2014年12月11日木曜日

會津大鎮守 諏訪神社

抑(そも)會津大會津郡門田の荘、黑川諏訪大明神は、葦名累代尊崇の靈社に して、和光同塵(わこうどうじん。才能・徳を隠して世俗に交わること)の徳(捨)つべからず、泰幣祭奠(ほうへいさいてん。神を祭る)の敬、在ます(往 時)が如しと雖(いえども)、傳聞く、回祿(かいろく。火の神、火災)度々に及びて、記録悉く燒失せしかば、何(いずれ)の主何れの代に、此地に勧請あり しといふ。來由世に未だ詳(つまびらか)ならず。

 然れども予(よ。私、向井の事)、此書を編むに志ありてより後十有餘年、※1三澣の暇を偸(ぬす)みて(休日を利用して)遍(あまね)く先輩 の略記を考うるに、當社の始め人王(天皇)九十一(92)代伏見院御宇(ぎょう。御代、在位中)、永仁二年(1294)八月に、領主葦名氏、信州下の諏訪 を勧請し奉らる。
 時に大祝(おおほうり。諏訪大社大祝は諏訪氏が世襲)小野、(ならび)に佐久・笠原の三員の神職等、神輿(みこし)を奉じて會津に來れり。
 其後葦名若狭守直盛・同彈正少弼(だんじょうしょうひつ)詮盛(あきもり)父子、後圓融院(北朝5代)永和元年(1375)七月十四日、當社柱立して、荘厳功成つて後、六十餘年、後花園院永享六年(1434)に、再び建立を營み、塔の供養を遂げらる。
 其後四十餘年、御土御門院文明六年(1474)四月朔日(1日)、黑川に回祿(かいろく。火災)夥しくして、當社の鳥居燒けたり。
 是より六十餘年、後奈良の院天文五年(1536)四月廿六(26)日、黑川中の火災に、當社殘らず燒失せぬ。
 打續(続)きて同七年三月廿日(はつか)、又黑川の火災に、餘焔(よえん。残り火)此社に移りて、皆灰燼となりぬるを、其頃の太守葦名遠江守 盛舜(もりきよ)・同修理大夫(しゅりのたいふ)盛氏、先蹤(せんしょう。先例)に従つて再建立を營まれ、同九年に至りて、雕刻(ちょうこく)巧を終り、 荘厳功を成しぬれば、祭祀(さいし)彌(いや。最も)丹誠を盡され、毎年正月元日には、鶏鳴の頃(けいめいのころ。早朝)より、太守自ら參詣ありて、下向 の以後、一族郎等漸々(ぜんぜん。次第)に參詣して、其後出仕しけり。
 五月端午にも、太守の參詣なれば、四天の家臣の内、毎年一人宛迭(てつ。交代)に扈從(こじゅう。つきしたがい)し、騎馬の侍は警固嚴に行列 を謹み(つつしみ。誤りなく列を正し)、歩(かち)立ちの者は、長き刀・作鬚(ひげ)、種々の婆娑羅風流に、樣を盡しければ、見物の輩貴賤群集して、老若 男女岐(みち)に満つ。
 斯る祭禮、年々暫くも絶えず、龜王丸の時迄、更に相違なかりけるに、義廣の時に至りて、如何なる仔細にか、例の祭法を、競馬(きそいうま)に 替へられければ、是何ぞ、今の新儀を以て、舊(旧)例に背けるも、且は不吉の先表(せんぴょう。まえぶれ)なるかと、囁き合へる者多かりしと雖も、誰あつ て(誰か申す者がいて)、先例に複され然るべからん(先に復するべきでだ)といふ沙汰(話)にも及ばず。
 又一(またもうひとつ)の不思議には、天正一六年の秋の頃、或夜狐火夥しく燃し連れ、東山の麓、小山の在家の邊より、西山の際(きわ)迄、透 間なく一樣に續(続)きたれば、見る人毎に、是希代の珍事なり。何樣(なにさま。いかにもきっと)世の中善からざる先相(せんそう。きざし)なるべしと、 囁き合へり。
 誠、野干性夜撃尾出火、將爲怪、必載髑髏拝北斗不怠墜地、則化爲人(狐の技は夜に尾を打ち火を発生させ、まさに怪奇をなすに、必ずどくろを載 せ北極星を拝み地に落とさず、人間に化ける)といへば、彼が樣々妖をなす事は、今更いふに珍しからねども、國家將起有禎祥、國家將廢有妖(国がまさに興 ろうとするときにはよいことがあり、国がまさに亡びようとするときには怪異がある)といへる賢傳の旨、今更思合せたり。



會津大鎮守 諏訪神社                                                                     本文中冒頭に「何れの代に、此地に勧請ありしといふ。來由世に未だ詳(つまびらか)ならず」とあるが、諏訪神社の参拝のしおりによれば、「時 の黒川城主葦名盛宗公(五代)が武門の神徳を仰ぎ、永仁二年(1294)八月信州の諏訪大社を勧請し、」とあり、続く本文に同じ。                                                                               盛宗(五 代)は泰盛の子で光盛の孫。佐原十郎義連から五代になる。                                       当代で二十七 代を数えられる宮司諏訪氏は、永和元年(1375)七月十四日の直盛.詮盛親子による諏訪社柱立以来の神職であろう。
 勧進から諏訪社柱立までの間、諏訪神は黒川城中、または館内に鎮座されていたのだろうと思う。                     ところで、そ の諏訪氏によれば、当時事実上武門の頂点であった北條氏は、諏訪神を多く拡げることで、武家の信仰の核を、それ以前に大きな権威を持っていた源氏の信仰す る八幡神にとって替えようとしたのだという。                             その意を受けて、自領会津へ諏訪神を勧請すると いう行為は、北條氏に極めて近い会津三浦氏にすれば当然の事と、うなずける。

[出典]
http://www2.ocn.ne.jp/~you/CCP117.html

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