丹波、同河内、大倉の住上田 出雲子息勘解由、同新介、八乙女馬場丹波嫡子助兵衛、二間在家塩野岐の野武士駈あつまり、横田須佐、横山土倉主馬丞、乙沢星右近近舎弟助兵衛、渡部兄弟、 下山馬場清左衛門、同大蔵舎弟杢介雅楽丞、中丸彦右衛門、目黒与惣兵衛、冨山丹後、小林雅楽介、舎弟式部五百余にて堅めけり、頃は天正十七年八月二十三日 先陣小林二瓶駿河、同主水、西勝小治郎也、搦手の大将は上野、毘砂沢に入たり、うすみ山の腰をめぐり押寄、左馬丞、豊前、小林界火明し曽根を可防一騎打の かち路節所可然と有ければ、同性治郎大蔵承り百二十余人打出所に伊達勢小林堀内坂を寄来る、上田出雲嫡子勘解由介、菊池与七郎小林の方を見渡せば鉄炮を打 んとす、二人の者帰る所にころばし岩の陰に鎧武者五人隠居る二人を打れけり、寄手軍神の血祭り吉と鬨を作押出す、簗取勢二十余騎急に懸合歩武者共けたをし かけちらし歩行(かち)武者少々討取けり、和泉掃部介是を見越後勢来ば行向い横鑓に掛り、てきを左右に追乱し左馬丞を見治と目黒等雑兵拾匁相具し、赤岩崎 に馳付、越後侍共不来、大軍に此少勢にて懸るは覚束無とてひかへけり、治部大蔵は面もふらず切掛り五人なぎすて向敵を追ちらし城中差て立帰る、大手東、山 内豊前、同下野為大将、下山馬場、目黒、中丸、冨山丹後、古館雅楽兄弟横田加勢相固む搦手山内治部、星右近将為、西口は山内右衛門尉、同大蔵、南は菊地兄 弟、馬場丹波差固む、寄手西南よりときをどつと挙れば城中にても鬨を合けり、寄手鉄炮をならべ雨あられのごとく打共要害高掻楯立れば雲そびえ不届、二瓶主 水、長沼弥七郎大勢を卒し東の馬坂へ押寄る、原田左馬介も打上歩行にて登り搦手より押寄る、大手よりも責登る、布沢の郎等飯塚近内大音上城中へ申上度事 候、是非共降参被遊可然候と云と、横田家中の土倉重馬聞き以前布沢にて横田勢多く討れ無念也と能ぴき兵と放ば近内が高もも箆深射(のぶかにいる)、是を始 め数輩射倒けれ共やまず攻登る所をいし弓、大木をころばし懸七八十打たをせばこらえずして引退、梅津藤兵衛西がわの岩へ登りすぐに城中へ入れと云、東ノ山 へ柴田鉄炮五十余挺東西より打入、南ノ麓より筒先を揃へ打上げれば菊地藤左衛門日ノ丸の小旗を差上廻りしが討れて死す、西ノ手はがん石そば立漸々打上けれ ば山内大蔵が嫡子善太郎討れ死す、城中打すくめられ星右近、半月に三ッ星の立物差、大兵の矢継早にて指取引つめいたりければ寄手近不ず付、原田下知して塀 を打破とてひたひたと取付破とする所を、鑓、長刀にて防戦い、原田余りつかれはて、いかに半月との御籠成共今日は単醪無渇(たんろうむかつ)也、侍はたが いの事、酒成共水なりとも給候得と乞うければ、能社(よくこそ)望給ふとてにごり酒をちやうしに入れ、茶碗を添えて、櫓の上より出し、恥敷ながらながら濁 酒にて候と云う、原田悦、半月振、忝とほしにけり、星云ふ様は御所望は叶まいらせ候、急き攻給へ、随分いどみ可申と云ければ、原田敵方より振舞志、やさを のこ(優男)只今の御礼には其方の命給はるか、此方の命まいらすか、たかいに命惜まず攻戦う所に大手より主従三人罷向う兵は西勝小次郎にて候、先先(まず まず)双方弓鉄炮止給へとて城中へ近寄けり、何を西勝推参也、其元縁者成共今は敵方也、利用しに来て打るるなど呼れども、小次郎は左馬介が妻の伯父成ば弓 鉄炮を止め忿計也、西勝豊前殿に申度事有、御出有と云ければ、豊前立出で何事ぞやと云ければ、豊前がいむけのそ手を取、様々怒ってなだめ、異見すれ共承引 せず、其間に布沢上野そね伝いに搦手をせめやぶり、はた竿を城へなげ入しかば、大手色めきさわぐ所を西勝左馬が妹を抱走り出、西勝扱にて降参致為候と高声 に呼りければ左馬介も無是非降人と成にけり。

和泉田落城和泉守道正の二男久川城参事〕
しかる程に政宗勢簗取に陣取て翌日和泉田をせむべしと評定也、五十嵐和泉守道正は後の山上に石弓どうづき張懸させ、伊桁に並、柏葉ノ旗押立、大手の大将嫡 子忠右衛門尉道家、搦手の大将二男掃部介道忠、三男勝之助、四男彦七郎、一族冨沢雅楽丞、弟藤介、其弟藤治右衛門、同姓藤兵衛尉、嫡子弥九郎、同越中、福 田平兵衛、道正大婿目黒内膳、同新介、弟庄三郎、同弥惣右衛門、渡部孫左衛門、大竹与右衛門玄清と云ふ法師武者、手勢与力七拾五人、歩行足軽共に二百余人 一致同心して籠也、又道正の末婿塩野岐馬場源七郎二十七才、丹波が二男道家の長男清五郎二十一才、道長の長子小市郎正生年二十、此三人同道にて上方参詣し 北国を下り六十里を越し八月二十三日只見村に下着せしに、和泉田籠城之由を聞よりも、さらば今宵の中に和泉田に行と立出る、亭主聞き簗取も落城又越後加勢 も中途にひかへる由、然ば和泉田も討死は治定也、此程の旅つかれ覚束無しとしきりにいさめ止めしに、武士の子孫に生来て大切の時節加迦哉(のがるべき や)、片時も急申さん、と暮方に立出、夜路にようよう参着し、城中へ入ければ親類一同云様は、せめて早も帰るか又はおそくも来たらずしてかかる時節に出会 たり、長旅のつかれ、ようよう参着の身、明日の戦、叶まし、伊南の伯母共方へ落行、労を直し時刻を待つべし、源七郎は八乙女へ行べしと有けれは、愚の仰候 や、祖父親兄弟の大事を見捨落行事先祖の家名を汚し生て何の益有也、城中落居して来りすげ無切腹は無念成べきに今宵着こそ嬉しけれ、何と仰候とも落行事は 致間敷と軍の支度して急ぎけり、一族共是を聞き紀州熊野より鈴木三郎重家はるばる奥州に着し義経公よりきせながら一領給りて御代有て之千町万町の御恩にし かじと喜しもかくやらんと感涙袖をひたしけり、扨又越後加勢勢千五百余大倉道陸神迄来りひかへけり、去共簗取も降参と聞、和泉田の如何と疑い未来、伊南よ りも参着せず、翌朝河原田杢之助、芳加内膳二人は和泉が婿成ば,真先かけて急ける、其外酒井周防、大橋左馬介、馬場若狭、河村兵庫、馬場四郎右衛門、同蔵 人、木沢式部始め二十余騎雑兵二百引卒し、富沢口より和泉田表を見渡は、寄手雲のごとく寄来る、敵に隔られひかへ居る杢介内膳は福田へ馳付けすすめども城 中へ可入様無かりけり、然る間手勢計りにて固し事こそ艶けり、頃は天正十七年己丑八着き二十四日辰ノ刻計に、伊達勢簗取を打立、侍大将屋代勘解由兵衛尉、 原田左馬介、弓大将鮎貝喜三兵衛、柴田何某、足軽ノ将六七騎、永井ノ庄、信夫の士卒先陣侍大将には長沼弥七郎盛秀家来湯田采女、同仁右衛門、児山丹波、星 玄蕃、辺見、大竹、室井、渡部、猪股を始め五十余騎、松本伊豆守手廻大槻、渡部、屋代、荒川、谷沢、吉津、本田、四倉、石井など二十余騎、西勝小次郎も近 辺の軍兵を卒、野尻兵庫介一族山内佐渡、同太郎左衛門、岸内膳、同孫左衛門家来五ノ井隼人、渡部河内、小林与治右衛門、木伏近内、伊北新降参先陣布沢上野 一族,山内蔵人、角田、長谷部、菅家、吉村、湯田、横山、小林、二瓶主水佐家臣堀金助左衛門、角田等、簗取左馬丞一族家臣菊池兄弟手廻り引卒し真先に打 出、ひた冑五百余騎、長柄百筋、弓二百張、鉄炮二百挺、雑兵三千五百余騎、簗取、小林、布沢ノ三将城の艮(うしとら)和泉田、馬乗寄あぶみ踏張り立上り大 音声只今罷向者共は布沢上野、小林主水、簗取左馬丞にて候、各々と一味の身に候得共、侍は渡者今引替政宗公の御手に属す、道正も伊達ノ御手に属し給ふべし 為扱我々三人向罷向御異見申也、今日の戦の大将長沼弥七郎、屋代勘解由兵衛、原田左馬介と申す仁也、為扱諸軍勢押置申也、真平降参有べしと呼りければさす が生死の事成ば暫し内談有けれど、中々降参有まじと道家大手ノ門外へ趣(おもむき)出て、御異見は忝候へども武士の守所義にあらずや、命かろんずる事武士 の法也、言う甲斐なし人々急き攻給へ手並の程見せ申さんとののしつたり、又福田藤内と云う者進み出て、布沢殿は不義無法者、不入口に風ひかずと山山(さん ざん)に悪口す、三人の人々是を聞き大きにいかり急責候へと言ければ、先づ在家へ火を掛けよと下知すれば、居舘より諸屋敷、根岸、福田の民屋焼立、三方よ り螺を吹立、責太鼓を打ちときをつくりければ、内よりも鬨を合せ長沼盛秀和泉田へい馬を寄はたを上る、屋代勘解由兵衛、原田左馬介、松本伊豆守は堂平に馬 を乗上はたを立、四人の鉄炮大将へ信野沢、和泉田、堂平へ引通八百挺にて放立、寄手は段々急成坂をえいえい聲にてせめ登る所を、石弓どうづき伐落せば即時 に多く打ころされ皆ちりぢりににげにけり、屋代、原田、長沼に向い、此城たやすく不可落如何有らん、と言いければ和泉田より布沢へ来りし福田勘介案内させ 可然とて呼出しけり、此勘介の兄福田新兵衛を渡部八郎右衛門に被打、勘介則ち渡部を打んとす、依之扱を入渡部が子、次郎を解死人に取屈伏して新兵衛の死骸 を葬礼す、其場へ双方出けるを出しぬいて渡部を斬殺、一類扱の者共狼ぜき也とて勘介打れつべう見ゆる、其場より三日以前に布沢へ走入しを此度召れければ城 の案内仕と有ければ勘介申様、三方急に従に高さ三四町候得共西山高し、鉄炮四五十挺登可被打入、又後にそば続搦手より攻懸ば怺兼申す可し其時方々より被攻 ば落城仕らんと申す、しからば案内致すとて原田左馬介、信野沢より後へ打越、そばつたへにせめ寄る、遠くは鉄炮近は矢頃を〆(しめて)射懸けり、城よりも 鉄炮打出す、掃部介射る矢に無駄矢は無かりけり、近付者は無し、然れ共西山より鉄炮打入ければ、城中打すくめらる、大手の西ノ手より攻登無勢にて不替防戦 程になにかわもつてこらへべし、五十嵐藤兵衛、同平兵衛、目黒弥惣右衛門、大竹与右衛門、渡部孫左衛門所々にて討れけり、西ノ手の大将五十嵐勝之介、目黒 内膳いづれも手負掻楯の陰に忍待懸る、騎馬大将屋代勘解由西ノ手に有しか七八十前後左右に寄来る、勝之介、内膳よき大将と見做し、大木伐はなせば、先立武 者三人打倒し勘解由を打ふせ、其外十七八人打にけり、残り軍兵周章(あわて)ふためく所へ勝之介長刀振つて出、内膳は鑓持て走り出しここをさい後となぎふ せ、つき伏、掛倒、二人して十四五人なき臥し残る者共を追下所に、西山より鉄炮打掛勝之介、内膳同然に打れけり、大手大将忠右衛門も鉄炮にて打れ共、深手 ならず源七、清八も同然也、彦七郎も浅手也、四人の者共一合戦して清く討死すべしとて待つ所に、塀打破り乱れ入所を内より道家鑓をひつさげ大手ノ大将忠右 衛門道家と名乗りついて懸る、長男清八脇に立ち太刀ぬき持て切かかる、彦七十文字源七長刀振て出、是は八乙女丹波が子馬場源七と云者也、父の兄は簗取にて 言甲斐なく降人と成由それがしは上方一見したあと着し舅と一味也ぞ、手並を見せん、と道家の左に立並て出にければ、道家端的に十三人つきたをす、子息清八 郎二人切伏其身もついに討れけり、源七長刀得物にて五人なぎたおす所に鉄炮のむないたに當りむなしく成、彦七郎一文字鑓にて手元に進む兵を八人突懸たおし 伏木につまづき伏しけるを、てき重りつき殺す年三十一才清く忠死を遂にけり、道家今は是迄と鑓をすて太刀ぬき持ちて死物狂い十余人切りすて西山より、其れ 打倒せ、と云侭に大筒にて四十四才を一期にて討れけり、寄手の大将梅津藤兵衛乱れ入んと云ふ侭に黒地に白き階紋、黒吹切の小旗を差、甲傾け城中屹と見入し か共、雅楽丞道成柳葉の大根(おおね)にて真ただ中に射られ鑓押取走り出す、梅津是を見半弓打番(つが)い射とせし所を走り掛りつきしかど、藤兵衛打開き 太刀にて雅楽は真甲打破んと振上る所を、弥九郎二十五才梅津か脇坪衡通(つきとう)す、雅楽鑓にてつき、真さかさまにたおれ死、三十計の侍也、大将討るれ は無念に思ひ、四五十人乱入、二人の者に切懸、雅楽丞たちまち五人つきたをす弥九郎太刀にて渡り合しか、手負東のそねを飛下り、終に助る也、雅楽丞は痛手 負不立去して打死す、五十嵐藤治右門東ノ手にて二人を討ち、一人に手負せ、二人追下る肩先に切込しかなわずと思ひ岩を飛下助也、福田越中はここかしこ走り 廻り寄手の合言葉を聞知て弓と言は味方の事也と知り、弓と詞を通し夜敵に紛れのがれ助也、五十嵐藤介は朝伊南勢の迎に行き冨沢屋敷迄来る共、敵に押へだて られ東の林中に忍居、一人にて叶わずと落居、後に伊南へ行にけり、さる程に道正は子供、一族、家臣討死し我身鉄炮矢疵数ヶ所手負、二男掃部介を呼ければ、 搦手をば小市郎と家臣等に渡、父の前に来り、如何し、と云ふ、道正云ふ、我は唯今腹を切る、なんじは命全うし何とぞ簗取左馬介が陣所へ参り助るべし、幼稚 の者共見届け申すべしと有りければ、道忠承り、御最後と仰候が其迚(それがしとて)も落行敵の取子と成申さんよりは御共可仕と申しけり、道正重ねて教訓 す、子供一族皆討死し子孫終りては先祖に不幸、なんじばかりも生残り子孫相続可致、と諫言あれば道正承り、とも角も違背申まじと言う所に、搦手破とす、道 正切腹の内御防き候へと有ければ、取返し見て有ば堀切にうめ草込て平地になし矢を射込事雨如し、小市郎も大勢成ば矢疵身にうけ二十才を一期として討死する こそ哀也、道忠は五六人衝落し馳廻り其間に正道は腹十文字に掻切、内室立寄介錯し、鉾をふくんで差つらぬき夫婦一所に自害せり、又大勢搦手より寄来る、道 忠差取、引結、矢庭に八人射臥(たおし)けり、辟易し矢先に近付く者なし、道忠木戸端に立小市郎が死かばねに抱付参詣の帰り一日も不添(そいず)夕べ下り 今日の討死は運の究、父に先立不便かな、と消入る計なげきけり、然る所に大竹与右衛門が妻行年二十三夫の死骸に近寄り鉢巻し居る所に、両方より来所を八人 切殺す、寄手大勢取かこみ討取けり、是は古へ木曽か巴も是にはすぎじとほめにけり、道忠は山内左馬丞と縁者也故に道正子供之内一人成共、生残は助と思ひ家 臣河内に言含め、道正子供之内一人匿(かくまい)可参味方とがめれば我家臣と可申と有ければ城中に入り道忠に逢い小声になり左馬之丞申越候、貴公匿落し申 すと仰候、と云いければ、道忠聞内々父の命と言い志之程忝(かたじけなし)と菊地と有合の首引さけ走り下る敵あやしみ大将落るあますなと呼ば、道忠、左馬 丞之者也、と云、菊池も同詞にあらそえば左馬亮是を見、我等か者にて候、うたがへ給ふなと有ければ、重てとがむる人も無く寄手勝鬨を上け引下す、長沼、原 田実験の首武士百二十七、雑兵七十余、根岸若宮の前へ鬼渡迄掛け並べ実験也、六人東ノ険岨真を下りのがれけり、寄手の大将屋代勘解由兵衛、梅津藤兵衛二 人、武士三百余、雑兵五百余、凡八百余人之打死也、暫く休み、折節雷電稲妻大雨降りければ、皆々水増ざる先に此陣引やとて引にけり、此節越後伊南勢に前後 より攻られば鉄炮の薬はしめり、火縄は打消る、いざや此陣、引とて一度にどつと引にけり、道忠も左馬丞が手にまじわり行にけり、政宗勢簗取にも不留布沢を 差て引き入けり、道忠妹婿古舘雅楽助簗取に有しか、道忠の手を取り扨も扨もとばかりなり、道忠もかいなき命名からへ二度御目にかかり申也、去共人の聞ば委 (くわしき)事は重ると計也、具足引合の間より鉄炮の玉二三落しけり、其夜は前後も知らず伏にけり、明日身ノ内を見るに鉄炮の玉三ッ、すねの玉は切て取、 脇の玉は深く入り肩の玉は不及手に、道忠簗取は敵地成ばとどまるべき処なし、青柳河原田杢之助、小塩芳賀内膳の所へ落行きしばらく休足し、夫より久川之城 に入る、右之次第を委物語被申候境村斎藤近右衛門尉少地成共伊南とがつべきの縁者也、伊北は親類有、元より屋形へ一二騎宛の軍役勤ければ、少身成共一味し て嫡子斎藤彦右衛門尉実俊、弟助兵衛、掃部介、甚右ェ門抔とて六人有、一ぞく郎等引ぐし嶽山に要害を構へ楯籠けり、伊達勢和泉田にて大勢討れ手負多く出来 れば黒川へ引にけり、其後布沢、小林簗取へは政宗より警固の武士を被置けり、扨和泉田落城は南冨沢には伊南勢、北には越後勢と大倉村迄参り前後共に不可む なしく落城無念の次第申す計はなかりけり。


泉忠記 会伊軍篇十四巻
河原田治部少輔盛次家臣召集軍評定之事
河原田九代豊後守盛政死去並に政宗勢可寄事
恥風村へ出はり構鬼丸山へ加勢入る事南ノ山勢向ふ事
政宗に南ノ山勢加り寄ると聞久川ノ城にて旗指物立事
  (久川城合戦並に長沼勢引所をいらいか崎迄追打の事)
  (伊南勢立岩と戦、立岩打負二十三ヶ村明地に成事)


河原田治部少輔盛次家臣召集軍評定之事〕
伊南河原田治部ノ少輔盛次、家臣召集伊南伊北皆一味誓諾致所に、布沢上野、小林二瓶駿河、政宗江降参し伊達勢を招入先馳致事不義の次第也、簗取左馬丞事は 無是非故也、掃部介を落し助ければ不悪右之者共馳て和泉田を攻落す、道正一党忠死仕事不便ノ至也、伊南勢手合無き事無念也、一には道正へ為赦養、二には逆 徒成は、其上小林ノ城へ正宗より警護の武士置く由其内に此方譜代の家来記伊父子、己が非意により木伏を退南ノ山へ大井盛秀が手に属し小林へ来る由前代未聞 の逆心也、横田へ飛脚を遣し氏勝勢と前後に備討つ可しとて八月二十六日河原田、馬場党三十余騎家臣馬場安房守大将にて雑兵五百余騎打立けり、小林にて聞之 火明曽根を伐り塞ぎ、弟二瓶主水を大将にて堀金、角田軍兵を卒差固め伊南勢簗取仏井路にひかえけり、狭路に列り鉄炮打掛詞戦計也、安房守馬一陣に乗出し、 唯今罷向ふ兵は河原田盛次の後見馬場安房守也、如何に二瓶駿河守慥(たしか)に聞候へ、兼て伊南伊北一味堅く究所に今更引替り伊達の手に入事本意にあら ず、剰(あまつさ)へ伊北へ引入る事奇怪也、依之各討為め罷向ふ也、と大音声にて呼けり、小林の陣よりもすすみ出て斯申兵は堀金助左衛門と云勇力の者有と は兼て知つらん、我と思わん人急出て攻給へと云いければ、出々手並を見せんとて喚叫共狭地にて五人七人寄れ共働らくべき様なし、右は巌石左は切岸深淵にの ぞみ輒(たやすく)攻入事不叶、安房守手替よ、と下知すれば若武者共山へ登り大石枯木ころばし落し、鉄炮弓放懸しかば、小林勢引にけり、堀金一人木戸口に て戦しか大勢落れば後先よりせめられ深淵へ飛入矢を射かけけれとも不叶、堀金水底をくぐり川下にて上り堀ノ内へ入けり、馬場若狭一陣に進堀金勝負せんと云 う、堀金聞一手吟味致と矢坪は何く、と言いければ、若狭爰のすねをと打扣(たたく)、堀金精兵三人張りに十三束切てはなせは、左のこびらはつしと当りの中 ぐつと抜き、右の端二寸計に立つ、敵味方射たりや堀金と一度にどつとほめたりけり、若狭聞る剛の者、能社(よくこそ)射たり、堀金当の矢を返す可し、矢坪 は向(いづ)くとよばわれば、堀金草ずりを捲り上げ弓手の高股打たたく、若狭よつ引兵(ひよう)とはなせば高股へ、の深に立、伊南武者射たり哉、若狭とほ めにけり、扨伊南伊北入乱れ鑓、長刀にて戦所に菊地記伊守の馬、伊南勢の中へ馳入けり、伊南勢天の與(あたい)と杉岸右京進打取り軍神の血祭能と悦けり、 菊池右馬介父を打たれ、跡ふり帰りみる所に大勢にて射れけり、小林の軍兵實城引にけり、伊南勢すかさず押寄鑓を合せ矢を射込方々より乱入、火花をちらし 戦、其上火を放、焼立伊北勢後の木戸より落行、照岡表に着陣す、布沢上野備を固め待掛る伊南勢一面にぬき連をめいてかかれば、布沢勢追立られさんざんに逃 行けり、上野只一騎ひきはなれ引退道祖神を過行横田勢内越峠の下りにつ久沢をはせ下り、先手の小旗ひるがえる、あとよりは伊南武者追懸卑怯也布沢之口へ返 せ、戻せとののしつたり、横田の先手是を見、上野、小林へ加勢し逃返と覚たり、先をさへぎり討捕し、先日布沢にて後れを取其うつぷんを散さんと我先にとす すみけり、上野跡より先は強敵也、橋の際より引返し跡へも不叶、山際を乗返し、乗戻し、二三遍はせめぐり伊南武者切懸追廻す、上野馬能乗人上手也、大勢の 中を切払かけ通て馬の足立見澄し照岡山へ乗り上る、伊南勢横田勢追懸がたく見へにけり、馬場安房守下知して攻上り三方より責立られ山路を経布沢を差て落る もあり、かり安の方へ落るもあり、伊南勢布沢口迄追行けり、又三十余騎横田左馬介、中丸新蔵、須佐、菅家、雑兵三百余布沢口へ押出し伊南勢に対面し空く返 り無念也と云ふ、夫より伊南勢も勝鬨上帰陣す、兵庫介行年十七才しつ払して引所に火明曽根の岫(みね)にかくれ居足る者共跡より追懸肩先を切ければ、馬は せ出すを引かへし五六人を蹴倒、先を呼ば馬上一騎雑兵四五人引かへす、兵庫之介会釈も無、一文字に乗懸け川原を差てにげ行所を二騎にてかけあをり追けれ ば、河へ飛入逃る所を川へ馬を乗入追つめ弓指延し引懸首打落、雑兵に持せ味方の陣へ帰りけり。

〔河原田九代豊後守盛政死去並に政宗勢可寄事〕
伊南河原田盛次会津屋形へ馬尾を継ぎ、伊南二十三郷下立岩十六郷三十九郷を領し、藤原大職冠五代の孫鎮守府将軍秀郷に十三代の後胤、結城ノ七郎朝光の男子 阿波守朝村ノ息、長広始て野州河原田郷に移り在す、夫より在名を氏として中頃の祖伊南郷を玉はり九代目ノ孫筑前守盛政弟椙岸右京進顕信、盛政の一子治部少 輔盛次当六月屋形義広黒川退城の後伊南へ帰る、政宗は黒川へ入押領せらる、然間南ノ山長沼盛秀飛脚にて会津平田、冨田を始め政宗へ降参也、御辺も降参可然 候、御前の義は某能様に取持可申との事也、盛次一族評しけるは先年仙道安積にて政宗申さるるは、味方に属し候はば、山八郷を進可と有けれ共、御同心無く今 更義広没落ばとて政宗へ降参の儀無用と皆一同に申けり、然ば久川ノ城に籠れと有、其時阿波悦び先年盛次御幼少成ば盛政御病死なきうちに冨田左近将監の子息 五郎殿を御世嗣に請給しか盛政御病死也、其後盛次御成長也、譜代相伝の事成ば冨田五郎を三日町へ送り返す、伊南へ不寄ざりければ左近ノ将監怒り冨田も会津 四伝の老臣也と両年伊南へ攻来れ共多く討れければ又数千軍兵を卒し来る由、此度は宮沢尾白山嶽に要害を構い楯籠所に三日町勢南ノ山を出て寄せ来る由聞へけ れば、河原田大膳大功の者をさへ也、白沢轟橋を引迦(はずし)ければ冨田五郎真先にかけ来り、いかに大膳久しぶりにて見参せん、と云ければ、大膳聞き珍し や五郎殿、毎度追返されながら又こそ来り給ふか、と秘蔵ノ矢請け給へと十四束三伏取て打つかへ切てはなせば、五郎が鞍の山形射欠き、草づり二枚射切、もも を射りけづり、山きわに五寸計立つ、寄手是を見てすすみ兼て居たりけり、種橋何かしと云つわ者十文字の鑓を持ち川を渡し宮沢辺へ来る、鑓遣の南泉坊取て返 せば足軽共も引返す、南泉坊秘術を尽し種橋を付き落す、鬼藤内をさへて首を討取、皆々尾白ヶ嶽に籠けり、てきノ勢近々と寄所を峰より大木、岩を落懸打倒ば 此謀に辟易そ麓に逃下りけり、五郎弥(いよいよ)無念に思ひ新手を入替、せめ登り、要害よりも打て出、大膳下知して敵間近く引請、大石、大木をなげ懸、ひ るむ所を討べしとてすすみて出にけり、寄手段々群がる所へ大石、大木なけければ手負死人数知らず寄手も今は敗北す、宮沢表へ追ちらし討程に冨田五郎又討負 け、すてむち打つて伊南川を渡りあやうき命を遁落行けり、残兵替々落行所を伊南勢小塩、白沢、古町、木伏、大新田、山口迄をつかけ寄手三千計討取けりと申 せば盛次聞召盛秀方へ返答には、武士の家に生、二張ノ弓引事某においては仕らし、と返答有ば、盛秀、政宗へ参伊南を被下候はば盛次を討ち領地に支度、と申 に政宗子細におよばずと同心成り。

恥風村へ出はり構鬼丸山へ加勢入る事南ノ山勢向ふ事
恥風村に出ばりを構い田野瀬、鬼丸山へ加勢入事、南之山盛秀は簗取を手に入れ和泉田ノ城を攻落し、黒川へ帰り伊北表の義申上しかば、政宗聞召今度の忠勤に 内々望む伊南を可攻、然共久川ノ城は前に大川岸立、後に離山を構い、其の間に久川左に流、西南山続堀切有由容易(たやすく)は攻かたし、大将柴田但馬守、 草野備中守に宗徒の兵三百余人長柄百筋、弓二百張、鉄炮千挺、雑兵共に都合三千余人、弥七郎は先蒐可仕、田島勢には湯田采女正、同左近、同仁右衛門尉、星 玄蕃丞、同久三郎、堂木上総介、児山丹波守、金井沢左衛門尉、長沼ノ一族室井、渡部、辺見、大竹、猪股、君島、七十余騎、雑兵八百余瀧ノ原中山峠を越、立 岩上郷より伊南へ入り、伊南勢は川を前に当て恥風村出ばりを構えしし垣、逆茂木土手を築き、やらいを結、柴多把置く、右は大山也、大将には馬場安房守、河 原田掃部介、子杢之介、小塩尾張守、同弾正ノ忠、同芳賀内膳亮、只石大炊介、高屋敷大学、浜野左衛門尉、宮沢下総守、山口左馬ノ介、鴇巣外記、同蔵人佐、 宮床馬場四郎右衛門尉、同杢右衛門、入小屋勘解由、水根沢清左衛門、大新田酒井周防守、嫡子助兵衛、二男新左衛門、下田佐京介、木沢右衛門尉、佐藤源助、 赤塚讃岐、落合菅家上野介、子息左馬介、小立岩長門、織部、大桃辺見右京、同九郎左衛門、桧枝岐村星土佐、同越後ひたかぶと三十七騎他所へ出る時は軍役の 定也、つねは野武士器量を撰み馬上百五十騎伊北沼田加勢三十余騎、雑兵二千余騎ささへけり、立岩二十四村、湯ノ岐、木賊十六村、鬼丸要害に籠所に上立岩八 村は盛秀領地なれ共盛次に一味し、引替り又田嶋へ一味誓堅く究けり、然る間下立岩も同郷成は進入、忽ち盛秀へ組しけり、依之従森戸大内沢を越伊南へ入と聞 へければ八相丹波、井下田(いげた)筑紫、岩下備後、安久津主水、庄舎丹波、伊与戸土佐、熨斗戸周防、森戸備中など案内にて森戸より大内沢へ出ここに盛秀 前々よりの謀に木伏村菊地記伊に賄賂を以て糸沢村申真言宗龍泉寺現住法印駒平ノ古跡に隠居を願ふ所に、前後みだれ五十嵐宗左衛門惟道、盛政の御前に出、已 に駒寄は御先祖初入の名跡なれば御延引尤(もっとも)に候、と申ければまづ此沙汰相延にけり、河原田九代豊後ノ守盛政、天正九年三月二十八日卒浄光院賢阿 普清盛蓮大禅定門、照国寺境内に葬る、其後菊地、盛次へ勤め駒寄平に建立して法印を招き入けり、一宮大明神之別当職として宮沢社領の外、木伏よりも新寄進 有り、盛次和泉田落城之儀、道忠物語にて聞き、近日伊南へも可来聞、小田原へも河原田大膳を使者となし八月二十六日に相州小田原へ登せけり、太閤様鳧泰御 披露、政宗近日可罷向由を申上けり。

〔政宗に南ノ山勢加り寄ると聞久川ノ城にて旗指物立事〕
天正十七年八月二十八日申刻、穴原に放火見へければ盛次も内川へ向給ふ、唯石入牧之内木沢玄蕃は建久の始、河原田入部より以来躬候之士と成、舘ノ上の小峯 に小屋を作り遠見の役也、代々馬乗の名人也、一子右衛門は久川ノ城に籠れり、扨玄蕃は長沼勢は長沼勢に向、皆々大山を越い御労に候半此所は人里遠き所なれ ば暫く人馬休息あるべしと申しければ、両将地蔵堂に入りやすみけり、姥は手桶たずさへ沢へ下、急久川へ行き語りければ、城中騒動し盛次の乳母川崎袋方とて 女成共鎧引懸、髪打乱し烏帽子着、太刀長刀を持表に進、屏風障子にかたびらを打懸け白米をそそぎ馬場先にて馬の湯洗をまなひけり、女を武士に仕立木太刀棒 杖竿の熊手を持ち、表の方に立廻る、直(とのえ)の兵には鑓遣の南泉坊、精兵の蓮花院、手だれの兵庫城中より乗下し楯の陰にひかえけり、宮床四郎左衛門妻 小ざかし起者成ば、長手ねぐい、風呂敷、帷子、旗指物に仕立四壁の木に結付嵐に吹なびかしければ、恥風へも早馬を立、てきは放火して焼立る、伊南に火の手 見ければ敵入と見て鬼丸を下りけり、河原田左衛門ノ佐、跡に留所に田野瀬源内左衛門、河原田左衛門が右之手を取り物語る、郎等小次郎、源内が胸版(むない た)へ鑓突懸武士のきき手を取事りやうじ也、放さぬか、と云いければ、源内そこつなやこん切の中也、と飛去り太刀を抜き左衛門を討とかかる、小次郎押えへ だつる後より飛下大原へ出て帰りけり、安房守家来用事有て屋敷へ行所に敵に逢、川原を指て逃行所を、児山丹波追懸け長刀にて首を取り軍神の血祭り吉、と悦 けり、先陣は南ノ山勢、二番長柄、三番鉄炮、四番弓、五番に騎兵二行に列川の南北に打望、螺を立、太鼓を摶(うち)、鯨波(とき)を挙、城中よりは凱(か ちどき)をも合せぞしつまり却(かい)つて至りけり、城に向て鉄炮打共、取出は楯柴多く有故、子細無き所に先陣児山丹波、湯田采女ひた冑五十騎計川を渡り べきと思ひ、川ばたへ下る所を取出(とりで)より御名はたぞ、と問ければ、湯田采女にて候と名乗ければ、蓮花院強弓に大矢をつげ、よつ引き兵とはなせば、 湯田か歩立射倒、兵庫も南泉も矢庭に八人射倒す、去共采女には当らず残念也、恥風勢も一ノ宮辺に見へければ、上州沼田の加勢かと気をくれすすみ得ず、伊南 勢小塩表城中に乗上る、寄手の大将之を見、今日は日暮れに及明日攻んと言ければ、士卒皆引退く、北原忠右衛門伊南譜代の者、勘気を受け、盛秀を頼み仕し が、盛次は譜代相伝の御主に向つて弓を曳事非義、其上一族多しと思ひ急久川ノ城に向ひ、北原忠右衛門にて候、日頃の科御放免有て召仕被下様に御詫頼入、と 呼れば、其段申上呼入ける、長沼勢、道成、小沼、千苅に陣を張、長沼は万福寺に宿陣す、青柳下田森九郎左衛門、若き時熊を手捕にする故、熊取と異名し、又 熊坂とも名乗る、其夜朧夜成ば薩摩清兵衛、馬場久内能化院に忍入り伺ひしに、長沼盃を扣(ひかえ)物語りす、厩を見れば舎人六七人睡眠す、たつなをとき曳 出す、渡部源左衛門、木伏甚左衛門跡より追出す、熊坂式部、森九郎兵衛ひたひたと打乗り、富士山の下に至り、大音上け、唯今南ノ山殿の御馬無利に所望仕者 は伊南の家臣共也、とののしり白沢の方へ馳行けり、馬場太郎左衛門、同太郎右衛門門前に火を懸け、ときを上る、夜討入かと上を下へとさわぎけり、高屋敷に 至り大音上げ長沼殿御出さへ御大義千万其上御乗馬預事痛入候、と呼はりけり、明る二十九日数千の軍兵伊南川の南北の川原に尺地無く旗馬印充満す、伊南勢も 五手にくばり対陣す、ときのこえを上げ鉄炮千挺打掛けれ共川幅広掻楯、柴多把に留、扨又馬乗出し大音上、田嶋と伊南とはがつぺき(合壁)御こんせつ併長沼 は代々厚恩の屋形へ逆意し、伊達へ降参し傍輩を攻む、川原田は小恩成共二心無く、盛次不如意にして馬も不足也、入魂の手並御秘蔵の馬給ふ事痛入候、只今首 取軍神の血祭にせんと呼けり、小塩表より芳賀内膳川を打渡所に寄手川中へ出会い戦所に、旗を奪はれ一町計取行く所を内膳も旗持も追懸、一散にけちらし旗を 取り返し、旗持は討れけり、内膳川中へ追来る兵と引組上を下へと組合ふ所へ兵四,五人左右へ立、内膳首討取上れば、寄手川へ打入切懸る、去共馬の足不叶働 らき兼安房守其間に渡し半河の図に切り捲り追上、向河原へ行く所を早引取れとて返りけり、又青柳表川を隔て弓鉄炮詞戦也に、勇士五十騎計川を渡さんとする 所を、河原田大学、同左馬介、椙ノ岸右京進、馬場蔵人、同兵庫介剛兵二十余騎打入半河図に防戦、伊南武者川に馴れ、水練成ば終に追上げ、続いて追い、大学 が旗差し木伏内近く旗押立味方をめいて懸所に小桧山勘解由と名乗切て入、左馬介と切結び双方太刀きき成ば、勝負無りしかば、寄れ組んと引つくみ、どうと落 ち、左馬介上に成、押て首を取り指上る所を二騎一度に切懸、左馬介あやうく見えける所へ馬場蔵人一人を討取追みだす、大学これを見て、先つ引返せ、と下知 すれば一度にさつと引にけり、盛秀もあきれはて馬乗すえ柴田、草野両将に向ひ味方大川にささへられ殊に不案内にて進得ず、如何に思召と云ければ、柴田、草 野兼て御辺の詞相違なり、城の右はそねつづき成共堀切土手逆茂木引と見ゆ、左は久川後は谷間にて山有り、前は切岸屏風を立、第一兵糧運送程遠し、時刻を移 し長途引がたし、先此度は引しりぞき重て調略を以て攻ん、と言い、御幣を跡へ振ければ、我れ先にと引退く、小塩表より河原田弾正、同下総、同大学頭、同大 炊介、同左衛門尉、芳賀内膳、佐藤源助、羽染越中、星、菅家、辺見党七八十人川を渡し追懸、下田左京青柳川原より馳にけり、寄手は道城小沼の方へ引、山根 に付き、木伏の方へ落行く、味方は山の尾先を、さへぎらんと馬乗馬場を追行く、折橋、星久三郎跡を仕舞伊南勢に先を差切られ、小沼より引返し立岩を帰んと 白沢の方へ馳行く所を、大学、左京追懸け川を渡る所を宮沢の方よりも二人追懸、突鑓を切払しが、大学鑓玉に上げ突落し、首取て引返す、青柳川原よりは伊南 勢川西を下り先をさへ切とはせ行けり、山口馬場若狭は小林にて両すねを射られ家に有けるが不行歩成共馬に乗り、大新田表に至、木伏の方を大勢乱来る先立の 兵之を見て、何者成と云う、若狭聞き伊達方長沼方か、斯云、兵(つわもの)は馬場若狭と云ふ者也と名乗けり、敵聞きて中指一筋取てつがへ矢坪はうづく、と 言いければ、若狭物こりも無く膝のくさづり打拍(たたき)太刀にて切落さんと待所をねらへすまして射たりけば、左のひざの草ずりをすつて通りければ、若狭 打笑い、川原を差て馳出す、乙矢仕らんと追懸る、若狭聞て、汝等ごときなる小兵の矢先叶ましと、川へ打入かけ上る、川西の伊南勢大橋の上平なめノ瀬を渡さ んとせし処を、長沼方より鉄炮百余挺構ければ引返し川下に馳にけり、川東は酒井周防、佐藤、辺見、菅家、星にげ行く勢を追行く所に、大橋の向川原に足軽野 武士支へけり、川西より鉄炮打懸、馬上打落し、横矢を射懸け手負死人多ければ、横に切れ山根を差てくずれ行く、去共鉄炮五十挺川西ノ勢を打んと構ければ伊 南勢引にけり、敵勢天狗岩の下を大軍行所を、大石、古木をころばし懸矢を射懸、川西より馬場兵庫、同四郎右衛門、同杢右衛門、同蔵人兄弟、木沢右衛門尉、 河原田杢之介、同左馬介、同杉ノ岸右京ノ進、北原忠右衛門船場の下ノ広瀬を乗上る、敵は本道味方は畠道を追行、星玄蕃、湯田采女脇へ開き一度にどつと引返 す、鉾揃へしのぎを削り、つばを破り、ここをせんどどたたかいけり、兵庫介てきと押並てむずと組、兵庫早業にて首かき落す、伊達勢跡より取込あやうけれ ば、酒井周防、佐藤源助、逸見、星、菅家跡より切立けば、伊達勢前後より取切られ、東西より戦ば、伊達、長沼一致すること不叶やや茂たるごとく成ば宿場悪 敷可寄様(あしくよるべきようも)無く、芳賀内膳後へ廻りせめるとて真先に進乗行所に何とかとしたりけん、越後勢拾匁ノ大筒にて内膳の真中に打入られ即時 に死にけり、大手ノ大将は馬を射られ、搦手ノ大将は味方の鉄炮にて死、岩下は要害にたまり兼ね、日光領湯西川辺へ落行も有、南ノ山へ行も有り、立岩二十三 村明にけり。

〔政宗勢重て横田を攻来る事〕
政宗勢重て横田を攻とて、九月上旬に金山谷へ推(押)来る、河口にて評定し、大塩の城を攻とて打立けり、大学是を聞橋立之節所大ふり、中野沢小符荷を伐 塞、伏勢を籠置待所に、寄手西谷より狭路を押来り、大勢鉄炮、弓にて多く射倒し引退きけり、伊達勢は高根沢、上横田先陣の後に群てひかへしかとも、唯見川 大河にて両岸高、底深く可通便無し、大学陣所を見んと思い供人少く召連土倉の先見渡す所に、向ノ矢ざまより鉄炮打ければ馬のみけんにあたり馬より落引退 く、横田家中常井備中土倉に大木の栗有、此枝常に櫓をかき置き、其上より鉄炮打ければ五町余の所成供打れて死たりけり、主人の耻辱をすすぎ手柄と人々ほめ にけり、毎夜に数十人計鶫(つぐみ)のをよぐがごとく向へ渡り、夜討候て首を取、大川へ飛入をよぎ返を見てあきれはて、十月に至れ共手立は無し、寒気に成 大雪の所と聞長陣は叶うまじとむな敷黒川へ帰陣す、本名、川口、宮崎までも横田を大敵と思い伊達勢を押い用心すと聞へけり。

天正十七己丑ノ七月十日北条氏政落城、太閤相州小田原に御座、伊南よりの使者川原田大膳帰国の時、黒沢にて大勢に取籠戦しか、味方殊にすはだなりければ不 叶討死す、此事伊南へ聞へければ盛次大にいきどおり、政宗、長沼が責来るといへ共籠城堅固の条々、今度は大新田酒井助兵衛為使者、九月二十四日に沼山を越 え上州通、小田原の秀吉公へ委細申上る、増田右衛門尉、大谷形部少輔、石田治部少輔、小西攝津ノ守取次、政宗翌年米沢へ退き、天正十八年八月秀吉公小田原 より直に会津黒川城に御入り、五十四郡御検地被仰付、浅野弾正、石田治部、大谷刑部手訳して諸役人召連御検地に罷成候。
蒲生飛弾守氏郷天正十八寅年会津へ御入国八十万国。
盛次、景勝へ参り春日山にて卒す、子息弥五郎伊南へ帰り佐野越中末女を娶り番場屋敷に住す、夫より江戸へ夫婦登り終と也、久川ノ城は青柳より五丁上、高さ四十間、南北四町、東西へ一丁あり、蒲生秀行の御知行、蒲生忠右エ門慶長六丑より同十五戊迄住居十年也。

先祖之旧記安政戊午神無月裏打致候もの也    河原田 盛征
      (伊南村史   会津若松市 河原田久雄所有文書より)

[出典]
http://www.geocities.jp/rockfish384/tatakai12.htm

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